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いつの間にか空は高くなっていた。薄い雲が流れるそこは折り紙のような青一色だが、夏のような深さは無く、寂しいくらいに清んだ色をしている。
空同様、太陽もまた秋のそれだ。夏の名残で気温は高いが、陽射しは随分と柔らかい。
地面に腰を下ろし立てた片膝に腕を乗せぼんやりとしている俺の格好は、街中にいる高校生と何ら変わらないのだろう。だが、きっちりとスーツを着こなした男と制服をだらしなく着崩した少年とでは、世間から向けられる視線は違うもの。人通りが少ない脇道とはいえ、完全に途絶える訳でもない通行人達が横目で眺めてきているのだろう者を、俺もまた眺め返す。けれども興味がないからだろうか、通り過ぎる者達の大半はのっぺらぼうで、時たま確認出来る者の顔も、どこかぼやけたものだった。だが、だからと言って目を凝らして見返すほど、彼らに関心は湧かない。
ふと気付けば、いつの間に忍び寄ってきたのか、隣に黒猫が座っていた。腕を伸ばしても届かないだろう微妙な距離を空け座るその姿は、俺を完全に無視しする雰囲気をまとっている。しかし、それはいつもの事なので腹立たしさも何も覚えず、俺もまた同じように傍の存在を忘れ、空へと視線を向けた。
顔にあたる風に、ほんの僅かな冷気が混じっている。
すっかり季節は秋へと変わった。
「何しているのよ仁ちゃん、お尻汚れるわよ」
誰かが向かってくる事に気付きながらも、声を聞くまでその人物を見極める事が出来なかった。物思いに耽っていたからというよりも、頭が壊れているという方が正解だろう。視力を失っていたわけではなくきちんと認識していたというのに、頭に入れたそれをもとに何かをするというのが遅れる。取り込んだ情報をもって正しい命令を出す事が出来なければ、脳の価値など何もないと言うのに俺のそれは時たま仕事を放棄する。だが、不思議なもので、その無能さに苛立ちを覚えはしない。それは頭同様、俺の感情もまた壊れているという事なのだろう。
「せめて日陰に入ればいいのに、バカね暑いでしょう」
掛けられた言葉に、光の関係で通りが見え難いのだと今更ながらに気付く。世界が色をなくしかけていたのではなく、単に俺の視力が低下していただけの事。固まりかけていた腕を曲げ顔に手を翳すと、幾分か色の違う景色が見えた。
「いつ来たの?」
俺の前を通り越し、古びた入口のドアを開けながら、瞳はそう小首を傾げる。その彼女の足元に、俺には愛想のない黒猫が纏わりついていた。
「さあ、いつだったかな」
「忘れるくらい随分と待たせちゃったのかしら」
「ああ、そうだな」
待っていた。そう応えると、俺を見ていた瞳は軽く眉間に皺を寄せた。彼女のそんな表情は、自分より年上である事を思い出させる、少し面白くはないものだ。
「勝手に入ってくれて構わないのよ、仁ちゃん。鍵持っているでしょう」
「持ち歩いていない」
「こんな事もあるんだから、来る時は持ってきなさいよ。それか、電話をするかね」
どうぞ、と扉を押し広げ俺を中へと促すと、瞳はさっさと奥へと進んで行く。立ち上がるのを待つ気もないそれは、必ず入ってくるという確信からか、そこまで面倒を見る気はないと言う意思の現れなのか。俺にはその答えは出せない。ただ、短く息をつき胸の中で掛け声を掛けながら俺が立ち上がるのを、飼主の代わりを果たすかのように黒猫が玄関で立ち止まり見ていた。しかし、緩く尻尾を振りながらも、俺が一歩踏み出すと一瞬で興味を無くしたかのように視線を逸らす。数拍遅れで入口に立ち中を窺った時には、その姿はもう既に本の中へと消えた跡だった。全く訳のわからない猫だ。だが、そんな奴ではあるが、俺は彼が嫌いではない。
一体何処へ消えたのか。店の奥まで進み狭い階段を上がっても、黒猫の姿は無かった。当然の事ながら、ドアを開け足を踏み入れた部屋にも居ない。昔からこの建物を知る自分よりも、今の持ち主である瞳よりも、あの猫はここに詳しいのだろう。誰にも気付かれないうちに、秘密の場所へと隠れこむ。
羨ましいなと少し思いながら、俺はリビングから続くロフトへの梯子を上った。誰も知らないそんな場所を自分も欲しいと、そう思う。しかし、あの猫が素直に隠れ場所を教えてくれる訳はないだろう。密かに追跡をしても、気付かれ振り回されるのが落ちだ。
そんな己の馬鹿な考えに小さな笑いを溢し、俺はそこで妄想を止めた。ジャケットを脱ぎネクタイを緩めながら、窓際に置かれたソファに腰を下ろす。狭いスペースだが奥まで行けばもう立ち上がってもリビングは見えず、ロフトと言えども閉ざされた空間に変わる。横の壁に本棚とローテーブル、そして大人一人くらいなら寝転がる事が出来る大きさのソファが置かれただけの殺風景な空間は、けれども俺にとっては肩の力が抜ける場所だ。
消える猫の秘密の場所ほど便利ではなく、俺が好んでこの場所を利用しているのは側近である堂本に知られているが、ここに居る限りはそう無闇に踏み込んでは来ない。何故、自分がここを好むのか、堂元には充分すぎる位に心当たりがあるからだろう。何も知らない部下達にも、必要以上の関心はしないよう徹底している。だが、それが余計に彼らの関心を引いていたりもするのだから、間抜けな話だ。
一度消えかけていた噂がここにきて真実味を帯び飛び交っている事を、あの男はどう考えているのだろうか。俺はソファに寝転がりながら、堂本の事を考え長い溜息を吐く。
勝手に言わせておけば良い、馬鹿げた噂でも役に立つのならそれに越した事はない。そう考え利用してきた瞳との関係は、今も何も変わってはいない。そして、それはこれからも変わる事はないだろう。噂はあくまでも噂であり、俺や瞳自身には関係のないものだ。面白おかしく話す者達ならばいざ知らず、俺達自身はそれに振りまわされる程子供ではなく、また互いに飛び交うそれを納得している。だが、色恋に関しては青臭い子供かと思ってしまうほど真面目な堂本には、受け入れがたいものなのだろう。
愛人と噂される女の所にこうも頻繁に出入をしていては、流石に体分が悪いと引っ張り出しに来るかもしれない。そうなれば、俺は新しい隠れ家を探さねばならなくなるのだろうか。
堂本の限界が近い事を感じ思ったそれに、再び息を吐く。
「それは、面倒だな…」
瞼を閉じながら呟いた言葉は、けれども次の瞬間には興味が削がれ、俺は頭を使う事を放棄し闇に落ちる事を選んだ。
悲しいのか、辛いのか、それとも幸せなのか。
どちらなのかもわからない夢を見ていた気がする。
ゆっくりと覚醒した頭は、必要のないものだと判断するのか、今まで見続けていたはずの夢を記憶から追い出す。もう、何度も繰り返すそれに、心も身体も疲れ果ててしまい、叫ぶ事も泣く事もしない。ただ、またかと虚無感が襲うのみで、俺はそれさえも慣れきってしまっている。
夢はもう見たくはないのだと、何度神に祈っただろうか。だが所詮、信仰心など持ち合わせていない者の望みを都合良く叶えてくれる神様など何処にもおらず、俺は未だ見たくはない夢を見る。どんなに楽しいものでも、どんなに嬉しいものでも、それは夢の中だけでしかなく、目覚めた瞬間悪夢へと変わる。いっそそのまま夢の中で居られるのならば、問題など何処にもないのだろう。だが、そうなってしまう程も、俺は壊れはしていないし、それを望んでもいない。
苦しい、辛い。何もかもが嫌になる。何も考えたくはない。けれど、死を望んでいるわけでは決してない。逆に、生きたいと願っている。だからこそ、もがいているのだ。忘れたい訳ではないが、早く思い出になる事を願う、そんな自分の弱さが許せない。けれど、過去にして受け入れる以外、方法はない。
実際、彼がこの世から消えたのは、もう随分と前の事なのだ。理解出来ないと拒否した瞬間は既に自分の中でも過ぎ去り、俺はもうそれを認めている。過去になっていくのを、納得出来ずとも理解している。だが、それ故に、何も感じたくはないと全てを遮断していた時以上に苦しいのだ。
部屋に篭り、思いついたように嘆き、時たま人に中り、脆い殻で都合の良い空間を作る。そんな日々から抜け出し、以前と変わらず動き出した俺は、けれども復活したわけでも元に戻った訳でもない。戻りたいと、そう思わない訳ではない。ただ、戻れない事を知っている。部屋に篭っていてもどうにもならない事に気付いたからこそ、以前と同じように仕事に戻った。だが、だからと言って過去が消える訳ではない。痛みがなくなるわけではなく、時間と共に苦しみは増す。
どうすればいいのか、本当にわからないのだ。楽になるその方法が、何処にもないのだ。忘れる事が出来るのなら、そうしたいと思う程にこの焦燥感は俺を蝕んでいる。それこそ、狂ってしまう程に自分を叱責した。彼に対する恨み言も、腐るほど言った。しかし、何ひとつ応える事が出来ないのだ、俺の心は。どんな事をしても、もとに戻りなどしない。
いつの間にか過ぎていた夏に続き、秋さえも通り過ぎようとしているこの季節になっても、俺は囚われ続けている。それを、既にもう自分の一部だと納得している部分もあるのだが、それでもやはりこの苦しみを耐え続けられるだけの精神は持ち合わせておらず、自分が日に日に堕ちていっている感じがする。
堕ちたその先に安らぎがあるのならば、どこまでも落ちよう。だが、そんなものはないのだと、救いなどがその辺りに転がっている程この世の中は親切ではないのだと、俺は知っている。このままこの力に身を任せても、何も変わりはしないだろう。
ここから抜け出すのか、それとも、居続けるのか。どちらを選びたいのかさえ、自分の事なのに良くわからない。苦しいだけで、そう日常に支障があるわけではなく、このままでも良いのかも知れないとさえ思うが、それもあやふやなもので確固たるものではない。ただひとつ言えるのは、都合よく誰かが救いの手を差し伸べてくれる事など有り得はしないと言う事だ。自分で決めるしか、この状況を変える事は出来ない。ならばそれを決められない俺は、この先まだこの苦しみを抱えていく事が決まっているのだろう。
しかし。
目覚めた時、彼が居ない事実に打ちのめされる時期は、もうとっくに終わってしまった。夢も、苦しみも、現実も、悲しみも。全て、慣れてしまっている。思い出したように暴れ狂う心も、次の瞬間には虚無に飲み込まれ静まり返るのだ。一体、この状態で何が出来るというのだろうか。空回りし息を切らせるくらいの能力しか、今の俺にはなさそうだ。
溜息を吐きながら立ち上がり、脱いでいた上着に袖を通し、俺はネクタイを首に引っ掛け梯子を降りた。勝手知ったるキッチンで水を飲み、煙草を一本吹かし部屋を後にする。ゆっくりと廊下を歩き階段を降りながら、きっちりとネクタイを締めた。
ふと、僅かな話し声が聞こえ、階段の途中で俺は足を止め耳を済ませる。瞳の声に応えるのが知った男のものだと気付き、このまま降りる事に決め俺は動きを再開した。下に居るのは、間違いなく田端だろう。ならば、自分を迎えにここまで来たのであるだろうから、気を使う必要などない。
階段を軋ませながら一歩進むごとに、気力を奪う夢を切り離そうと努力する。そんな俺の耳の中を、静かに会話を交わす二人の声が流れていく。
「――そんな事言っていないわよ、私。全然答えになっていない」
「今の自分は、これ以上の答えは返せません」
「以上も以下もないわよ。私は、私の問いに対する言葉が欲しいの。ただそれだけでいいのよ」
「…済みません」
話に集中しているからか、降りてきた俺に気付く事はなく、二人は向き合い言葉を交わしていた。壁に凭れその姿を見ながら、小さな溜息をそっと吐く。瞳と田端の関係は、今の俺にはどちらかと言えば邪魔なもので、正直面白くない。
「迎えに来たのか、田端。それとも瞳とお喋りか?」
声をかけると、勢いよく田端が振り向いた。
「社長…」
「どっちなんだ?」
驚きを見せる男に、俺はそう畳み掛ける。
「勿論、お迎えに。私は別に、」
「ならば、行こう。そろそろ堂本が痺れを切らす時間だ」
続けようとした田端の言葉を遮り、俺は本だらけの空間を突っ切った。少し非難めいた瞳の視線を感じたが、気付かない振りをする。
「お邪魔さま、瞳。またな」
「仁ちゃん。あんまり無理しないでね」
溜息交じりの言葉に、けれども確かな思いを感じ取り、努力するよと軽い笑いと共に扉をくぐる。しかし。
俺は、自分を追い越し先を進む田端の背中を見ながら、浮かべた笑みを冷笑に変えた。努力など、腐るほどした。俺がわからないのは、自分の力量でもその限界でもなく、方法そのものなのだ。どうすれば、無理せずにいられるのか。我武者羅に突き進まねば、荒れ狂う心は静められない。馬鹿をせねば、寂寥感は薄まらないのだ。己の愚かさだけが、ほんの少し彼を失った痛みを忘れさせてくれる。
確かに短いながらも睡眠をとったはずなのに、車のシートに凭れた瞬間、疲労感を味わう。だが、時間的に眠れるわけがなく、俺自身それを望んでもいない。夢を見る時も、見ない時も、彼を失った日から眠りが癒しにはならなくなった。
深い溜息を落としながら髪をかきあげ、運転席に座る男の顔を斜め後ろから眺める。
「俺はなぁ、田端」
「はい」
「俺はお前の事を気に入っているんだ」
何を突然言い出すのかと突っ込まないところがこの男らしく、けれども、ありがとうございますと答える声に、小さな緊張が含まれているのを感じた。俺はそれをあえて気付かない振りをし、感情のままに言葉を吐き出す。
「だからな、裏切らないでくれよ。減滅もさせるな」
「わかっています。私は決してそんな事はしません、信じて下さい」
「ああ、楽しみにしているよ」
こんな会話に何の意味があるだろう。そう、何も意味などない。だが、この男は俺のこんな戯言も忘れはしないのだ。短くはない付き合いで、何故堂本が田端を重宝しているのか、俺とてわからないわけではない。この忠実さが、本物だからだ。
言葉とは裏腹に、本心では裏切りなどいくらでもすれば良いのだと俺は思う。それが出来るのも一種の才能だと、例え愚かな行為であったとしてもそれなりの評価をするつもりだ。だが、今は正直、この均衡を崩さないで欲しいと言うのが俺の我が儘な思いなのだ。田端の尻を叩く事は簡単だが、自らそれをする気には到底なれない。
裏切るな。それは何に対しての、何を願っての言葉なのか。誰よりも一番部下を信じず、己の偏った基準で評価を下す最悪な上役の者が言う科白ではないのだと、口にした俺自身が良くわかっている。しかし、それでも我慢できずにそんな言葉を吐き出してしまうのは、醜さ以外の何ものでもないのだろう。
自分が堕ちるところまで堕ちそうな、そんな感覚が不意に体を包み、俺は膝の上で両手を硬く握り締めた。冷や汗が腕を伝い、寒くはないのに体が震える。
本来、田端はここで、俺に見切りをつける選択をせねばならないのだ。自分ならば間違いなく、相手が誰であれそうするだろう。確かにそれが出来ないのも、またひとつの能力でもあるのかもしれない。しかし、与えられる選択肢に気付きはしないのは、致命傷とも言える。
言他に匂っている瞳の事を含めなかったとしても、決して筋の通る言葉を口にした訳でもない俺に、一体この男は何を思うのか。俺は固い表情のまま、ルームミラーに映る田端の顔を眺めた。だが、何かを読み取る事を恐れるかのように気が変わり、直ぐに視線を外す。
代わりに見やったスモークガラスの向こうの街並みは、あの青年がいた頃と何ら変わらない、ごみごみとしたものだった。
例え、彼がこの中に居たとしても。きっと今の俺には見つけられないのだろうと思うくらいに、人がいる。
そう。この世の中には、沢山の人間がいる。
一人減ろうが、二人増えようが、わからないくらいに蠢いている。
ただ、そこにマサキは居ない。
それがこの世の真実であり、全てだ。
2005/02/27