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 物音を立てないように部屋の中へと入り、ベッドで横たわる青年に歩み寄る。だが、僕の気配に気付いたのだろうか、青年は薄く目を開いた。深い青い瞳が僕を捉えたのを確認し、僕は声をかける。
「おはようございます」
「……。…あぁ、おはよう」
 一度開いた口を閉じ、その瞬間に状況を理解したのだろうか、同じように大きく開けた目を数回瞬かせ、青年は僕に挨拶を返した。その声は、寝起きのために、少し擦れている。
 自分でもそれに気付いたのだろう、軽く咳をしながら体を起こした彼は、窓からの光に目を細め深い息を吐いた。傷が痛んだのかもしれない。
「熱はもう引きましたが、寝込んでいて何も食べていませんからね。気分は悪くないですか?」
「いや、少しだるい程度だ」
 腕もあまり痛くはない。青年はまだ少し寝ぼけているかのような表情のまま、僕を見上げて言った。
 当然だ。ただ寝ていただけなのだから、今のところは痛くないだろう。だが、体を動かし血液を回し始めれば、傷は疼いてくるだろう。
 その痛みがどの程度になりそうなのか、山をおりられるのかどうなのかを僕は聞きたいのだが、今の青年にはそこまで頭が回らないらしい。
 なので。まぁ、あの怪我で冷たい川を泳ぎ、その代償がたった一日寝込んだだけというのだから、この青年の回復力は人並み以上なのだろうと、勝手に僕の方で判断しておく事にする。
「丸一日意識がありませんでしたからね、だるいのは当然ですよ」
「……え?」
「昨日一日寝込んでいたんですけど」
 それも気付いていなかったのか、僕の言葉に青年は驚いた。
「何てことだ…。それは、すまなかった」
 今更謝られても、どうしようもないのだが。
 そんな言葉ではチャラになど出来ない苦労があったので、僕は心の中でそう溜息を吐く。だが、だからと言って彼に何かをして欲しいわけではないし、褒美が欲しいわけでもない。
 ただ、僕も相当に疲れているということで。
 どれだけ大変だったかを、いちいち話して聞かせる気力もないと言うことだ。

 何度か薬を飲ませたが、青年の熱はなかなか下がらなかった。熱は泳いだための風邪ではなく、怪我による発熱なので移る心配はない。なので、やはり一晩寝れば回復したラリスが彼の側に付き添うのを許した。だが、それを僕は直ぐに撤回する事となった。
 あまりにも心配なのか、ラリスは兄の名前を呼び泣いてばかりいるのだ。正直、同じ屋根の下にいる僕にとってはその空気はとても鬱陶しく、同時にその少女の姿は、僕を少し苛立たせもした。だから、泣くのなら付き添うなと、僕は彼女を部屋から遠ざけた。
 ラリスはそんな僕を忌々しげに見たが、直ぐにそれも嫌だと声をあげて泣く。僕が怖いと寝ている兄に助けを求める姿は、昨夜森の中で見た、小さな子供の姿だった。おしゃまな彼女が心細いのもわかるが、それ以上に僕はそんな少女の相手の仕方がわからず、ただこのままでは眠る青年には煩いからと、更に外へと追い出した。
 辺りは迷いの森。行ける所は何処にもないと、僕は青年の様子を見、しばらく立った後で外に出てみた。案の定、壁に凭れ膝を抱えて泣いている少女が、そこにいた。そして。
 俯いたラリスの頭の上にはテナが座っており、出てきた僕に肩を竦めた。
 大変だな。息抜きにどうだい、日向ぼっこは。
 そう言い、彼は隣に座るよう僕を促した。少女の頭に座るテナの隣なのだから、彼女の隣でもあるわけで…。
 僕の気配に気付いたラリスは、肩をピクリと震わせた。だが、顔をあげない。
 その頭の上で立ち上がったテナは、軽く飛び跳ね、僕に行動を示す。それに軽く笑いながら、僕はラリスの頭に手を置いた。手の下ではラリスが体を硬くし、手の上ではテナが座り込んでいる。優先すべきなのは、この場合、脅える少女だろう。
 僕が柔らかなら少女の髪を撫でると、テナはバランスを崩し、地面にぶつかる寸前で姿を消し、何処かへと行った。だが、その消える瞬間の顔は笑っており、悪戯な目をしていたのを僕は見逃さなかった。僕が人間と関わっているのが面白いのだろう。
 今日は精霊達はあまり姿を見せないが、きっと隠れてみているに違いないと、僕は気を使われているのか遊ばれているのか、どちらだろうかと考えながら喉を鳴らした。その笑いに、おずおずと少女が顔をあげる。
 何がおかしいのと、自分が笑われていると思ったのか少し不機嫌にそう聞いてくるラリスは、僕に視線を合わせず、けれども髪を撫でる手を振り払う事もしなかった。お腹が空かないかとの問いかけに深く頷いた彼女を、昨夜のように抱き上げ家の中へと戻る。
 あれだけ泣けば、腹も減るはずで。ラリスは僕が用意した食事を、僕以上に食べた。食事の席で、そんな彼女と色々話をした。色々な事を。
 泣き腫らした目の少女は、その後、僕の言いつけを全て守った。
 僕が恐怖を与えたのか、それとも彼女の心構えが変わったのかはわからないが、その素直な姿に、僕は少し満足した。いつも精霊達にいいように扱われているので、こういう上下関係は、不謹慎だが、悪くはないと妙に納得する。
 ラリスにすれば、そう考え込んでの行動でもないのかもしれないが、僕にすれば、他人と過ごすのは何もかもが新鮮だった。そう、これなら、思ったよりも悪くはないかもしれない。
 だが、それでも、僕をとても疲れさせもした。思っていたよりもマシだということで、それは何の効果もないものだった。
 やはり、人間と関わるのは、とても疲れる。
 たまにならいいのかもしれないと思ったのは一瞬で、やはり出来る限り遠慮をしたいものだと、つくづく思い知らされる時間であった。

 そんな僕の苦労など、熱にうなされていた青年は知る由もなく、ただ迷惑をかけたと謝罪を口にする。どれだけの迷惑なのか実感してもらおうにもそれは出来ないことなので、ならば僕をこれ以上疲れさせるなと、僕は彼の言葉を片手で止めた。
「もういいですよ」
 謝罪は、疲労を増やしはしても、減らしはしない。
「それより、食事をしましょう。その後で、帰れるようなら途中まで送りますよ」
「しかし、城が…」
 騒ぎになっているだろうと、青年は裸足の足を床へと下ろした。直ぐにでも発とうと、そうでなければ困るだろうと、立ち上がる。だが、僕がその身体を軽く押すと、青年は直ぐにベッドの上へと腰を降ろした。
 ひと回り体格が小さい僕に簡単に座らされてしまうほど、体力が落ちているのだと考えていいのだろう。尤も、僕も男なので力はあるし、油断していたのもあるのかもしれないが。
「おい」
 何なんだと不機嫌に眉を寄せる青年に、僕は隣に腰を降ろしながら言う。
「大丈夫ですよ、城の方は。ラリスに便りを書いてもらいましたから」
「便り?」
 えぇ、と僕が頷いた時、ドアが開き少女が勢い良く飛び込んできた。
「お兄さまっ!」
「ラリス! 足はもう良いのか?」
「うん、ちょっと痛いだけよ。お兄さまは? もう、大丈夫なの?」
「あぁ、平気だよ」
 兄の腕に飛びこんだ少女は、腕を回し、その身体が逃げないように背中の服をぎゅっと握り締めた。小さな手が必至で青年を捕まえているその光景は、何となく微笑ましい。
 夜の森の中で僕にしがみ付いてきた手と同じ。だが、その掴まれている者は違う。
 青年は僕とは比べようもない愛しげな目で、胸の中の少女を強く抱き返していた。それは本来あるべき姿のような気がして、僕の顔に笑みが乗る。
「ホントに? ねぇ、ホント、大丈夫なの?」
「あぁ。心配かけたな、ラリス」
 顔をあげた少女の額に額を重ねながら、兄である青年はこれ以上の笑顔はないだろうという微笑みを見せた。それはその小さな妹にだけ向けられるものであるのだろう。僕を見る目とは、全く違う。
 当たり前な事だ。だが、それでも、こんな顔も出来るのかと、妙に感心もする。あまりにも違いすぎる。人間とは、こんなにも表情が豊かなものなのだろうか。
 この青年が特別器用なのだろう。そんな事を思う僕を、ラリスが見上げてきた。
「リュークの言った通りね。お兄さまが元気になったわ。なら、お母様も元気になるわね」
 真っ直ぐと僕を見る、大きな青い瞳は、眩しい程に輝いている。僕はその目にただ頷き、話題を変えた。
「ラリス、お昼にしよう。用意をしてくれるね。僕はお兄さんの傷を診るから」
 少女は素直に頷き、もう一度兄にしがみ付くと、大人しく部屋から出て行った。あまり小さな女の子に見せるのもどうかという傷なのでそうしたまでで、嫌だと言えばいる事を許可しようとも思っていたのだが、どうやら相当昨日の態度が効いているようだ。
「カイトさん。服、脱げますか?」
 少し猛獣使いになった気分がしないでもない僕は、消えた少女に軽く笑いながら、青年が服を脱ぐのを手伝う。やはり動かせば痛みが走るのだろう、青年の眉間に皺が寄る。少女を抱きしめた時は我慢していたのか、それはかなり辛そうな深いものだった。
 腕に巻く布を外しながら様子を訊く。
「この動きは、大丈夫なんだが…、…こう動かせすと――痛っ!」
 青年は、実演しなくともいいのに動かせ、盛大に顔を顰めた。相当、馬鹿なのだろうか、この男は。
「筋肉や筋の向きからですね。無理な動きは控えて下さい」
「ああ、そのようだな。
 それより、さっきラリスに言った用意とは?」
 まだ引き攣った肉が生々しい傷。それを、自分の腕だからこそ嫌なのだろうか、青年はチラリと見ただけで、視線を部屋に彷徨わした。そして、更に意識を逸らそうと言うのか、話題を変える。
「言葉どおりの意味です。食事の用意をしてもらっているんですが」
「ラリスが?」
「えぇ。と言っても、大した物ではないが、料理は出来上がっていますので、皿を並べて別けるだけですがね」
 傷に薬を塗ると、染みたのか、かかれて痛かったのか、青年は小さく喉を鳴らした。
「じゃあ、母が、元気になるというのは?」
「ああ、あれですか」
 僕は微かに震えた青年の声に軽く笑いながら、もう一度傷をなぞる。僅かにまだ熱をもってはいるが、2、3日で引くだろう。
「別に、これも大したことじゃないんですけどね。昨日、苦しんでいるあなたの横で泣いてばかりいるので、彼女を少し怒こったんですよ」
「怒った? 何故?」
「悲しみでは人は治りませんからね。無意味でしょう?」
 幼い子供ならともかく、あなたならわかるだろうと、僕は軽く首を傾げて青年を見た。
 だが、青年は顔を顰め、低い声を作って言った。
「何だそれは。兄を心配する妹にそんなことを…。お前はそれを駄目だと怒ったのか!?」
 感情を押さえた声は最後までは続かず、終わりには怒声に変わっていた。至近距離のそれはとても五月蝿く、けれども逃げる訳にも行かないので、僕は少し眉を上げて呆れを示す。
 そんな僕の顔に唾をかけんばかりの勢いで、青年は体ごとこちらを向き、怪我をしていない腕を僕に伸ばしてきた。強く掴まれた肩が、少し痛む。
「確かに、悲しみでは治らないだろう。薬を扱うお前にとっては、妹の涙なんて役には立たないだろう。だがなぁ!」
 大きく開く青年の口と自分の顔の前に、思わず僕は手を翳す。本当に水滴が飛んできそうなので咄嗟にそうしてしまったのだが、青年は遮られたと思ったのか、言葉を止めた。変なところで律儀な男だと思いつつ、折角なので口を挟んでみる。
「あなたにも、役には立たないでしょう?」
「なっ! お前はッ! お前には心がないのか!? 悲しいという思いはないのか?」
 一体、何の話をしているのだろうか。脱線したような言葉に、僕は首を傾げた。ラリスが泣くことに関しての話なのに、何故、僕に悲しむ心の有無を訊くのだろう。
 だが、その疑問は、続く青年の言葉によって、何となく解決される。
「意識のない兄を心配して、どこが悪いんだ。こんなところにいるんだ、不安に決まっているだろう。一人きりで心細いという幼い子供の気持ちがわからないのか。お前はっ!
 泣くのは当然だろう。それを、役に立たないなど、酷い男だな。最低だ。お前には確かに厄介ごとでしかなく、鬱陶しいんだろうが、泣いている子供をそんな風に扱うなど、俺には信じられないっ。
 お前、本当に、人間か!?」
 忌々しげに顔を顰め、そう一気に言葉を吐き出した青年は、僕の肩から手を離した。触るのも嫌だというように。そして、立ち上がり、「…世話になった事は、礼を言う」と怒りを無理に押さえたような低い声でいい、靴を履くと入口に足を進めた。
 だが、僕は…。
 帰る事は僕にとっても喜ばしいことなので、止める気は更々ない。だが、それを差しい引いても処理出来ない感情が僕の中に生まれてしまい、僕は咄嗟に青年に向かって腕を伸ばしてしまった。
 僕の前を通る青年の足元を、足で邪魔し、傷のある腕の手首を捕り、思い切り引き寄せる。一瞬抵抗を見せたが、丁度進めかけた彼の足裏に僕の足が入り、青年はバランスを崩し、引かれた僕の方に倒れてきた。
「なっ、何をするっ!」
 僕を押し倒しベッドに倒れた青年は、痛みが上がった腕を握り締めながらそう言った。
 青年が苦痛に耐えている間に体を起こした僕は、ベッドの上に上がりこみ、青年の体を傷が見えるように足で蹴り回したのだから、確かにその怒りは当然だろう。王子様なのだから、こんな扱いは受けた事がないのかもしれない。
 だが、状況判断は鈍すぎる。何をするだなんて、そんなの、決まっているじゃないか。
「傷の手当てです」
 先程からずっと片手に持ち続けている薬を含んだ布を、漸く僕は青年の腕に押し当てた。だが、青年は大人しくそれを受ける気はないようで、体を起こしかける。仕方がないと、僕は両手は傷を見るのに必要なので、足に体重をかけて青年の体を押さえ込んだ。
「や、止めろ。もう、お前なんかに、やられたくないっ」
「酷い言い方だ。散々迷惑をかけておいて、今更じゃないですか」
 先程言われた言葉も思い出し、僕は口元を上げて笑った。本当に、酷い男だ。だが、それ以上に馬鹿だ。
 何を勘違いしているのか。そして、その勘違いで、どうしてここまで怒れるのか。  青年自身が単純だというのもあるが、それ以上に、あの妹が何よりも大切だからということからなのだろう。そう、だからこそ、この青年は勘違いしているのだ。交わした会話が僕と微妙にずれていたのだ。
 一人で勝手に勘違いをしているのなら、別に僕は止めなかっただろう。最低な奴だといわれても、多少腹を立てはしても、僕自身に大した害はない。青年の短絡思考は、僕には理解出来ない。
 だが、その強く何かを思う気持ちはわかるような気がした。多分、僕も精霊達に何かがあったら、取り乱す時があるのかもしれない。誰の言葉も耳に入らなくなるくらいに。
 そう思うと、このまま青年を出て行かせるのは良くないように思った。僕自身は、彼らに嫌われようとなんだろうと構わない。だが、精霊使いが彼らに、特に次の領主になるだろう青年に悪印象をもたれては、どうなるのだろうか。
 危険な者だと判断されたら、どうなるのだろうか。
 そこまで単純ではないだろうが、この青年ならわからないと、僕は危惧を覚えた。だからと言って好かれようとも思わないが、それでも、少なくともこの誤解はとっておいた方がいいだろうと、青年の足を止めた。しかし。
 それでもやはり、面倒だと思ってしまう事は止めようもなく…。僕は少し強引にしすぎたようだ。
 睨みつけに来る青年に、今度は自嘲の笑を落とし、僕は言葉を捜し口を開いた。
「父は僕が12の時に死にました。その前から寝たり起きたりの生活でしたから、もう物心ついた頃から、彼の死を感じていました。死はどんなものかなんてわかりません。それでも、幼い頃はわからないのに怖かった」
 笑った僕に眉を寄せていた青年は、突然昔話を始めた僕に、困惑の表情を見せた。先程の彼が僕に持つ印象では、気でも触れたかと思われているのかもしれないと思いつつ、それでも僕は笑みを浮かべる。他人にこんな話をはじめる自分が、おかしい。
「いや、わからないからこそ、怖かったのか…。正確には覚えていません」
「…怖いのは、当たり前だ」
 覚悟を決めたのか諦めたのか、ひとまず耳を傾ける事にしたのだろう青年はそう返事をした。体の力を抜き、ふと息を吐く。
 当たり前。今なら、僕もそう思えるのかもしれない。だが、あの時の僕は、その当たり前と言う事自体がわからなかった。
「ある時、怪我をしたウサギを僕は拾って帰ってきました。父はもう手の施しようがないと言いました。そして、その言葉通り、ウサギはすぐに死んだ。
 こんな生活です。それまでも、ウサギや鳥など、父が殺すのを見てもいたし、それを食べて生活をしてきた。なのに、不思議なことに、僕はその時初めて死を知ったんです」
 今でも、あの時腕に抱いたウサギの感触を思い出す。あまりにも衝撃的で、僕は為す術もなく、ただ動かないウサギを抱きしめて泣き続けた。僕の腕の中で、ウサギの体は冷たく硬くなっていく。それは、純粋な恐怖だった。
「僕はとても悲しかった。世の中にはどうしようも出来ないことがあるのだと、嫌でも受け入れなければいけないことがあるのだと、初めて知った」
 息も上手く吐けないほどに泣きじゃくる僕を、父はただ静かに体を撫でてくれた。そして僕が泣き疲れた頃、僕の腕からウサギを取り上げ、父は僕を外へと連れ出した。
 陽が暮れたく森の中で穴を堀り、ウサギを埋める。厳粛な雰囲気に、いつも遊んでいる森に僕は恐怖を感じ、父の手を強く握った。
 だが、その手を父が握り返してくれたのかどうか、僕は覚えていない。なかなか眠れなかったあの夜、僕は父と何かを話したのに、今はもうどんな話だったのか覚えてはいない。記憶とは、いい加減なものだ。
 特別な話などしなかったのだろう。だから覚えていないのだと、あの頃に飛んでいこうとした心を現在に戻し、僕は止めた口を再び動かし始める。青年は、大人しく僕の話しに耳を傾けているのかいないのか、いつの間にか目を閉じていた。
「それから…、それから僕は、死に敏感になった。恐れました。動物の肉は愚か、植物も生きているのだと思うと、口に出来なくなり、ただぼんやりと、生気が抜けたように過ごした」
 そんな僕に父は慌てる事はなく、ただ静かに話をするだけだった。食べたくないのならそれでいいと、無理に進める事などなかった。気にかけた様子などなく、いつものように過ごす父。だが、今にして思えば、あれでいて僕をとても心配していたのかもしれないとも思う。
 抱きしめる事は簡単だっただろう。手を伸ばせられれば、あの時の僕は迷うことなく父にしがみ付いていただろう。だが、父はそうはしなかった。
 それは、いつまでも僕に手を差し出すことは出来ないのだと知っていたからだろう。
「そんな僕に、父は自然の摂理を教えてくれました。それまでにも聞いた事はあったのだろうけど、僕はその言葉を時間をかけてゆっくりと理解していった。そして、漸く、死を迎え土に還ったもの達は僕の中で生きているのだと、彼らに生かされているのだと、思えるようになった。
 だけど、父に対しては違った」
 腕に巻きつけた布を少し強く縛り、僕は青年に掛けていた体重を起こし、床に足を下ろしてきちんと座った。青年は直ぐに僕の隣に体を起こし、出て行く事はせず、並んで座る。
 薬を片付けながら、僕は言葉を紡いだ。
「僕にとって彼は絶対的な存在だった。だから、父に対してだけは、何の効果もなかった。自然の摂理など理解したところで、慰めにもならない。
 父が寝込むたび、僕は怯えた」
 そう、彼がいなくなれば、僕はどうしたらいいのかわからない。僕を知っていてくれる彼が消えたら、僕もこの世からはいなくなるのだ。そう本気で思っていた。
 実際は、僕には父以外にも精霊達がいたのでそこまで思いつめる必要はなかったのだろうが、まだまだ子供の僕には、父の存在は大きすぎた。そう、父が全てだった。
「父の寝るベッドの横で、僕はいつも、泣いていました」
「……なら、何故だ。そんなお前なら、ラリスの気持ちがわかるだろう?」
 漸くそこで、青年が言葉を挟んだ。少し不機嫌な色を持つそれに、僕は軽く頭を振る。
「悲しむ僕に、父は言ったんです。
 生きている者の死は絶対だと。その死を悲しむのは仕方がない、だが、自分はまだ生きているんだ。たとえ死に近付いていても、確かに生きている。そうだろう、と。
 だから。生きている者の、まだこない未来の死を見て悲しんではならない。死に行く者に対して、それは失礼だ。残る者の悲しみを、見せてはならない。だから、僕に笑っていろと言うんです。死に行く者に対しての、それが礼儀だと。
 死は新たな旅の始まりだ。残る者の悲しみの顔では、その旅の一歩を踏み出すことが出来ない。安心して進めるように笑っていろ、と」
 僕は思わず、軽い笑いを零す。そう、父はこんな事を言ったのだ。声をあげて怒る事もないが、笑うこともない。常にどこか寂しげで、僕に向ける微笑みも儚かったあの父が、病状の床でこんな事を一人で残す息子に言ったのだ。
 あの時は、そんな言葉では不安は消えず、何の足しにもならなかったが。今はもう、笑うしかない。
「今にして思えば、父も不安で仕方なかったんでしょう。そう、その不安を消したいがために僕に笑っていろと言ったんですよ。とんだエゴだ」
「おい、それは違うだろう。お前の父親は…」
 僕を見、少し厳しい声で口を開いた青年に、僕は頭を振り、それを遮る。そんなこと、言われなくともわかっている。だが、それは他人に語るものではない。
 口にはしない声に、もっと気付くべきだ、この青年は。そうしたら、僕はこんな思い出話をしなくとも良かったのだ。もっと勘を働かせろと、単純な者に対しては無理な注文を僕は心の中で溜息とともに吐き出す。
「父の事は、いいんです。今問題にするのは、その言葉ですよ。
 そう、その言葉で僕はこうして生きている。そして、逝く立場の者からしても、それは真実でしょう。僕はそう思う。
 それに、これは死に遠くても、そう、昨日のあなたのような立場でも、同じだとも思うんです。悲しい顔よりも笑顔を見ていたい。そうでしょう?」
「あぁ…」
「だから、彼女に言ったんですよ。泣くのなら、この部屋を出て行けと。無理をしてでも笑っていろと」
 尤も、後半は彼女が機嫌を直し、一緒に摂った食事の席で言った言葉で、同時に言ったものではない。だが、先にただ怒っただけだというのは、態々教えなくともいい事だろう。
「母親に会いに行くと、いつも泣いてしまうのだと彼女は言っていました」
「ああ、そうだ。あまりに泣くから、母上もなるべく部屋に入らないように言ってある」
「そう。だから、あんな事を言ったんでしょう。自分が笑えば母親は元気になるだろうかと考えて。あなたが元気になったようにね、カイトさん」
 僕の言葉に、「なるほど」と青年は頷いた。僕はベッドから立ち上がり、扉へと向かう。
「勘違いしたようだな。…その、悪かった」
 扉を開いた僕の背に、そんな言葉がかかる。その声は少し戸惑い気味で、けれども良く通る透明な響きを持っており、僕の中に入ってきた。
「いえ、別に」
 軽く笑い、「食事にしましょう」と扉を開けたまま、僕は手を離す。
 青年のその謝罪は、先程聞いた同じ言葉のものとは違い、受け取っても悪くはないと思えるものだった。

2003/04/30