8

「樋口ですが、来週には退院する事になりました」
「年明けじゃなかったのか?早いな」
「年末までも居たくないそうです。若いですし、病院なんて退屈なだけなんでしょう」
 そうかと気のない返事をしながら、俺は堂本との会話を打ち切った。樋口の事は気になったが、これ以上言葉を交わせばまた言い合いになってしまいそうで、早々に逃げ道を選ぶ。堂本が不機嫌なのは俺の態度のせいなのだが、今ここでやりあいたくはなかった。
 田島弁護士から会いたいと連絡が入ったのは、まだ月が変わる前の事だった。一体何の用だろうかと訝りながらもその誘いを受けたのは、男の思惑が何であるにせよ、飯田真幸という人間の欠片を掴みたかったからだ。その時の俺はすっかり冬へと変わっていく季節に何故か追い立てられており、彼の記憶が、自分の心が、街路樹の葉のように散り去っていく恐怖感に怯えていた。田島氏に接する事で、ひとつでも良いから欠片を拾い自分がなくしそうになっているものを繋ぎ止めておきたかったのだ。
 だが、結局互いの都合がついたのは、あと半月もすればクリスマスを迎えるという頃で、俺の気力はすっかりどん底に這いつくばっていた。ここにきてまたマサキの夢に悩まされている俺にすれば、田島氏との面会など最早どうでもよく、何も欲しくはなかった。
 そんな重い気分で出掛ける俺に田端が声をかけたのは、もう不運と言うしかないだろう。先程の事を思い出しながら、俺は目を伏せる。
 俺の精神状態を読めなかった田端は、瞳と一緒になる事を俺に告げてきた。
『ああ、そう。それで何?』
 それが、どうした。俺に何の関係がある。勝手にしろ。そう辟易しながら零れた言葉は、自分でも冷たいと思ってしまう程の声音をしており、うんざりした。他の部下達が居る前でのその田端の無神経さを呪い、鬱が入った俺の状態を考慮にも入れない鈍感さに苛立ち、聞き耳を立てている周りの奴らが疎ましく、何より僅かにショックを受けている自分が情けなく、全てに嫌気がさした。
『つまらない用で話し掛けてくるな。俺はあいつの事でお前と話をする気はない』
 そう言ったのは、何も考えたくなかったからだ。ただでさえ、これから田島氏と会わなければならないというのに、更に憂鬱さを深めたくはなかった。顔を顰める田端を要領の悪い男だと思いこそすれ、親切な言葉を向けてやろうとは思わなかった。流石に、堂本の非難がましい眼を見た時は罰が悪かったが、何も言わないのを良い事に俺はそれを無視した。
 そして。
 今になって、マズイ事をしたなと落ち込みびくついているのだから、世話がない。淡々と事務的な会話をしたあと、堂本は口を開かず黙々と前だけを見て運転に集中している。俺は気付かれないように嘆息しながら、何故こうなってしまうのだろかと額をガラスに押し付けた。外気の冷たさを伝えるヒンヤリとした窓は、頭だけではなく俺の全身をも凍らせる。
「……悪かったよ」
 沈黙に耐え切れずに溢した呟きに、「それは私にではなく、直接田端に言って下さい」と突き放した声が返ってきた。言えるものならば、言っている。今この瞬間にしか言葉には出来ないのだからそれは無理だよと、俺はそうバックミラーを見やったが、堂本は取り合ってはくれなかった。


 田島氏の事務所は、駅に近い洒落たビルの中にあった。正直、俺に対し良い印象を持っていない彼が、自分の職場にその俺を招くとは驚きだ。俺がどんな商売をしているのか、それを考えれば疚しい事は何ひとつないとはいえ、所詮客商売でしかない弁護士にすれば内に呼びたい相手ではないことだろう。事務所名の通りの共同経営ならば相手の弁護士にも遠慮し外で会うべきところを、こうして招いたと言う事はあくまでも今日の席は、荻原仁一郎と言う一人の男に対してのものでありそれ以上でも以下でもないとそういう事なのだろう。
 日曜日とあってかビルの中は極端に人の気配が少なく、一人きりのエレベーターの中で、もしかすれば自分は担がれているのかもしれないと俺は考えてみたりもする。だが、そうだとしてもどうでも良い事で、たとえ顔をあわせた瞬間に暴言を吐かれようとも痛くもない。
 弁護士事務所の受付には若い男が一人座っており、名前を告げると会議室へと通された。
「只今田島から連絡がありまして、10分ほど待って頂きたいとの事なのですが、よろしいでしょうか?」
 直ぐにコーヒーを手に戻ってきた青年に告げられ、思わず俺は訊き返す。
「外に出ているんですか?」
「済みません。余裕のない予定を立ててしまったのは私ですので、責任は取らせて頂きます」
「いや、問題があるわけではないから結構です。私の方は大丈夫なので、いつまででも待たせて頂きます。ただ、田島先生はとてもお忙しいのだなと驚いただけです」
「そんなにお待たせする事はないと思いますよ」
 嫌味は全く無い笑みを溢しながら、青年は失礼しますと部屋を出て行った。パタリとドアが閉じ、壁の向こうの気配が遠ざかるのを待ち、俺は長い息を吐く。忙しい中態々時間を作って俺なんかに会うのは何故なのか。答えなどわからないが、何故かとても嫌な予感がした。
 待たされたのは、10分にも満たない時間だった。
「お待たせしました」
 二度ドアを打つノックに続き入ってきた田島氏は、まともな状態で会うのは初めてだからだろうか、40過ぎの割にはサッパリとした華やかささえ感じる男だった。きっと昔は美青年だったに違いない面影が色濃く残っており、弁護士バッチがやけに似合っている。
 だがその表情は、俺の印象など微塵も気にしていない、不機嫌極まりないものだった。顔の作りが良いだけに顰め面も絵にはなるのだが、如何せん端からこちらも斜めに構えているので、他の者にならば誤魔化せるのであろうそれもありありと見えてしまう。向けてきた田島氏の眼は、何故お前がここに座っているんだと、俺の存在自体を非難するようなものであった。
「呼び出しておいて、申し訳ない」
 さして悪びれた風もなく、しれっと謝罪を口にするその姿が可笑しい。
「いいえ。お忙しいようですね、日曜日だというのにご苦労様です」
「色々と強引に仕事を進めている君ほどでもない。噂を聞くだけでも、相当なもののようだ。一体いつ眠るのか教えて欲しいくらいだよ」
「実際に俺が動いているのなんて、ごく僅かですよ。ご心配なく」
「心配なんてしていない。嫌味にもならない皮肉だ」
「ええ、わかっていますよ」
 俺は冷めたコーヒーを飲みきり、口元に笑みを乗せる。
「だが、そんなつまらない用で私を呼んだ訳ではないでしょう。ご用件を伺っても良いでしょうか?」
 取り繕う事などなく、田島氏は盛大に顔を顰めた。この歳になっても、相当に気が強い人物なのだろう。いや、俺に対して負けたくないのか、あからさまに侮蔑の視線を投げかける。
「わかっていると思うが、私は君が嫌いだ」
「そのようですね」
 だが、それはこちらも同じ。
 その思いを隠さずに笑った俺に、田島氏は溜息交じりに吐き捨てた。
「真幸くんの頼みでなかったら、一生顔を見たくはない程に、だ。よく覚えておいてくれ」
 私にそういう態度をとるのは、得策ではないな。
 男のそんな言葉は、右耳から左耳へと、俺の中には何も残さずにただ駆け抜けた。
「――マサキの、頼み…?」
 思わぬ事態に、思考が停止する。
 田島氏に呼ばれるのだから、あの青年に関するものだとわかってはいたが、それは予想外の言葉だった。この男はただ俺を非難する為だけに呼んだのではなかったのか。あまりの驚きにまじまじと見やる俺を、田島氏は眉間に皺を寄せ見返してきた。
「そんな顔はしないでくれ」
 俺はどんな顔を知っているのだろうか?
 言葉はぞんざいでも、剥き出していた敵意がほんの少し和らいだ気がした。そうして、田島氏は言葉を失った俺の返答を持ったのだろうか、暫し沈黙を保ち、ゆっくりと長い息を吐く。
「なにも、不快な思いを味わう為に君を呼んだわけじゃない。今日は一人の男としてここに来てもらったんだ。私も、意地を張るのはよそう。こちらも出来る限りの誠意は示すから、どうだろうか、君も一回り年上の相手に接している気持ちを持ってくれないか」
 私は確かに君の事を良くは思っていないが、いがみ合いたいわけではない。
 最大限の譲歩というよりは、泣き言に近いような呟きを落とし、田島氏は視線を落とした。逆立てていた毛をねかせた男が、驚くほどの繊細さを見せる。項垂れるようにテーブルを見つめる田島氏の本当の姿は、これなのだろうか。俺はそう驚くと同時に、そうなのだと確信を持つ。
 誰にだって、弱い部分はあるのだ。それを隠すように守るように、皆殻を被り虚勢を張り生きている。
 ナイーブな一面は、人間誰もが持っているものであるのだろう。だが、それに加え何故か男のその姿は、あの青年を思い出させた。
 この男の中では、マサキはまだ生きているのだ。
 唐突に、漠然と、目の前の人物の姿に、俺はそれを思い知る。俺の中では死にかけている、否、俺が故意に何度も殺そうとしているあの青年が、この男の中ではきちんと生き続けているのだ。それは正に、奇跡であるかのように。
 その突きつけられた事実に、体が震えた。
 人は肉体の死以外に、人の心の中で何度も死を迎えるという。残された者達の記憶が消える度に、ひとつひとつとその命を散らすのだと。ならば、そう。俺は何度もマサキを殺しているのだろう。彼を汚し、自分に都合の良いように、記憶を侵している。
 このままでは、俺はいつか完全に、マサキを殺しきってしまうのかもしれない。
 思いついたそれに、純粋に恐怖心が湧く。
「手紙を預かったんだ」
「え…?」
「夏の初めに、私は真幸くんから手紙を一通預かった」
 いつの間にか机に肘をつき、両手を顔の前で組んでいた俺に、田島氏がゆっくりと言った。まるで助けを請うかのような自分の姿勢を取り繕う事もせず、俺は阿呆のように男に視線を向ける。
「手紙…?」
「そう、手紙だ」
「……」
 田島氏を前にし、誰よりも自分が一番マサキを否定しているのではないかと悟った俺には、彼の言葉は直には頭に入ってこなかった。今まで向き合わずに逃げてきた分の苦しみが、ここに来て一気に襲い掛かり、自分を貪り尽くそうとしている気がした。血管にはミミズが這い、ゴキブリが臓器に集っている、そんな感じがした。力の抜け切った身体が小刻みに揺れるのは、最早恐怖などからではなく、ただ喰い尽くされているからに過ぎないのだ。そう信じてしまいそうになるほど、衝撃は大きく、自分の体をこの場に捨て去り、何処かへ逃げたくなった。
 だが、実際には、俺はただ震えているだけで。
 自分自身に失望しても、認めたくはないと大声ひとつ上げれない、項垂れるしか出来ない人間で。
 知らずうちに組んだ手に顔を埋めている自分に気付き、俺は震える唇で長い長い息を吐く。目の前に座る男の視線など、どうでもよかった。ただ、早く消滅したいと思った。もっと早く、体が朽ちれば良いと。何も考えられないよう、もうこれ以上あの青年を殺してしまわぬよう、全てが終われば良いとただ願う。
「そんな事をしていても、何も変わりはしない」
 トントンとテーブルを打つ音に続き、田島氏のそんな言葉が俺に落ちてきた。
「君が辛くとも、悪いが私には関係ない。こうしている間にも、時間は進んでいくんだ。思いに耽りたいのならば、後にしてくれないか。私は話す事があるからこうして君を呼んだのだし、君もそれを聞く気があるから今ここに座っているのだろう。私と君が向き合える時間は限られているんだ、余裕はない」
「……」
「私は話さねばならない事がある。君が聞きたくはないと言っても、だ。だが、無駄な事はしたくはない。君に私の言葉が届かないのであれば、もう止しておこう」
 難しい事は言っていないから、理解は出来るだろう。さ、どうする?
 視線を向けると、田島氏が真っ直ぐと俺を見ていた。動揺する自分を観察されていた事に気付き、カッ頭に血がのぼる。だが、それも一瞬の事で、直に脱力感のようなものが体を襲った。
 俺は、確かに何度も、あの青年を殺した。眠りの中に現れる彼の姿に、もう夢は見たくはないのだと、神にさえ縋りもした。けれども、それ以上に、求めていたのだ。自分勝手に、都合よく、会いたいと。
 俺が今こうして恐怖を感じるのは、そんな風に彼を利用し続けてきた自分自身に対してだろう。そう俺は、ただ彼を利用していただけに過ぎないのだ。失った痛みに耐えられず嘆いていたわけではなく、ただ、あんな風に扱われた自分が哀れだと苦しみ泣いていたのかもしれない。
 だからこそ、俺はここに来てもなお、逃げ道を探してしまっているのだ。
「…済みません。聞かせて、下さい」
 そう応えたのは、一瞬後にはなくなってしまいそうな、それでも確かにある意地だった。ここまで言われて何も聞かずに帰れる訳がないと言う、田島氏に対するプライドだ。
 だが、真面目な顔で頷く男を見ながら、そう言えば手紙だったなと思い出だし、一気に俺の心が萎える。
 マサキが書いた、手紙。
 漸く頭に入ったそれは、けれどもやはり夢の中のように朧げな存在だ。だが、俺はその不確かな夢が怖くて仕方がない。
「彼から手紙を預かったのは、それが初めてだった。いつかこの手紙の理由を話すから、今は黙って預かっていて欲しいと頼む彼に、私は何も聞かなかった。聞く事は出来たのだろうが、真剣な彼の言葉を私は信じた。滅多に頼み事なんてしない彼のそれを、理解者のように聞き入れたいなんて気障っぽさが私にあったのかもしれない。だが、確かに不安もあった。いや、その方が大きかったのだろう。泣き言なんて吐かないが、彼の心に傷があるのは知っていたし、それによって苦しんでいるのも知っていた。表面上は取り繕っていても、精神的に弱い部分が彼にはあった。手紙を持って来た時は特に、確りとした目をしてはいたが、身体の方は弱っているのが明らかだったからね。痩せ細った手を見た瞬間は、何があったのかと問い詰めたくもなった。けれど、それでも私はしなかった。今になって思えばどこかで何かを感じブレーキがかかったのかもしれないけれど、私はあの時都合の良い事を思っていたんだよ」
 今はただ、鬱状態が酷いだけだとか。彼なら、必ず立ち直ってくれるだとか。色々と言うのは逆効果で、そっとしておく方が良いのだとか。
 そんなところだ、と静かに吐き出す田島氏の言葉は、実際に俺自身感じたものでもあった。俺は誰よりも近くにいながら、傍で彼が痩せていくのを見ながら、同じように考え逃げていた。胃薬だと言って飲んでいる薬を疑う事もなく、風邪が流行るように蔓延している軽い鬱病か何かの類だろうと、軽視していた。他人なんて鬱陶しいと突っぱねている彼だが、実は傷付くのが怖いからと自ら壁を作っているだけに過ぎないのだと気付いていたので、純粋が故にこの世の中は辛いのだろうなと馬鹿みたいな事を思っていた。彼が生きる上で、躁鬱の波は切り剥がせないのだろうと、まるで理解しているかのように思っていた。若さ故なのだ。後数年もしたら落ち着くさ、と。
 馬鹿みたいに、俺は未来を信じていた。本人はもう既に見ていなかった、未来を。何故あんなにも単純に信じられたのか、今はもう自分自身でもわからない。
「私は知らなかったが、ドラマか何かで何年後かへの手紙を書くのが流行ったらしいね。5年後の自分へとか、10年後の友人へとか。それを聞いた時、ありえない事に真幸くんもそうなのかも知れないと私は考えた。実際には、彼がそんな事をするだろうかとか、もしそれならばあんな条件は要らないだろうとか、否定する気持ちはあったんだけれどね」
「条件?」
「もし新しい手紙を書いたらここに送るから、古いのは捨て、保管するのは一通だけにして欲しい。彼がその時私に頼んだのはそれだけだった。漠然とした不安を感じて当然のものだ。だが、忙しさにかまけ、私は出来るだけ受け取った手紙について考えないようにした」
 一息吐くように田島氏はそこで言葉を切り、窓の外へと視線を飛ばした。つられるように見やったそこは、絵の具パレットのひとマスのように灰水色の空間だった。誰かが何色かを加えてくれるのを待っているかのような、味気ない都会の色だ。
「一体彼はあの手紙に何を書いているのだろうか」
 田島氏は、そんな空から視線を外さずに口を開く。
「その我慢が出来なくなる前に、答えは意外な形で知らされた。朝早くに病院から電話がかかってきた時、私は取り返しのつかない事をしたのかもしれないと漸く悟った」
 時間にすれば一分も満たないだろう。
 けれどもとても長く感じる沈黙を挟んだ後、田島氏は視線を戻し隣の椅子に置いていた鞄を机の上に乗せた。さすが弁護士だけあり言葉の空間を作るのが上手いなと、鍵を開け鞄から書類を取り出す男を見ながら俺はどうでも良い事を考える。
 マサキが手紙に何を書いたのか。知りたいようでいて、知りたくはない気もした。田島氏が再び口を開いても、その思いは変わらず、俺はただ決めかねて口を挟まずに言葉を耳に入れる。席を立ち拒否するほどの意思はなく、また先を促すほどの勇気もない。
「真幸くんは、ケースワーカーであった菊地氏にも手紙を渡していた。もし自分の身に何かあったならば、その手紙を開け、中に記した人物に連絡をとって欲しいと。菊地氏はそれを実行し、私に連絡してきたんだが、彼はそこで初めて真幸くんに後見人がいる事を知ったらしい。病院側は天涯孤独の身の上だという真幸くんの言葉を信じていたらしく、だから本人に病名を告げたようだ。21歳の大学生に何をしているのかと知った時には激怒したが、最期まで一人で立ち向かった彼の事を考えると自分には何もいえないのだと思い知らされたよ。情けないがね、それが真実だ」
 苦笑する男に、俺は返せるものはなく視線を下げる。
 詰って欲しいと思った。何故傍にいながら気付かなかったのかと、怒鳴りつけて欲しかった。だが、田島氏にそんな事をする気がないのは明らかだった。そして、今なおそんな逃げ道を欲している自分に嫌気がさす。
「連絡を貰い駆けつけた病院で君を見た時、私の理性も冷静さもどこかに吹き飛んでいた。あの時は君に失礼な事を言ったと反省している。済まなかった。だが、真幸くんの手紙を読んだ後も、私は君に対して冷静な判断はとてもではないが持てなかった。あれから君の様子が噂程度だが聞こえてくるのに対し、憤りさえも感じていた。だが本当は、君が苦しんでいるのだともわかっていた。この歳になれば、唐突に他人を失う経験は何度もしているものだが、慣れる事なんてない。何より君はまだ若いから、真幸くんの事は兎も角、死そのものについて追い詰められる事もあるだろう。聞こえてくる噂は、自棄になっているからなのだと予想出来るものだったよ。だけど、私はそれを聞いたからといって手をさし述べようとは思わなかった。ざまあみろと思っていたよ、正直」
 それ程に、私も真幸くんの死に堪えていた。
 そう言いながら、田島氏は書類入れの中から一通の手紙を出し、俺の前に置いた。
「真幸くんから私宛への手紙だ。今ここで読んで欲しい」
「…今ですか?」
「ああ」
「いいんですか?」
「構わない」
「……」
 それでも躊躇っていると、「嫌でも読め、真幸くんの為に」とそう強い口調で叱責され、俺は手紙に手を伸ばした。俺がそれを読む事がマサキの為になるのかどうかはわからないが、少しでもその可能性があるのならばしてやりたいとそう思う。それは自分でも意外に思う事だったが、多分田島氏の話を聞くうちに心も少しは素直になっていったのだろう。マサキの手紙を前にして、苦しみを紛らわす為につまらない意地を張る気はおこらない。
【まずは、多大なる迷惑をかけてしまう事を、先に謝っておきます。】
 そんな言葉で始まる手紙には、病気の事や自分が死んだ後の事が淡々と書かれていた。差出人に向けてのマサキの言葉に、体が震えると同時に心が冷めていく。自分の死を受け止め、当然のように書き示したそれは遺書でしかなく、俺には信じたくはない見たくはないものだった。確執があった両親についての事、マサキにとって何よりも大切だったのだろう女性の事。そして、差出人への謝罪と感謝。それは、俺の知らないマサキを指し示すものでしかなく、何も考えられない、感じられない。まるで面識のない人間の言葉のようでさえある。
 だが、俺ではない者への手紙に、俺の事も書かれていた。自分の名前が記され始めた三枚目の便箋を読み始めると、一気に凍った心が溶け始め悲鳴を上げる。
【田島さんから荻原の話を聞いた時、俺は何故本当の事を話さなかったのか。それは今も良くはわからないが、あの時はもう既に、俺は荻原と言う男に惹かれていたのかもしれません。だから、彼を良く思わない貴方に知られたくはなかったのかもしれない。自分が思う以上に、俺は荻原との関係を守りたかったのかもしれない。
 田島さんにすれば、何を馬鹿な事をと思うかもしれないけれど。俺にとっての荻原は、決して最低な男でも、悪い人物でもない。だからと言って、田島さんが彼を誤解しているとも言いません。貴方が見た荻原も、確かに彼なんでしょう。俺自身、彼の全てに納得できるわけではない。荻原が俺には賛同出来ない事をやっているのも知っている。けれど、それでも、俺にとっては彼との関係は大切なものだったんです。出会った頃は、多分きっと貴方以上に、疎ましい男だと思っていたのに。】
 知らず知らず強張らせていた腕の力を抜き、俺はカップに手を伸ばした。けれどもそれは既に空で、気付いた田島氏が席を立つ。コーヒーで良いかとの問いに、出来れば冷たい水を頂きたいと俺が頼むと、彼は内線を取り上げた。
 背を向ける男の姿を暫し眺め、俺はひとつ大きな深呼吸をし、手の中に視線を戻す。頭の隅が麻痺しているような感覚が、じわりじわりと体をも痺れさせて行っているかのようだった。緊張しているのだと気付いたが、今止めてしまったらもう読む機会は二度と訪れないだろうと、どれだけこの頭に入っているのか怪しいものだが俺は再び文字に目をやる。
 どのみち、どんなに時間をかけようとも、落ち着きゆっくりと味わう事など無理なのだ。

 焦がれたマサキが、今、目の前にいるのだから。

2005/04/24