| 2 |

 夜の森を歩くのは迷路の中にいるようだと思う。
 感覚で憶えている道。目は闇に慣れたとはいえおぼろげに近くを確認できる程度でしかない。その状況で迷わないのは、この迷路の構造を僕が知っているから。そして、怖れていないからだ。
 永遠にこの道が続くのかもしれないと言った不安はない。目ではなく体が変化する情景を感じる。もし、その感覚が鈍ったなら、僕もこの森で迷うのだろう。
 確信を持って一歩一歩と歩んで行く。なのに、迷路だと思うのは、この暗闇のせいだろうか…。
 夜の森を歩くと、自分の事を考える。父の事を思い出す。そして、精霊達の事も。
 どうして人間は上手く生きられないのだろうか。そんな漠然とした思いにかられる。そう思う自分は果たしてどうなのだろうか。僕にとってこの世界は、正に出口の見えない迷路なのではないか……。
 闇は自分を浮かび上がらせる。心の奥底にある不安を呼び起こす。
 だが、僕はそれを恐れはしない。人の心にはそんなものはいくらでもある。目を背けているわけでも、きちんと認めているわけでもないが、目の前にあるそれは事実なのだと、怖れる対象にはしない。する必要はない。これは自分なのだ、ただそれだけ。
 だが、全ての人間がそう出来るわけではない。人は自分自身に怖れる生き物なのだ。
 特にこんな闇の中では…。

 抱えた僕の首に腕を回した少女が、更にきつくしがみ付いてきた。密着した彼女の体から、早い鼓動が僕の体に響いてくる。
 クスリと喉を震わせると、彼女は驚きピクリと体を硬くした。
「怖いのかい?」
「……怖くないの?」
 問いには返事を返さずに、逆に首を傾げる。
「怖くはないよ」
「どうして?」
「怖がるものなんて何もないだろう」
 僕は少女と間近で目を合わせる。闇の中でも、小さなランプの光を受け、彼女の青い瞳が輝く。だがその目は緊張と不安に濡れて揺らいでいた。
「ラリスは何が怖いの?」
 腕の中の少女はその問いに、「暗いわ」と呟いた。彼女がランプを持つ手に力を入れたのが、言葉の真実を語っている。
 小さな子供だからだろうか、闇を怖いと言うのは。それとも、幼い彼女の中にも恐れる自身の姿があるのだろうか…。
「なら、どうしてここに来たの?」
 靴の下でパキリと枯れ枝が折れ音を上げた。その音がひんやりとした夜の空気に響きわたる。
「…お母様が、病気なの。だから、薬草を取りに…」
「一人で来たの?」
「ううん。お兄さまと一緒に」
「お兄様?」
「うん」
 コクリと頷く少女の顔を見ながら僕は眉間に皺を寄せた。
「…お兄さんは何処にいるの?」
 そう問うと、彼女は涙を浮かべて「わからない…」と呟いた。
「お兄さまがダメだと言ったのに、ラリス道から中に入ったの。中に入らない約束で来たのに…。
 だって、もっと奥に行けば薬草があるかもしれないと思って…。気付いたら、どこにもお兄さまがいなかったの。怖くなって、探し回ったの。でも、いないの。そうしたら、木の根につまづいて…」
 動けず泣いていた所に僕が来たというわけか…。
 はぁ〜、と思わず思い切り溜息を落としてしまった。だが、そうされた本人の頭ははぐれた兄のことで埋め尽くされているようで、僕の気持ちには全く気付きはしない。
「もう、お兄さまはもうマモノに食べられたかもしれないわ…。イヤよ、そんなの……」
 どうしよう…。そう涙声を搾り出し、きつくしがみついてくる少女の背を僕は軽く叩きながら、どうしたものかと首を捻る。どうしよう、そう言って泣きたいのはこっちの方だ…。
 嫌だよ、お兄様。そう呟き方を揺らす少女を抱きしめる自分を客観的に見てみると、あまりにも馬鹿すぎだと言う思いが浮かぶ。
 涙を流す少女を余所に、僕はとうとう笑い出してしまった。そう、笑わずにはいられないだろう、この状況は。先程まで自分を魔物だと怖がられていたというのに、その彼女にしがみ付かれているだなんておかしすぎる。
 そんな僕の声に、彼女はビクリと震え身を固くした。
「アハハ、ごめん。ラリスが可愛いことをいうから、おかしかったんだ」
「……」
 そう言っても、突然の僕の笑いに驚いた彼女の顔は微かにまだ怯えに似た表情をしていた。その姿に僕は軽く肩を竦める。
「ラリス。君の兄さんを一体誰が食べるんだい?
 お兄さんは誰にも食べられてはいないよ」
「…ホント?」
「あぁ。この森には何もないのに人に危害を加えるような動物はいない。確かに、全く危険が無いわけじゃないが、食べられることはないよ、絶対に」
「違うわ、マモノが人を食べるのよ。この森にはマモノがいるんでしょう?」
「そうだね、居ると言えば居るし、居ないと言えば居ない、かな」
「…?」
「ラリス。魔物はね、人の心の中にあるものだよ」
「人の、心…?」
「そう」
 だから実際に食べられることはない。かといって、それに囚われてしまう事もなくはないのだが。自分の闇に必ず勝てるとは限らない。
「この森はこうして夜になると真っ暗闇になる。そうすると人々は怯えるんだ。自分の中の闇にね。その怯える心が魔物を作っているんだよ」
「…わからないわ」
「君にもいつかわかるよ。
 でもね、怯える必要はない。ほら」
 そう言って僕は空を指した。覆い茂った木の葉に空の多くは隠されて入るが、その微かな隙間からでも輝く星を見る事が出来るのだ。
「この山の木々は高いものばかりで、空は見えにくい。でも、確かに星は輝いているんだよ。綺麗だね」
「うん」
「あの綺麗な星達を見るために闇は必要だろう?
 真の暗闇なんて、何処にも無い。この森でも空を見上げれば光があるんだよ」
 ラリスは見上げていた視線を僕に戻し、頷いた。
 人間もそうだ。人にも闇が必要だ、時には自分を見つめなければならないのだ。それを多くの者が忘れかけている。
「…お兄さまも言っていたわ。夜は怖くない。あんなにキレイな月が見えるだろうって」
「うん、そうだね」
「…お兄さまに会いたい」
「今ごろ君を探しているだろうね。
 お兄さんってどんな人?」
「うんと。怒ると怖いけど、いつも優しいの。ラリスの事が大好きだって」
 そう言って彼女はニコリと微笑んだ。だが、その情報はあまり役には立たない。
「歳はいくつか知ってる? 背は僕より小さいのかな?」
「ううん、リュークより大きいわ。お父さまより大きいのよ。もうすぐ20の誕生日を迎えるの。だから、早く結婚しろとお父様に言われているのよ。でもね、お兄さまのお嫁さまになるのはラリスなの。ずっと前に約束したんだから」
「あはは。そうか」
 苦笑を禁じられない。どうもこの少女はなかなか気の強いお嬢様らしい。先程まで泣いて兄を心配していたというのに、もう別の事で怒っている。
「そうよ、お兄さまもラリスならキレイなお嫁さまになるだろうって言ったのよ」
 大きく首を縦に振りながら、元気のそう言った。闇に慣れたのか先程の話が効いたのか、少女の中から恐怖は消えたようだ。
 まだまだ話が続きそうな彼女に僕は微笑み、その唇に指を立て、足を止める。彼女の口が止まり、周りには静寂が訪れる。いや、微かに漂う森の気配。遠くで風が立てた木の葉の音が聞こえる。
 清んだその空気を吸い込み深呼吸を一度して、僕は風の精霊の名を呼んだ。
「リク、トゥル、テナいないか? 風の者達よ僕に力を」
 サワサワと近くの木々が静かに揺れる。
 すぐに小さな背に羽根の生えた生き物が僕の前に現れた。精霊だ。もちろん腕に抱き上げる少女には見えない。
 現れたのは風の精霊のリクとテナだった。
「リク、テナ。僕に力を貸してくれないか。
 この子、ラリスの兄の行方が知りたい。この森のどこかに居るはずだ。背は僕より大きく、もうすぐ二十歳。彼女が言うには、とてもかっこいい青年だ」
 容姿についてはそういえば聞いていないなと思いながらもそう口にする。見目のいい青年と言えば、リクがやる気になるからだ。だから、もし青年が彼女の眼鏡に叶わない人物だったなら、後で僕は散々怒られるのだろう。
 腕の中で何事かと首を傾げて僕を見る少女を見、この可愛い妹と兄が似ている事を思わず願ってしまった。歳が離れているとはいえこの少女にここまで慕われているのだから、多分これは心配無用のことなのだろうが…。
「森に居ない場合は?」
 テナが少女の顔を見ながら聞いてきた。
「それ以上はいいよ」
 居ない場合は街に戻ったと言うことだろう。怪我の治療を済ませたら送っていくので、街で見つけてもどうにもならない。
「そのお兄さんの眼の色は?」
 リクが僕の肩に乗って言った。その言葉で、彼女の好みを思い出す。
「あぁ、そうか。
 ラリス、お兄さんの目は何色かな?」
「え? 私より深い青色よ。ねぇ、リューク…」
 何なの? と口を動かしかけた彼女のそれに再び指を立てる。
「オッケイ! 行ってくるわ」
 ブルーの瞳と聞き俄然やる気をだしたのか、リクがそう言いスッと消えた。そう、彼女は人間の青い瞳が特にお気に入りなのだ。次に好きなのが確か明るい緑の瞳。そして、僕のような真っ黒な目は問題外なのだそうだ。
「ったく。あいつってホントおかしいぜ」
 そう悪態ついて僕に笑いかけ、テナもリクと同じようにスッと闇の中にその姿を溶かした。
 僕はじっと見つめてくるラリスに微笑みかけ、歩みを再開する。
「…ねぇ、リューク。今のは…」
「お呪いだよ」
「…おまじない?」
「そう、君のお兄さんが見つかればいいなと願いをかけたんだ」
 軽く肩を竦めてそう言うと、彼女は考えるように黙った。
 僕以外の者には、精霊の姿は見えない。声も聞こえない。だから、僕の言葉を信じるしか選択の余地はないのだ。疑おうにも全く想像出来ないことだろう、この少女には。
 魔物を信じていても、精霊や精霊使いと言った者がこの世に居るのかどうかも知らないのかもしれない。今はもう語り継がれるような存在ではなくなってきているのだ、僕のようなものは。
「どうやるの? 風の者達ってなに…?」
 案の定、彼女はそんなことを呟いた。
「精霊だよ。風の精霊」
「…精霊?」 
「そう、自然に触れない場所はないだろ? だから、精霊にお願いしたんだ。僕の願いを聞いて、君達の力を貸してってね」
「精霊って…、妖精のこと?」
 その言葉にクスリと笑いながらも、軽い溜息を吐く。
 精霊というもの自体知らないのか…。幼いからか、それともそう言う世代なのか…。
「いや。精霊と妖精は違うよ。確かに、人間ではない小さな生き物と言う点では同じだろうけどね。
 妖精は、ほら。この木やこんな花とかの精のことだよ」
「せい?」
「う〜ん、命みたいなものかな。それが妖精。特に何かをするわけでもないが、こうして植物が生きるのには必要なものなんだよ、妖精は。
 精霊はね、妖精とは違って自分達が使える特別な力というものを持っているんだ。風の精霊は風の力を。水の精霊は水の力を」
「力?」
「そう。そして、それを使って人の願いを聞いてくれたりもする。全ての者の願いじゃないけどね。例えば、そうだね。ラリスは眠る時、いい夢が見られますように、ってお祈りした事はない?」
「あるわ」
「今ではそれは特に何もいわれていないが、昔はね、精霊に頼む言葉だったんだよ。夢の精霊へのお願い。他にも、地の精霊に豊作を願ったり、水の精霊に雨を願ったり、人々は昔から色々精霊達の力を借りてきたんだよ。
 今ではそれは忘れ去られる一方だけどね」
「私も、精霊に頼めるの?」
「もちろん。叶うかどうかはわからないけどね。願う事は大切だよ」
 そう言うとコクリと彼女は頷き、持っていたランプを僕に渡し、小さな手を顔の前で組み合わせ目を閉じた。
「精霊さん、私のお兄さまを見つけてください。シーベイ領主サンテュの息子、カイトにご加護を」
 そう呟き目をあけた少女は、少し照れたようにはにかんだ。だが…、その言葉に僕は驚き目を見開いて腕の中の彼女をまじまじと見つめてしまった。
「…ラリス、君はサンテュ殿の、ご令嬢か…」
「えぇ。父を知っているの?」
 首を傾げる彼女に、僕はコクリと喉を鳴らす。
 この地の首領なのだ、知らないわけが無い。もちろん会ったこともなければ、そういう世の中とは関わらずに暮らしているのだから、精霊たちからか街に降りた時に名前を聞くぐらいで、それ以上は何の関係もない者だ。
 だが、今はそうはいっていられない。こんなところにそんな者達が現れるとは…。
 笑っている場合ではない。領主の息子が二人ともこの山に迷い込んだとなればどうなるのかは容易に想像が出来る。
「そうか。なら、手当てをしたら家まで送ろう」
 僕はそう言い足を急がせた。
 だが…。


 家に着き足の治療をしたのはいいが、寒い所に長く居たからか動き回ったからか、ラリスは熱を出した。怪我のせいではないだろう、捻挫はそう酷くはない。
「はい、これを飲んで」
「お薬?」
 差し出したカップに手を伸ばしながら、彼女は眉間に皺を寄せた。
「苦いのはイヤよ…」
「大丈夫、美味しいよ」
 迷いながらも、我が儘を言う時ではないとわかっているのか、相手が僕だからか、それ以上は何も言わずに恐る恐るカップに口をつけコクッと一口飲む。
「…ほんとだ、おいしい」
「だろう? 僕も苦い薬が嫌だと子供の頃に言ってね。そうしら父がこれを作ってくれたんだよ」
「リュークのお父さまは、薬師なの?」
「いや、自己流。僕は実験台だったんだよ」
 その言葉に、「じこりゅう? じっけんだい?」と少女は首を捻った。それに僕は苦笑するだけで流す。
「さあ。それを飲んで一晩寝れば明日には熱は引くよ」
「ホント?」
「あぁ。だからゆっくりおやすみ」
 空になったカップを彼女から受け取り、僕はベッドに案内した。
「でも、お兄さまが。お父さま達も心配しているわ」
 そう言う彼女に「大丈夫だよ」と言い、いつも自分が使うベッドに彼女を寝かせる。
「寒い中を熱のある身体でこの山は降りられないからね。君は休むことだけを考えて。その間に僕がお兄さんを探してみるよ。ほら、寝るまで付いていてあげるから、安心しておやすみ」
 コクンと頷き横になった彼女は小さな手を僕に差し出した。微笑みそれを握るとゆっくりと瞼を閉じる。直ぐに薬が効き眠りに落ちるだろう。
「…リュークって、いいひとね…」
 微かに呟いたラリスの声はすぐに寝息に変わった。
 狭い部屋には、少女が眠る僕のベッドと、そして、長い間使われていない父のベッド。自分のベッドに腰かけ彼女の手を握ったまま、僕は小さく苦笑を漏らす。
 この部屋で僕以外の人間が眠るのは、父が死んだあの冬以来……。
 そっと少女の手を外し毛布の中に入れ、僕は部屋を後にした。

 リクもテナも遅いなと思いながら採ってきた薬草の手入れをしはじめた時、テナが溜息をつきながら姿を見せた。
「どうだった?」
「…わからなかった」
 いないんじゃないのか、と言う彼に、僕は礼を述べる。テナはテーブルの端に座り、「疲れた〜」と言って伸びをした。
 狭いとは決して言えないこの山、しかも今は夜。そんな中を探すのは大変な事だ。テナは文句はよく口にするが、僕の頼みに手を抜いて応えるという事は絶対にしない。必死になって探してくれたのだろう。
 それを考えると、彼の言うとおり本当に少女の兄はもうこの山にいないのかもしれない。
 城に戻ったのだろうか? なら、人を連れて山に入ってくるだろう。領主の娘だ、どんなことをしてでも見つけるまで捜索するはずだ。
 この山に人が入ってくること自体は別に問題ではない。だが、面倒はゴメンだ。それに、山を荒らさないとも限らない。ラリスが熱を出していなければさっさと送り届けるのだが、それも出来ない。どうしようか、そう思った時、リクが突然目の前に現れた。
「居たわよ、居た!」
 彼女の興奮がうつったかのように、「どこにっ!?」と言う、テナと僕の声が同時に上がる。
「もう少し上に行った所にある洞窟の中よ」
「なんだってあんな所に」
 テナが呆れたように言う。自分が見つけられなかったのが悔しかったのだろう、少し苛立ってもいるようだ。だが、僕の方は彼の事よりも、青年がいた場所の方が重要だ。テナの言うように、なんだってあんな場所に…。
「きっと崖から滑ったのよ。奇跡的にあの洞窟に入り込めたのね。
 私も雪が不自然に落ちているのを気にしなければ、見つけることも出来なかったわ。あんなところに行くのはリュークぐらいなものでしょう。でも、雪がある間は絶対行かないし気になってね」
「っで、彼の様子は?」
「落ちる時に岩で腕を擦ったみたいね、結構酷いかもしれない。自分で布を巻いてはいたけど、まだ血は止まっていないのかも」
「兄妹揃って怪我か…」
 思わず悪態をついた僕の言葉を受け、「兄も風邪を引いているかもよ」とテナが笑った。だがその笑いをリクが睨みつける。どうやら彼女は青年を気に入ったようだ。
「早く助けに行ってよ」
 リクが手を広げてそう僕に訴えた。だが…。
「そうは言ってもね…。確かにあの辺りには行くけど、あの洞窟は無理だよ」
「リュークでも無理な所があるの!?」
「僕を何だと思ってるんだい。ただの人間だよ」
「試した事がないのに、無理だというの?」
 そんなのリュークらしくないわ。そう怒って言う彼女に僕は苦笑した。
 僕らしくないとは、本当に一体何だと思っているのだろうか。確かに今は珍しい精霊使いではあるが、力もなにもない人間なんだが…。
 喉を鳴らしながら、僕は首を横に振った。
「いや、入った事があるんだよ。子供の頃、興味本位でね」
「えっ!? あんな所に?」
 テナが驚き目を丸くする。確かに、あんな所と言うに相応しい場所だ。だからこそ興味が湧いたのだが。
「行った事があるのなら、早く助けに行ってよ」
「あの頃は大きな木があって、それにロープをつけて入っていったんだ。だが、そうして降りる事は出来ても、岩が邪魔で登れないんだ、絶対に」
 人間には無理だよ、と僕は笑うが、リクの表情は怒ったままだ。相当青年が心配らしい。そこまで気に入るとは、どんなに見目麗しいものなのか、全く。
「なら、帰りは?」
 テナが興味津々に訊いてくる。
「あの洞窟は抜け道があるんだよ。先に調べておいたんだ。だが、とても小さい。子供の僕でも途中でつっかえるんじゃないかと思うほどにね」
 そう、無事出てきた時は安心して泣きながら家に帰ったのだ。父はそんな僕を怒った後、優しく抱きしめ、引っ掻いた傷の手当てをしてくれた。
 今でもあの近くに行くと、鮮明に思い出す。
 抜け道の中は明かりが差し込んできてはいたが、不安でたまらなかった。体を締め付けるように密着する岩が、ふとこのまま僕を捕えてしまうのではないかと。この光の先には一生行けないのではないかと。
 子供ながらに色んな事を考え、自分の軽はずみな行為を悔やんだ。何度も助けてと心の中で父を呼んだ。口に出す事は決してなかったのは、自分の声すらその狭い空間では怖い響きだったのだ。あの時の早鐘を打つ振動の音と荒い息が今でも耳に蘇る…。
「…それに、その穴も、今は雪の下だよ。どうにもならないね」
「でもさ。どうして、その抜け道から入らなかったんだよ?」
「岩肌と傾きの関係で、逆流は出来ないのさ。赤ん坊くらいの大きさで、今くらいの体力があれば出来るだろうけどね」
「じゃあ、リュークは彼を助けには行けないの?」
 リクが不安げに顔を顰めて聞いた。
「さあ、どうだろう…。
 そうだね、降りることは出来ると思うよ。彼が降りられたのだから」
「いや、そいつも運が良かったんだろう」
「そうかもしれないけど、出来るはずだよ。だが、登ってくるのは無理、残念でした。っていう結果はまずいだろう?」
「確かに」
 僕の言い分にテナは頷いたが、リクは尤もな事を言った。
「ちょっと、ここで悩んでないで、あそこに行きましょうよ」
「ああ、そうだね」
 確かに、居場所がわかっているのだから何かしら手をうたなければならない。なら、ここでこうして話していても仕方がない。
 僕は出掛ける用意をし、夢の精霊の名を呼んだ。
「どうしたの?」
 現れたのは、リクとは違いおっとりとした性格のトウだ。
「悪いんだけどね、トウ。彼女がぐっすり眠れるように付いてくれないかな?」
 寝室へのドアを指さしながら、僕はそう彼女に頼んだ。
「いいわよ。どこかへ行くの?」
「うん、ちょっとリクが気に入った青年を助けにね。あ。まだ、助けられるかわからないけど」
 その言葉に、キッとリクが反応し睨んできたが、トウは気付かず「そう。リューク、気をつけてね」と微笑んで手を振った。
「ありがとう、じゃあ、お願いするよ」

2002/06/13