4

「自分一人が苦しんでいる、そう勘違いしているんじゃない? 彼を亡くして辛いのは、仁ちゃんだけじゃないわ」
「判っている」
「わかっていない。だから、未だにそんな風にしていられるのよ。わかっていたら、受け入れて立ち直れているはずよ」
 あなたを本当に必要としている人は、沢山いるのだから。
 無責任だと、まるで言う事を聞かない生徒に評価を下す様に、瞳は溜息交じりにそんな言葉を落とした。だが、口調とは裏腹に、カップにコーヒーを注ぐ手が微かに震えている事に気付き、俺は反論を飲み込む。理屈ではないのだと声を荒げ訴えた所で何も変わりはせず、彼女に不安を与えるだけでしかないのだから言っても仕方がない。
「仁ちゃんがとても傷付いているのは、よくわかっているわ。誰もそれが悪いとは、言わない。でもね。仁ちゃんのその傷が癒せられるのなら何だってする、そう想ってくれる人があなたの周りには沢山いる。そうでしょう?」
「だから、判っている。しつこいぞ、瞳」
「黙って聞きなさいよ。今の仁ちゃんは、そんな人達を更に傷付けているのよ。何とかなる事だったら、そんな風に引きずっているのもひとつの方法なのかもしれない。だけど、もうどうしようもない事なのよ。どんなに仁ちゃんが望んでも、誰も彼を生き返らせる事は出来ないもの。違う?」
 出来の悪い餓鬼にひとつひとつ丁寧に教え込む親のように、瞳はゆっくりと語りかけてくる。だが、そんな事は自分とて充分にわかっているのだと、顔を顰めながら俺は彼女が淹れてくれたコーヒーを飲む。違わないからこそ俺は苦しんでいるのだとアピールするように、沈黙を作る。ただひと言、心配を掛けている謝罪をし、嘘でも前向きな発言をすれば、目の前の女性は全てを知りながら軽口を叩き微笑むのであろう事をわかりながらも、あえて反発をする。
 相手を傷付ける事で、少しでも自分の痛みを知ってもらおうとするかのように、俺は瞳に縋っている。そして、彼女だからこそ、こうして心を曝け出せるのだ。
「流石にそんな馬鹿げた事、誰も思ってやしないさ。俺はただ、堪らなく辛いだけだ」
「だからって、他人を傷付けて良いわけじゃないわ」
「そんな事をしているつもりはない」
 そう言った俺の言葉を、嘘ばかりと瞳は簡潔に否定した。
 確かに、周囲の人間に激しい怒りを感じた事はあった。マサキの事を忘れたかのように日常に戻っていく者達に、自分が忘れさせはしないのだと、色褪せさせはしないと躍起になった事もあった。悲しみを見せない彼らを、恥もなく詰った事さえあった。しかし、冷静に考えれば、彼らのその態度は当然の事で、悲しみに暮れる俺の前だからこそあえて淡泊な態度を示したのだろうとわかる。俺と同じように悲しみ嘆く事は簡単だ。しかし、そんな事をしたからといって救えるわけではなく、だからこそ腑抜けて使えない俺をそれでも叱責し仕事へと引き擦り出したのだろう。
 だが、落ち着いた時ならば簡単にわかるそれも、一歩殻に閉じこもれば鬱陶しいものでしかなく、悲しみに打ちひしがれれば八つ当たりしたくなるもので。秋を感じる頃まで、誰一人ともまともな会話を交わした覚えが俺にはない。一番近くにいた堂本に対し、自分はどんな態度をとってきたのか。思い返せば、それは霧の向こうに隠れたかのようにあやふやな記憶ではあるが、癇癪を起こす子供以上に手のつけられない暴走と沈黙だったのだろうと簡単に予測出来る。
 よくもまあ堂本は見限らずにそんな俺を相手にしていたものだと、今なお他人事のように俺はそう感じてしまう。いつかはそれを心の底から感謝する時が来るのだろうが、今はまだとても素直に思えそうにはない。有り難い事だとはわかってはいるが、瞳の言うように自分を慕ってくれる者達を嬉しくは思うが、正直重苦しいと感じる事の方が多い。
 周りの者達を傷付けているつもりはない。そう言いはしても、やはり無意識の行動ではなく、心の何処かで意図的に俺は己の傷を見せびらかせているのだろう。自分のその傷を見せる事で、相手が少しでも顔を歪ませるのを、俺は間違いなく期待しているのだ。
 それが単なる子供の甘えのように、自分の辛さを相手に認識してもらう為の行動ならば、瞳の言うようにいい加減にしなければならないのだろう。例え傷が癒されていなくとも、ある程度取り繕うぐらいの事をしなければ、誰もが俺を見限るだろう。だが、しかし。確かに瞳に対しては、親の腕に縋りつく子供のように甘えているのかもしれないが、他の者達に対しては、俺は甘えではなく始めから捨てられる事を望んでいるのかも知れないと、多分そうなのだろうという考えの方が今は強い。ならば、瞳の言葉に揺り動かされるものなどなく、この状態を変えようなどとも思わない。
 俺が躓いて気付いたのは、自分の肩に乗った大量の人間の重さだ。
 実感すればする程押しつぶされてしまいそうになるそれを、今も昔も自ら捨てようと思った事はない。親父の組を解散させた時も、自分に従ってくれる者は全て受け入れたし、ヤクザな世界に残りたいと言う者の面倒もみた。それが当然であり、彼らを切り捨てる考えなどはじめからなかった。だが、地面に膝をついてはじめて、それが自分一人で支えられる量ではない事に気付く。今まで馬鹿みたいに走っていたせいで気付きもしなかったが、認識した途端、その重圧感に耐えられず俺は立ち上がれなくなってしまった。そんな自分を、情けないと思う。だが、それが当然だとも開き直りもする。
 一人の青年の死は単なるきっかけに過ぎず、彼の事がなかったとしても、俺は何年か先には今と同じように自分にかかる重みに気付いた事だろう。本来ならば、組を解体した時にその重みを十分認識していなければならず、若い勢いでそれを軽く考えていた自分を反省せねばならないもの。
 だが、しかし。
 今はもう、何もかもがどうでも良くて。過去の己の過ちを償う気力などなく、このまま彼らが自分を見限り、少しでも重みがなくなれば良いとただ思う。他人任せに、全てが消えてなくなり軽くなれば、自分は立てるのかもしれないのだと漠然と考える。
 立ち上がった後どうするかなど決めてはいないが、こんな状態の俺でも、立たねばならないという本能は働いているらしく。当然なのだろうが、こんな馬鹿げた事で、俺は生きているんだなと実感したりもする。まだ、多分、まともなのだろうと。
 絶望が襲ってきても、人はそう簡単に狂う事など出来はしないのだろう。
 少し異常なところもありはしたが、あの青年もそうであったし、今の俺もそう。


「きっとマサちゃんは、こんな仁チャンの姿は見たくないはずよ。見たら、悲しむわよ」
 叱る口調を一変させ、弱々しく瞳がそう呟いた。落としていた手元から視線を上げると、華奢な後ろ姿が目の前にあった。
 どれだけ彼女が俺を心配しているのか、どんなに気を使って接しているのか。そして、何を俺に望んでいるのか。俺はそれをよく知っている、判っている。だが、今の俺には、応えられるだけの気力がない。取り繕えば繕うだけ、彼女に気を使わせるのがオチなのだ。しかし、だからといって、こんな風に苦しいと縋りついても、重荷でしかない事もよく判っている。
 あの青年の事だけではなく。
 俺が辛いのは、遣り切れないのは、大切な者を唐突に失った衝撃からだけではなく、自分の人生に対しての不安や葛藤を抱えているからだと。彼の死を乗り越えるかどうかとは別に、自分自身の在り方を、これからの未来を、見失いかけているからだと。そう、伝えれば、瞳はもっと更に自分に手を差し伸べてくれるのだろう。本気で怒ったり、強く抱きしめたりしてくれるのだろう。だが、俺の心がその癒しを求めても、俺自身は彼女にそれを強いる事を恐れている。そこまで縋るのが、怖くて堪らない。
 どんなに分かりあっていても、どんなに互いを思いあっていても、俺はどこかで線を引いておかねば安心出来ないのだ。恋愛関係はもとより、こうした瞳との関係にすら、それを必要としてしまう。以前はこれ程まででもなかったというのに、俺は自分をこんな事で縛らねば、他人との関係を上手く築けなくなっている。
 その事実が、ただ悲しい。こんな自分を支えなければならない者達が、哀れで仕方がない。そして。
 それと同時に、全てが滑稽でもある。
「お前は、そう思うのか」
 背中を見せる瞳に、俺は溜息交じりにそう呟く。
「当たり前じゃない。誰だってそうよ。自分のせいで誰かが苦しむのなんて、辛いわ」
「あぁ、そうだな…」
 そうかもしれないと応えながらも、俺はそんな事はわかりはしないだろうと心で嘯く。確かに誰かを苦しめる事を辛く感じたとしても、それを意識しなければ人は平穏に暮らす事が出来るのだ。俺自身、そうして生きてきたのだ。自らの行動が生み出すもの全てに対し素直に心を痛めていたのなら、俺はどんなに周りに支えられたとしてもやってこれはしなかっただろう。罪悪感に押し潰されていただろう。俺がそうならなかったのは、自分だけのせいではないと、適当に切り離していたからだ。
 それは、俺だけではなく、人間ならば誰もがする行動だろう。マサキとて、同じような事をしただけなのかもしれない。唐突に死を突きつける事で、俺に苦しみを与えたかったのかもしれないし、全く何も考えてなかったのかもしれない。だが、今となっては何もわかりはしないのだ。ただ、俺が、俺自身の考えで、彼の行為の真意を憶測するしか出来ないのだ。
 明確な復讐ではなくとも、何処かで俺を傷付けてやりたいと思っていたのかもしれない。俺はマサキに対し、憎まれて当然の事をしたし、鬱陶しがられていたのも事実。両親の事を抜きにしたとしても、死が差し迫る残された僅かな時を突然現れた俺なんかに振り回わされたのだから、その憤りは想像以上のものだろう。瞳は、俺と彼の関係を知らないからこそ簡単にこんな事が言えるのだ。マサキが俺を憎んでいなかったとどうして言える。こんな俺を見たら悲しむと、何故言い切れる。そんな事は有り得はしない、そう言う方がどれだけ真実味を帯びているだろうか。何よりも。
 何よりも、俺が今苦しんでいるのは、純粋に彼の死に堪えているからだけではない。自分が行った事に対しての後悔や懺悔ばかりを繰り返し、彼に与えられた死そのものに嘆いているのではないのだ。結局は、自分勝手に傷付いているだけにしか過ぎず、マサキが悲しむ必要など何処にもない。そう、多分きっと、彼はこんな俺の狡さを知っているはずだ。ならば、ざまあみろと笑う事はあっても、嘆く事などないはずだ。
 そんな風に、俺の頭は、心は考える。それは、マサキ自身を汚す事になるのだろうが、そう感じずにはいられないのだ。今の俺には、他の考えを受け入れる余裕はない。
 奪ってしまった貴重な彼の時間を返せるのであれば、俺は返したいと思う。返させて欲しい。例え同じように死が必ず待ち受けていたとしても、もう一度、あの数ヶ月をマサキの思うように過ごさせてやりたい。望むままに、過ごして欲しい。
 そう願うのは、罪悪感に苦しむ俺が、少しでもそれを軽くするために縋る醜さでしかないのだろう。だが、それでも、俺は思うのだ。彼の大切な時間を奪い取ってしまった自分が許せず、その事実が恐ろしく、あの数ヶ月を消し去ってしまいたくなるのだ。
 助けて欲しい。マサキの事を思えば、彼との別れを思えば、恥もなく俺はそんな言葉を叫んでしまいそうになる。耐えられないのだ、全ての事から。だから、逃げ出したいのだと、救いの手を求める。
 しかし。それと同じように、この苦しみから解放されない事も何処かで望んでいる。このまま、この辛さを味わい続ければ、いつか彼が許してくれるのではないか、そんな甘い期待を愚かな俺は抱いている。人は、なんて利己的で醜い生き物なのか。いや、それは俺だけなのか。俺は常に頭の隅で、己の苦しみを差し引きしながら計算している。
 一体、マサキは何を考えていたのだろう。何故、俺の傍にいたのか。俺に、何を望んでいたのか。生きる事、死と言うものを、彼はどう感じていたのだろうか。
 今になって、俺は何ひとつとして彼の事を知らなかったのかもしれない事実に気付く。俺が見ていた彼も確かに彼本人なのだろうが、それが極一部であった事を失って思い知る。
 俺と彼は、一体どんな話をしただろうか。そこに、どれだけ彼の本心があったのだろうか。決して上辺だけの、馴れ合った関係ではなかったはずなのに。そう思っていたのは、誤解していたのは俺だけなのだろうか。
「だけど、もう、何が本当なのかなんてわからないんだ、そうだろう?」
 俺は、瞳の言葉を受け入れる事は出来ない。彼女が俺を思ってこその言葉だとわかってはいても、それを都合良く利用する事は出来ない。マサキを苦しめた分、俺は今こうして苦しむべきなのだ。それが当然なのだというこの考えを捨て去る事は、今の俺には出来そうにもない。
 今は無理だと呟く俺に、瞳は何も言いはしなかった。だが、その視線が哀しみに濡れながらも、そんな俺を非難している事がはっきりとわかった。けれど。
 俺は彼女を少しでも安心させられる言葉を作れないまま、静かに席を立つしかなかった。それ以外に出来る事など、何もなかった。

 何故こうなってしまったのか。
 ただ、本気で好きになっただけなのに、自分が思う以上に愛していただけなのに。その対象が消えたというだけで、こんなにも苦しいのは何故なのか。彼が居た事は事実で、俺の心も本物であるというのに、どうしてなのだろう。
 俺の想いもまた、マサキ同様消してしまわねばならない強迫観念に何故か駆られる。馬鹿げた事だが、早くその気持ちを捨てろ、と現実が迫ってくる。居なくなった者を思い続けるのは罪だとでも言うように。
 この世の中は、消えたものをいつまでも覚え続けはしない。ならば、その世界に生きている俺は、それに従うのが務めなのかもしれない。だが、そうであるのなら。
 忘れる方法を、教えて欲しい。
 しかし。無責任で無慈悲なこの世界は、ちっぽけな人間の叫びなどに耳を貸す事はない。
 大切な思い出でも、人は生きている限り、それを無くしていくものなのだ。どんなに頑張った所で、全ての記憶を留める事など出来ない。忘れたいと願うのは、心が苦しいからであり、努力などせずとも記憶は薄れ過去は遠のいていくのだ。どれほど努力をしたところで、忘却は止められはしない。
 今は覚えている彼の全てを、俺はいつかは忘れ去ってしまうのだろう。目を閉じれば思い出すあの姿も、どんなに考えても思い出せない時が来るのだろう。あの時のマサキはどうだったのかと、誰かに問いかけ教わり、そうして自分の中から消えていくのを実感するのだろう。その時は、切ないよりも、悲しいよりも、多分自分は納得するのだ。俺は、彼と違い生きているのだから。そんな小さな呟きひとつで、全てを受け入れるに違いない。それが、この世で生きているという事であるのだろう。
 そう、わかっているのだ。けれど、それでも今この瞬間の痛みを、彼の居ない辛さを遣り過ごす術が俺にはない。いつかはそうなるのだろう。その切ないが穏やかないつかを望み、同時に恐怖を感じ嫌悪する。一体自分がどうしたいのかわからず、心に折り合いがつけられない。どうすればよいのか、そんな事は誰に教わるわけでもなく判っている。全てを飲み込み、今までのように過ごせばいいのだ。だが、それが上手く出来ない。平穏と激情。その大きな波に飲み込まれ、自分が居る位置すら時折認識出来なくなる。今、俺は狂っているのか、正常なのか。この判断は、行動は、果たして本心なのかどうなのか。
 一瞬事に考えを変える思考が、心が、堪らなく邪魔だ。自分では制御出来ないそれを捨ててしまいたくなる。自分を心配する者達を安心させたい。そう思い笑っても、一瞬で心は変わり、開いた口からは暴言が零れる。納得出来ないと相手を怒っていた筈なのに、いつの間にか自分を蔑み嗤っていたり、泣いていたり。考えたはずの思いの持続が極端に短く、俺は自分自身に一番疲れている。
 嫌になる。
 己を堕とし、最後にぽろりと転がるその思いは、何故だろうかあの頃マサキが感じていたそれにとても近いような気がして。
 どこまでいっても、どんなになろうと、結局は苦しみなど尽きる事はないのだと思い知る。

 己がこの世から消えるのと、大切な者が自分を残して消えてしまうのとでは、一体どちらが辛いのだろうか。

2005/03/22