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「夢を、見たんだ」
 夜の10時を回ったというのに、チェーン店の居酒屋には家族連れの姿が目立った。男二人が顔を付き合わせて飲んでいても、全く目立ちはしない賑やかさ。サラリーマンだろう、どこかで幾人かの男達がグチを言い合っているのが聞こえてくるが、ガヤガヤと煩い店の中では空気と同じ。誰も気にはとめないし、話す本人達も他人に聞かれる心配などしていないだろう。決して広いとはいえない空間を共にしているというのに、全くお互いを干渉しない奇妙な連帯感。そんな中でする話ではないが、こんな場所だからこそ吐き出せるのかもしれないと、俺は温くなったビールを飲み干し口を開いた。
「あの朝、俺は夢を見た」
「へえ、珍しいな。お前って結構眠りが深い方だったろう。夢なんて見るのか?」
 田楽を口に放り込みながらさらりと返す言葉は、けれども俺の状態を良く知っている者でなければ言えはしないものだ。睡眠時間が取り難い為、貪るように短いが深い眠りを確保し働いていた俺を過去のものとして話す霧島からは、決して言葉以上のニュアンスは感じらはしない。しかし、言われた俺は、自分が明らかに変わっている事を今更ながらに思い知らされる。この数ヶ月、以前のように眠った記憶がない。体力の限界から就く睡眠は苦しいものでしかなく、それこそ夢ばかり見ている気がする。
「それで?いい夢だったのか、それとも悪い夢?」
 口の中から引き抜いた竹串を指先で弄びながら、霧島は話を促すように顎をしゃくった。トタトタと通路を小さな子供が掛けていき、その後を母親が名前を呼びながら追いかけていく。そんな母子の様子を見えなくなるまで追いかけ、霧島とは視線を合さぬまま、俺は溜息にも似た言葉を吐いた。
「どうなんだろうな」
「何だよ、それ」
「正直、わからない。いい夢なのか、悪い夢なのか」
 俺の応えに、霧島が小さな笑いを溢す。その声に顔を戻すと、向かいの男は頬杖を付きながら、自分のグラスのビールを注いでいた。
 あの時見た夢は、マサキの笑顔は、今はもう薄れてしまったがいい夢だと言えるものだったのだろう。夢を見ていた時の俺は、確かに幸せだった。彼の笑顔に、満足していた。だが、あの夢の続きのような、それからの事を考えれば。幸せだったからこそ残酷なのだと、そうとしか言えないものであるのも事実。ならば。
「そう、多分、あれは悪い夢だ」
 沈黙を挟みながらも導き出した答えに、素っ気ない言葉が返る。
「そうか、良かったな」
「酷いな」
 思わず乾いた苦笑を落とす俺に、何を言っているのかと霧島が首を傾げた。
「見たのは悪い夢なんだろう?なら良いじゃないか」
「何故」
「お前さ、知らないの? 夜明けに見る夢は、逆夢なんだぞ。聞いた事ないか?」
 今度は俺が首を傾げる番だった。明け方に見る夢は正夢なのだと、俺はそれを聞いた幼い時からずっと、今の今まで信じていたというのに、霧島があっさりと打ち砕く。俺とて、夢が現実になる、などと思っていた訳ではない。だが、言い伝えだか迷信だか知りはしないが、本物だと疑いはしなかった。実は、子供の俺に対して堂本が適当に作り上げた嘘だった、などと言う事があるだろうか。
「逆夢?それは、違うだろう」
 自分は確かに堂本からこう聞いたのだと、納得がいかない俺は霧島相手に突っかかる。彼とて真実など知っている訳ではないのに、絡んでしまう。酔っているのかもしれないと、そんな自分を客観的に見てそう気付きもしたが、止められない。
「そう真剣になるなよ。別に、どっちでも良いだろう」
 俺の勢いに、霧島は肩を竦め小さく両手を挙げた。
「俺が間違いだとか、堂本さんが嘘を吐いたなんて言い出したらキリがない。止めようぜ。多分さ、荻原。悪い夢を見たら逆夢だと言い、良い夢を見たら正夢だと言うんだろう、きっと。人はそう思う事で幸せを感じられるし、不安を消せる。お前もそう思えば良いだけの事で、思えなければ、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っておけばいいじゃないか」
 何を見たかは知らないが、そう考え込むなよ。ムキになるな、酔っているのか?
 たかが夢だろう。そう苦笑する霧島から視線を逸らし、俺は軽く頭を振った。ただの夢だとそう思えるのならば、こんな風に囚われたりなどしない。割り切れないからこそ、手当たり次第に答えが欲しくなるのだ。逆夢だろうと正夢だろうと、実際はどちらでもいい。確かなその答えが、ただ欲しいだけなのだ。
 しかし。
 それを得たからと言って何も変わりはしないのを、俺は何よりも良く知っている。
「…霧島」
 零れるように落ちた呼びかけには覇気がなく、そのまま思わず溜息を吐く。そんな俺に「どうした?」と問いかける友人の声はやけに優しく、甘えたくなるものだった。
 いや、自分の弱さを見てもらいたくなるようなものだ。
 他人に優しい霧島のそれを己に向けさせようと、ずるくも俺は一度上げかけた視線を再び落とし、テーブルの上に並ぶ空の皿を眺めながら口を開く。ゆっくりと、言葉を作る。
「わからないんだよ俺は」
「何が?」
「何もかもさ」
 全てがわからないと項垂れながら、俺は片手で顔を覆った。
 こんな時。
 俺はあの日から、自分の痛みを大事にし不幸を演じているだけなのかもしれないと、そう己を疑う。だがその真実を見極める力は今の俺にはなく、ただ、そうなのだろうかという疑問を心の隅に溜めるだけだ。どこまでが無意識の計算によるもので、どこからが本当の自分の感情なのか、全くわからない。
 小さな静寂が、俺と霧島の間に訪れる。閉ざした目の代わりに敏感になった耳が、向かい合う友人が箸を置くその音を捉えたのは随分経ってからだった。
「わからない、わからない、か。お前さ、昔俺に言ったよな。答えの出ないものなんてない。わからない、それもまたひとつの答えだってさ。答えがないのも答えだとかなんだとか、屁理屈みたいなものを、迷っている俺をからかうように言ってくれたよな」
「さあ、覚えていないな」
 何をいきなり言い出すのかと顔を上げた俺に、霧島は口の端を引き上げて笑う。
「覚えていなくとも、お前は言ったんだよ。で、純粋な俺は、ああそうなんだと素直に納得してな。今考えれば、酷い話だよ。俺はそのお陰で、恋人と別れたんだからさ。
 でもさ。悔しいが確かにそうなんだよな。YESかNOかどちらかの答えを出す必要はない問いが、この世の中には沢山ある。だけどさ、荻原。今のお前には、確かなものが必要なんじゃないのかな。俺が言わずともさ、お前はもうわかっているんだろうけどさ。わからないと言えばこのまま逃げていられるなんて、本気で思っているわけじゃないんだろう。わかっているからこそ、答えが何を示すのか理解しているからこそ、折り合いをつけられずに苦しんでいる。違うか?」
 突然直球で向かってきた言葉に、返せるものなど今の俺にはなかった。開きかけた口を閉ざす俺に、更なる言葉が向かってくる。
「この世の中は、時間は、個人の感情など待ってはくれない。このままだと、放っていかれるぞ、荻原。お前がそれでいいのなら、俺は別に反対はしない。他の奴らはそうもいかないだろうが、俺はこうして、お前と時たま飲めたらそれでいいよ。俺がこの世界に来たのは、自分が選んでの事だ。確かに強引な誘いでもあったけど、乗ったのは俺の意思だし、お前に責任をとれとは言わない」
 だからお前は、好きにすればいい。
 霧島はそう言いながら、俺の空のグラスにビールを注ぐ。
「考えるというのは、とても疲れるものだ。もう二度と起き上がれなくなるくらいに、とことん悩んでみろよ。俺はお前がまた起き上がり走り出そうと、そのままひとりで寝ていようと、関係ない。どんな風になろうと、お前はお前だ」
 ニヤリと笑う友人の顔と気泡が踊る琥珀色のグラスを見比べ、俺は肩から力を抜く。
「お前くらいだな、そんな事を言うのは」
 漸く出てきたのは乾いた笑いと、センスも何もないそんな言葉。けれどもそれに満足そうな笑いが返り、俺はグラスに口をつけた。予想通りもう温くなってしまっていたそれに、思わず眉を寄せる。脱け殻のような液体は、まるで今の俺自身のようだ。
 飲めたものではない。
 だが、それでも、この友人は手を伸ばしてくる。
「誰も言わない言葉を言ってやりたくなって考えたんだからさ、当然だろう。お前には刺激が必要なんだと思うぞ、俺は。堂本さんの小言や、周りの奴らの同情なんて飽きただろう。たまには、俺みたいに突付いてやる奴がいないと、なあ?」
 ハハハと声を上げて笑う霧島も、相当酔っているのだろう。本来ならば口にはしないはずの内心を、こんな風に曝け出してしまっているのだから、酔いが冷めた時に覚えていたならば落ち込むのかもしれない。気にしないと言いながらも、こんな俺をこの友人がとても気にしている事を、俺は知っている。
「ありがとう、健吾」
 今言わなければ、今度はいつ言えるかわからない。そんな後押しも手伝いすんなりと零れた感謝の言葉に、霧島は笑顔で応えただけで何も言わなかった。これもまたこの男の優しさなのだろうと、ビールを追加注文する横顔を見ながらそう思う。
 少なくとも友人と呼ぶのを躊躇う事はない、そんな知り合いは沢山居る。しかし、それはそれなりに努力した結果得られたもので、捨て去るのは自分の意思ひとつで簡単に出来るものだ。それとは別に、どんなに力を注ごうが得られはしない、どんなに邪険に扱おうが離れはしない、己の意思はあまり役に立たない関係が僅かながらも俺にはある。多分、そんな繋がりを持つ彼らを、親友と、そう呼ぶのかもしれない。だが、俺達はそれを認めるにはあまりにも多くのものに縛られており、冗談のようにふざけ合う事は出来ても、馴れ合うことは出来ない関係でもある。
 それを判りその時々に合わせ適確に使い分けるのが俺という人間であり、理解しながらも開き直り面倒な小細工は一切しない、思うままに動くのが霧島だ。そして。もう一人の親友である小沢という男は、判っているからこそ全てを納得し、必要以上の干渉を避ける。そんな彼を、霧島は不器用だと評し、同じように俺を苦労性だと笑う。
 俺達三人の関係は、周りから見れば少し奇妙だと捕らえられるのかもしれない。だが、俺達自身は、口には出さないが満足している。少なくとも、俺自身は、二人の存在をありがたいと思う。
 しかし。
 それでも、俺が一番求めているのは彼らではなく、突然目の前から消えたあの青年で。
 何の意味も効果もないというのに、無意識の内に俺は天秤にかけていたりする。親友達と、マサキの事を。
 今この瞬間、彼らを失えばマサキを戻してやろうと悪魔に囁かれたならば。俺は、大切な者を失う痛みを知っているというのに、迷わずに頷くのかもしれない。


 電車で帰ると言う霧島に付き合い駅まで歩き、友人の背中を見送った途端に脱力感に襲われた。しかし、タクシーに乗り込む気にもなれず、何となく駅前の歩道橋に上ってみる。
 足を止め見上げた空は、その行動を無駄だと笑うかのような闇一色。街の明かりを受け真っ黒ではないそれは、都会の中途半端な夜を現すには最適な曖昧な色で、可笑しさが込み上げてきた。下を見れば、大量の光、蠢く人、列を為す車。ひとりの人間など簡単に飲み込んでしまいそうな走行音とクラクションが、見下ろす俺を捕まえるかのように突き上げてくる。そして後方からは、リズミカルな電車の去って行く音、近付いてくる音が。
 これだけの音を耳にしても、光を目にしても、大勢の人間を認めても。この場所では決して、生命力を感じることは出来ず、それは自分自身に対しても言えるものであるように思えた。よくもまあ、こんな街を好き好んで歩いていたものだと、今はいない青年の事を思いながら歩道橋を降りる。
 人込みの中を溺れずに泳いでいた彼を、俺は何度目にしただろうか。その度にどれだけ呆れたか、感心したか、きっと本人は知らなかったに違いない。
 自分が口にした言葉が、果たしてどれだけあの青年に届いていたのか。今の俺には何ひとつとして、自信は持てない。一体、彼は俺の何を聞き、その内どれだけのものをあの胸に留めてくれていたのだろう。
 今はもう何ひとつ知る事が出来ないその事実が、俺には辛くて堪らない。
 知る事を怖れたのは自分自身だというのに、だ。
「――社長」
 一台の車が歩道を行く俺の横に並び、大きく開けた窓から声を掛けてくる。足を止め中を覗くと、運転席から井原がじっとこちらを窺っていた。何か言おうと口を開きかけ、けれども言葉を紡ぐ事無く僅かに視線を逸らす青い男に、俺は軽い笑いを溢す。
 俯き加減に車から降りてきた井原は、そのまま後部座席のドアをあけ、乗って下さいと深く頭を下げた。
「霧島か?」
「いえ…」
「なら、田端か?堂本か? 偶然何て事はないだろう」
「済みません」
 質問に答えられない事を謝ったのか、嘘を吐こうとした事を詫びたのか。どちらとも取れるその言葉に肩を竦め、それ以上の追求はせずに俺は促されるままに車へと乗り込んだ。結局は誰であろうと自分は心配されていると言う訳で、それをさせる俺自身が食って掛かるのはあまりにも馬鹿げている。単なる遣いの井原を責めるのは、いくらなんでも気が引けると言うものだ。
 霧島が堂本にでも、今夜俺と一緒に飲むのだと先に言っていたのだろう。真っ直ぐ大人しく帰りそうにない俺の行動を見越し、井原を差し向けた。多分それが真実であり、面白味も何も沸かない昔から良くある事だ。
 そう、いつの頃からか、行動を監視されているのが当然だと思うようになっていた。確かに昔はそれが鬱陶しくも感じていたが、それ以上に便利であった。だが、普通はそう簡単に割り切る事など出来ないものなのだろう。俺が前触れもなく姿を現す度に、遠慮なく嫌悪を見せていた青年を思い出す。ストーカーかと彼に詰られたのは、出会って間もない頃だ。
 マサキに出会ったのはホンの偶然で、興味を持ったのも単なる気紛れに近いものだった。確かにずば抜けた容姿に関心を向けはしたが、別の男だったのならばかまう事などなかったはず。俺を夢中にさせたのは、飯田真幸という一人の人間そのものだった。
 あの己の容姿を好まない頑なさを持っているのに、嫌悪まではしない曖昧さ。関心を向けていないかのような冷めた内面を見せたかと思えば、子供のようにつまらない事で剥きになったりもする。人間嫌いかと思えば、人一倍に他人の存在を求めており、けれども触れる事に近付く事にどこか怯えている。しかし、時として大胆になり、酒のせいとは言え人前で眠り込んでしまう無謀さを見せる。臆病であり、豪快でもあり、粗雑であったりもする、まさにあの年代の無敵さを持つ青年であった。本人自身は同世代の者達を馬鹿にしている節もあったが、彼もそう飛び抜けて大人でも子供でもなく、二十代に足を突っ込んだばかりの青さを持っていた。
 その何かひとつでも欠けていたり多すぎたりしていたのなら、多分俺は直ぐに彼に飽きていた事だろう。俺の中の何がそんなにも彼とあったのか。今なおそれはわからないが、ただあの頃はその事実だけで充分に満足で、本人が嫌がるのもめげずに追いかけていた。言われた時は酷いなと苦笑したが、ストーカーというのもあながち間違いではなかったのだろう。
 馬鹿みたいに、俺は一人の青年に夢中になっていた。多分、あの頃が一番純粋に、俺は彼を求めていたのだろう。都合よくペットを懐柔させるわけでも、まして愛だの恋だのそう言う意味で真剣になっているわけでもなく、ただただ彼との関わりを楽しんでいたのだ。
 もしも、あの頃こんな結末が用意されているのだと知っていたなら。本気で同性の彼を想う様になるのだとわかっていたのなら。俺は自分の行動を制し、深みにはまる前に彼から離れただろう。
 そう。この未来をあの頃に知っていたのなら。
「…社長、あの、」
「あぁ、何だ」
 沈黙から湧き上がったかのような小さなその呟きは、口にしてしまった後悔が色濃く滲んでいるような暗い問い掛けだった。あまりのそれに、街並みへと向けていた視線をバックミラーへと移す。そこにはやはり、声をかけてからもなお迷っている井原の目があった。前方を注意するように動く視線は、けれどもただ動揺している事を語る頼りないものだった。
 何をそんなに緊張しているのか。最近の俺の異常さを知っている彼ならば、そんな人間と二人きりになる不安を持ったとしても可笑しくもないのだが、せめて運転だけはきちんとしてくれよと思わず願う。気まずい空気は堪えがたいとはいえ、無理に会話をする方が大変だろう。だが、井原の性格を考えれば、声をかけずにはいられなかったのだろう事もよくわかった。
「樋口の見舞いには行っているのか、お前」
 仕方がないなと、俺は助け舟を出し話題を提供してやる。
「はい、時間が出来た時だけですけど。元々あいつ、見舞いに行っても喜ぶ奴でもないですし、それに最近はリハビリばかりしていますから」
「もう動けるのか」
 若い奴はやっぱり違うなと軽く苦笑した俺に、井原も硬い表情を僅かに崩して笑った。
「あいつ、医者が止めてもまだやろうとするんですよ。ムキになっているわけじゃないんですが、早く退院したいみたいですね、頑張ってます」
「そうか、樋口らしいな」
「はい」
 井原の返事を耳に入れると同時に俺は目を閉じ、悪いが少し眠ると声をかけ体をシートに深く預けた。
 樋口の入院は夏に起きた交通事故によるものであり、一時は危ない状態にまで陥ったりもした。同乗していた俺は掠り傷程度の怪我だけであったというのに、あの少年のような彼は今なお苦労している。一度見舞いに行った時見た、小さな体を一層細くした樋口の姿は、遣る瀬無さを覚えるものであった。一体、俺と彼のこの差はなんなのだろうか、と。
 間違いなく自分の身を犠牲にしてまで、俺を守った樋口。それは仕事だからと割り切れるものでは決してないはずであり、俺自身納得しがたいものである。堂本は樋口の行動を当然だと評価しているのだろう。確かに心を痛める部分はあるとしても、樋口にその行動をとらせたのは、そうするように教え込んだのは堂本本人なのだから納得していないはずがない。そして樋口自身も、己の行動に疑問を持ってはいないのだ。そう、ならば、俺が悩む必要はないと誰もが言うだろう。これが当然の事なのだと。
 理屈はわかる。逆の立場なら、俺は悩む上の者を同じように諭すだろう。しかし、俺自身はやはり、己の命を犠牲にしてまで守られたくはない。たとえ咄嗟の行動だったとは言え、二度と止めてくれと懇願したい。しかし、それをしてはならないのが、俺の立場もある。己の心と周りとの関係のその差が、難しい。
 前はもっと上手く、事務的に処理していた。しかし、大切な者を失ってから、それをするのがとても下手になったように思う。気紛れな関心しか周りに向けられないからなのか、ただただ変化を怖がり現実逃避をはかろうとしているからなのか、何故なのか良くわかりはしないのだが。何もかもが、辛くて堪らない。

 マサキがいなくなってから、俺は生きる事自体が不器用になったような気がする。

2005/03/08