9

 コーヒーカップを下げる青年を眺めながら、俺は出して貰ったグラス一杯の水を一気に半分ほど飲んだ。邪魔にならず、けれども手を伸ばせば届くジャストな位置に置かれたステンレスの水差しには、大量の氷が入れられているのだろう。早くも薄っすらと結露が浮かぶその側面から視線を手元に戻すと、グラスにもまた薄い膜が張り始めていた。
 冷たい水を飲み干し、俺は再び意識を手紙に戻す。
【俺が見た荻原仁一郎と言う男は、不思議な男です。彼の周りの者は馬鹿みたいに彼を慕う。俺にはそれが理解できなかった。だけど、短いながらも一緒にいて、同じように俺も彼に惹かれてしまった。俺は多分、彼の一部分しか知らないのでしょう。だが、それで充分に満足しています。見てきたのは綺麗なところばかりじゃなかったけれど。】
 俺の事を書いてはいても、それ以上にマサキの後見人に対する思いが強く感じられた。
 こんな風にあの青年は人と接する事が出来る者だったのだと、今更ながらに俺は思い知った。反抗はしていても、あの年頃の実直さを失う事なく持っていた彼なのだから不思議ではないのだろうが、俺自身へのぞんざいな態度を考えるとやはり可笑しい。彼はいつも俺に対しては、ストレートな思いを向けていた。
 しかし、それも。単なる都合のよい俺の考えでしかないのかもしれない。
 本当はこの手紙の中のように、不器用だと感じた俺の考え以上に、自ら傷つき殻に篭ってしまうほどに彼は純粋に他人を思っていたのかもしれない。
【彼は、俺が妬ましくなるくらいに、この世の中で生きている。確りと自分の足で。けれど、強いわけでもない。
 だから、これは俺が自己満足にする事です。一笑してくれても構わない。田島さんにとっては面白くない事だと、重々承知しています。何より、荻原の為にする事でもないのだから、俺は人として間違っているのかもしれない。ですから、必要はないと思ったのなら、処分して下さって結構です。
 もうすでに察しているのでしょうが。貴方に預かって頂いている手紙は、荻原に宛てたものです。】
 手紙。
 そう言えば田島氏が先程そんな事を言っていた気がする。マサキから手紙を預かったのだと。彼に預かったのは、今俺が読んでいるこの手紙ではないのか。これはどういう事だろうか。そう思いながらも、俺の頭は動いていないのか、良くわからないと首を傾げる。それよりも。
 これはマサキの本心だろうかと、俺を分析している彼の言葉の方が気になった。意識がとられた。マサキは一体、あの短いといえる接触で、俺の何を感じ取ったのだろうか。俺の何を信じ、何を呆れ、何に嫉妬したのか。
 それは、とても知りたくて、けれども知りたくはない、不可思議な感覚を俺に与える。ざわりと、まるで身の毛がよだつ様な温い寒気が、俺の肌の上を走った。
【俺は、死んだ者を思い出にしたり、忘れたりするのは悪い事だとは思わない。だから、こんな手紙はない方がいいのでしょう。それでも、彼に何も言わずに突然死を突きつける罪悪感に耐え切れず、こんなものを書いてしまう。馬鹿だと自分でも思います。けれど、書かずにはいられなかった俺の気持ちを、どうか汲んで下さい。】
 ああ、そうだ。
 俺への手紙だ。
 唐突に、俺はそこで漸く理解した。顔をあげると、田島氏がこちらを見ている。
「手紙が、あるんですね」
 マサキから俺への。確認ではなく、ただそう呟く俺に男は深く頷き、「まず、それを最後まで読みなさい」と促した。その目は初めて見るような、何とも言えない色をしており、俺は素直に便箋を一枚捲り4枚目に視線を落とす。
 マサキが俺に手紙を書いていた。
 それを思うと、何故だろうか心の中がピリピリと痺れた。
【先に記したように、本当にこれは自己満足でしかないんです。ですが、もし、そんなものでも必要なのだと田島さんが感じたのなら、荻原に渡して欲しい。俺の死にもしも囚われているのなら、少しは前を向くきっかけになるのかもしれない。死んだ者の思いなど、これからも生きていく者には邪魔なものでしかないのかもしれない。俺は、驚きはしても直ぐに荻原は自分の道へと戻り前を向いて歩くのだと信じている。だけど、それでも、割り切れない思いを抱くのかもしれない。俺は、両親を失った時、冴子さんを失った時、彼らの声が聴きたくて仕方がなかった。一言でもいいから、言葉を残して欲しかった。この世にはもういないんだと実感できるものが欲しかった。上手く表現出来ないけれど、この気持ちは、田島さんにもわかるのではないですか?
 忘却は人間の生きる術だと俺は思います。忘れる事は罪でもないし、間違いでもない。人間はそんな風に作られているのだから、当然なもの。誰もが、忘れるんです、どんな事だろうと。荻原が俺の死の痛みを忘れられるのなら、手紙は必要ない。けれど、過ごした時以上の時間が経ってもまだ引きずっているようならば、突きつけてみて下さい。上手い言葉なんて何ひとつ書いていないけれど、俺が一番俺の死を彼に伝えられると思うから。】
 何故、こんな風に。
 どうして、こんなにも真っ直ぐに、自分の生死を潔く語る事が出来るのだろう。泣き言ひとつ感じられないそれに、彼の「死」ではなく、そんな「生」に胸が痛くなる。
 この手紙を書くまでに、一体どんな葛藤があっただろう。想像を絶するそれに、俺の喉奥が嗚咽をかみ殺しているかのように震える。
 マサキは一体、何を考え何を感じ、俺との空間を共にしていたのだろう。
【彼には、手紙以外の何ひとつ残していない。彼の領域に入り込んでおきながら、病の事も告げなかった。田島さんにはとても世話になり、死んでからなお迷惑をかけるけれど、どうか荻原を責めないで欲しい。俺は責められこそすれ、田島さんが何を選ぼうと貴方に全てを委ねたい。無責任だと言われようと、それが俺に出来る感謝の印です。ただ、それでもひとつ我が儘をきいてもらえるのなら、今回の事に関し荻原に罪はないのを理解してもらいたい。】
 どうして、俺なんかの事を考えられるのか。
 何故マサキが俺の事をこんな風に思えるのか、理解したくなかった。この言葉が本物だと認めたら、罪悪感に潰されてしまいそうだった。
 けれど。
 けれど、俺は。自分がどうなろうとも、認めないわけにはいかないのだ。
 これがマサキの、言葉なのだと。
【俺は彼の優しさを利用したんです。
 被害者は、荻原です。
 過去に何があろうと、許されない事をしたのは俺の方です。】
 俺の方がお前に許されたいよ、マサキ。お前は何も悪くはないのだから。
 俺に、謝らせて欲しい。
 マサキ。どうすれば、この想いをお前に届ける事が出来るのだろう。

「そこに記しているように、私が先に預かっていた手紙は君へのものだ」
 読み終えた手紙を返した俺にそう言い田島氏が取り出したのは、二通の手紙だった。
「私は真幸くんの頼みを聞かなかった。一通だけと言われたが、最初に預かった手紙も捨ててはいない。後から手紙が届いた時、何故かそれをしてはいけない気がしてね」
 今まで持ち続けていた宝物を差し出すかのよう、田島氏は愛しげに便箋に触れ、優しい動きで俺の前へと手紙を置いた。浮かせた腰を椅子へと戻しながら、小さな息を溢す。
「本当ならば、もっと早くに君には必要だったのだろう。だが、私にも渡す為の時間が必要だった。正直、何度も破り捨ててしまおうと思ったよ」
 その発言に思わず田島氏の顔を見ると、「心配するな、無傷だ。開けてもいないよ」と心外だといわんばかりに顔を顰め、直ぐにその表情を崩して笑った。
「それを君に渡す。読むのも捨てるのも君の自由だ。今ここで読みたいのならば、そうしてもらって構わない。私は次の予定があるので今から外に出るが、事務所に人は残っているから、帰る時に先程の彼に声をかけてくれればいい。今すぐ戻るのなら、下まで一緒にどうだい?」
「あ、いえ……」
 視線を下げた先で、二通の手紙と目が合う。
 一体ここに何が書かれているのか。正直読むのが怖かった。
 どうすればいいのかわからず、考える事さえ出来ず、俺は田島氏と目の前の手紙を交互に見る。
「どうするのか、ここでゆっくり考えるのも手だ。では、私は先に失礼するよ」
「あ、あの、」
 席を立つ男を、同じように腰を浮かせ呼び止めたのはいいが、何を言うべきなのかはわからなかった。だから。
「ありがとうございます」
 そう言ったのは、心からのそれではなく、ただ経験上知っている無難な言葉として選ばれたに過ぎなかった。
 しかし。
「……いや、礼を言うのは私の方だ」
 短い沈黙後、神妙な面持ちでそう応えた田島氏は、真っ直ぐ俺を見ると少しはにかみながら言った。
「彼を、真幸くんを想ってくれてありがとう。荻原さん」
 きっと。
 きっと男には、尻の青い若造の心の中などお見通しなのであろう。人を見る事に長けた弁護士が口先ばかりの礼を見破れないわけがなく、まして取り繕う余裕のない今の俺の内面など、顔を見ずともわかるものなのだろう。だが、それでも。
 俺と違って心の底から向けられたのだろう、その思いが。嫌いだと言い切った相手に、それでも真っ直ぐと示されたその心が。固まった俺の心を揺さぶり動かす。
 静かに閉じられた扉を呆然と見ていた俺は、内から起こる震えに両手で体を抱きながら椅子に腰を降ろした。自然と体は前屈みに丸まり、まるで膝に噛み付くかのように、音にはならない叫びを俺はあげる。自分の頭の中が、身体の中が、わからなかった。何かが駆け巡っているようでもあり、全てが止まったかのようでもある、大きくて静かな震えに飲み込まれる。
 もしかすれば。
 先程読んだ手紙はあの男の為に書かれたものでしかなく、本当はマサキの本心など何ひとつとして書かれていないのかもしれない。そんな思いが頭に浮かぶ。そう、後見人を心配させない為に書いただけで、自分への手紙には全く別な事が書かれているのかもしれないと考えてしまう。
 それでも、俺は彼の手紙を読まなければならないのだろうか。
 決して、マサキは陰険な性格だった訳ではない。俺への復讐の為にそんな手の込んだ事はしないだろう。だが、それでも。田島氏への手紙は彼に心配させないが為にした行為であり、俺へのものとは全く別なのかもしれない。陰湿な事はしないだろうが、マサキが俺をあんな風に思っている証拠など、確かなものは何処にもないのだ。
 それなのに、俺はこの手紙を開けるのか。
 手にした二通の手紙は、とても薄っぺらいものだった。切手が貼られた方は開けられており、中に未開封の一回り小さい封筒が収められている。多分二通とも、先程読んだ手紙程の内容はないのだろう。
 だが、こんなにも軽い手紙が、俺にはとても重かった。
 ここ数日うなされてきた夢の断片が、頭を掠める。内容などもう覚えてはいないというのに、嫌な感じだという曖昧なものだけが駆け回る。性質が悪い。一体俺にどうしろと言うのだろう。
 捨てるのか、置いておくのか、今直ぐ読むのか。
 選択肢はいくつもあるが、すでに答えは決まっていた。だからこそ、こんなにも怖いのだろう。
 躁状態の時であれば、その後に鬱へと突入しようと、考える前に読んだだろう。田島氏へのマサキの想いを知らなければ、泣きながらでも読んだだろう。
「――あぁ、違うな…」
 頭を駆け巡っていた考えに、ふと気付く。俺はあの弁護士と自分を比べているのだと。だから、こんなにも躊躇っているのだと。
 馬鹿な考えを持っている自分に呆れると同時に、一気に苦しみが軽くなった気がした。あの手紙に書かれたマサキの言葉や思いに、俺は性懲りもなく田島氏に嫉妬し、そしてあまりにも彼とかけ離れた自分に不安を抱いたのだ。実に情けなくも、ここにきても自分勝手に都合よく、そんな風に。
 彼を殺すしかない俺とは違い、きちんと互いを想いあっている二人に、俺は疎外感を味わい、孤独を感じたのだろう。だからこそ。マサキの俺に向ける言葉が聞きたくないと思った。手紙を読み、彼の思いを知るのが怖かった。読まなければわからず、そこに何が書かれていたとしても真実であるのに、逃げようとしていたのだろう俺は。
 ただ、マサキに会いたいと思っていたのに。結局はそれも、逃げ道でしかなかったのだろう。
 そう、本当は、俺は自分に都合のよいマサキを求めていたのだけにすぎないのだ。例えば、自分を嫌いじゃないと言う彼を。迷惑だと思っていなかったという彼を。俺を好きだという彼を。飯田真幸でなければ意味はないのに、俺は俺の為の彼を求めていたのだ。
 そんな自分が情けなさ過ぎて、馬鹿すぎて。俺はもう、笑うしかないのだろう。
 そう思うよりも早く震えた喉が、涙腺をも刺激したのか、俺の頬に涙を流させた。
 今、俺はこの手紙を読まなければならないのだと、唐突に確信する。自分がどんなに卑怯であったのかわかった今ならば、マサキのどんな言葉でも甘んじて受けられる気がした。何が書かれていようと、彼を非難する事なく、殺す事なく読めるのは今しかないような気がした。

 大丈夫だと自分で思えるくらいに落ち着いたところで、俺は漸く腰をあげ、会議室を出た。腕にコートを下げた手にマサキからの手紙を持ち事務所へと顔を出すと、直ぐに気付いた青年が「お帰りですか?」と声をかけてきた。
 ペーパーナイフを借り手にしていた封筒を開けながら、俺はこのビルは屋上へ上がれるのかどうかを聞く。
「いえ、残念ながら屋上には出られないんです」
 教育が行き届いているのだろう。驚く事もなく、至って普通にすんなりと青年はそう答え、変わりに空中庭園と呼ばれるパブリックスペースがある事を教えてくれる。ガラス張りなので見晴らしが良く、この季節は昼休みになれば日光浴に集まる人が多いと説明する青年に場所を聞くと、丁度この真上だと天井を指し笑った。
 長居した礼を言い弁護士事務所を後にすると、俺はエレベーターでひとつ上の階へと上がる。案内表示に従い奥へと進むと、そこには想像以上の空間が広がっていた。観葉植物でも置かれているのだろうと思っていた俺には思わず息を飲んでしまうほどの、立派な庭園が空に浮かんでいる。一面ガラス張りの向こうは、本物の芝生なのだろう薄茶色の枯れた地面が続いていたが、きっと春になれば青々とした葉を伸ばすのであろう。
 中央に配置された池を見ると紅い金魚まで泳いでおり、思わず苦笑を溢した。ホテルではなくただのテナントビルが、一体何故ここまでこっているのか。そんな事はわからないが、ビルオーナーの心意気には脱帽だ。数年後には噴水でも出来ているのではないかと馬鹿な事を考えながら、俺はテラスに出る事はせずに、一番日の当たっているベンチに腰掛けた。
 コートを隣に置き、封筒の中から便箋を抜き取る。
 マサキの匂いが感じられる場所では、とてもではないが読めそうになかった。自分の部屋は勿論、街中でも無理だろう。冷静さを失わないところと考え、何故だろうか風にあたりながらがいいと思った。取り乱さない程度に知らない場所で、けれども落ち着ける場所などそうあるわけもなく、それならばと俺は自然に何かを求めたのかもしれない。
 外の空気を吸いながら読もうと思いやってきたはいいが、結局日向に満足し身を置いたのは、あのロフトを思い出したからか何なのか。何だか、かなり乙女チックが入っている。これが霧島なんかにばれたら、あいつは別に悪くはないと頷きながらも馬鹿笑いするのだろう。
 そんなどうでも良い事を考えながら開いた便箋は、空白の方が目立つ、味気ないとさえいえるものだった。字を追うよりも早く、あの青年らしいそれに俺は喉を鳴らす。こんなにも心構えして挑んだというのに、あっさりとそれを裏切ってくれる。
「…そう、お前ってそう言う奴なんだよな」
 忘れていた訳ではないが、やられたぜ。
 胸中で軽口を叩きながらも意識を戻した手紙には、実にあっさりとした言葉が並んでいた。自分の事はどうぞ忘れてくれと語るそれは、俺が良く知るマサキのものだった。何度も呼べよと言ったにも拘らず、頑なに一度も呼びはしなかった俺の名前がフルネームで書かれているのだけが、何とも似合わない。
 けれど。その中には確かに、言葉以上の思いが存在した。
 そして、それは二通目の手紙も同じ。
 一体、先の手紙からどれだけの日数が経ち、どのような心の変化があったのかは知らないが、記されている内容は全く逆のものだった。一通目と同じ空白が目立つ便箋に、忘れるなよとの文字が並んでいる。
【嫌だと言うのに連れ回し、ズカズカと俺の領域に入ってきたんだ。仕返しはきっちりとさせてもらう。俺は根に持つ性格なんだ、知っていたか?
 都合よく、俺の事を忘れるなよ、荻原。】
 何て奴だよと、苦笑せずにはいられないその内容は、けれども忘れていいんだと言われているようでもあった。ふざけるなよ、居ないお前が悪いんだ。忘れるさ、俺は。そんな風に俺が軽口を叩くのを見越して言っているような、少し彼らしからぬ言葉が胸に響く。
 田島氏の名前が記された封筒の消印は、俺が事故に遭う前日の日付だった。
 亡くなる数日前に、マサキはこれを投函したのだ。
 どんな気持ちでそれをしたのか。その答えは、ひとつしかないのだと俺には信じられるものだった。
 目の前に広がる緑と都会の景色から視線を上げ、俺は空を見上げる。
 彼もよく、空を見ていた。直接床に座ったり、ソファに寝転がったり、窓枠に凭れかかったりしながら。俺の部屋から見える空を眺めていた。何もない空を、満ち欠けする月を、流れる雲を。
 痺れを切らし俺が声をかけるまで見続けていたその姿を思い出し、俺は小さな笑いを落とす。
 自分をなくさねばならなかった者と、大切なものをなくしてしまった者とでは違うのかもしれないが。
 視界に広がる味気ない空に、俺はマサキが見ていたものが何なのか、少しわかった気がした。


 ビルを出てからクリスマスソングが流れる街を泳ぎ、冬だというのに客の絶えないオープンカフェに座っていると、いつの間にか堂本が傍にいた。探したのだろうに小言のひとつも言わずにテーブルに付き、俺が飽きずに眺めていた街に視線を移す。
「子供の頃は、この季節が嫌いでしたね」
 おもむろに口を開いた堂本の声は、数時間前の車内でのわだかまりなど全く感じさせない、柔らかいものだった。
「急に華やかになる街が嘘臭く、まるで大人のようだなと思っていました。外見ばかり取り繕った大人は、私のような青いガキには敵だったんですよね。でも、多分それよりも、賑やかさが終わる寂しさを知っていたから好きじゃなかったんでしょうね」
「達観した爺臭い発言をするな、辛気臭くなる」
「酷いですね」
 顔を見合わせ、笑った。そして、二人揃って聞こえてきた音楽に耳を傾け同時に口を開く。
「英語じゃないな、これ」
「聖この夜、ですね」
 多分誰もが知っているだろうクリスマスの定番曲は、珍しくドイツ語の歌詞で流れていた。有線なのか店のCDなのかは知らないが、思わず合わせて口ずさんでしまう。
「Stille Nacht, heilige Nacht」
「何です?」
「ドイツ語だよ。英語で言うところの『Silent Night, Holy Night』だな」
「よく知っていますね」
「大学の独語講義で歌わされた。10年近く経つのに、覚えているもんだな。」
 堂本と話しながら、ふと俺はマサキと過ごした時はまさに聖夜の様だったなと思いつく。
 この街並みのような祭りではなく、本当に奇跡が起こりそうな、厳かな気分になる夜。何も起こらなくともこの夜こそが奇跡なのだと感じるような、特別な夜。昔のゲルマン人達が行っていたような、神の木を前に祈りを捧げる為の、そんな静かな夜。
 実際には、マサキを相手にする時はいつも俺は彼をからかい、とてもではないが静粛な時間とは言えないものだったのだろうけれど。俺は確かに、苦しくても辛くても、幸福だと言える空間の中にいた。まるで祈りを捧げる信者のように、その一瞬は無心に彼を想っていた。
 聖なる夜とは言いすぎだろうが、マサキと過ごした時は正にそんな夜のように、俺達は奇跡の中にいたのだ。
 考えてみれば、相容れるはずもない俺達があんなにも近くにいたのだから、あながち思い過ごしではないのかもしれないそれに俺は笑いを落とす。俺達って凄くないか?と、記憶の中の彼に語りかける。
 馬鹿だと一笑するマサキの顔が見えた気がして、俺は不覚にも涙を零してしまう。
 いや、それは、居なくなってしまった彼にこんな風に穏やかに語りかけるのは初めての事だからだろう。俺はとっくに、彼の死を受け入れているのだ。ただ、そんな自分が可哀相で、馬鹿みたいに過去の自分にしがみ付いていた。だが、それももう必要ないのかもしれない。
 スーツの胸ポケットに入れた二通の手紙を感じながら、俺は口を開く。
「堂本」
「はい」
「あいつはちゃんと、俺の事を想っていてくれていたよ」
 頬杖を付き街を見ながら涙を流す俺の言葉を、堂本は静かに聞いていた。知っていますよと言うように、彼が微笑んでいるのが俺には見なくてもわかった。
 そう、そんな事は俺もわかっていたのだろう、初めから。マサキと出会ったその瞬間から、自分を想ってくれている事はわかっていたのだ。病の事で自棄になっていたとは言え、あの彼が俺の中に入ってきたのだ。自分の体の事を知られる危険を冒してでも、俺の部屋に住みついたのだ。考えずとも、彼にとってどんな存在であったのかわかるというものだろう。
 けれど、俺には。悲しみに取り付かれた俺には、マサキの事を考える余裕などなかった。いや、考えたくはなかったのだろう。何も知りたくはなかった。それは多分、罪悪感から逃れる為の俺の狡さだったのだ。彼に疎まれている、憎まれていると考える方が楽だった。何も出来なかった自分に言い訳が立った。想われていた事を知るのが、怖かった。都合よく逃げる道を選んだ俺を、瞳は知っていたのだろう。堂本もわかっていたのだろう。だからこそ、彼らは俺を叱責した。もしかすれば彼らの方が、マサキの事を想い、考えていたのかもしれない。
 なんて自分はこの数ヶ月、情けない行いをしていたのだろうか。
「お前じゃないけれど。俺も、あいつに恥じないように生きたい」
「出来ますよ、貴方なら」
「ああ、やるよ俺は。やってやるさ」
 何を真面目に男二人でクサイ話をしているのかと俺は喉を鳴らしながらも、自分の中に熱い何かが沸き上がりだしたのを確かに感じた。それが生きる力なのか何なのかはわからないが、マサキの温もりを思い出す。
 何度か抱きしめた彼の体は、心が痛くなる程細く弱々しかったが、それでも温かかった。
 きっと、それは体温とかではなく、彼の命そのものだったのだろう。

 失ったそのものの大きさは変わらないが、けれども俺は漸く、自分の心にも彼と同じ温かさがある事に気付く。
 俺の中にも、マサキは確かに生きている。

2005/04/27