6

 偶然なのか、必然なのか。
 突然出先に現れた男にまるで拉致されるかのように、「一杯付き合え」という面白味のない言葉で、俺は馴染みのない店へと連れて行かれた。
「お前、程々にしろよ」
「何の事だよ」
 広くもない個室に男二人というのもそうだが、相手がこの男では面白味など全くない。
 そう辟易しながらグラスを傾けていた俺は、漸く開かれた口に内心では眉を寄せながらも、笑いで応じた。このくらいの軽口を挟んでいなければ、とてもではないがやっていられない。
「惚けるな。何をやったのかわかっているんだろう」
 珍しい小沢の苛立った態度に、俺は軽く喉を鳴らした。すかさず男の舌打ちが響き、俺は続けて笑いを落とす。
 小沢が怒る理由は、わかっている。俺が彼の上司をコケにしたからだ。鼻をあかされる形となったあの男が、恥じもなく下の者に当り散らす事は目に見えている。下手をすればあの歳で父親に泣き付くのかも知れず、部下としては黙っていられるものではないのだろう。しかも、この俺にとばっちりを食わされるのだから、小沢としては面白くない事この上無しの状況だ。
 だが、それでも口にしないのが、小沢と言う男だ。こうもストレートに言いにくるとは、本当に珍しい。親友と呼べる間柄ではあるが、悩み事やグチなどを言い合う事は全くせず、互いの仕事に関する事もそう喋る事はない。お互い悪態を付き合いはするが、喋るのを面倒がる小沢とではそう会話が盛り上がる事もなく、いつもどこか淡々としている。それなのに。
 それ程腹に立ったのかと考え、俺は直ぐに自身で違うと否定する。口にしたという事は、さほど重要な話題だというわけでもないのだろう。そもそも、この男が無能な上司とはいえ、その救いを俺に求めるわけがない。小沢が気にするのはまた別の事なのだと俺は気付き、同時にそれが何であるのかもわかり嫌になる。
「何だ、虫の居所が悪いな。早速勝彦に八つ当たりでもされたか?」
「そんな事は、どうでもいい」
 上司の怒りなどどこ吹く風と言うように、常日頃から疎んじられている身には今更そんな事に関心など持てないとでも言うのか、小沢はあっさりと感情の薄い声で切り捨てた。取るに足らない、そんな事。小沢にそう表現されたと知れば、当人は顔の色を変えて怒りまくる事だろう。それを想像した俺もまた、「冷たい部下だなぁ」と実際は思ってなどいない言葉を、態々取り繕う事もせずに平坦な声で落とす。小沢がどんな部下であろうと、俺には全く関係ないのだから当然だろう。
 そんな俺に、小沢は顔を顰めるように目を細め溜息を落とした。
「確かに、今回の事は俺としても面白くはない。だが、お前の事だ。勝彦さんとは上手くやるんだろう。あの人もお前には甘い」
 機嫌はそのうち直る。だから気にする事ではない、と小沢は言う。そう言うところが愛想がないと言うか、上司に嫌われる原因でもあるというのにやはりきっぱりと言いきり切り捨てる。あの男、勝彦が怒っているのは今だと言うのに、数日も経てば機嫌は直るのだから問題はないと、この男は未来を予測して対処する。それは悪い事ではないのだろうが、単純な人間を相手にするには上手い手ではないのも事実。
 何故こいつはこうなのかと、不味そうに酒を飲む小沢を見ながら俺もグラスを傾け空にした。鈍感だというわけでも、馬鹿だというわけでもなく、決して不器用でもないくせに、時と場合と相手によって間抜け振りを披露する。小沢のその一面を、だからこそ面白いのだと霧島は言うが、俺にすればこの融通のきかない頭の固さは思わず心配してしまうものだ。これでは勝彦の守りなど上手く出来るはずもなく、それを知りつつ小沢にその役目を与えようとする彼の上役の男の意図を訝ってしまう。
 平良のオヤジはこいつをどう使うつもりなのか。
「甘いんじゃない、あいつは単純なんだよ、小沢。俺がご機嫌を取るのが上手いのもあるだろうが、あの程度のものは誰だって出来る。頭の固いお前は、下手だろうがな」
 いや、下手というよりも、お前はやってみようともしていない。そう呆れ混じりに言う俺の言葉を無視し、小沢は前半部分だけを都合よく取り込んだ。
「ならば。やろうと思えば、もっと簡単にあしらう事が出来るんだろう、お前ならば。だが、そうはしない」
「オヤジさんの手前もあるんでね。それに、俺は別に勝彦が嫌いなわけじゃない」
 むしろ、好きだといえるだろう。
 その発言に、小沢は一瞬苦虫でも噛み潰したように顔を顰め、心底呆れるような息を吐いた。確かに、自身でもなんと嘘臭い言葉だと感じつつも、俺は嘘ではないぞと軽い笑いを落とす。平良勝彦と言う男は、決して人の上に立つような人物ではない。だが、無能もいいところで人格自体問題のある男でもあるが、俺にとっては悪い人間ではないのだ。少々頭の足りない知り合いというだけであり、向こうは弟のように可愛がってもくれるのだから、問題などあるはずもない。もしも俺が小沢のような立場であれば、目障りだと蹴落とす事を考えたかもしれないが、幸いな事に俺にはその必要はない。
 だが。
「打てば響く単純な相手に、態々手を焼かす馬鹿などいない」
 それをする奇特な男はお前くらいだと、そう言いたいんだろう?
 小沢は俺の言葉など表面的なものでしかないように興味なさげに捲り剥がし、その中にある本心をストレートにそう口にした。遠慮など何もない。だが、彼とて、簡単に見せる本心など大したものでもないのだと知っているのだろう。
 隠す必要などないからこそ見せつけた言葉を、親切にも態々口に出した友人を俺は小さく笑った。本当に、今日の小沢は可笑しい。
「間違ってはいないが、口が悪いなお前は」
「笑っている場合じゃない。簡単だというのなら、それに徹しろ。気紛れで掻き回すな。平良を敵に廻す気がないのならな」
「大袈裟でもあるな、お前」
「今回の事だけならば、な。ここは狭い世界だと言ったのは、お前だぞ。手当たり次第に好き勝手をしていれば、どうなるのかはわかっているだろう。いい加減、ふざけた事は止めろ」
「お前に注意されるとは。俺もまだまだだな」
「注意じゃない。忠告だ」
 きっぱりと言い切った小沢の目は、勝彦よりも余程貫禄のあるヤクザのものだった。平良のトップが目をかけているのもわかるというもの。だが、それに怯むほど、俺は何も知らない餓鬼ではない。逆に、他人の心配よりも自分の心配をしろと笑ってやりたい程だった。
 小沢がこんな事を口にするのは、俺に関する噂が広まっている証拠だろう。まるで、目障りだと判断した場合は自分が潰すとでもいうように、友人は俺を見る。その目は、一体これから先何を映すのだろうかと考えると、笑えてきた。小沢なりの心配を感じるよりも、どんどんヤクザの世界に喰われていっている一人の男が滑稽に思え、嘲笑を抑えられない。
 プライドばかりが高く、自分で自分の首を絞める形でこの世界へ自ら飛び込んだ男が、何を心配しているのか。今更、この世界にいることに後悔しているというのか。それとも純粋に、友人として俺に忠告しているのか。ならば、それこそ、今更だ。
「年をとって丸くなるには、まだ早すぎるぞ小沢」
「勝手に言っていろ」
 そう答えた男は、煙草を取り出し火をつけた。どこか気だるそうな仕草で、紫煙を吐き出す。
 小沢は決して、俺の身を案じている訳では無い。確かに、気にはしているのだろうが、堂本や霧島がする心配とはまた別のものだ。広まっている噂など当てにはならないだろうが、霧島からそれなりに俺の状態は聞いているのだろう。けれど、その事に直接触れるわけでも、それらしい言葉をかけるわけでもなく、こうして顔色を窺ってはいるのだろうが、その顔がどんな色だとしても対処をする気は初めからない。ただ、自分に関する事のみを口にする。
 小沢と言うのはそういう男なのだと、俺は知っている。たとえ何らかの理由で俺を救いたいと思ったとしても、どうすれば良いのかわからない男だ。わかったとしても、実行出来ない男だ。だからこそ、その思いを抱く前に自ら線を引く。もしも、俺が泣きついたとしても。助けてくれと縋ったとしても、この友人は何も出来ないと言うだろう。出来るかもしれない可能性を自ら潰す、そういうところは不器用でずるい男だ。
 冷たいというわけではないそれは、けれども常に周りに理解し受け入れられるものでもない。だが、俺や霧島はそれを知っているからこそ、引かれた線を土足で踏み越える図々しさがあるからこそ、この男と付き合っている。しかし、それも、俺がそう相手にする気力があればこそのもので。正直、今、小沢の気掛かりを軽減させてやろうという気持ちにはならない。逆に、無様な自分を見せ付けたくなる。
 道を指し示す事も、答えを与える事もする気はないのに、目障りだという理由で忠告を口にする。この男らしくて、らしくもないその態度。
 最悪な奴だ。
「忠告と言うのなら、ついでにどうすればいいのか教えてくれないか」
 馬鹿な上司一人まともに操れない男にわかるわけがないのに。俺は片頬を上げながらわざと問い掛ける。
「馬鹿をするな」
「それは、今更だろう。お前は俺の事を昔からそうとしか思っていないじゃないか」
「なら、今はそれ以上に最低だ」
 琥珀色の酒が残るグラスに煙草を捨てながら、小沢は口に溜まった唾でも捨てるかのようにそう吐き捨てた。
「ヤクザに最低と言われるとはな。俺も落ちたもんだ」
「お前は更に、これ以上落ちるつもりか?」
「さあ、どうだろう」
 俺の言葉に、小沢は席を立ち背中を向けた。俺の態度に呆れてのものだろうが、その背には戸惑いが確かに滲んでいる事に気付く。こんなものは見せずに、何故悪友を貫き通してくれないのか。やはりこの男はズルイと思いながら、俺は自ら席を設けてそこに付いてしまった後悔を背負う姿を眺め、口を開く。
「小沢」
 去ろうとする友人を馬鹿な奴だと思いながら、俺は言うつもりはなかった言葉をかける。
「俺に大人しくして欲しいのならば、そうさせればいいだけの事だ。必要なのは会話じゃなく、行動だ」
「……」
「殺してみないか、俺を」
「断る。お前を殺れば、俺はオヤジさんに叱られる」
 振り返り真っ直ぐと俺を見ながら面白くない事を言った小沢は、体を戻すとそのまま部屋を出て行った。
 平良のオヤジが叱らなければ、殺ってくれるのか?
 そんな女々しい言葉を喉元まで上げ、俺はそれを別の言葉に変えて口から吐き捨てた。
「つまらないな…」
 面白くないと椅子に背中を預け天井を眺める。センスのない事を言う俺も、代わり映えしない小沢らしい返答も、全てがどうでも良いものでしかなかった。そう、本当は、小沢も上に嗾けられこの席につかされた被害者なのだと俺は気付いていた。だが、そこまで考慮して相手をする程の気遣いは、更々持てなかった。
 ならば。今交わされた言葉全てに、意味はない。嘘ではないが真実でもないそれは、互いをほんの少し疲れさせたくらいだ。
 俺は本気で死にたいと、そう思っている訳ではない。それは小沢とて判っているのだろう。死を望んでいる者を相手にする程、あの友人は器用な人間ではない。だが、望んではいないがそうなっても仕方がないと言う思いは、俺の中には昔から常に存在はしている。綺麗な仕事をしているわけではないのだから、多分小沢も多少は同じようなものを抱いているのだろう。それさえも判っていながら、あの男は自分の意思は全く含ませずにあんな言葉を吐くのだ。叱られるからやらないなど、今時、小学生でも言わない。
「こんな風に使われていたら、いずれ、いいように利用されて捨てられるぞ」
 今度は逆に、聞こえないのを承知で消えた男にそう忠告しながら、俺も席を立ち部屋を出た。通路には、嫌になるほどの緊張を滲ませた若い男が直立不動の姿勢を保って立っている。先に出た小沢に何か言われでもしたのか、されたのか。固まったその男に声を掛けると、面白い程に飛び上がり驚いた。
「行くぞ」
「あ、は、はいっ!」
 勢いよく歩き出した青年の背中を見ながら、俺は喉で笑う。それが聞こえたのか、前を行く男の耳が赤く染まった。若いなと、ただそう思う。確かまだ二十歳になったぐらいの者だったので、実際に俺よりも幾つも若いのだが、年齢差以上に自分と彼では経験値が違い、それはとても大きな隔たりを作る。
 俺が二十歳の時といえば、もう既に大学も辞めており、事業を大きくする事に夢中になり飛び回っていた頃だ。反発する自分よりも年嵩の男達を宥めすかし対応し、ライバル達の出鼻を砕くことに快感を覚え、恨みを買いつつもそれを楽しんでいた時期だ。人に使われるのではなく、人を使っていた。
 そうして開いていった、平穏な生活をする同年代の一般人との差が、俺に何を与え、俺から何を奪ったのか。今となっては、手に入らなかったものは形にすらならない。
 そんな俺が、マサキと一緒に居た時、自分が学生時代に戻れたような気分を味わった事があった。多少年齢は離れてはいたが、彼と友人になれそうな気がしていた。そう。小沢や霧島達と同じような、親友と呼べるようなそんな関係を、俺は彼に望んでいたのだろう。その想いはいつの間にか大きくなり形を変えたけれど、それでも俺が望んだのは、穏やかに彼と同じ時を共有したいという、ただ単純なそんなものだった。それなのに。
 簡単に、望みは打ち砕かれた。
 あの、夏の朝に。


 眠ってばかりいるのだと思っていたが、実はそうではないのだと彼の異変に気付いたその時、俺は驚愕と共に何かを飲み込んでいたのかもしれない。それは、絶望と言うには曖昧で、けれども裏切りと言うには優しすぎる、言葉には出来ない苦しみの毒が体を満たした。
 呼びかけに応えない彼に暫し呆然としている間に、俺は無意識に電話をかけたらしい。いつから起きているのか、慌てながらもきちんとスーツを着ている堂本が部屋にやってきたその時、自分が携帯電話を握り締めている事に気付いた。
 馬鹿な俺は、意識のないマサキの為の救急車ではなく、動揺する自分の為に電話をかけ堂本を呼んだのだ。それに気付いた時、あぁそうか、と何かを納得した。それがなんだったのか、今はもうはっきりとは覚えていないが、この歳になった今なお自分は堂本に頼っているのだとか、普段は偉そうな事を言っているが所詮俺はこの程度の小さな人間なのだとか、そんな風に情けない自分を今更ながらに再確認したのだと思う。そう、どこかでもう、マサキは助からないのだと、彼の死を受け入れたが為の納得だったのだとは絶対に思いたくはない。
 だがあの時。救急車を手配し、部下達に次々と指示を出していく堂本の横で、俺は確かに幼い頃捕まえた蝶を思い出していた。虫篭の中で弱り動かなくなったそれを庭へ捨てる時の感覚を、味わっていた。ならば、俺は。お前も、あの蝶と同じなのか? そう、青白い顔をしたマサキに問い掛けていたのかもしれない。
 変化した周りを認識した時、俺は救急車の中で電子音を聞いていた。サイレンの音や隊員達の声に掻き消されてしまうように上がる、マサキの鼓動を意味する小さな音。その音を追う内、漸く生きているのだと、死んでしまうのかもしれないのだという彼の生死を意識した。
 ふざけるな。そう怒鳴ったのは、救急車の中でだったか、病院についてからかだったか。彼の名前を呼びその頬に伸ばしかけた手を払われたのは、いつの時だったのか。嵐のように騒がしい時間は、けれども光りのように一瞬で過ぎ去り、気付けば廊下の長椅子に腰掛け、俺は白い壁と天井を見つめていた。外来の患者か見舞いの者達か。離れた場所から届く賑やかな音が耳を通り過ぎていくのを、じっと身動きせずに受け入れていた。しかし、それらの音を邪魔だと思わない程に、俺自身はその状況を受け入れていなかったのだろう。
 いつの間にか堂本が横に立っており、俺は何の意味もない、どうにもならない言葉を彼相手に呟いていた。それは、幼い時の思い出だったり、今手掛けている事業の事だったり、マサキの事だったり。自分でも、口にしながらもそこに意識はなく、ここで一体何をしているのかと疑問さえ抱き始めた頃、唐突に加えられた力に呟きを中断させられた。
 決して堂本に対抗出来るだけの力などもってはいないだろう男が、どう言うわけか俺の襟首を掴み持ち上げ、もう一方の手で堂本の体を遠ざけようと抑えていた。誰だろうか、この男は。そう思っている間に、堂本が男の手から俺を助け、静かに抗議の声を上げる。堂本に先生と呼ばれた男は、怒りを消す事はなくそれに対抗した。俺達がヤクザ紛いの事業者であると知ったうえでのそれは、純粋に男の興奮から生み出されるものであり、その生々しさにここが何処であるのかを忘れ、俺は軽い笑いを落とした。それが癪に触ったのだろう、男は噛み付かんばかりに俺に暴言を吐く。訳もわからず貶されている、そんな自分が可笑しく再び肩を揺らせていたが、男の口からマサキの名を聞くと同時に一気に現実が襲い掛かってきた。
 黙れと口にした俺は、一体どんな声を出したのか。どんな顔をしていたのか。男は目を丸め言葉を飲み込み、屈辱に顔を顰めた。その顔にではないが、ふと、男が何者かを思い出し、俺は考える事無くマサキの後見人に彼の容態はどうなのかと間抜けにも問い掛けた。後から現れ同じこの場にいる男がそう詳しく知っているわけなどなければ、向けられる態度をみても教えてくれるはずもない事など考えずともわかるものなのに、だ。
 案の定、男は「君には関係ない」と、「関係してもらいたくはない、直ぐに帰ってくれ」と冷たく吐き捨てた。40すぎの弁護士からぬその物言いは、一人の人間として俺に向けたものであったのだろう。確かに、マサキの両親の事を知っていれば、ここに俺がいる事に納得など出来ないだろう。だが、俺もまた、男の言葉を聞き入れられるような状態ではなかった。
 しかし。俺が詰め寄る前に、マサキが運ばれた病室の扉が開いた。
 主治医だという医者は、漫画に出てきそうな、体は丸く頭の薄い男だった。白衣を着ていなければ、医者だとは思わないだろう。後から紹介されたケースワーカーの男の方が、余程それらしい人物だった。そんな二人に促され入った病室には、他にも看護婦が二人居た。
 彼女らが動き回るのを見ながら聞いた説明は、とてもではないが立ち話をするような内容ではなかった。
『そんな事があって堪るかっ!』
 突如そう叫んだ男が、その名を呼びながらマサキの元へと近寄る。戸惑う看護婦を避けさせ、何度も何度も名前を口にしながら、男は横たわるマサキの体を揺さぶる。彼の真っ黒な髪を撫で、肩に滑った男の手が、勢いよくベッドを殴りつける。
 その光景を視界に入れながらも、俺の足は全く動かなかった。
 そんな俺を促そうとしたのか、堂本の手が肩に置かれたのを感じた時。俺は自分の中で何かが崩れ落ちる音を聞いた。それが一体何であったのか、とても気になり、何度も耳の中でその音を蘇らせる。軽いもののようでありながら重く響くその音が、静かにベッドで眠っているマサキの姿を朧にした。
 身体の中で繰り返す音と共に、走馬灯のように走り去る現実を他人事のように眺め、いつの間にか音を思い出せなくなった時には、全てが終わっていた。

 荼毘にふされたマサキの煙が夏の青空に昇りとけるのを、俺はただ見上げる事だけしか出来なかった。

2005/04/08