5

 二日続けての雨だった。一気に冬が来た様に気温は低く、薄っすらと曇ったスモークガラス越しに見える街はいつもよりひと気がなく物足りなさを感じる。普段は腐るほど居る人間に嫌気をさしていると言うのに、勝手なものだ。
 信号待ちで車が止まったのに気付き前を見ると、ワイパーが落ちる雨を拭っていた。だが、いくら拭いはしても直ぐに大きな雨粒がフロントガラスを叩く。忙しなく動くその向こうに、色とりどりの傘の群れが見えるが、それは太陽の下で見るほども生気を感じない人の波だった。地面に溜まる水を跳ねながら掛けていく学生達もどこか印象が薄く、まるで昔の音のない映像を見ているかのようだ。
「社長、少しよろしいですか」
 車が発進すると同時に、助手席に座る堂本が振り返る事もせず声を掛けてきた。問い掛けのつもりは更々ない、強い口調。普段なら名前を呼ぶであろう場面でのそれが何を示しているのか、聞かなくとも簡単に想像が出来た。運転席に座るのは田端であるのだから、堂本があえてこの場で話題にする事などひとつしかない。
「いつまで日下さんを、ご自分に都合よく利用されるおつもりです?」
 案の定、俺の反応を見る事もせず、堂本は言葉を続ける。
 しかし。俺にとっては予想通りのそれに、田端の方が息を飲み口を挟んできた。
「堂本さん…!」
「お前は、黙っていろ」
 二の句を吐けないそれは、完全な命令。だが、上下関係にあるとはいえ、個人的な話題であるのは明らかであるのにそれを通そうとする堂本と、従う田端。俺を嵌める演技でなければ単なる馬鹿でしかないと、とんだ茶番劇の幕開けに俺は低い笑いを溢す。
 堂本の発言に動揺し田端が口を挟んだと言う事は、彼には上司の行動に思いあたる節が充分にあるのだろう。ならば、田端本人が堂本に泣き付いたなどと言うはずはなく、堂本が田端を引っ掛け何らかを吐かせたのであろう。そして、その内容が面白くなかった堂本がここであえて俺に話を振ったのであり、この中で一番の被害者は田端自身だ。ふざけた命令に黙って従い口を閉ざすなど、どう考えてもやはり馬鹿げている。だが、それを判っていたとしても今の俺に彼を庇う気は更々ないし、何より困惑しつつも田端自身が堂本に頼っているのかもしれない疑いを完全に消し去りも出来ない。
 他人の色恋に首を突っ込むつもりは、俺には更々ない。それは瞳に対しても同じ事。だが、しかし俺は何処かで、田端の存在を面白くはないと思っているのも事実なのだろう。
 否。存在ではなく、彼らの互いを想うその気持ちが、俺に遣る瀬無い感情を抱かせる。だからこそ、惑わせるような言葉を吐き、まるで邪魔をするかのように田端と向かい合ってしまうのだろう。
 自分の態度がおかしいのは、自身でわかっている。だが、それをどうする事も出来ないのだから仕方がない。しかし俺はそうであっても、相手は何もその理不尽に耐える必要はないのだから、言い返せばいいのだ。俺を心配する瞳なら兎も角、田端が、謂れのない牽制をまともに受取る方がおかしいのだ。
 田端が堂本のように俺に食って掛かるなど、そんな芸当が出来るわけがないのを知っているというのに、俺は挑発的にバックミラーに映る運転席に座る男を見、必要以上にゆっくりと言葉を紡いだ。
「田端、堂本に何か話しをしたのか?」
 受身一方の男を怒らせてやりたい感情が、胸の中に沸き起こる。
 そうして、向かってきた男を叩きのめしたくなる。
「私に話されて困る事を、貴方は彼に言ったのですか?」
 僅かに目を細め表情を変える田端を助けるかのように、直ぐに堂本が俺に言い返してきた。明らかに苛立ちを含んだその声に、俺は胸中にある澱を隠し、飄々と口元を歪め笑いながら肩を竦める。
「いや、別に。瞳に関する事で、俺は嘘を言った覚えはない。お前に聞かれても問題ないさ」
「ならば、話すべき事を言わなかったのでしょうかね。田端は貴方と彼女の関係を誤解しているようですが」
「誤解? 俺と瞳が噂のような関係だと? そんな事はないと随分前に言ったように思うんだがな、田端。俺はお前に言わなかったか?」
「…聞いています」
 応えても良いのか、堂本を窺うような間を作った後、田端は確りとした声でそう言った。それは、当然だろう。俺もそうだが、瞳自身、田端に何度も言っている言葉だ。俺との間に恋愛感情など全くないと、単なる噂でしかないのだと、必死に彼女が田端に語っている姿を俺自身も見た事がある。
 瞳と田端の仲に初めて気付いた時、俺は正直喜んだ。しかし、部下の恋愛に口を挟む気はなく、瞳の気持ちを応援してはいたが、傍観者に徹していた。だが、いつまで経っても煮え切らない田端に痺れを切らし、冗談半分にからかった事もあれば、単なる話題としてだが自分と瞳との関係を語った事もあった。でしゃばった真似をしているなと反省をした事もあったが、田端にははっきり言う方が効果はあるだろうと、余計な事をして瞳を困らせもした。
 もとはといえば、瞳と自分との関係を誤魔化し、周りを利用していたのは俺なのだから、それくらいのフォローはして当然の義務だった。血迷っても上司のオンナに手を出すような男ではない田端に、一番の効果を与えられるのは俺しかなく、実際に役に立っていた。そう、間違った事はしてはいないのだ。事実、田端も、俺と瞳の関係を理解し、納得しようとしているようにも感じた。
 だが、しかし。
 田端がそれをする前に、考えを改めさせねばならないような事態が発生した。
 自棄になった俺が、彼らの想いを複雑にした。
 自分がこうなれば、瞳がどうするのか、田端が何を感じるのかわかっていながら。俺は、己の感情を優先した。
 確かに堂本が言うように、俺は彼らの関係を壊そうとしているようなものだろう。しかし、それは恋愛には参加しない俺をそこに組み込むから、そうなってしまうだけなのだ。瞳と田端の想いに変わりはなく、また俺と瞳の気持ちにも変化はないのだから、一緒の目で見る方がどうかしているのだ。
「確かに、俺は瞳が好きだ。大事な人だ、大切にしたい。多分あいつはあいつで、俺をそう思ってくれているのだろう。だが、だからと言ってそれは、田端と同じものじゃない。俺はあいつを抱きたいとは思わないし、その気もない。確かに、これでも一応男と女なんだから、何かが起こる可能性もなくはない。明日、明後日のそれは完璧に否定出来るが、十年後二十年後まではわかるわけがないだろう。だから俺は、今現時点での考えしか言葉に出来はしない。それが不安だとか信用ならないと言われても、それ以上の話は俺には無理だ」
「話をすり替えないで下さいよ。そんな事は聞いていないでしょう」
「だったらなんだよ」
「誠意を示して下さい」
「誠意?何だよ、それは。馬鹿馬鹿しい」
 その俺の言葉を何に対してのものとして捕らえたのか、堂本が振り返り強い視線を向けてきた。それを受け止めながら俺は、言いようのない疲労を覚える。脱力感に襲われる体を何とか起こし、対峙する様に腕を組む。
「田端を迷わせて、楽しいですか? 日下さんを引き止めて、満足なのですか? 貴方は、一体いつまで、そうしているつもりですか」
 田端と瞳の事だけではなく、俺自身に対するその質問は、この数ヶ月何度も何度も繰り返されてきたものだった。だが、ここに来てのそれは、立ち直って欲しいという願いからくるものではなく、もうこの男は駄目なのだという堂本の決意が滲んでいるように感じられた。
 子供の頃から傍に居続けた男が、俺に見切りをつけようとしている。しかしそれを悟っても、自分の不甲斐なさで堂本を減滅させてしまった事は申し訳ないと思いもするが、漸くこの時が来たのかという感慨の方が強かった。やはり、俺は捨てられる事を望んでいたのだと、今更ながらに実感する。
 あの青年を失った苦しみを、こうする事でしか紛らわせられない自分が何とも滑稽ではあるが、大切なものをなくす事により楽になれるそんな方法が本当にあるのだとこの歳になって俺は知る。どんな状況でも、逃げ道は必ず存在するのだ。絶望のどん底にも、更に外れた道がある。
「堂本」
 俺は今までに何万回も呼んできたのであろうその名前を、今までとは少し違う声音で呼んだ。変わったのは堂本なのか俺なのかはよくわかりはしないが、状況の変化だけではない違いが、いつの間にか俺達を隔てている。
「お前が、初めから瞳との事を面白く思っていないのは知っている。だが、田端の事はそれとは別だ。一緒にするなよ」
「別ではないでしょう」
「いい加減にしろよ。部下思いなのは良い事だが、度が過ぎていないか?上司が色恋に首を突っ込んでどうする。そんな事まで面倒見るなよ、馬鹿げているぞ」
「それを貴方がいいますか、社長」
「ああ言うよ、何度でも言ってやるさ。良く聞けよ。田端と瞳の関係は、俺には全く関係のない事だろう、違うか?それに俺を巻き込むな。田端があいつをどう思っていようと、あいつが田端をどう思っていようと、俺とあいつの関係は変わりはしない」
「だから、おかしいと困っているんでしょう。二人の事に首を突っ込んでいるのは貴方だ。一体いつまで、日下さんに甘えるつもりですか」
「それこそ、俺とあいつの事であって、お前にも田端にも関係ない」
「そういう訳にはいかないでしょう。子供のような事を通そうとしないで下さい」
「煩い。お前こそ、何の関係があるっていうんだ。瞳にあの家を与えたのが、そんなに気に入らないのか。今ここで、昔話をしたかったのかお前は」
「そんな話はしていません。確かに、私にとってはあまり面白くないものですが、貴方が望むのならそれで良いんです。しかし、今は昔のままじゃない。状況は変わっているんです。いい加減気付いて下さい」
「わかっているさ。だが、田端自身が、自分の女の周りにいられたら鬱陶しいんだと俺を怒るのならいざ知らず、どう考えてもお前が口を挟む事じゃないだろう。第一、田端はどうなんだ。俺があいつの傍にいるのは気に入らないのか?瞳はお前の所有物なのか?」
 堂本と言い合う勢いそのままに、俺は矛先を車を運転する男へと向ける。
「…いえ」
「俺は、お前と瞳の邪魔をしているのか?」
「……いいえ」
「瞳はきちんと自分の気持ちを伝えているのだろう。ならば、お前がただ煮え切らないだけじゃないのか」
「……はい」
「だそうだ、堂本。なら、これは一体何なんだろうな。こんな話に何の意味がある」
 何をどう言葉を交わそうと、誰の心も変わりはしないのに。
 口には出さず飲み込んだその言葉は、けれども他の二人にも充分に伝わっているのだろう。一番変わりはしないのが、俺のこの傲慢な態度なのだ。
 田端にすれば、自分が悩んでいるというのに、あっさりと瞳の気持ちをよく知っていると語る男など、腹の立つ存在でしかないだろう。だが、恋愛を抜きにすれば、仕えると決めた上司なのだ。簡単には割り切れない感情を飲み込まねばならない相手であると、気持ちを押さえ込む。それは怒りだけではなく、肝心の瞳への想いをも抑えるのだから、始末が悪い。不器用とそう言ってしまえば終わりなのだろうが、俺がそんな田端を支えるのではなくこうして更に踏みつける立場になってしまっては、そんな言葉で簡単に処理など出来なくなってしまう。
 田端の葛藤は、俺とて充分に感じているのだ。だが、それをどうにかしてやる事は、今の自分には出来ない。だからこそ、堂本がこうして、田端の側につくのだ。それがどう言う意味なのか、それも嫌というくらいに、本当はわかっている。堂本は自分が俺に怒りをぶつける事で、田端を抑えているのだ。確かに彼自身が俺に苛立っているというのもあるだろうが、それだけならばこうして部下の前で俺を詰りなどしない。
 これが一番良い方法だと実行した堂本の判断を、俺は間違っているとは思わない。腑抜けた俺に下の者達が何を感じ何を思っているのか、堂本はこの数ヶ月常に感じ続け悩んできたのだろう。だが、それでも。俺はそんな彼に協力する事も出来ないのだ。
「田端、本当にこれで良いのか?」
 短い沈黙後、堂本が静かな問い掛けを発する。
「自分は、社長を裏切る事はしたくはありません」
「裏切りってなんだ。日下さんはお前を想っているし、お前も同じだろう。それのどこが、裏切りになる」
「――彼女は、社長を想っている。そして、それは…自分も同じです」
「本気か、田端?」
 だから、身を引くとでも? なかった事にするとでも?
 そんな堂本の問いかけに、けれども田端はきつく口を結んだ。
 納得したわけでも、諦めたわけでもない、言葉とは裏腹な男の表情を見ながら、俺はゆっくりと目を閉じる。瞼の裏に、しっかりしなさいと俺を叱る瞳の顔が浮かんだ。
 黙っていればこのまま終わりを見ただろうに、考える前に俺の口からは言葉が落ちていた。餓鬼のように純粋な堂本の言葉と馬鹿みたいに真っ直ぐな田端の態度に、自分でもよくわからない衝動を感じ突き動かされる。
「俺は確かに裏切るなと言ったが、お前が出した答えはそれか? 俺はあいつが大切だ、大事にしたいと思うし、実際にそうしているつもりだ。お前は俺のその気持ちを知っていてそんな答えを出したのか?」
「社長…」
「お前が瞳の事を何とも思っていないのなら、それでいい。あいつが振られて泣くのも、それは仕方がない事だ。裏切るなと言ったのは、何も気持ちに応えてくれという意味で言ったんじゃない。あいつに対して不誠実な態度をとるなという意味だ。俺はあいつが大切だから、だからお前にそう頼んだんだがな。その結果がこんな馬鹿げた茶番なのか、おい」
 俺が言った言葉を噛み砕くように、田端が沈黙を作る。その隣で堂本は難しい顔を崩す事無く、俺に冷やかな視線を向けてきた。初めから、それだけを言えば良かったのだと、その眼が非難している。しかし、それは無理な了見だ。感情のままに動いている今の俺に、それは出来ない芸当である。
 所有ビルの駐車場に停車すると同時に、田端は俺を振り返り口を開いた。
「社長、俺は、」
「もういい、田端。お前は勝手にしろ。俺が自分の立場を弁えずに無理を言ったのが悪かったんだな、許せよ。――これで話は終わりだ」
 そう言い捨て車を降りた俺に、それでも田端は声を上げ何かを言いかけたが、勢いよく閉じたドアの音にそれは掻き消された。車内で堂本が田端を抑える雰囲気を背中に感じながら、エレベーターを目指す。
 瞳を彼に渡したくはないという思いは、全くない。だが、彼女が俺を大切にしてくれるその思いを、他には向けさせたくはないと俺は常に思っているのかもしれない。田端自身は、瞳のその思いを邪魔する事はないだろう。しかし、それでは俺のプライドが許さない。
 矛盾だらけもいいところだ。
 事務所に顔を出す予定になっていたが、俺はそのまま自室へと向かった。堂本がこの機会にとまだ話を続けるのだろう事を予想し、ひと気のない場所を選ぶ。予想通り、俺が靴を脱いだ所で、玄関のドアが開いた。
「チャイムぐらい鳴らせよ、礼儀だろう」
「今の貴方に、それは必要ないでしょう」
「何を怒っているんだ。田端にはきちんと言ってやっただろう。お前の望んだように尻も叩いてやった、充分だろう。これからの事は、あいつ自身の問題だ」
 逃げるように奥へと進む俺の後を、静かに声を荒げながら堂本は追ってくる。
「今まで散々かき回しておいて、良く言えますね」
「お前は何をそんなにムキになっているだ。瞳も田端も大の大人だぞ。たとえ俺を障害だと感じても、想いあっていて二人が望むのなら、何だってどうにでもなるだろう。お前が手を貸すなんて馬鹿げている。女房も年頃の娘もいる四十の男が、初心な小娘みたいな事をぬかすな」
「私だって言いたくはないですよ、こんな事」
「なら言うなよ」
 吐き出す言葉を叩きつけるように、俺は堂本を振り返る。
「もういいだろう」
 いい加減、こんな無意味な言い合いは止めようと、俺は苛立ちに染まる目に訴えた。引っ込みがつかなくなっているだけなのなら、ここで終わりにしようと。だが、堂本は引く事はせず、俺を真っ直ぐと見返した。
「自分は関係ないと言うのならば、それ相応の態度をとって下さい」
「どう言う意味だ」
「田端の事も、日下さんの事も。わかっているのなら、馬鹿げた事はしないで下さい。貴方こそ、子供みたいだ」
「……何が言いたい?」
 堂本の視線を受けていられず、俺はソファに腰を降ろした。そう軟らかい物ではないのに、体がそこに沈み込む感覚に襲われる。もう二度と立ち上がれないかのような深みに埋まっているようで、休まるはずの体が逆に硬くなった。
 こんな些細な事にも自分は囚われてしまうのかと嫌気を覚える俺に、堂本の言葉が降ってくる。
「田端の気持ちを知っていて、裏切るななどとよく言えましたね。日下さんに甘えるのは、いい加減辞めるべきなのではないですか。限度を越えているのは、貴方の方ですよ、仁さん」
「お前はそればかりだな。何かと言えば、日下さん、日下さん。瞳と俺の関係は、今に始まった事じゃないだろう。お前は良く思わずとも、あいつが納得しているんだ良いだろう。それとも、瞳に泣きつかれたのか? 確かにあいつなら、俺との噂を嫌だと愚痴りもするだろう。だが、女なんてそんなものだろう、間に受ける方がどうかしている。本当に困っているのなら、あいつは俺に言うさ。気晴らしになるからそう口にする程度で、実際は問題なんて感じていない。当人である俺達がそうなのに、部外者のお前が口を挟むのか?そんなに俺達の関係はいけないのか?」
「私はそんな事を言っているんじゃない。貴方自身が問題だと、そう言っているんです」
「話にならないな」
「ならないのは貴方の方だ」
「確かにそうかもしれないな。だが、俺はな、堂本。今のままでいいんだよ。俺自身がそう思っているんだから、お前のそんな言葉じゃ変えられない」
「私の言葉は、届きませんか」
「…届いているさ。ただ、俺はそれを受取らない。それだけだ、お前が悪いわけじゃない」
 俺は怒気を消し去り静かにそんな言葉を紡いだ。残酷だと、これは裏切りなのかもしれないとそう思いながら、傍らに立つ堂本を見上げる。
「悪いとは思う。だが、出来ないものは出来ない」
 お前が何を気にしているのかはわかっている。だが、俺には無理だ、応えられない。もう、放っておいてくれないか。
 言葉にはしないが、はっきりとそう目で語りかけると、まるで泣きはじめる子供であるかのように堂本の顔が歪んだ。
「何故、こんな…」
 数瞬の深い沈黙の後、言葉を途中で飲み込んだ堂本に、俺は静かに笑いかけた。
 こんな言葉しか吐けない自分を、誰よりも俺自身が一番軽蔑している。だから、堂本が嘆く必要など何処にもないのだ。自分の躾方が悪かっただとか、自分の力不足が原因だとか、そんな風に己のせいにして痛みを覚える必要はない。俺が駄目なのは、俺自身のせいなのだから。俺の気持ちが、彼以外に向かないのが原因なのだから。
 これ以外の理由など何もないのだと、俺はゆっくりと口を開く。
「簡単な事だ。俺が、マサキを好きだからさ」
「……」
「お前に、俺の辛さがわかるだろうか。本気で惚れていた相手に何も言えず、あんな形で唐突に別れを突きつけられたんだ。ちょっとばかり精神がおかしくなっても、仕方がないじゃないか。それなのに、お前は責めるのか?俺が弱いとでも?」
「貴方は、錯覚しているだけです。突然彼に死なれて、自分の想いを勘違いしているんです。親しい友人が死ねば誰だって悲しい。まして、負い目があれば、尚更辛い。その想像以上の痛みを、色恋に変えて自分一人が満足しているんじゃないですか? 私には貴方が自ら進んで辛さに酔っているだけのように見える」
 あまりの言い草に、俺は思わず腹を抱えて笑った。こうとしか言えない堂本の立場もわからなくはないが、それを差し引いても可笑しさが込み上げる。何も知らない奴が言うのならいざ知らず、俺の傍にずっといた男が言う言葉ではない。
「そんなわけないだろう。それは、お前が一番良く知っているだろう。俺があいつにどんなに惹かれていたのか、どんなに惚れていたのか。お前は俺以上にそれを感じ、恐れていたのだろう。だからこそ、あいつに言ったんじゃないのか? 俺の前から消えてくれ、とな」
「やはり、貴方は私の事を、」
「お前のした事は、何とも思っていない」
 憎んでいるのかと続けようとしたのだろう言葉を遮り、俺はそう言いきる。その気持ちは、建前ではなく本心だった。何より、堂本の言動を恨む資格など俺にはない。
 彼に対し堂本が言った言葉は、確かに胸が痛くなるものだ。だが、それを堂本に言わせたのは、多分俺なのだろう。そう、堂本は俺の為にやったのだ。そんな彼を今になって詰れるほど、俺は正しい人間ではない。俺があの事に関し思うのは、ただ、消えてくれと言われた青年が何を感じ何を思ったのか、彼につけてしまった心の傷の事くらいだ。
 俺はそうやって、どれだけの傷を彼に刻み付けたのだろうか。
「間違いだったとも、思っていないよ。だから、気にするな」
「仁さん…」
「堂本。俺はあいつが好きなんだ」
「だが、彼はもう――この世にはいません」
「ああ、そうだな。知っているさ。俺は、都合よく狂ったわけじゃない。あいつが死んだのは、充分過ぎるほどによく判っている」
「なら、いい加減にしたらどうですか。俺も他の者も、いつでも貴方のフォローが出来るとは限らない。自分で立たねば、今のままでは直ぐに足元をすくわれますよ」
「そうかもしれないな」
「他人事ではないんですよ、仁さん」
「だが、それでも俺は。あいつを愛しているんだよ、堂本」
 お前に減滅されようと、誰に見限られようと。この気持ちは変わらない。
 本人には言えなかった言葉を、彼を切り捨てようとした男に告げる。だが実際には、俺は本当にあの頃と変わらず彼が好きなのか、よく判らなくなってきている事にも気付く。
 夢を見る度苦しめられ、現実を知るたび泣かされ、俺の中のあいつに対する想いが少しずつ歪んでいるのもまた真実なのだろう。だが、それでも。
 俺はマサキを愛しているのだと、そう言っていたい。
 そうすれば、それが全てだと自分を騙せる気がする。
 周りなど、見なくていいような気がする。

 しかし、その免罪符は、何よりも彼を冒涜するものである事も俺は知っている。
 堂本が許せないのは、多分、そんな俺なのだろう。

2005/04/01