《 言葉の無い国 》

 ・「筑波×保志」+「風邪」

 まだ終電は十分に間に合う時刻だったが、なんとなく思いたって筑波直純の部屋を訪ねたてみれば。玄関に靴があった。珍しい。もう帰っているのかと、家主が留守の間にもぐりこみ先に寝ておくつもりだった僕としては、ちょっとした不意打ちに自分の行動を少しばかり反省する。休んでいるところを邪魔する結果になったか、と。
 けれど。明かりが灯るリビングへ足を踏み入れて、その考えは払拭した。近づくまでもなくわかるほどに荒い息を上げ、ソファで倒れるように筑波直純が寝ている。帰ってそのままなのだろう上着まで着ているが、寒いのか窮屈に身体を丸めて。
 一定のリズムで、壊れた笛のような高い寝息が小さく響く。顔を覗き込めば、青白く見えた。風邪だろうかと額に触れれば、想像以上に熱かった。そのまま数度頬を叩いてみるが、起きる様子はない。
 寝ているというよりも、力尽きて気を失ったかのような有様だ。
 体温計のある場所など知らず、とりあえず、寝室から掛け布団を取ってきて被せてやる。氷嚢もあるのかもしれないが、見つけ出せる保証もないので、手間を省き。冷凍庫の氷をビニール袋に詰めてタオルに包み頭に置く。破れたら大惨事だが、子どもじゃないので穴をあけるようなこともしないだろう。
 自分のケータイで筑波直純のケータイを呼び出し、音を頼りに発掘する。だが、気が利かないことにロックがかかっていて使えない。
 福島氏を呼び出すには、筑波直純からの着信が有効であり。僕の着信では即座に出るとも思えないし、用件も上手く伝わるのか怪しいもので。拝借しようと思ったのだが、仕方がない。
 だが、そうなると。最後の手段は救急車を呼ぶことだが、呼ぶとなれば外へ出て誰かを捕まえねばならない。しかし、そもそも熱いと感じる体温が救急にあたるほどなのかどうかもわからない。
 よって。
 僕が出来る手段の中で一番楽しくはないが、一応それなりに効果をもたらすであろうそれを実行することにする。
 たまにしか使わない通話機能で発信すれば、案の定、相手はふざけた言葉で通話を受けた。
『ぁあ? ナニお前。俺の魅力がわかるようになったのか、保志。逢引の相談ならば乗ってやる。どこに居るんだ迎えに行ってやろうじゃないか言いやがれ』
 煩いと怒って切らないことに加え、饒舌に紡いだそれは相当にご機嫌な音をしていた。そして。
『それともまさか、捕まっているとか言うオチじゃないだろうな? お前まさか連絡しろといわれて俺の情報を売ったのか? オイオイ、俺をヤツの変わりに愛人だと紹介してンじゃないだろうなァ? ンなことしたらどうなるのかわかってンのか、ああ? マジで埋めるぞ。勿論、オレのをお前にだけど』
 機嫌のよさも考え物だ。掛けた僕が、切りたくなる。
 冗談でも聞きたくない、気持ちが悪い。
『ったく、おい、なんか言えよ。っつーか、そもそもお前、本当に保志か? 誘拐犯じゃねーのか? 保志本人だっていうのなら、犬のように啼いてみろ。ほら、さっさと啼け』
 まるで僕が喋れないことを一切知らないかのように要求してくることもそうだが、淀みなく繰り出される言葉に心底うんざりする。もうこのまま本当に切ってやろうかと、筑波直純も放っておいて大丈夫なんじゃないかと、逃避のような考えが浮かぶ。ものすごく、面倒だ。
 だが、この四谷クロウという男は人の感情を裏切るのが得意で。散々バカな妄想話を展開したあとで、『さて、前置きはこのくらいにして本題に入るか』と言い置き、僕の不快を一掃させるような言葉を口にした。
『お前が俺に連絡をしてくるということは、筑波がどうかして医者が要るということだろう。だが、電話するくらいだ、そう時間を争うほどでもないんだろう。仕方がないな、行ってやるよ。主人を待つ飼い犬のようにおとなしく待っていろ』
 電話一本で何故わかるのかわからないが、最初から予測をしていたのなら、先の無駄話は何なのだろう。
 高熱の筑波直純に余裕はあっても、僕にはこの男に耐える余裕はないというのに。
『今なら30分程で着くだろう。筑波にイタズラをするのならそのつもりでしろよ。着いたときお前と筑波がナニしていたら、俺も混ざるからな』
 その恐ろしいほどにバカな発言で通話が切れた。熱を帯びた手の中のケータイを見下ろし、僕はしばし呆ける。大丈夫だろうか、あの男。確実に、今ここで倒れこんでいる男よりも大丈夫ではないだろう。頭が腐っている。
 起こしたアクションはひとつのみで、なんの返答すらしていない。本当にこちらの状況をわかっているのか、かなり心配だ。違う手を打った方がいいだろうか…。
「…………」
 …とりあえず、多くのものが信用できない相手だが、30分くらいならば待ったところで結果に違いなどでないだろう。部屋に電気を点けているということは、夜になって帰ってきたということだ。長くても数時間前には働いていたのだろうし、あと半時間くらい対処を怠ったとしても問題ないはずだ。多分。
 僕の苦労も知らずに眠る男の首筋に触れると、トクトクと血潮が指先を刺激した。薬は飲んだのだろうか。
 ただこうして四谷クロウを待つのも何なので、体温計を探してみることにする。この部屋で救急箱を見たことはないが、機会がなかっただけで、きっと誰かが用意しているだろう。そういう気を回す役割を与えられた人物が、この男の周りには幾人か居る。

 しかし、結局。必死さが足りなかったのか、勘が悪いのか、救急箱は見つからず。そうこうしている間に、四谷クロウが本当に現れた。
 電話口と変わらずバカな事を言いながら、ダウンしている患者を診る。
 耳に押し当てればすぐにわかる体温計が示したのは、40度を越えた体温だった。長時間放置は危ないものだが、一体いつからこの熱が続いているのだろうか。季節柄、インフルエンザの流行は過ぎている。今日いきなり体調を崩したわけではないだろうに。
「こじらせれば肺炎だ。バカだな」
 注射を打ち、いくつか薬を出した男が、興味がなさそうな言い方で言ったが。その実、筑波直純を見る視線は、労わるそれであるように見えた。額に張り付いた髪を剥がす指先が、まるで不器用な父親が子どもへ接するそれのようなもので、何ともいえない。
 世間一般的な、仲がいいだとか、気心が知れているといった友人関係とはまた違い。けれども、親兄弟のような家族とも違う。部外者にはわからない何かで、この男たちは繋がっている。
 それが何なのか、知りたいとは思わないし。その中に加わりたいとも思わない。
 むしろ、巻き込まれたくない話だ。
 なのに、何故こんな風に、意識してしまうのだろう。
 着信だけで何故状況がわかったのかと問えば、「愛の力に決まっている」と断言された。その愛が誰の何に対するものなのか、深く聞く気にもならない。そういうことは、僕の知らないところで勝手にやっておいて欲しい。
 だが。
「組がらみで、コイツはオレのところに来ないからな」
 つまり。
 ヤクザ男として怪我をしたのならば、もっと早くに組が対応しているのだろうし。浅いものなら、筑波本人が対処する。
 意識がないほどの深手を負っており、それを僕が見つけたのだとしても、その場合は一刻を争うはずなのでどこに居るのかもわからない相手には電話をしない。怪我ではなく病気の場合もまた同じ。苦しみもだえている筑波を前に、僕が四谷に助けを求めるわけがない。救急車だ。
 ならば、筑波に無断で、喋れもしないくせに電話をかける程度の重要性はあるが、緊急でもないとなると残る可能性は少ない。僕たちの関係で、僕が四谷を必要だと思うのは、医者としてのそれだけだと予測するのは息を吸うなみに簡単なこと。
 結論へ至ったのは必然だということだ。
 確かに、その方面の医者は別に要るだろうし。あえて、この男が幼馴染を組に引き込むとも思えない。深く思わせる絆はけれども、確かな脆さを含んでいる。
 まるで、その柵は、僕と筑波直純のようだ。互いにどうしようもない点は、通じるものがある。
「まあ、お前を連れてきたのだって、イレギュラーだったがな」
 そんな言葉に、何年も前の事が僕の頭にも蘇った。
 あの時、筑波直純は何を考えていたのだろう。


 翌朝、筑波直純は僕より早く起きだしており、僕が気付いたときにはシャワーを浴びた後だった。まだ7時前だというのに、四谷クロウも既に居ない。
 体調を問えば良くはないというが、熱は大分下がったようだ。仕事を休む選択のない男は、水と果物をとり出かけて行った。感染ったかもしれないから十分注意しろよと、僕を心配して。疲れだろう風邪が他者に伝染するとは思えないし、何より発熱したとしても40度になり倒れるまで働きはしない。が、熱でふらつきながらも仕事に出た前科もあるので、反論はせずにおとなしく見送る。
 ひとの心配よりも、自分だろう。本当にあの男は大丈夫だろうか。まあ、四谷クロウは性格はアレだが、幼馴染の男に対しては過保護なので。きっと、手は打つのだろう。様子を見に行くだとか、福島氏に言っておくだとか、何かするはずだ。僕も帰るかと、仕事は休みだが出かける予定があるので、その前に一度自宅に戻ろうかと身支度を整え玄関に向かう。

 何気なく振り返り、誰も居ない静まり返った部屋に、自分も含めた人の名残を感じ取り。当たり前なそれに途方もなく、生きていることを実感させられる。
 ちょっとした煩わしいことも、心配も、それこそ他人の温もりも。掛け替えのないものだったのだと、いつか思うときがくるのかもしれない。

 他人の家の鍵を閉め、早くも賑やかな街へ繰り出す。
 筑波直純が先に歩いた足跡を辿るように。
 
- END -
2012/11/25