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携帯電話に連絡が入ったのは、朝の十時をまわった頃だった。
『おはようございます』
「…………オハヨーゴザイマス…」
『眠そうな声ですね』
済みません起こしてしまいましたかとの声に、ちゃんと起きていましたよと見栄を張って答えたが、ベッドの上でゴロゴロと惰眠を貪っていたのはバレているらしく軽い笑いで流された。続けて『今日はバイトはお休みですよね』と言われ、俺の本日の予定は完璧に把握されているのだと悟り、今度は下手な言い訳はせずにハイと答えながらベッドを降りる。
足の裏で感じた絨毯は、ほんの少しだが冷たい。出たばかりのベッドが、早くも恋しくなった。もしも電話ではなく、この場に戸川さんが居たのならば、きっとこんな俺を今と同じ様な柔らかい声で笑うのだろう。
水木ならば、絶対に笑わない。
『ご予定はおありですか?』
笑わないどころか、下手したら反応も示さないだろう。気付かないのではなく、普通に無視しそうだ。
『千束さん?』
「…あ、はい」
『ご都合は如何です?』
「え、あ、特にないですけど…」
寝惚けているのか。戸川さんの声にハタと現状に気付き、慌てて答える。戸川さんに対して失礼かどうかは兎も角、起きぬけ早々ここに居ない奴の事を考えるなんて不健全だ。
笑うなと言っても戸川さんは笑うタイプであり、笑えと言っても水木は笑わないタイプである。知り合った当初からその認識は変わらず、彼らはそのまんまであるのに、何を敢えて今考え込もうとしているのか。その理由がわかるだけに、何でもかんでも水木に行き付く自分が情けない。
どうかしましたかと、気持ちを切り替える為に努めて関心有り気に問うと、戸川さんは『では、少し付き合って頂けませんか?』と疑問系で言葉を繋いだ。
『私とドライブはお嫌です?』
ハテナは付いているが、本来のそれではないだろう。ただの飾りだというのを隠さない、柔らかいが強い声。思わず、階段の途中で足を止めてしまう。
「…いいえ、全然、全く大丈夫です」
ニヤリと笑って言っているのだろうそれを断れる手段が俺にあるのでしょうか、戸川さん。あるのならば、伺う前に教えて頂きたかったです――なんて願うのは贅沢なのだろう。しつこくからかわれないだけで良しとするしかない。
『ちなみに、明日のバイトは午後からでしたよね?』
「あー、いえ明日も休みです。シフト変更になったので」
『そうですか、ならばゆっくり出来ますね。それは良かったです』
「ええ、まあ。でも、その変わりに来週は忙しくなってしまったんですけどね」
8日連続で出勤だと口にしながら、休みは兎も角バイトのシフト時間まで戸川さんに話をしただろうかとの疑問が頭に浮かぶ。きちんと報告した記憶はない。だが、会話の端々にそれらしい事を言ったのかも知れず、自分の行動がこの人の監視下にあるなどとは思いたくもないので、拾い集めて憶測されたのだと言う事で納得しておく。何より、例え警戒をしている時でも、戸川さんに色々喋ってしまうのは出会った頃から変わっていない事だ。今更だろう。
逆に、今更なのは同じでも、これは変わるべきなんじゃないかと思う相手は他にいる。
水木には今なお、必要な事すら話していないような気がする。しかし、それは仕方がないとも言えるのだろう。戸川さんは頻繁に電話をかけどうでもよい事まで語ってくれるが、水木にはそれが殆どない。顔を合わせても、無駄話に興じる時間はなく、いつも何となく終わってしまう。
最後にまともな会話を交わしたのは、一体いつだったか。少なくとも直ぐには思い出せないくらい前だ。もしかしたら去年だったかもしれない。
……それは言い過ぎか。…………いや、言い過ぎでもないか。
『では、一時間後に伺います』
どこかで昼食を摂りましょう。何が良いか考えておいて下さい。そんな戸川さんの言葉に、はいはいと短い返事を返しながら向かったリビングは、柔らかな陽の光を浴び輝いていた。通話を終えた携帯電話をソファに放り、両腕を上げのびをする。まだ二月だが、こうして日向に居ればもう春の気配を感じるくらいだ。気持ちが良い。
起きたばかりなのに早くも眠りたがっている頭と身体に活を入れ、キッチンで冷たい水を飲む。
流石に、洗顔を済ませ再び二階へと上がる頃には寒さを覚えた。パジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、適当に選んで服を着る。黒のハイネックセーターに、濃紺のジーンズ。車だろうからと薄着で済ませ、外套はどれにするかとクローゼットを開けたまま少し悩む。戸川さんは絶対にスーツと同系色のコートだろう。合わせる訳ではないが、その横に並ぶのなら落ち着いたものの方が無難だ。明るい色合いのダッフルコートに伸ばしかけていた手を逸らし、ダークブラウンのジャケットをチョイスする。
リビングへ戻り、ケータイの横へ上着と財布を放り、冷蔵庫を物色する。牛乳パックを取り出し、インスタントコーヒーと混ぜ、レンジでチン。行儀良く椅子に腰掛け熱いそれを飲みながら、時間もないのにまたボンヤリとしてしまう。
眠いわけではなく、物思いからくる無気力か。半分しか開かない目で誰もいない明るいリビングを眺め、俺の家ではないはずなのにと、実際には今更口には出来ない言葉を頭の中で捏ねくり回す。ここは俺の住処だけれど、俺のものではない。なのに、本来の家主はほとんどここには来ない。したくはないのに必然的に私物化された部屋の隅々に有る自分の気配に、本当に今更だけれど嫌気がさす。
いや、正確には。水木の気配が薄い事実が、淋しい。
試験が終わり春休みに入ったというのに、開放的な気分にならないのはだからだろう。去年も、こんな風だった。そしてその前の一昨年は――と思い出しかけ、更にドツボに嵌りそうな予感に頭を振る。悩んでも、どうにもならない。そもそも、これは悩みではなく、多分ただの我儘だ。
強気に開き直れば、俺にはそれを言う権利があるじゃないかと思うけれど。
一人の部屋でそれをしても虚しいだけで。ただ、沈む。
憂鬱とまではいかないが、パッとしない気分の原因がどこにあるのかはよくわかっているので、心がすっきり晴れる事はない。俺がこの状態に慣れ吹っ切れるか、水木が諦め妥協するか。それとも、現状そのものが変わるか。どれかがどうにかならなければ、きっといつまでもこんな風なのだろう。
あれから二年になるが。未だ変わらず、また変わる予兆もない。
「……」
中身が空になったカップが、手の中で冷えていく。
玄関のチャイムが鳴ったのは、ぴったり十一時だった。
2007/06/30