10

 暖かな光りが瞼を突き破り、俺の目を刺激する。
 落ちそうになる欠伸を噛み殺しながら起き上がり、俺は身体にかけていたジャケットに腕を通した。腕に嵌めた時計を見ると、まだ時間的には余裕があったが、寝入ってしまったら簡単には起きられないだろうと陽だまりを離れる。解れた髪をかきあげると、そこは僅かに湿り気を帯びていた。思い出したように寒い日もあるが季節は着実に春へと変わっており、風のあたらない場所で日光浴をしていると、しっとりと汗ばんでくるほどだ。
 梯子を使いロフトから降り、リビングに置かれている姿見で身繕いを整える。鏡に映る自分はどこか無防備で、眠気眼の顔を軽く笑いながら、しゃきっとしろよと両手で頬をパシリと叩く。数度それを繰り返し、ポケットから取り出した草臥れた煙草を銜え、少し考えてから俺はキッチンにむかい冷蔵庫を空けた。不味い煙を吸うよりはこの方が良いと、缶ビールを一本頂戴する。
 シンクに凭れ、冷たいアルコールを僅かに火照った身体に流し込んでいると、携帯電話が音をたてた。あと30分ほどで迎えに行くので用意をしておいて下さいと、堂本の笑いを含んだ声が俺の耳に届く。
『きちんと顔、洗っておいて下さいよ』
「煩い、起きているぞ俺は。寝てはいない」
『…社長、呑んでいますね?』
「否、全然」
 何故、どうしてわかるのか。片頬を引き攣らせながらも否定した俺の言葉は、缶の中の泡よりも早く消え去り、短い沈黙が落ちる。堂本に飲酒を気付かれるようなヘマは絶対にしていない。それなのに何故、この男の勘はこんなにも働くのか。
 まさか、盗聴器だとか隠しカメラだとかあるわけはないよなぁ。そんな馬鹿な考えに、けれども笑えないなと思う俺にむかって堂本は溜息を落とし、「寝ぼけ顔よりもっと性質が悪いですよ、それ以上呑まないで下さい」と小言を口にした。そして、顔を洗い、少し休んだら表通りまで歩いて来て下さいと待ち合わせ場所を変更して通話を切る。反論など出来はしないその素早さに、ただの軽口ではなく本気の色が濃い事を俺は教えられた。陽射しは強くなってきたが、風はまだ冷たさを含んでいる。冗談ではなく、外の空気を吸って酔いを醒ませと、そういう事なのだろう。
 だが。たかが缶ビール一本で、それはちょっと遣り過ぎだ。昔から、自分に対して信用というものが極端に薄い男に、俺は顔を顰め舌を出す。堂本は信じている信頼していると良く口にするが、それ以上に態度はその反対を示すものが多い。あと2ヵ月程で28歳になる男相手に母親でも言いそうにない小言を言う男に、俺は溜息を落とす。馬鹿な事をしてと一蹴するだけならまだしも、後の事を心配して対処を与えるなど、過保護すぎるだろう。
 たとえ、俺が赤い顔でこの後の会合に出ようとも、誰も堂本の管理不足を責めはしない。もし責められたとしても、堂本自身は己に対する評価などさほど気にはしないだろう。彼が気にかけるのは、ひとえに俺の評価だけだ。会合に出席する面子を考えれば、隙のある俺自身が非難を浴びるだろう。堂本が心配をしているのは、自身ではなく俺なのだ。
 それがわかっているからこそ、逆らえない。だが、同時に気も重くなる。いい加減にしてくれと、以前のように突っぱねようとは思わないが、納得出来ないシコリが胸に溜まる。
 それでも、残り少ない缶の中身を流しにあけ水を飲み、俺はリビングのソファに腰を下ろした。堂本の言う事をきくのは、癪ではない。彼の言葉は正しい。だが、胸のシコリがやけに重く感じる時がある。結局、再び煙草を取り出し口に銜えると、俺は不味いと知りながらもそれに火をつけた。
 決意をしたは良いが、そう直ぐに立ち直れるはずもなく、俺は未だに浮き沈みの日々を送っている。けれども、年が変わる前のように沈みきる事はいつの間にかなくなった。多くの日は以前と同じように仕事に打ち込んでいる。周りの意見に耳を傾ける余裕も出てきたので、これは使えると堂本あたりに思われたのか、フルタイムで働く日々だ。
 だが、焦燥感が胸を締め付けてくる日がなくなったわけでもない。何かのきっかけで、気力が失われる事がたまにある。それは、誰かの言動だったり、マサキの夢だったり、自分の過ちだったり理由は様々だが、そういう時は間違いを犯す前に仕事は任せ、ひと時の休みを取るようにしている。こんな風にこのロフトに来てみたり、マサキと行った場所を訪れてみたり、それこそ彼の墓参りに行ったりと他愛ないものだが、鬱を遠ざける作戦としてはそれなりに効果を現しているのだろう。
 そんな中で俺が思うようになったのは、多分、十年後も二十年後も、俺はこんな風に喪失感を持て余し沈み込んだりしているのだろうと言う事だ。いい加減にしなければならないと、鬱に入る自分を否定していたが、最近はたまには良いだろうと思うようになった。確かに、完璧に回復出来るのならば、一人の人間を失った痛みを癒しきれるのならば、それに越した事はないのかもしれない。だが、俺自身が切らない限りは、それに期限はないのだと気付いた。たとえ、半世紀後にしか復活しなくとも、別に間違いではないのだと思うようになった。
 そう考える事自体が、未だに逃げている証拠だと誰かに非難されようが。都合勝手な解釈で自分の心に酔われるたび、周りがどんなに迷惑をするかと嘆かれようが。
 それこそ、俺自身がそう思いたいだけなのかもしれないが。マサキなら、こんな考えを持ってしまった俺でも、眉間に皺を寄せ溜息を吐いた後、「バカだな、あんた」と苦笑してくれそうな気がする。俺には関係ないとか言いつつ、認めてくれそうに思う。
 そう、マサキならば、と。
 こんな風に。マサキ、マサキと、この世にはいない彼に拘るのは、決して誉められた行為ではないのだろう。だが、俺はそれでも、考えてしまう。思ってしまう。マサキならばと。
 以前は思えなかったのだから、多分それも前へ進んでいる証拠でしょうと堂本は言う。自分は今なおそんな風に友人の事を考えては、いつでも葛藤しています。だがそれのどこが悪い事ですかと、逆に俺に問い掛けてくる。いつかは貴方の言うように、全てを納得し受け入れ穏やかな気持ちになるのかもしれないが、それでも自分は考えますよあいつの事を。貴方もきっと、彼の事を考える。想うっていうのは、そういう事でしょう。理屈でどうこうなれば苦労はしませんよと、堂本は知った風に笑う。そんな彼を見ていると、俺もこんな風になりたいと、時々思う。
 マサキが掴めなかった未来に、俺は立っている。
 俺にとって大事なのは、それを忘れないように生きる事だ。死んだ振りをしても、どうにもならない。意味がない。たとえ救いようのない馬鹿であったとしても、情けない奴だったとしても、自分が納得出来る生き方をしたいと思う。
 それはきっと、俺だけではなく。
 マサキ自身も、そうだったのではないだろうか。
 自分の事ではなく、俺の事を。
 彼は消えてゆく自分の命ではなく、残す者達の命を想ったのだろう。ならば、彼の短すぎた命を想うのではなく、彼が想ってくれた自分の未来を大事にするべきなのではないだろうか。
 口にする程も、考える程も、それは簡単な事ではないけれど。
 俺はそんな風に生きられたらと、思う。
 田島氏に紹介して貰い会った、マサキが世話になっていたケースワーカーの男との話を思い出しながら、俺は短くなった煙草を灰皿で潰し、新たにもう一本口に銜えた。

「いや、まさか最後にあんな風に彼にしてやられるとは思ってもいなかったよ」
 元精神科医だという菊地氏は、相手に話をさせるのも上手いが、それ以上に良く喋る男だった。歯に衣を着せぬ物言いは、けれども馴染んでみれば心地良く、医療関係者としては少し逸脱した発言もすんなりと受け入れてしまう程のもので。もしこれくらい弁の立つ者が手の内にいれば、自分はあちこちに仕向けてその辺りを突つきまわしているのだろうな、などと思わず考えてしまう俺をよそに少し物騒な発言をかましてきた。
 にこやかな笑いを維持し続けているその表情は、どこから見ても本物だといえる笑みであったが、柔和な顔立ちほども腹の中は綺麗ではないのだろうというのは早くから感じていた。だが、遺族ではないがそれに近い形で会った俺に対して言う言葉としては不適切で、予想の範囲内とはいえ思わず顔を顰める。だが、そんな俺の変化を、まるで卵の中からオタマジャクシが飛び出てきたのを見た子供のように実に満足げに頷きながら笑うのだから、毒気も抜かれるというものだろう。
「僕はてっきり、書かれている連絡先は君のものだと思っていたんだよ。だが、電話をかけてみたら、友達ではなさそうな年嵩の人が出るじゃないか。いや、驚いたね。まさか後見人がいただなんて、飯田くんもやってくれるよ。綺麗な顔だと、嘘をついても妙に説得力があると思わないかい?」
 すっかり騙されていたと苦笑する菊地氏の口調は、あっけらかんとしており問題などなさそうだが、本当ならばそう単純なものではないのだろう。普通、手術や検査を行う際は本人は勿論、身内やそれに近い者のサインが必要だ。延命治療を拒否し薬を調合して貰っていただけとは言え、マサキも何らかの書類に記入した事だろう。病院側とてプロなのだから、もしそれらの中に問題があったとしても誤魔化す方法などいくらでもあるのだろうが、それを簡単に部外者に匂わせるなどありえない。しかし、家族でもなければ本人の承諾書も持っていない俺に、元とはいえ患者のプライバシーを暴露するのだから、菊地氏に守秘義務などという観念はないのかもしれない。
 あの日。マサキが病院に運び込まれた時、以前から預かっていた手紙を菊地氏は開け、そこに書かれていたように田島氏に連絡を入れたらしい。連絡相手は何度か話題に上った事のある友人なのであろうと疑っていなかった彼は、壮年の男の声に自分の失態を漸く気付かされた。
「確かに彼からは、話題になる友達の名前を聞いてはいなかったから完全に僕の早とちりでしかないんだろうが、しかし、参ったよ、あの時は本当に。連絡を入れた田島さんに尋ねても、そう言う人物に心当たりはないと言うし、彼は彼で突然の事に動揺していたからねぇ。僕は飯田くんがあんな風に変わったのは、その友人のお陰だろうと思っていたから、どうしても会わせたいと思った。だが、どうすれば連絡が取れるのかわからない。いい案を思いつかないまま、病室に駆けつけてみれば。君がいた」
 俺を見た時、彼が話していた友人はこの子だと、菊地氏は確信したと言う。
「説明出来る理由なんて何もなかったが、彼から聞いた言葉や思いが指し示すのは、君だった。たまたまそこにいたからじゃなく、僕の勘が適確に働いたんだよ。嘘じゃない」
 菊地氏のおどけた様子に小さく笑うと、「君は、とてもいい顔で笑うね」と唐突に誉められた。多分、飯田くんもその笑顔が好きだったんだろうなと、だからこそ彼はあんな風に笑うようになったんだろうと、その微笑みを思い出すかのように菊地氏は視線を空へと投げならが話を続けた。
「初めてその友人の話を聞いた時は、確か変な奴がいるんだというものだったよ。どんな人かと聞くとね、何を考え何をやり始めるかわからない子供のような奴、そう言ったんだ。少し意外だった、態々話題に取り上げた彼の友人がそんなタイプだとはね。僕は正直者だから、ついそれを指摘した。すると飯田くんは、実に嫌そうな顔をしながら友達なんかじゃないと言った。だけど、それからも時々、彼はその人物の事を話題にした。ま、僕が無理やり話させた事もあったけれどね。どんな関係かなんて詳しく聞いた事はなかったが、その人物が段々と彼の中へ入っていくのが良くわかったよ。彼の変化は、とても良いものだった。飯田くんをそんな風に変えるのだから、その人物もまた彼を思っているのが良くわかった。君は本当にいい友人を持っているね、と彼に言ったのは梅雨が開ける前の頃だったかな。初めて話題にした時のように眉間に皺を寄せ否定する事なく、彼はただ静かに笑ったよ」
 いつの頃からかマサキと毎朝連絡を取り合っていたと言う彼の言葉は、それだけあの青年を気にかけていたという確かな証拠であり、とても優しく温かかった。多分それは、こうして今頃になって漸く訪ねた俺に対する労りでもあったのだろう。
 マサキもこの菊地氏と、こんな風に笑いながら喋っていたのだろうかと思うと、何故か俺は懐かしみを感じた。
 だが、それを口にすると、菊地氏は少し瞳に寂しさを乗せながらも首を振り、笑いながら否定した。
「残念ながら、そうでもなかったね。極端に病気の事を知られるのを嫌がっていた彼だからね、病院では来た瞬間から早く帰りたいと気を張り尽くしていて、それどころではなかったよ。まあ、それでも僕は彼を捕まえ、あれやこれや話していたんだけれどね。彼の方も最初は迷惑がっていたが、病を知られている気の楽さもあったのだろう、相手をしてくれるようになった。多分それは君の影響も大いにあるのだろうが、飯田くん自身優しかったからね、僕に気を使ってくれてもいたのだろう」
 患者に気を廻させるなんて図太い性格だと、自分自身を笑う菊地氏は、マサキが変われたのは俺が居たからだと何故か断言した。
「確かに、飯田くん自身が頑張ったからこそでもあるが、君が傍にいたと言うのは大きい。初めて会った時の飯田くんは、とてもではないが、あんな風に前を見て最期を迎えるような青年には見えなかった。通院の度に彼の変化を目の当りにし、僕は人間の強さを再確認せずにはいられなかったよ」
 マサキは亡くなる二日前に病院に行き、直ぐに入居出来るホスピスを紹介して欲しいと頼んだと言う。驚いた担当医と菊地氏は、けれども彼の言葉に納得し、翌日には彼に合うセンターを見つけた。そうして、詳しい説明と手続きをしようとした日の朝、彼らは思わぬかたちでマサキと顔を会わす事になったのだった。
「ホスピスに入りたいと言われたあの日、診察室で彼を一度は見送ったんだけれど、納得はしてもやはり突然の事に驚きが消えずにね、彼を追いかけ少し話をした。気負う事もなく、飯田くんはただ自分の目の前にあるものを見ていた。そして、笑っていたんだ。なんて綺麗に笑うんだろうと、僕は初めて見た彼のそれに言葉も出なかったよ」
 その時、マサキは俺の事を話したのだと言う。
 彼が死ぬのかもしれないと思った時、怖くて仕方がなかった。彼の無事な姿を見てそれを実感出来た時は泣いてしまった。おかしな事に、自分の死期を教えられた瞬間から、俺は誰かが先に死ぬかも知れないと言う考えが、すっぽり頭の中から抜けていたんです。人は唐突に消える事があるのだと、よく知っていたのに。
 都合よく忘れていたみたいだと、マサキは告白しながら笑ったらしい。そして。その体験を、自分は幾人もの人達にこれから味わわせるのだろうと、儚げに微笑んだらしい。
「飯田くんは、それでも自分は後悔しないと言い切ったよ。病を告げない事も、黙ってこの街を離れる事も、全てを放り出し無責任に後始末を頼む事も、誉められた行為ではないけれどそれが自分の望む事だからと、子供のように真っ直ぐと言い切った。
 初めて会った時、僕は彼に、自分の為にしたい事をして生きればいいんだと言ったんだ。多分、それを覚えていたんだろうね飯田くんは。僕は今、確かに生きているのだから、ワガママであってもいいでしょう――なんて事まで言われたよ」
 そこにもまた、俺の知らないマサキがいた。だがそれは、嫉妬を覚えるようなものはなく、反対に嬉しくなるようなもので、俺は菊地氏に感謝した。そんな風にマサキを大事にしていた彼に、こんな風にマサキの一面を教えてくれた彼に、どれほどの礼を言ったとしても足りないくらいだった。
 たった21歳の青年が、人生最後の決断に、後悔はしないと果たして本気で言い切れる事が出来るのか。俺には疑わしい限りで、それもまたマサキの気配りなのかもしれないと思ってしまう。だがそれでも、彼が選ぼうとした残りの人生は、本気で悩み考え出した答えだと、命をかけてでも掴みとろうとした未来だったのだと思いたい。誰かへの遠慮や後ろめたさからではなく、彼が心の底から望んだものなのだと、俺は信じたい。
 あの時、一体自分が起こした事故が、マサキに何を与えたのか。それを考えるととても怖いが、あの日病室で見た彼の涙を、俺は受け止め続けなくてはならない。堂本に言わせてしまったあの言葉を、俺は忘れてはならない。
 彼は、俺を、信じていたのだから。
「僕は飯田くんに、あの友人にも何も言わないのかと訊いた。それで本当に後悔しないのかと。そうしたら、彼は信じているからと言ったよ。もし、性質の悪いこの秘密がばれても、ばれずに終わってしまっても、あいつは自分の道を間違ったりはしないとね」
 ふざけた奴だから、あいつが何をするのか俺には予測などつかない。もしかすれば、自分の事などあっさり忘れてしまうのかもしれないし、苦しんでしまうのかもしれない。だから、実際にあいつがどうするかだなんて俺は信じていないと、マサキはそう笑ったのだそうだ。ならば、何を信じているのかと菊地氏が問うと、信じているのは自分の考えだときっぱりと答えたという。もし、自分が思っていたのと違う事をしても、あんたはそんな奴だよと溜息ひとつ零しただけで俺は納得してしまうんだろう。考えが足りなかったのは自分だと、呆れて諦めるのだろう。だから多分、信じてはいるけれど期待はしていない、そう言う事かなと真面目な顔でマサキは言い肩を竦めたそうだ。俺は自分のこの信じていると言う思いだけで満足だから、それを裏切らせない為に強要させようなどとは思わない、と。
 この日常のまま最期を迎えたい。21歳の青年が決めたそれは、とても悲しく辛いものであったが、マサキを支えたのは多分その決意なのだろう。そうして彼はその通りに生き、満足したのか、それとも何かを納得したのか、施設に入る事を希望した。菊地氏が感じたように、たった一人で死と向き合う決心をした時とは違い、それは穏やかな選択であったのかもしれない。だが、それでも。マサキは一人だったのだと俺は思ってしまう。
 彼は、見ているこちらが痛くなるほどに潔く、自分の道を選択していったのだ。それは、全て正しいものではなく、間違いだった事も多々あっただろう。だがそれでも、彼は己の足だけで進み、最期まで歩き続けた。前を見て。それこそがマサキ自身が望み選んだものであろうと、俺は寂しいと思う。強いと思うし、またそれも弱い部分があるからこその選択だったと思いもするが、彼がそれを選んだ理由などは関係なく、ただ、切ないと思う。
 なにも一人で逝く事はなかったのだ。忘れるなよと手紙に記すのならば、もっと自分を曝け出していけばよかったのだ。それが何であったとしても、俺は受け入れたはずだ。少なくとも、こんな風に後になってから全てを知るよりも断然効果的だったはずだ。怖くて仕方がないだとか、もう怖れてはいないだとか。そんな彼の気持ちの変化を、俺は直接聴きたかった。聴いておきたかった。
 だが、もうそれも叶わない。
 だから、聴けなかった俺は、何故聴けなかったのかを考え、自分を慰める。それ程までに気を使われていたのだとか、想われていたのだとか。そして、今度は自分が彼を想う事で、一体彼に何を与えられたのだろうかと。
 思わずそんな疑問を口にした俺に、菊地氏は極めて簡単な言葉を返してくれた。
「知らないよ、僕は君じゃないからね。だが、もしも飯田くんが今の問いに応えたのならば、きっとこう言うと思うよ」
 何も要らない、今のままでもう充分だ。
 それ以上は迷惑だというように首を振るよと、菊地氏は軽く眉を寄せマサキの真似をするかのようにそんな言葉を言った。酷いなと思わず零れそうになる言葉を飲み込み同意したのは、それが俺のよく知る青年の姿であったからだろう。こちらの好意をあっさりと否定しながらも、どこか悪いと思うのか気にかける。意思は強いが押しには弱い彼ならば、本当にそんな答えをするのかもしれないと、俺は笑った。
 そんな俺に、菊地氏は別れ際、礼を言ってきた。
「君の事が気になっていたんだよ。会いに来てくれて、ありがとう」
 菊地氏はマサキに、俺のような友人を持って良かったなと言ったという。だが、俺の方こそが、こんな風に思って貰えて良かったなと、いい人に出会えて良かったなとマサキに言いたかった。そして。俺の周りに人が集まる事を不思議がっていたが、お前にも人をひきつける力がある事を教えてやりたかった。
 この俺がこんなにも惹かれたのだから、お前はスゴイ奴なんだぞ、と。


 灰皿のゴミの始末をし、俺は部屋を後にする。
 下へ降りると、本だらけの店の中に田端の姿があった。
「籍を入れたんだってな、田端。おめでとう」
 俺に気付き少し硬い表情を見せた男に笑いかけながら言うと、弾かれたように下げていた顔をあげ、音がなりそうなくらいにバチリと互いの視線が重なる。
「はい。ありがとうございます」
 どこか気まずげに再び頭を下げる男の言葉に苦笑を落とし、俺はカウンターから出てくる瞳に向かって肩を竦めた。照れているのか感慨深いのかは知らないが、田端という男のこう言うところはくすぐったくて仕方がない。
「ちょっと躾が過ぎるんじゃないの、仁ちゃん。あなたのところは、軍隊だったかしら?」
 頭を下げたままあげようとしない田端を見、瞳がふざけてそんな事を言った。だが、上下関係の度を越した男の態度に対する呆れも、多少は含んでいるのだろう。俺としては冗談にはならない笑えない指摘ではあったが、瞳と田端の関係を目の当りにし、思わず喉を鳴らす。この様子からすると、瞳が田端を攻め抜き落としたのだろう事が簡単に窺えた。
「そういう事は堂本に言ってくれよ」
「責任転換よね、それは」
 止めろよと言う風に顔を上げ瞳に目配せする田端を視界の端に捕らえながら、俺は瞳の前に指を突きつける。
「いいか、瞳。田端は俺の大事な部下なんだ。多少はこの堅さを解いてくれても良いが、お前のその脳天気振りは染さないでくれよ。くれぐれも大事に扱ってくれ。そうでなきゃ、返して貰うぞ」
「社長…!」
「何かあったら遠慮せずに言ってくれよ、田端。二人でかかっても、こいつに勝てるかどうかはわからないが、グチを聞くことぐらいは出来るさ俺も」
「何よ、彼の味方ばかりするの? 私にはもう優しくしてくれないのね、仁ちゃん」
 どんな顔をしていいのかわからない田端の表情を笑う俺に、瞳は少し拗ねたような声を出し、そうして自分でも耐えられなくなったのか声をあげて笑い出した。
「また来るよ、じゃあな」
 複雑な顔をする田端と、ツボに入ったのか笑いながら手を振る瞳にそう言い、俺は店を後にする。表では、黒猫が日向ぼっこをしていた。すっかり春の陽射しとなった外は、風が吹かない限りは日光浴に最適なのだと俺以上に知っているのだろう。丸まっている猫の頭に手を伸ばし指先で狭い額を撫でてやると、逃げもせずにニャァと小さな鳴き声をあげた。珍しく愛想をするそんな猫に苦笑を落とし、表通りへと向けて俺は足を踏み出す。
 からかいはしたが、田端と瞳が籍を入れたにもかかわらず一緒に暮らしていない事を俺は知っている。彼らにも、色々と事情があるのだろう。その色々に、少なからずとも今なお自分が加わっている事もわかってはいるが、これ以上の口出しは流石に出来はしない。迷惑をかけた分、今はただ彼らの幸せを願うのみだ。
 そして。
 そして、彼らのように。
 俺もまたきっと、誰かを好きになるのだろう。恋をするだろうし、愛しもするはずだ。一生マサキだけを想い続けるなど、俺には出来ない芸当だし、何より本人が嫌がりそうだ。だが、それでも。
 それでも、俺の中には、これから先もマサキは居続けるだろう。この切ない想いをいつまで持ち続けるのか、俺にはわからない。しかし、ゆっくりとだが確実にこの想いは形を変えていくのだろう。いつかはこの感情は記憶となり、思い出しても疼く事すらなくなるのかもしれない。けれど、どんな時でもきっと、過去形じゃなく彼を好きだと言える気がする。何年、何十年後の先でも、俺はマサキを好きでいると思う。それは、恋焦がれた想いとはまた別なものであるのだろうが、彼を想う事に変わりはないはずだ。
 同じ想いではなくとも、愛した事実に変わりはなく、都合よくその過去をなくすつもりは俺にはない。誰が何と言おうが、俺は確かに飯田真幸を愛していた。今なお、彼の姿が目の前にはなくとも、同じように想っているのだ。それは、何よりもの真実であり、消し去る事は出来はしない。忘れる事など、不可能なのだ。
 なあ、マサキ。
 俺は、お前を好きになった自分が嫌いじゃないんだ。お前は馬鹿だと顔を顰めるだろうが、俺はそんな自分が愛しくもある。
 お前に想われていた自信がそうさせるのだから、なあ、マサキ。お前にも責任はあるぞ、絶対に。だから。
 だからさ、マサキ。
 これからも俺を、確り支えてくれよ。
 お前を身勝手に消してしまわなくても済むように、俺は強くなりたい。
 お前が見た俺のように、俺は確りと自分の足で生きていきたいと、胸の中のマサキに宣言する。今はまだ歩き出したところで、直ぐには走り出す事は出来ないが、俺はまた以前のように我武者羅に前に進んでいく事になるだろう。忘れる事はないだろうが、別の事を考え、思い出さない日が増えてくるのかもしれない。だがそれでも、俺の中に彼はずっといるはずだ。過去があるからこそ今があり、未来へと繋がるのだから。俺の中のマサキは消える事などない。
 ほんのひと時の休息の合間に、つまらない会議の欠伸の途中に、美味い酒に出会い喜んだ時に、堂本と喧嘩をして遣る瀬無くなった時に。俺は自分の中の彼を感じ、今の自分を見つめるのだろう。何かが起こった時に、他愛ない瞬間に、誰かを想う温かさに。何度も何度も、関係のない事にまで触発されて、会いたいからと俺はマサキを自分の中に探すのだろう。そして俺は、なおも残る胸の痛みを思い出し、子供のように泣くのかもしれない。
 だが、それでも俺は。
 俺は、この先もずっと。別の誰かを愛し、想いの形を変えたとしても、マサキを見失う事はないだろう。完全に消えてしまう事はない、永遠に存在し続けるものが俺の中にはあるのだから。

「社長」
「どうした、樋口」
 不意に呼ばれた声に視線を向けると、表通りから樋口が小走りでこちらに向かって来ていた。年末に退院してから数ヶ月、今でも通院はしているようだが、日常生活に支障をきたす程の後遺症は出ていないからと、相変わらず顔には似合わない武闘派を通しているらしい。近付いてきた樋口の口元は、僅かだが青くにえていた。
「男前じゃないか。その顔で何処へ行くんだ?」
「社長を迎えに来ました」
「堂本は?」
「車で待っています」
 堂本にプライベートな電話が入ったので、樋口は車を降り俺を見に来たらしい。表通りに停められた車へと向かいながら、俺は短い言葉しか寄越さない樋口にめげる事なく会話楽しんだ。時々クイッと上がる口元が少し痛々しいが、樋口と話していると心が落ち着くので、無理に相手をさせてしまう。
 樋口だけではなく、井原と話す時も、俺はマサキをよく感じる事がある。同い年の者達だからか、それとも彼らの仲が良かったからか、図々しい話だが俺もその中に入ったような感覚を味わう。穏やかな気持ちになれる。
 もしも。
 もしも、マサキが、あの日からの俺の様子を見ていたのならば。
 俺は沢山の不安を与えたのだろう。苦しませただろうし、悲しませもしたはずだ。そんな自分を、不甲斐ないと思う。だが、それでも、あんな風になるしかなかった俺を許して欲しいと思う。
 今、思うのは。まだまだ安心など出来ないだろうが、俺は多分もう大丈夫だから。どうか、心穏やかにいてくれというものだけだ。
「大丈夫ですか、社長」
 俺達の姿を認めた堂本が、車から降りてくると開口一番にそう聞いてきた。そんなに呑んでいた事が心配だったのかと軽口を叩きながら、俺は答える。大丈夫だと。
「大丈夫だ俺は。もう、大丈夫」
 自分に言い聞かせるように、問い掛けられたもの以上のニュアンスを込め口にした言葉に、堂本は目元に皺を作りながら笑い、樋口はただ静かに目を伏せた。

 俺の中に、お前の未来があるよ、マサキ。
 俺だけじゃない、お前を変わらず想っている者達の中に、お前が遺した道の続きがある。
 だから、マサキ。
 俺のそれが終わった時には、必ずもう一度会おう。
 絶対に。

END
2005/05/04