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子供の頃はもう少し大きく感じられたというのに、なんて小さく、寂しい場所なのだろうか。
僕は月明かりで入口付近だけが窺える洞窟の前で、焦燥に駆られた。子供の頃の記憶のままで残しておきたかった。そんな感情が生まれる。
俯いた僕の視線の先には、闇が迫っている。一歩足を踏み入れれば、僕の体もそこに消え去るのだろう。
子供の頃は胸が弾む冒険を出来た場所だったが、大きくなった僕には、洞窟は少し畏怖するような場所に変わっていた。
けれど、だからといって僕はこのまま戻るわけにも行かず、内心を軽い溜息で消し去り、ゆっくりと足を進める。月明かりに慣れた目では、本当に洞窟内は闇だった。
だが、真の闇など、この世にはない。
数歩進んだ所で足を止め、腰元に結び付けておいたランプを手探りで外す。その間も、瞬きをするたびに、暗闇に目は慣れていき岩肌を確認出来るようになっていく。
「…ホウ、このランプに火を」
火の精霊の名を呼ぶと、左手に持ったランプに直ぐに火がともった。その明かりに、少し目を細め、僕は姿を現したホウに礼を言った。
「面白そうなことをしているな」
「面白くないよ。これから、こんな夜に泳ぐんだよ」
その返答に彼は声を上げて笑い、僕の肩に腰を降ろした。
あまり大きくない洞窟は、小さなランプの光だけで充分に照らし出す事が出来た。壁に僕の大きな影すら映しだすほどに。
入口付近に人は居なかった。迷うことなく、僕はゆっくりと足を進める。この洞窟は突き当たりが少し右に折れており、そこで行き止まりとなっているのだ。
予想通り、目的の人物はその奥に座っていた。ここが一番温かいのだろう。
僕よりひとまわり大きなその青年は、とてもではないが領主の息子だとは思えない雰囲気でそこに居た。このまま放っておけば、本当に闇に溶けそうな感じで。
「大丈夫ですか?」
僕は側に近付き腰を降ろしながら、蹲るようにして座っている青年に声を掛けた。だが、返事は返らなかった。
寒さのためか、傷のせいか、どうも眠っているようだ。
先に手当てをしようかとも思ったが、傷を抑えている手を外すことが出来なかった。痛みを和らげるように、強く傷口を押さえつけるその手にも血がこびり付いている。リクの言っていたように、酷い傷なのだろう。
無理遣り手を外すことも出来ないので、青年の肩を僕は揺すり、声を掛けた。
「起きてください、カイトさん。こんなところで寝ると死にますよ」
「……ん…」
何度か名前を呼ぶと、漸く小さな反応を示す。
「傷を診ますから、押さえている手を離してください」
そう言うと、ゆっくりと二の腕を握っていた左手を素直に外した。彼の右側に座り、雑に巻かれた血に染まった布を外す。
足元に置いたランプでは、青年の体が丁度影を作るので、傷口ははっきりとは見えなかったが、それでも充分に酷い事がわかった。尖った岩か何かで切ったのだろう、深く抉れている。だが、綺麗とは言いがたいが、思ったよりも裂傷は酷くはない。
「……誰だ」
掠れたその声は、とても弱々しかった。
適度についた筋肉が窺える体。自分と似た年齢の男。それを考えれば、この声が普段の青年のものから掛け離れている事が容易にわかるというもので…。
同情をする事も、可哀相だと思う事もないというのに、その声は僕の中に小さな切なさを呼んだ。
人の弱っている姿を見るのは、あまりいいものではない。
「僕はリュークといいます。しっかりしてください、寝ては駄目ですよ」
「あぁ…。オレは…一体……」
「ここは洞窟です。あなたは崖から滑り落ちたようですね。覚えていませんか?」
「あ、あぁ。そうだ、崖から……、――なっ! なぜここにっ!? 痛ッ!」
突然ガバッと体勢を変え、青年は隣に座っていた僕の肩を掴んだ。そのせいで傷した腕を岩肌に当ててしまい、苦痛の声を漏らす。
彼の動きに僕も驚いたが、肩に乗っていたホウは、ヒッと叫んで姿を消してしまった。それほどまでに、青年の豹変は凄かった。弱っていた人間とはとても思えない。
「傷が…」
「だ、大丈夫だ。」
大丈夫なわけがない、折角止まっていた傷口が開き、血が壁を伝っているのだから。
「それより、この洞窟は抜け道なんてない! 俺は調べた。どうやってお前は来たんだ!? お前は、何者だ!?」
噛み付くほどの勢いで、けれども戸惑いを隠せない目で、青年はじっと僕を見た。いや、眉間の皺は、僕を睨んでいるということだろう。だが、僕は彼のその気迫を受ける気にはなれず、さらりと流す。
「手を離してください、腕を診なければ」
「質問に答えろ」
「名前は言ったでしょう、リュークです」
「何者だ…?」
二度目のその質問には、怯えが少し混じっていた。人間、理解の出来ないものにはそう言う感情はつきものなのだろう。
そっと緩んだ青年の手を肩から外しても、彼は再びそこに力は入れなかった。
僕は質問には答えず、傷口に布を押し当てた。何者かなど、僕が答えを持っているわけがない。相手がそれを見極めるしかない、そんな質問なのだから。
「あなたの妹に山の中で会ったんです」
「ラリスに? ラリスは無事なのか!?」
「えぇ、足をくじいていたので、僕の家に連れて行きました。疲れていたのか、少し熱があるようなので、帰さずに寝かせています」
「そうか、無事なのか」
良かった。
ほっと息を吐き、自分の方が重傷であるというのに、青年は表情を緩めた。安心したその顔は、兄という立場にいる家族のものであった。深い愛情が滲み出ている。
「…彼女に、寝ている間にあなたを探してみようと約束したので、こうして来たんです」
微かに声が震えた。
僕は青年から視線を外し、俯いた。
…心が、震えている。
そんな自分自身に、僕は戸惑い、更に感情が乱れそうになる。
「妹さんは無事ですから、次は自分の心配をしてください。腕を…」
彼はその言葉に従い、壁に背を預け、素直に腕を僕の方に向けた。僕の変化など、青年には気にする余裕もないのだろう。それは僕にとってもいい事で、ひとつ息を吐き、感情を落ち着かせる。
人間はやはり苦手だ。
精霊達もそうだが、他人の思いを感じるのは好きではない。だが、精霊達と人間とでは明らかに違うことがある。僕は精霊ではない、人間なのだ。
仕方がないと、小さな違いをそう思い割り切って僕は彼らと生きてきた。それに不満はなく、満足している、本当に。
そんな僕の前に、僕と同じ人間が居る。精霊ではない、人間が。
その事実は、僕を混乱させる。いつも。
それは、慣れていないというのもあるのだろうが、それだけではないだろう。僕の心には、常に言葉に出来ない感情が渦巻いている。
僕はそれが嫌いだ。人が憎いわけではない。だが、全く関心を持たない事も出来ない。何処かで気にしている。そんな自分が嫌で仕方がない。
月に一度街へ降りるのは慣れたが、それは異世界に迷い込んだ気分がするものだ。小さな頃から見知っている街でのひと時を、僕は平常心を保ちながらも、その実は心に鎧を着せているにしか過ぎない。だが、そのひと時ならばやり過ごせる。人を憎んでいるわけではなく、ただ苦手なだけなのだから。
けれど、それが自分のテリトリーとなると…、自信がない。気を抜けば取り乱してしまいそうな感覚に陥る。
大丈夫だと何処かで言い聞かせている、森で少女を見た時から。どうにか対面を保ってきた。だが、しかし。
こうして、青年の想いに触れてしまうと、それが崩れそうになる。少し羨ましく、妬ましい。何に対してかわからない、そんなほの暗い感情が胸の中で生まれる。
そして、何故か人恋しくなり、その事実がとても辛くなる。
今以上の事を求めていないのに、矛盾した心は無意味に人間に縋ろうともする。同じ、生き物に。
そう、僕は何処かで、父の姿を求めているのかもしれない。誰彼関係なく、ただ人間という生き物を…。
「妹を助けてくれたんだな。礼を言う」
青年は先程の気迫など何処にも感じさせない穏やかな声でそう言った。
「…あなたも助けるつもりですよ」
「どうやって」
「まずは傷の手当てをしなければ」
顔も上げず、僕はじっと青年の腕を見つめていたことに気付き、手を動かす。
血が止まらない腕に薬のついた布を巻きつけたが、すぐにその布は血で染まる。薄暗い中で見るそれは、まるで小さな闇が拡がっていっている様な感じだ。
かなり深く切っている傷を再度ひろげたことにより、血の止まりが悪い。
「……時の精霊よ、我に力を」
僕は呟くような小さな声で呼びかける。
「シーチェ、ククどちらか近くにいないか? 我に力を貸してくれる時の精霊よ、応えて欲しい…」
側に居るのだから、どんなに小さくとも聞こえただろう。青年が僕に視線を向けているのを感じた。だが、それには顔を上げず、僕はもう一度、僕が知る二人の名前を呼んだ。
どうしたのかと不思議そうに訊ねてきた青年には、軽く頭を振るだけで、それ以上の反応は返さない。
「シーチェ、クク…」
時の精霊は気紛れやが多い。呼んでも姿を見せず、頼んでも応えてくれない場合もある。生きている時間に逆らう精霊だ、それは仕方のないこと。めったなことがない限り、僕も彼らの力を頼らないようにしている。
だが、今は彼らの力が欲しい。この青年を助けなければならない。…いや、僕も助けたいと思う。
怪我をした時も血はなかなか止まらなかっただろう。これ以上の出血は避けたい。これから冷たい水に入るのだ、少しでも体力を残しておかなければ、助からないだろう。だから…。
「呼んだかい? リューク」
「シーチェ…」
すっと目の前に現れた精霊に、僕は思わず顔に笑みを浮かべた。
「あんたが頼みとは珍しい」
「シーチェ、この者の怪我の進行を抑えて欲しい。これ以上血を流すのは危険なんだ」
「あぁ、聞いているよ、川で泳ぐんだってね」
年老いた彼女の声はしゃがれており、口調は少し乱暴だが、いつもそこに優しさがある。僕はいつでもこの彼女の前では少し子供になる。
少し騒がしかった僕の心が、シーチェが来た事に安心し、落ち着きをみせる。
「駄目かな…?」
とても重大な頼みをする割には、誠意のない子供のような僕のその言葉に、彼女は軽く笑った。
「おねだりかい。可愛い振りをしても無駄だね。あんたはもう大きくなりすぎだ」
昔は可愛かったのにね、といいながら、シーチェは何がどうなっているのか事態を飲み込めず、怪訝に眉を寄せ僕を見る青年を観察した。
「…そうだね。こいつは別にどうなってもいいが、あんたが道連れになるのはゴメンだからねぇ」
そう言い、シーチェは彼の腕に両手を翳した。
傷口が淡く光る。
「……温かい…」
戸惑いながらも、青年は呟きを落とした。何故だと言う風に僕を見るが、僕はその視線を構う余裕はない。
シーチェが、時の精霊が力を使っている。
自らの命を削る行為なのだ、それは。
流れる時間に変化を与える事は、どんな事であっても許されない事なのだろう。彼らは自らの命を差し出す事で、その奇跡を起こす。
だがそれは、神秘的だとも、感動的だとも言えない。そんな生易しいものではない。
シーチェが放つ光に、僕は目を細めた。
見たくはない。けれど、目を逸らす事は絶対に出来ない。命を燃やしている光は、とても切なく、自分の力のなさと、傲慢さを覚えさせるもの。
「…ありがとう、シーチェ」
「大したことじゃないよ」
そう言い、シーチェは笑ってすっと消えた。
これが自分の持って生まれた力ならば受け入れるまでの事。
以前、別の時の精霊がそう言っていた。
自分達は、自分の力を誇りに思っている。嘆きはしない。だから、僕がその力を使っても気にすることではないと言う彼に、強いねと言った返事がそれだった。ただ、受け入れただけだと。生まれた時から決まっていたのなら、それが自分のあり方だと。
幸いにも、自分は一方的に使われるだけではない。考える事が出来る、選ぶ事が出来る。少なくとも納得してこの力を使っているのだ、俺達は。だから、お前が気にする必要もなければ、それは無駄な事だ。
シーチェ以上に、口が悪くいつもぶっきらぼうだった彼が、その時は優しく、そして少し悲しく笑ってそう言った。その時の姿を僕はまだ忘れてはいない。
その後、彼は姿を消した。
初めて名前を聞いた精霊だった彼は、「じゃあな」と片手を上げて挨拶し、去っていった。
何処で何をしたのかは知らない。自身で誰かに力を貸したのか、人間の願いを叶えたのか、それともまた別のことなのか、何も知らない。ただ、まだ充分に未来を望める彼がそうなったのだから、命を削る事をしたのは確かな事だろう。
父は死の床で、決して時の精霊を呼ぶ事はしなかった。病は癒せずとも、進行を遅らせる事は出来ただろう。だが、それに何の意味も無いと、首を振り続けた。ほんのひと時でも長く生きて欲しいと願うばかりの僕とは違い、死を前にした彼には生きる事、死ぬ事が何なのかわかっていたのかもしれない。
潔いと言うのだろうか。
いや、それとも少し違うだろう。
ただ、自分を持ち続けた、それだけなのだろう。だが、そんな彼らは、僕にはとても大きな存在だ。はたして自分はそんな風に生きているのか、自信はない。
年は重ねた。
けれど、未だ子供なのだと、僕は思う。
僕は、まだ、足りないものが沢山あり、大人にはなれていない。
大人にはどうすればなれるのか。漠然とながらも思い描くそれに、僕は近付けているのかすらもわからない。
父にも精霊達にも沢山の事を教わり、支えられて僕は生きてきた。今なお、彼らなしでは生きていけない。
それは充分にわかっている。事実なのだ。
だが、僕はそれを常に見続けられるほど、強くはない。
自身の弱さやずるさを忘れ、日常を過ごしているのだ。
慎重に固まった血を拭き、傷を診る。シーチェのお陰で、血は完全に止まっていた。
先程と同じように薬をつけた布を当て、強く巻きつける。
「きついですか?」
「…少し」
「そのくらいがちょうど良いでしょう。今はこれで行きましょう」
僕は軽く息を吐き、使った道具を片付けるために、青年の腕から更に地面へ視線を落とした。
「……さっきのは、何だ?」
「おまじないですよ」
予期していた質問に、淡々とした口調で答える。だが、妹とは違い、彼はそれでは納得しなかった。
「そんなものじゃないだろう。
お前…精霊使いなのか…?」
「…そうですね」
「精霊を使ってここを?」
「ええ、そうです」
答えを聞き、再び口を開きかけた青年を遮り、僕は立ち上がりながら言う。
「そんなことよりも、先にここを出ましょう。朝まで待っても、あなたの体力が落ちるだけだ」
「……出る? どうやってだ」
いくらなんでも無理だろう。
青年は僕を見上げた視線を外し、軽く頭を横に数度振った。
「いえ、大丈夫です。この下は川になっているんです、飛び下りましょう」
「……死ぬ気か?」
たっぷりと間を置き、憎たらしいとさえ言える返事を返す。大丈夫だと言っているのにその返答はどういうことだ、全く。
「このままこうしている方が確実に死ねますね。そうしたいのならそれでいいですが、僕はご免だ」
「だが、しかし…」
「僕達が助かる方法はそれしかない」
「本気なのか?」
「もちろんです。こんな夜中に、態々冗談を言いにこんなところまで来ませんよ」
そう答えながらも、こんな夜中に態々助けにくるだけでも奇特な奴だと、自分で自分を嘲笑う。
本当に、僕は一体何をしているのだろうか…。
「…精霊使いなら、君一人なら、他に方法があるのでは?」
「そうですね、ないこともありません」
何を訊きたいのだろうかと思いつつも、考えるのは面倒なので正直に答える。
「しかし、僕一人でも、やはりここから飛び下りますね。それが一番簡単だ。
さあ、行きましょう。妹さんが待っていますよ」
なかなか腰を上げない青年に手を差し出し、僕は肩を貸した。最後の一言が効いたのだろう、青年は力を振り絞るようにして歩きはじめる。
「…どうする気だ」
月明かりに照らされる入口まで来た時、その拓けた視界を前にして恐怖が沸いたのだろう、青年が硬い声で言った。
「だから、飛び下りると言っているでしょう」
手にしていたランプの火を消し、濡れないよう、腰に下げた薬と同じ袋に入れる。その僕の横で、青年は絶壁から止せばいいのに下を見、息を吐いた。触れ合う体から、彼の鼓動が聞こえるほどの緊張を感じる。
「ここから飛び下り、途中で下の川から水を打ち上げてもらいます。なので、途中で息を思い切り吸い込んでください。そうして勢いをころして川に落ちるんですが、泳げますね?」
「あぁ。だが、そんなこと…」
「大丈夫ですよ。ただし、それは川に落ちるまでのこと。その後岸につき、家にたどり着くまでの体力があなたになければ、どうなるのか僕にもわかりません。さすがに、あなたを背負ってはいけないので」
どうにかなるだろうと思いつつも、叱責する代わりにそんな言葉を僕は言う。
それを、いつの間にか肩に乗っていたテナが軽く笑った。けれど、その顔には緊張がある。先程の疲れも残っているのだろう。
大丈夫。もう一度宜しく。
その思いを込めて、そっと彼に手を伸ばす。僕の指先に少し触れ、「しっかりやれよ」と軽口の様に笑い、テナは空中に飛び立った。その先には、見知った精霊達が幾人も集まっている。
「…さあ、行きましょうか」
精霊達の不安げな顔に、僕は微笑みかける。
「大丈夫ですから。緊張すると、溺れますよ」
「…せずにいることなど、不可能だろう」
「そうですか?」
余程、大丈夫だという僕の言葉は信用ないらしい。だが、憎まれ口を叩けるくらいには、青年もまた何処かに余裕があるのだろうと、僕は軽く喉を鳴らす。
「…楽しそうだな」
「まさか。こんな夜に泳ぎたくはありませんよ。
話していても仕方がない。いいですか?」
先程の崖の上と同じように、けれども今度は正面を向いて、地面から足先を外に出す。隣に立つ青年もまた同様に縁に足を置いた。
「…あぁ」
「では、行きます」
そう言って合図をかけ、僕は思い切り彼の腕を引きながら地面を蹴った。
2003/02/05