7

「仁ちゃん、起きてる?」
 扉の開閉音に続き、控えめな声が下からあがった。ソファに寝転がり、小さな窓から小春日和の空を眺めていた俺は、起きているとその声に応えながら体を起こす。日光浴をしながらまどろんでいたおかげで視界はぼやけ、直ぐに立ち上がる事は出来なかった。
 そんな俺の目が慣れるより早く、ロフトへと続く梯子が軋む音があがり、人がやって来るのを知らせる。器用にカップを片手に上ってきた瞳は、小窓からの光を眩しそうに目を細めて眺め、小さく笑った。
「なんだか、猫ね、仁ちゃん」
 コーヒーの入ったマグカップを手渡しながらのその言葉に、俺は片眉を上げる。
「暖かいわね、ここわ。仁ちゃんはいつもこの陽だまりで日向ぼっこなのね」
 居着くのがよくわかるくらいに気持ち良いと、瞳は俺が座るソファにはかけず、直接日の当たる床に座り込んだ。
「ジンもね、仁ちゃんがいない時はよくここにいるみたいよ」
「へえ、そうなのか。なら、俺はすっかり嫌われているんだな。俺がいる時は一度も来た事がない」
 このロフトにあの猫がいる姿を今までに一度として見た事がない俺は思わずそう言ったのだが、瞳は軽やかにその言葉を笑い飛ばした。
「遠慮しているのよ。多分、ジンは仁ちゃんに一目置いているのね。あくまでも、ここは仁ちゃんの場所だと、彼は認めているのよ」
「そうかな」
「そうよ。恥しがりやだから、態度では示さないけれどね」
「恥しがりや?」
 あまりにも意外な言葉に、カップに口をつけながらも中身を啜りはせず、俺は顔をあげる。
「そんなタマかよ。あいつは俺を鬱陶しく思っているだけだろう」
「そんな事ないわよ」
「否、ある。現に懐きもしない。俺が撫でても喉のひとつも鳴らさないぞ、あの猫は」
「緊張しているのよ、可愛いじゃない」
 コロコロと、まるで少女のように笑う瞳に俺は溜息を吐きながら、マグカップを両手で持ちコーヒーを啜った。ピリリと熱い液体が喉を流れ、身体へと染みこんでいく。その感覚を味わいながら瞳を窺うと、彼女の視線は窓の外へと向いていた。
「いい天気ね、今日は。ホント、ここは気持ちがいいわ」
 しみじみと言うその姿を、年寄りみたいだとからかいながら、ふと俺は思い出し瞳に問い掛ける。
「なあ、瞳」
「なあに?」
「俺がこの家をお前に任せた理由、言った事があったか?」
「自分にとっては大事なものだから、なくしたくはない――っていうのなら聞いたわよ、一番初めにね。確かに、ここは仁ちゃんが気に入るだけの場所ね、いいところだわ」
「それは、どうも」
 先程から誉めてばかりの瞳の変わりばえしない答えに苦笑しながら俺は立ち上がり、飲みきったカップをローテーブルへと置いた。
「だが、俺が気に入ったのは、この陽だまりじゃない」
 キョトンと目を丸める瞳に言いながら、俺は小さな空間を見渡す。
 昔このスペースにあったのは、かなり草臥れた、木製の古いベッドだった。今はこんなにも光りが差し込む窓にも、あの時は厚いカーテンが引かれていた。人が住めば、建物にも生気が宿るのだろう。あの頃以上に古くなっていても、埃や黴の臭いは全くしない。そう、何ひとつとして同じものはない。だが。それでも目を閉じれば、あの時の風景が、感覚が蘇ってくる。多分きっと、俺の体の中を流れる血にそれは染みこんでおり、一生消える事はないのだろう。
「大切にしたかったって訳じゃないんだ、多分。俺は自分の為に、この家を失うわけにはいかなかった。忘れない為に、人に任せてまで残そうとした。実際には、俺が確りしていれば良いだけのもので、堂本にとってはこの建物を俺が大事にするのは複雑なんだろうが、目に見える形で置いておかなければ都合よく記憶も気持ちも処分してしまいそうだったんだよ」
 俺は、自分が信じられない。大切なものまで必要とあれば簡単に捨ててしまうのを、誰よりも自分が一番知っているから。
 自嘲的にではなく、ただ真実を淡々と語り笑う俺を、瞳は訳がわからないだろうに真っ直ぐと見つめてくる。その目はとても強く、けれども綺麗に清んでおり、それでいてどこか寂しさを覚えさせるものだった。多分、俺はこの目を持つ彼女だからこそこの建物を任せたのだろうと、今更ながらに気付く。
 瞳にこの家に住んで欲しいと頼んだのは、気紛れに近い思い付きだった。風化していく無人の建物の維持に限界を感じはじめていた時、偶然そこにいたのが瞳であったというただそれだけであったが、彼女に任せて良かったと気紛れでしかなかったはずの自分の判断を今なら評価出来る。
 しかし、俺はそうであっても、自分にとって大事なものだからというよく知りもしない男のそのひと言で請負った方は一体何を考えていたのか、呆れるばかりだ。逃げた男の借金のカタとは言え、ヤクザまがいの商売をする男の下に居着く決心をよくしたものだと、瞳の行動には驚かされる。
「堂本さんは、この家嫌いなの?」
 危機感がないのではなく、多分大物と言うべきタイプなのだろうが、それにしても危なっかしい。思わずそう考え口を閉ざしていた俺に、痺れを切らせた訳ではないだろうが話を促すように瞳は問い掛けてきた。
「いや、嫌いって訳じゃない。あいつにとっては古傷ってだけさ」
「古傷?」
「そう、若気の至りで犯した過ち、だな。触られるのが面白くない過去だ」
 あの時、カーテンの隙間から見つめた外の世界は、今なお俺の網膜に妬き付いている。
 光りが差し込む窓の外には古びた街が並び、遠くに視線を飛ばせば都会のビル郡にいきあたる。10年以上見て来たこの変わらない風景を、俺はきっとこれから先も可能な限り眺め続けるのだろう。全てを忘れない為に。
 そうして維持し続ける記憶は、俺にとって力となっているのか、足枷となっているのかはわからないが、俺という人間を形成する上では不可欠なものだ。
「小学生の時に、俺は誘拐された」
 凭れかかっていた体を窓枠から起こし、俺は再びソファに腰掛けながら言う。決して秘密にしていた訳ではないが、今まで語る事はなかった話をする興奮が少し沸き起こり、俺は投げ出した足を組みながら軽く笑った。
「その犯人のひとりが堂本で、立て篭もったのがこの家だったんだよ」
「堂本さんが、仁ちゃんを?」
 思いがけない告白に、瞳は軽く息を飲む。当然だろう、今の堂本からは想像出来ないものだ。だが、20年近く前の事なので今はもう会話に上る事も少ないが、組が解体する前はよく古参の連中達は酒の肴にこの話題を出していた。もしかすれば、きっと俺の耳に入らないだけで、今なお噂話として新参者にも受け継がれているのかもしれない。
「そうだ。堂本はその当時辛い事があって自棄になっていてな、大阪からこっちに出てきてすぐ、ただ誘われるままに犯行に加わった」
 若いとは言え、ヤクザの抗争に首を突っ込めばどうなるのか、判らないほどの馬鹿ではなかっただろう。仲間と呼べる程も親しくはない連中の行いを止める事も避ける事もせず流されるままに参加したのは、無気力の一言に尽きるのだろう。どうなってもいいのだと、ヤバイ事を感じながらも、そんな刹那をその時の堂本は求めたのだ。
 そう、多分、今の俺と同じように。
 大事なものを失ったその痛みを堂本は知っているのだと、俺は今になって気付く。親友を失い、ヤクザの争いに足を踏み入れてしまう程に自棄になった彼の事だ、今の俺の危なさを誰よりも感じているのだろう。確りして下さいと叱責する男の声が耳奥に蘇り、俺は何とも言えない気分になった。
 堂本は俺に刺激を与える事で立ち直らせようと言うのか、押しては引いての繰り返しだ。黙って傍に居たかと思えば、口喧しく怒り出し、時に優しさを与えてくる。先日の激怒した田端の件以降は、見捨てられたのかと思うくらいに静かなものだ。暴言を吐いても響かない相手に言い続けるだけの気力はなく、堂本が「静」に入れば自然と俺も彼に対しては大人しくなってしまう。一体そんな俺を彼はどう感じているのか正直そんな不安を抱いてしまうくらいに沈黙は続き、けれども、そうしてまた数週間後には二人で活動期に入るのだろう。堂本が臨界点に達するのが早いか、俺が爆発を起こす方が早いのか。どちらにしろ、この波が終わる気配はない。
「あの頃の俺は、それはもう物怖じしない可愛げのない餓鬼だった」
 あの時、堂本はどのようにして、この焦燥感を消し去ったのだろう。そんな事を思いながら、俺は昔話を続ける。
「誘拐された時もさ、抵抗する余裕はなかったが、怖がる程の状況でもなかった。犯人達にとっては、扱い易いものだったんだろうな俺は。大人しくしていろと、この場に軟禁された」
 コツコツと足で床を叩くと、「ココ?この場所に?」と瞳は指をさしながら目を丸める。
「梯子を取れば子供じゃ飛び降りれない高さだからな、丁度良かったんだろう。でも、ま、部屋には鍵もかけていただろうな当然」
「仁ちゃん、嫌じゃないの?」
「ん?」
「だって、閉じ込められていたとこでしょう、ココ」
「そう言う意味での後遺症はないさ。でも、依存はしているんだろうな、今なおこうしてここに来ているんだからさ」
 依存。そんな簡単なものではないのだろう、本当は。堂本が戸惑うほどに拘っているのだから、この執着心は自分でもイカレているのではないかと思う。だが、それでも。俺は手放す事が出来ないのだ。
「それは、嫌じゃないってこと?」
「ああ、そうだ。だが、別にいい思い出があるわけでもない。誘拐自体は、俺にとっては大して辛い思いをするものじゃなかった。元々、親父と敵対している奴らが街のチンピラを雇って実行させたものだから、手荒に扱われもしなかったし、傷ひとつつけられなかったよ。危ない時は確かにあったが、堂本が守ってくれたしな」
「堂本さんが?犯人なのに?」
「堂本達は切り捨てられたんだよ、雇主に」
「え?」
「折角人質にした俺を使う前に形勢が不利になったそいつらは、証拠隠滅を図った。利用した堂本達を処分しようとやってきたんだ。下に居た他の奴らは、勿論俺を受取りに来ただけだと思っていたのだから、入り込んできた男達にあっさりとやられてしまい、残るはここに居た俺と見張りの堂本だけになった」
 あの時、突然やってきた人相の悪い男達に驚く俺に、堂本は小さな声で「お前は何があっても、ここにいろよ」と声をかけると、俺が頷くよりも早く下へと飛び降りていた。
「どうするのかと思う間もなく、堂本は男達に向かっていった。相手は三人で、子供の目から見ても堂本が不利なのは充分にわかった。見張りの彼に懐いていたわけではないが、俺は大変だどうしよう!と焦ったよ。自分が誘拐されても落ち着いていたくせに、だ。俺はこの床に這いつくばって頭だけ突き出し、食い入るように見ているしかなかった。堂本は、三人相手に劣らずやりあっていた。けれど、もうそれも時間の問題だろうという時、一気に別の奴らが部屋に押し入ってきた」
 それは親父の配下の奴らだった。
 何処かで監視でもしていたのだろう。タイミングよく現れた男達は、まず始めに対抗組織の男達を落とし、堂本を押さえ込んだ。そうして、迷いもせずにロフトへと上ってきて、俺を助け降ろした。中の様子を全て把握し機会を窺っていたのだと、踏み込んできた男達の動きを見れば、子供の俺でも簡単にその結論を得られるというものだった。
 確かに、拉致されたのは自分の不注意であるのだろうが、親父の行動にその時の俺は純粋に腹が立った。何故早く飛び込んできてくれなかったのか。もし何かあったならばどうするつもりだったのか。今ならば何を置いても状況判断は必要不可欠だとわかるが、子供の俺は感じるその余裕に苛立った。いちもにもなく自分を助け出そうとする親ではない事をよく知ってはいたが、その手際の良さが憎らしかった。
 だからなのだろう。
 身を挺して守ってくれようとした堂本を、俺はどうしても放っておけなかった。どうしても、彼が必要な存在に思えてならなかった。
「戦隊ヒーローって知っているか?」
 何の脈略もなさそうな俺の唐突な質問に、瞳は不可思議なものを見るかのように眉を寄せた。
「あの赤や黄色や青の、何とかレンジャー?」
「そう、それだ。何てタイトルだったか忘れたが、俺がその頃憧れていた赤レンジャーに堂本は似ていたんだ。関西弁で喧嘩が強くてかっこいい、ちょっと不良が入った主人公にね。その赤レンジャーみたいだと思ったらさ、もうどうしても堂本が欲しくてなぁ。気付けば親父達からあいつを庇っていた。俺のもんだよ、ってな。我が儘言わず何でも親父の言う事をきくから、堂本を俺にくれよと噛み付いていた」
 実際のところ俺を突き動かしたのは、親父への対抗心であったのだろう。だが、頭に血がのぼった子供がそんな自分の心を気付くわけがない。冷静さを欠いた俺は、自分の言葉を自分で納得し信じ込み、その勢いのままに親父達に噛み付いた。この男は誰にも渡さないと、単純に。純粋に。そして、残酷に。
「それで、堂本さんは仁ちゃんの子守りになったの?」
「子守りって言うなよ」
 俺は瞳の言葉に苦笑しながら立ち上がり、空間が途切れるロフトの端まで歩き、そこからリビングを見下ろした。
 本当は、口にしたほどあっさりと簡単に事が進んだ訳ではない。
 事情を知らないただの雇われとは言え、組長の息子を誘拐した者を許すほど、親父達は甘くはなかった。必死な俺を宥めすかそうとし、それが駄目だと悟ると、問答無用に引き剥がそうとした。興奮状態にあったから頭の回転が良かったのか、大人顔負けの言葉を連ねて屁理屈をこね、ここぞとばかりに俺は自分の力を発揮し堂本の処分を阻止した。夢中になっていた俺は自分の発言など覚えていないのだが、その場に居合わせた男達は俺に飲み込まれたという。洟垂れ小僧だと思っていたがこいつは凄い奴になるんじゃないか、あの時自分はそう思ったんだと、大人になってから幾人もの古参連中に言われた。だが、親父が堂本を俺に与えたのは、俺の言葉に耳を貸したわけでもなんでもなく、単なる気紛れだったのだろう。あの男がガキでしかない俺に、他の奴ら同様の評価を下したとはとてもではないが思えない。
 親父は堂本を俺付きにするのに、条件を出した。
 拉致加担に対するけじめとして、俺に仕える忠誠の証として、あの男は堂本の背に墨を入れたのだ。
 馬鹿げた行為だと、今の俺ならばそれを止めさせる事が出来ただろう。だが、その時の俺にはそこまでの力はなく、また刺青についての知識も殆ど持っていなかった。
「親父が堂本に強要した事は、多分色々あったんだろう。服の上からではわからないように暴行を受けたのだろうし、何らかの危険にも晒されたのだろう。四六時中傍にいるわけがないんだ、俺が学校に行っている間、親父はあいつをこき使っていたはずだ。だが、俺は親父が堂本に課したケジメを知る事はなかった。ただひとつを残しては、な」
「ひとつ?」
「親父は堂本に刺青を入れさせたんだ。背中から脚にまでたっするようなやつを、な。俺がそれを知っているのは、その墨の絵柄を選ばされたからだ」
 暴行場面など見せても、俺が歯向かうだけだとわかっていたのだろう。そういうものは密かにやっておきながら、彼は息子に刺青の図柄を決めさせた。そう、あの男は、子供の知識のなさを利用した。堂本を傍に置く事の覚悟を、お前も持たなければならない。そんな言葉は、ただの言い訳だったのだと悟った時には、まんまと男の思惑通りに俺は刺青に囚われていた。
 墨を背負う代償など、子供の俺に分かるわけがなく。また、それを一生気付かないような頭は残念ながらもっていなかった。
 将来、息子が味わう思いを知りながら、父親は若い男の背に墨を彫り、それを息子に与えた。
「あいつの背にあるのは、俺の罪だ」
 歳を重ねるごとに堂本が何を背負ったのかわかり、まるで自分が背に墨を持つかのように、それは重く俺に圧し掛かってきた。一人の人間の一生を、俺はあの時に決めてしまった。それを思い知るたび、恐怖を噛み締めなければならなくなった。
 だから、こそ。
「だからこそ、俺はここを手放すわけにはいかないんだ。なくしてしまったら、俺は都合よく忘れてしまうのかもしれないからな」
 自分が嫌悪した世界に、自分の我が儘で一人の男を引きずり込んだその罪の償い方を、俺は忘れない事以外には見つけられなかった。それは正確には償いにはならないのかもしれないが、俺が出来るのはそれだけだった。
 堂本に墨を背負わせてしまった事を、誤魔化してしまわないように、忘れないように、目に見える形が欲しくて意地になって守ったのが、この建物だ。それが俺にとっても、堂本にとっても、痛みを伴うものでしかないとわかっていても、それでも拘り続けたのが、この空間だ。
 瞳はそんな風に言葉にした以上の俺の心を見たのか、小さく呟いた。
「それだと、悲しすぎるわよ。仁ちゃんも、堂本さんも」
 わかっている。
 だが、それでも。
 俺にはどうしても、なくす事が出来ないものなのだ。



 迎えに来た堂本は、俺を見ると何故かホッとしたように表情を緩めた。
 何か不安になる事でも考えていたのだろうか。そう思いつつも聞く事はせず、俺は黙って後部座席に乗り込む。
 暫く窓を流れる街を見ていたが、俺は瞳と話すうちに気になった事を堂本に訪ねた。
「後悔ですか?そうですね、後悔なんていつものようにしていますよ。いや、後悔と言うよりも、迷い続けていますね私は。悩んで悩んで悩んだ末に導き出した答えも、実行した次の瞬間には間違っているのかもしれないと。そんな事ばかりです」
 本当は、俺の傍についた事を後悔する時はないのか。そうそれだけを問いたかったのだが、流石に出来るはずがなく、漠然とした人生の問いのようなものを放った俺に、苦笑交じりに堂本が答える。
「しかし、後悔なんて生きていれば当然ついて回るものでしょう。私は、頭は良くありませんし、中身も出来た人間には程遠い。ですが、それでも、自分の望みが何であるのかくらいはわかります」
 迷っていようとなんだろうと、人はそれをわかっていれば良いのではないですかね。
 そう言う堂本は、俺の心の中にあるものに気付いているのだろう、「どうしたんですか?」と優しく問い掛けてきた。俺は考えるよりも早く、「瞳にあの家の事を話して、少し昔を思い出した」と子供のように呟く。
 堂本はそれに対しては何も言わず、ただ目を細めた。
「私はあの時、貴方が必死に自分を必要としてくれた時、貴方の傍に居ようと決めた。命を救ってもらった恩も確かにありますが、それに関しては貴方以上に親父さんへの感謝の方が大きい。きっかけは貴方の言葉でしてが、俺を助けてくれたのは親父さんですからね」
 たとえ、あの時親父が自分に何を与えようとしているのかわかっていたとしても。餓鬼の俺には、親父を説き伏せる力なんてなかった。堂本を犠牲にする事を阻止出来なかった。ならば。  ならば、親父の真意を読み違えている堂本に、あいつはお前を助けたんじゃないと噛み付く事など俺には出来る資格はなく、ただ頷く事だけが許された行為なのだろう。
「ああ、そうだな。否定はしないさ。だが、そう思っているのなら何故俺の世話をした。餓鬼の我が儘につき合わされたにしては、長くないか?」
「言ったでしょう、私は貴方の傍に望んで居るんです」
「情が湧いたのか。あの時、本気で墨など入れられるとは、思っていなかったのかお前」
 イタズラに憧れていたわけでもあるまいにと俺が声を低くすると、赤信号で止まった堂本は態々振り返り、笑い声を漏らしながら視線を向けてきた。
「情だけで、背中に墨なんて背負いませんよ。親父さんは確かに私をこれで試そうとしたのでしょうが、拒んだのなら聞き入れてもくれたでしょう。そういう方でした」
 ああ、そうだろう。だが、次の瞬間には、ゴミのように捨てられてもいたはず。
 残念ながら、俺は堂本が思っているような、感じたような親父は知らず、本気で同意する事など出来ない。俺にとってあの男は、いつでも父ではなく、組の長でしかなかった。杯を交わす相手としてならば惚れるに値する人物だったのかもしれず、また彼の方も部下へならば、何らかのものを与える人であったのかもしれない。しかし、子供の俺はその中には入っていなかった。彼にとって、俺は息子というよりも、いつか部下になるかもしれない餓鬼でしかなかったのだろう。
 事実、学生ではあったが組の為に金を稼ぎはじめた俺を、親父は喜び誉めた。どんなに学業が優秀でも、関心の欠片も見せはしなかったというのに、だ。
「なら、何故、お前は俺の傍に居るんだよ」
 何故、子供相手にしたそんな約束をずっと守っているだと、俺は堂本の目を真っ直ぐ見ながら問い掛ける。
 堂本は、わかっていると言うように深く頷き、体を戻しエンジンを踏んだ。動き出した車が暫しの沈黙を作り、空気の重さを一気に増す。
「お前は何故、そんなものを背負ったんだよ」
 返らない答えを促すよう、車内の重みに負けそうになるのを跳ね飛ばし、俺はもう一度男の背に問いを放つ。スーツの下に隠れた二匹の青龍が、俺を射殺さんばかりに狙っている気がした。
 大きくなるにつれ見なくなったそれは、けれども俺の身体にも確かに刻み込まれている。震えと共に。
「知ってのとおり、あんな馬鹿をするくらいに私はあの頃荒んでいた。自棄になって仕出かしてしまった事の大きさに、怯えるよりも私は疲れを感じていた。もういいと、それこそ殺されても構わないと。私は男達に抑えられた時、全てを諦めていた。床に這いつくばっていたあの瞬間、私は確かに生きる事に疲れていた」
 そう、それは子供ながらに俺も感じていた事だった。それまで男達と遣り合っていた堂本が、あっさりと親父の部下に捕らわれるのはおかしかいと俺にもわかっていたのだろう。だからあの時、このまま別れてしまったら二度と会えないのかもしれないと、そんなのは嫌だと、俺は堂本を必死で取り返そうとしたのだろう。
「そんな私を、けれども貴方は一生懸命助けようとしてくれた。貴方の声を聞いているうち、自分はこんなにも最低な人間だけれどこの子供には望まれているんだと思ったら、どうしようもなく生きたくなった。そして、生きるという事が、少しわかった気がしたんです」
「生きるという事?」
 俺の問い掛けに、堂本は片頬を上げ苦笑しながら「ええ、そうです」と照れた様に頷いた。
「俺の友人も、ずっと生きていたかったはずです。惚れた女を大事にして、生まれてくる子供を幸せにして、自分もやりたい事をやって。平凡だけれどそんな未来が必ず来ると思っていたはずです。けれど、あいつは死んでしまった。その死を受け止めきれず逃げるように友と過ごした場所を離れ、東京で馬鹿をしている自分がいる今、この瞬間は、彼が望んで手に入れられなかった未来なのだとそう思ったら、自棄になっている自分が堪らなく嫌になった。あいつが夢見た未来に、自分はなんて惨めな姿で立っているのかと、ね」
 思いもよらなかった言葉にハッと顔をあげると、バックミラー越しに堂本と目が合った。
「彼に恥じないように生きたいと、私は貴方に救われた時そう思いました。誰かの為にではなく、自分自身が納得出来る生き方をしたいと。墨を入れたのは、私の中では自分自身への決意であって、決して貴方との契りであった訳ではないんですよ」
「……言うのが遅いな」
「貴方が気にしているようなのは、気付いていました。いつの間にか見なくなりましたからね、背中。でも、親父さんの言葉を都合よく利用した手前、言い難かったんですよ」
 許してください。
 堂本はまるで若いあの頃に戻ったかのように、言葉とは裏腹な、詫びる様子は欠片もない無防備な笑いを向けてきた。今でもこんな風に笑うんだなと、今になっての告白よりも、その笑顔に毒気を抜かれる。当然の如くまだ小学生だった昔の自分には、いつでも堂本は大人であり、彼の表情など半分もよめなかった。いや、彼に接している時の俺は、他の大人に接する時よりも子供で、歳相応の無邪気さを放っていた気がする。我が儘も沢山言ったし、堂本の前では良く泣き言をもらしていた。
 それは、多分、今でもあまり変わっていないのだろう。
 頭の足りない若者ではなかったのだ。確かに口にした様な気持ちがあったとしても、堂本にも背中に彫り物を背負う代償が如何なるものか、全てではなくとも充分わかっていただろう。彼の背にあるのは、二十歳そこそこの青年が、決意だけで入れられるものでは決してない。
 俺を気遣っているからこその言葉でしかなかった。だが、堂本の真意など俺には一生聞けるはずがなく、この言葉だけを信じ受け取るべきなのだろう。
 ありがたいと思った。
 だが、こうしてこれからも支えられ続けるのだろう自分が、一体堂本に何をしてやれるのか。自信を持てるものは、今の俺には何も浮かばなかった。
 しかし。
 堂本が言った言葉が、頭の中でまわる。
 今の自分は、彼が望んで手に入れられなかった未来に立っているのだ。だから、恥じないように生きたい。
 その思いは、多分きっと、俺の中にもあるのだろう。
 そして。そんなふうに生きられたならば、もしかしたらそれが堂本への恩返しともなるのかもしれないと、そんな都合のよい事を思う。

 そう、もしそんな風に、自分が納得出来る人生を歩めたのならば。
 俺はマサキとまた向き合えるのかもしれない。

2005/04/19