3

 シャワーを浴び部屋に戻ると、気だるげな声が俺を呼んだ。
「仁一郎、電話よ」
 ベッドに寝転がったまま携帯電話を差し出すリコに苦笑しながら、俺は首を横に振る。
「出たくない」
「知らないわよ、そんなの」
「お前が勝手に受けたんだろう」
「だって、着信音ウルサイんだもの。何よあの曲、変えてよね」
 かけられたくなければ電源切っておきなさいよ。子供みたいな事していないで、早く出なさい。
 面倒くさげに小言を口にしながら体を起こし、リコは少し呆れた表情のまま俺を見て肩を竦めた。白く細いその肩には、微かな歯型が刻まれている。何故か電話の事だけではなく、先程のセックス自体を子供のようだと笑われている感じがして、俺は軽い溜息をついた。
 ひとつ年下の彼女は、けれども俺なんかよりも確りとしており、簡単には太刀打ち出来ない。本気になれば負かす事も従わせる事も出来はするだろうが、そんな意味のない馬鹿げた事をする気にはならず、俺はいつも少し振りまわされている。
「シャワー、浴びて来いよ」
 仕方なく携帯を受け取りながら俺がそう言うと、裸の体をバスローブに包みリコはベッドを抜け出した。大人しく浴室に向かうその後ろ姿を眺め、携帯電話を耳にあてる。どんなに体をあわせようが裸で部屋を歩く事はない、彼女のそんな所が気に入っているのだが、本人は全く気付いてもいないのだろう。長く続くリコとの関係を今更ながらに思い返しながら、俺はそこで漸く通話相手に声をかけた。
「はい、荻原」
『はい荻原、じゃないですよ』
「それは俺に嘘をつけと、偽名を騙れという意味か。誰かの真似でもして欲しいのか、お前は」
 予想通り、電話の向こうにいたのは堂本だった。そんな事を言っているわけではないのだと、わかっていて馬鹿げた話をするなよというような、ただただ呆れの色しかない溜息が通話口に吹き込まれてくる。耳の中から掻き出したくなる様なその重い息を我慢し、俺は「それで?」と用件を促した。
『それで、でもないでしょう』
 非難の色がはっきりとこめられた声だった。当然だろう、仕事をボイコットしてホテルに女としけ込んでいるのだから、良く思っているはずがない。まさか仕事を放り出されるだろうとは思ってもみなかったに違いない堂本ならば、戸惑いの後に怒りを膨らませ温存している可能性も充分にあるなと、俺は相手の次の言葉を待った。
 今日の仕事は、俺のこんな行動が許されるものでも、相手でもなかった。そんな事は百も承知で、俺とてその一瞬前まではきちんと顔を出すつもりであった。だが、ふとした拍子にどうでも良くなり、気付けば拘束させられる前に抜け出してしまっていた。この事で今回の仕事がどうなろうがどうでもいい事のように思えたし、相手との関係が悪化すると考えてみても関心は湧かなかった。だが、それと同時に、俺が抜けたところで堂本が上手く処置するのだろう事が予測できた。
 そう、実際にも上手くいったのだろう。だからこそ、こんな電話をかけてこられるのだ。しくじったのならば、開口一番に状況を伝えるはずであり、何より使えない俺をまともに相手になどするはずがない。
 そう確信した途端、何故か胸につかえていた何かが落ちた気がした。そして、自分が気付かずに緊張していた事を知る。俺は、大事になるかもしれないからこそ、わざとこの仕事を蹴ったのかもしれないと気付く。どうでも良い事ならこんな事はしなかっただろう。まずい事態になる事をわかっていたからこそ、その間に女を抱いていた。まるで虚勢を張るかのように。いや、事態の悪化を望むかのように。そんな馬鹿げたスリルを俺は少しでも味わおうとしたのかもしれない。
 刺激的だったのかどうかはわからないが、固くなっていたらしい自分に俺は笑いを落とした。本当に馬鹿だとしか言えない。そんな自分が滑稽であるとともに、哀れに思えた。リコの言葉ではないが、子供のような行動だ。
『笑っている場合じゃないですよ』
「別に、問題なく済んだんだろう。なら怒るなよ」
『あなたの態度が問題なのです』
「話は大方決まっていたんだ、いいじゃないか。実際、俺が居なくとも上手くいった」
 例え口を開かなくとも、目を合さなくとも、そこに居なければならない時がある。ただの人形のように指一本動かさなくとも、その存在が必要な時がある。今回の仕事は正にそれで、自分の不在をカバーする為に、堂本をはじめ幾人もの者が対応に追われた事だろう。俺をあっさりと外へ放した若い奴らは、その無能ぶりに制裁を加えられていても可笑しくはない。だが、それでも堂本がこうして電話で小言を口に乗せるということは、トータル的にみて問題などなかったと言う事だ。
 自分が居なくとも、簡単に何かが壊れる訳ではない。俺一人の存在など、高が知れている。
 だが。自ら仕掛けておきながら、その事実に俺の胸は痛みを訴える。なんとも勝手なものだ。
『今直ぐお戻りいただけますか』
「嫌だ」
『社長』
「迎えに来てくれたなら、考えよう」
『どこに居るんですか』
 俺の言葉を子供の甘えに取ったのだろうか、軽い溜息交じりの堂本のその言葉にははっきりと苦笑の色が滲んでいた。一瞬、ただ軽口を叩きふざけ合っているかのような錯角に襲われる。しかし。
 今の俺達は、以前のように何のわだかまりもなく笑い合う事など到底出来はしない。少なくとも、そんな形で堂本を安心させてやる事は俺には出来なし、堂本も俺を癒してはくれない。
 心を伴わない言葉だけの軽口には、互いの戸惑いが色濃く映し出されていた。
「勘違いするなよ、堂本。俺は戻りたくないと言っているんだ、教えるわけがないだろう。たとえ今の居場所を告白したとしても、お前が来るまで俺が大人しく待っていると、本気で思っているのか?」
『候補の一つは消えます』
「ああそうかよ、勝手にしろ」
『戻って来て下さいよ、仁さん』
「……」
『仁さん』
 堂本が俺の事を名前で呼ぶのは、多くの場合、俺の態度が良くはない時と彼自身が参っている時だ。戻って来いと言うその言葉は、決して今の状況だけを指しての事ではないのだと気付かされる。だが、俺はもうどんなに頑張ろうと、青年を失う前の自分に戻る事など出来はしない。
「…帰らないよ、俺は。帰らない」
『では、あなたはどうするつもりですか。ここへは戻らず、何処へ行くというのです?』
 何処へ行けるのですか。
 堂本は、静かに低い声でそう言った。キツイ言葉だ。けれど、既に何度も自分自身で詰ってきた俺には、今更痛みなど感じはしないというもの。己のそれとは違い、堂本の言葉の方には救いさえある。しかし、今の俺にはそこに縋る事も出来ない。
「さあ、何処へ行くんだろうな俺は」
 俺の方こそ、知りたいさ。俺は、何処かへ行けるのか?
 小さな笑いと共にそう言い、俺は通話を切った。こんな事自体が、既にもう甘えている証拠なのだろうが、今はそれを受け入れたくはない。どんな事をしようと、どんなになろうと、自分の周りには結局誰かが居るのだと俺は知っているのだ。馬鹿みたいなほどに自惚れているのだ。全てがなくなればいいと思うのは、実際にはそんな事は起こりはしないとわかっているからだ。絶対に一人になる事などないのだろう、俺は。
 贅沢だと思う。自分自身がそうなる為に努力をした分を差し引いても、俺は恵まれているのだと思う。だが、だからこそ、余計に嫌気がさすのだ。周りが疎ましく、全てが消える事を願っている。それが不可能ならば、自分が消えればいいとさえ思ってしまう。
 心は矛盾ばかりを生み出し、明確な答えなど見つけてはくれない。ただただ疲れを覚えさせるばかりだ。
「怒られたの? なんだか、捨てられちゃった犬みたいよ」
 可笑しいのと軽く喉を鳴らし笑いながら、部屋に戻ってきたリコが俺の髪をクシャクシャと掻きまわした。前に立った彼女の腰に両腕を回し、胸に顔を埋める。自分と同じ石鹸の匂いを嗅ぐが、俺には彼女の存在がとても遠くのもののように思えた。
 苦労だったわけではないが、俺は子供の頃からずっと努力してきた。納得出来る自分の居場所を手に入れる為に、頑張ってきた。親がヤクザなどというのは、力のない子供にとってみれば何のメリットもなく、除け者にされるのに充分な理由だけのものでしかない。一体どれだけの理不尽さを飲み耐えただろうか。何度も泣き、腐り、己の環境全てを、周りの人々を憎みもした。だが、それでも父親が世間に嫌われるものである事には変わりがなく、それを子供の俺がどうにかするなど出来ない事だった。全てを噛み砕き飲み込み受け入れるしかないのだと気付いた幼い俺は、父親を変えられないのなら周りを変えるしかない事を思いついた。そして、自分自身をも。嫌だと泣いたところで、都合よく変化してくれる訳ではないこの世の流れに身を任せるほどの余裕は、俺にはなかった。やるしかなかったのだ。
 それがどうだろう。
 今はあの頃のように、そんな努力さえ出来ない。全てを出し尽くしてしまったのか、もう自らの力だけでは変化を起こす事は出来ない。
「なあ、リコ。助けてくれないか俺を」
「仁一郎?」
「助けてくれよ」
 薄ら笑いを浮かべて言ったその言葉をどうとったのか、リコは「ふざけないでよ」と軽く笑いながら俺の腕の中から抜け出した。
「本気だぞ」
 そう口にしながらも、実際には言葉ほどの必死さを見せはしない俺の狡さを知っているかのように、振り返った彼女はどこか冷めた目を向けてくる。そして。
「それがあなたの本心だとしても。私が叶えてあげたいと思っても。どんなにお互いが努力しようとも。無理よ、絶対」
「何故、そう思う」
「だって、仁一郎。あなたは私に助けて欲しいなんて望んでいない。助けられたくないと思っている。そんな相手を救い出せる程の力は私にはない。頑張っても、無意味よ。ねえ、違う?」
「……そうかもな」
 酷いなと苦笑しながらも、認めないわけにはいかないストレートな言葉。参ったなと俺はベッドに寝転がり、瞼を閉じた。リコにふられたからでも怒られたからでもなく、理由など何も無い筈なのにそうしなければ泣いてしまいそうだった。彼女が言うように、ただ何となく言ってしまっただけの言葉が、俺自身をも傷つける。
 もう疲れ切ってしまい、望むのはそれを感じない程に堕ちる事か、救われる事。しかし、助けて欲しいと願いはしても、実際に自分を救えるのは一人しかいないと俺は信じ込んでいる。馬鹿な事だと思う。俺自身が少し何かを変えれば道は開けるのだろうに、俺はこの苦しみを抱え込む事にどこか拘っている。この世にはもういないあの青年でなければ己は救われないのだと、本気で思っている。滑稽な事に。
 リコが近付いてくる気配を感じながらも身動きしないでいると、彼女はそっと俺の頭に手を置いてきた。どこか少し躊躇うかのように髪を梳きながら、俺の名を呼ぶ。
「仁一郎」
 普段ははっきりと俺の名を口にするリコには珍しく、それはどこか儚い色を滲ませた声音だった。
「仁一郎」
 もう一度、けれども今度は少し力を含んだ声で、俺の名を呼ぶ。昔、とても照れながら俺を呼んでいた少女の声にそれはどこか似ていた。彼女はどんな顔をしていただろうかと思い出そうとしながら瞼をあけると、どこか不機嫌なリコの顔が目の前にあった。呼んでいるんだから早く反応しろよと言うように見下ろしてくるそれは、今聞いた声とはギャップがあり過ぎてつい笑ってしまう。
 記憶の中にいるはずの少女の顔を思い出せなかった事を誤魔化すように、俺はリコの頭に手を伸ばし長い髪を梳いてやった。多分、きっと俺は不安を与えているのだろう。それが少しでも取れれば良いと、そのままの状態で数度髪を撫でる。呼びはしても特に用はなかったのだろう、機嫌を直したリコは俺の胸に頭を預ける形で寝転がった。そんな彼女を腕に抱き、俺は眠るつもりはないが再び目を閉じる。
 不意に思い出した少女のその姿を記憶の中に探るが、やはり見付からない。

 初めて恋人が出来たのは、高校生の時だった。今考えれば、それは青臭い恋愛だったのだろうが、それでも当時の俺は本気でひとりの少女に恋をしていた。相手から想いを告白されて始めた付き合いだというのに、いつの間にか自分ばかりが夢中になっていた。
 彼女は学年の中でも飛びぬけて美人で頭も良く、性格は少し大人し過ぎる感もありはしたが、惚れるには充分な人物であった。可愛いと思った。自分が守ってやりたいと、そう思った。だが、その思いが膨らむにつれ、俺と彼女の関係は変わっていった。
『どうすれば良いのかわからない。時々、貴方がとても怖くなる』
 涙を流しながらそう彼女が言った時、俺が感じたのは馬鹿みたいにも怒りだった。そしてその後味わったのは、彼女を失う絶望ではなく、純粋に自分自身に対する恐怖であった。
『私には何も出来ないの』
 心を痛めて泣く恋人に別れを告げたのは、彼女を思ってではなく、自分自身の為にだった。決して、彼女を所有物だと思っていた訳ではない。間違っても、ないがしろに扱っていた訳でもない。だが、言われて初めて、自分の想いが異常な独占欲の塊である事に気付く。その時の恐怖は、若いばかりの俺のプライドを砕くには充分であった。
『付き合い始めた頃は、私も舞い上がっていたわ。他の男の子と話してされる小さな嫉妬も、正直嬉しかった。気持ち良かった。ちょっとした事で喧嘩しても、私が間違っていた時は納得出来る理由を言ってくれるし、逆の時はきちんと謝ってくれる。同年代の子よりも大人な貴方を尊敬しているわ。
 でも、私には、私の限度があるの。私は私以上の事は何も出来ないの。どんなに求められても、これ以上のものを返せはしないのよ。貴方の言う事は判るけど、理解できても実行は無理なの。ねぇ、仁一郎。私はそれを貴方に判って欲しい』
 上手く言えないけれど。そう前置きをして彼女が言った科白は、恋人に対するものとしては痛すぎるものだった。頭を殴られたような衝撃が襲ってきたのを、俺は今でも覚えている。まだ十代の少女が同じ歳の男に言う言葉ではなく、彼女にそれを言わせた俺は間違いなく最低な恋人であっただろう。だがそれでも、自分の事ばかりを考え怯える俺の腕に細い指先で触れながら、大きな瞳を潤ませる彼女は笑顔を見せた。
『別れたい訳じゃない、今でも大好きよ。けれど、それと同じくらいに苦しいの。何も出来ない自分が辛いの。仁一郎だって、こんな私に満足していないんでしょう。だからこそ、もっともっとと求めてくるんでしょう。私は、それに応えるだけの力も何もない。それが悔しくて堪らなくて、馬鹿みたいに泣いちゃうの。このままだと、貴方に応えられないわたしは、いつか捨てられちゃう。そう考えてしまうの。
 もしかすれば、明日になったら何を悩んでいたんだろうって笑ってしまうような事なのかもしれない。でも、今の私はそれで一杯で、頭の中がグルグルなの。だから、ね、仁一郎。少し、時間が欲しいの。本当に少しの間だけでいいから、距離を置いて欲しいの』
 我が儘を言ってゴメンナサイ。そう言う彼女に、その必要はないと、今ここで別れようと即答した事を、あの時も今も後悔はしていない。そして、これからもしないだろう。だが、もっと彼女を思い遣る事でかけられた言葉もあるはずだった。そう最後まで、俺は彼女を傷つけたのだ。目の前に居る少女の姿は自分の罪に他ならず、あの時の俺はただただそれから逃れたかったのだ。
 彼女と別れて以後、事業に力を入れはじめ、暫くは恋愛からは遠ざかっていた。短い大学生活で多少遊びはしたが、本気になる様なものは一切なかった。それからも、大切にしたいと思う恋人や、単純に一緒に居て楽しいと感じる女性はいたが、やはり俺の何処かで常にブレーキがかかっていた。相手にのめり込んではならないと。己の執着心を押し付けてはならないと。俺は常に、想いが暴走するのではないかと、それに怯えていた。昔のように、相手を泣かせるのではないかと。
 毎回毎回、馬鹿みたいに、関係を深くする前に恋人達とは別れた。本気で好きになるのかもしれない。そう感じた途端に、俺の中では条件反射のようにその熱が下がるようになっていた。友人関係ならば問題はないというのに、恋人と言う場所に立つ相手には、本当に情けなくも何処かで警戒心を常に抱いていた。
 そう、だからだろうか。
 あの青年に惹かれている自分に気付くのが、いつもより少し遅かったのは。
 出会った瞬間から気に掛けずにはいられなかったので、己の関心の強さは理解しているつもりだった。だが、まさかその青年を恋愛対象にするなど、自分の心に気付くその一瞬前まで思いもしなかったのだ。彼が女性であったのなら、俺はあんなにも構いにはいかなかっただろう。
 間違いなく恋だと気付いた時には、もう引き返せない所まできていた。その想いを抑え消し去る事など不可能であった。だから、俺は。俺は、自分を押さえつける事に全力を尽くした。彼を求めすぎないように。縛らないように。膨らむ想いが無理でも、欲望は何が何でも押し止める。そうしなければ、俺は彼を失うだろう。
 そんな思いを楯にして己を偽り、俺は彼の傍にいる事を自分に許した。しかし、それでも自分は求めすぎていたのかもしれないと、今になってそう思う。彼がいた頃はそんなつもりなどなく、逆にそうならないよう必要以上の努力をしていた。だが、実際には頭や行動で抑制していた所で、心は多くの事を望み彼に求めていたのだろう。
 だからこそ、こんな風に苦しいのだろう。

 俺は昔と変わらず、マサキに自分を押し付けていたのかもしれない。

2005/03/15