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 大人しくそのまま眠りにつくなんて事は出来なくて。
 結局、水木がどこにいるのかも知らないまま、部屋を抜け出し館内を徘徊しかけたのだけれど。
 相手が向こうからやって来たおかげで、それを免れる。
 だが、求めた相手が目の前に現れても、モヤモヤした気持ちは全然消えてはくれなくて。
 その姿を認めた瞬間に止まった足は、水木が目の前に立つまで一歩も動きはしなかった。

「……遅い」
 自分と同じように会いたいと思ったからなのかどうかは知らないが、こうして来てくれた事に喜びを感じるのに。俺の口から零れるのは非難であり、声に出した瞬間、口内には苦みが広がる。けれど、思うのは。俺が会うと決めるまで費やした時間を、こいつは何をしていたのだろうかとか。切れた電話を掛け直しもせずにやって来たのは、どうしてなのかとか。本当に、仕事は終わっていたのか?とか。携帯で話した時はひとりだったのだろうかとか。勇気を振り絞って掛けた、先程の電話の事ばかり。
 電波で繋がっているのではなく、いま実際に手を伸ばせば触れられる程のところに水木が居るのに、過去の不安と後悔ばかりを覚えている。
 己の愚かさをわかりつつも、それでもそれ以上に素直に喜べていない事が勿体ないと思う俺のそんな心情に気付いたのか、水木は軽く笑うような息を落としただけで何も言わずに再び足を運び始めた。悪態を吐いた俺の存在を無かった事にしたかのように、躊躇いなく横を通り過ぎ通路を進んでいく。
 ……いや、オイ、ちょっと待てよ?
 本当に離れていく水木の背中を見つめ呆然としてしまったが、流石にコレはないだろうと気付き慌てて追いかける。それでも、横に並び歩く勇気はなく。また、半歩後ろをキープする俺に水木も何も言わなくて。
 だからコレってどうなんだよ…と思っている間に部屋に着き、俺がロックを外すと水木は当然のように中へ入る。
 別に、居ない事を思えば、全然構わないんだけど。
 構わないけれど……やっぱり、ちょっと、構う。確かに、昼間にも会っているけれど、さ。もっと俺を構えよ、オイ。
「……温泉、入った?」
 座敷に上がる背中に向かって歩み寄る気持ちで話を振るが、返ってきたのは素っ気なさ全快の短い言葉。
「まだだ」
「……ここにもあるよ、露天。…入れば?」
「お前は?」
「俺は、もう、三回も入ったから…」
 別館の露天風呂と、本館の大浴場に二回。指を折りながら報告する間に、心臓がキュッと痛む。
 自分の答えは拒否以外の何ものでもないとわかりつつも、方向を変えひとりで風呂に向かう水木に寂しさを覚えた。もうちょっと粘れよ――なんて、突っ込めない。けれども、一緒に入るとも言えない。そもそも、俺は風呂に入りたいわけではなく、ただ離れるのが嫌なだけ。だけどその寂しさが、当然の主張なのか我が儘になるのかわからなくて、躊躇うだけで終わってしまう。
 たかが、風呂ひとつに迷う自分はどうなのだろうかと気分を下げながら、俺は結局動けずに広い背中を見送る。置いていけぼりだ。
 一人になった部屋で腰を下ろし、座卓に肘をつく。掌に顎を押しつけ外を見ると、夜鏡になったガラス窓が俺のふて腐れた姿を映しだしていた。可愛げなんてどこにもないその姿に、水木は趣味が悪いと本気で思う。しかしそれを言うのならば、俺もあまり趣味がイイとは言えない。
「……はぁぁー」
 深い溜息と共に身体も畳へ横たえる。寝転び見上げた天井が、何故か歪む。
 時間が時間なだけに眠いのか、水木が来て高揚し空回りしているのか、この状況に心底戸惑っているのか。わからないままに選んだ結果は、けれどもただの我慢でしかなくて、そんな自身に一番疲れる。
「そんなところで寝るな。風邪を引く」
 力一杯目を瞑り、クソッと胸中で短く吐き捨てたところで、上から声が降ってきた。俺が気付かなかっただけなのか、物音ひとつたてずに戻ってきた水木が、高い位置から俺を見下ろしている。見上げた表情は、いつもの何も感じていないかのようなそれだったけれど。
「…………寝ないよ…」
 俺が短く反論すると、一拍の間をおいて形の良い唇が小さく歪んだ。途端に現れるその表情に、俺はドキリと胸を高鳴らせてしまう。ドギマギしてしまう心を隠すように横を向くと、背中に爪先を押しつけるようにして蹴られた。
「元気がないな」
「…………」
 たった一言のそれに、訳がわからないくらい一気に顔に血が上る。多分きっと耳まで真っ赤だろう。
 …もう今更それはイイから、早く風呂に行ってくれ……。
「大和」
「…………誰の、せいだよ…」
 負け惜しみのような台詞に、今度ははっきりと笑いが落ちる。低く鳴った喉の音に、俺の体が敏感に反応する。
「俺のせいだというのか?」
「……」
「どうなんだ」
「…………」
 当たり前だ、他に誰が居るんだよ。アンタじゃなきゃ、俺はこんなになっていない。そんなの決まっているじゃないか。そう思いはしても、そんな事は恥ずかしすぎて言えはしない。負けを認めるみたいで、悔しい。
っていうか、何だって俺が虐められているんだ…?
 苛めっ子は戸川さんだけで十分なので、さっさと温泉に入ってこいよと俺は顔を向けずに指で風呂場を指し示す。だけど、それがいけなかった。
 挙げた俺の腕を捕まえた水木は、力任せに引き上げ、俺を風呂場へと連行した。


 引っ張られるままに着いてきてしまったが。流石に、今までの事を全て忘れ一緒に温泉でまったり――とはいかず、不機嫌そのままに湯の中の水木の側で浴衣の裾を捲り脚だけを浸ける。縁の岩に凭れるように腰掛け無意味に抵抗を示す俺を、けれども水木は放置だ。無理やり連れてきておいて、何だコレは。クソッ。馬鹿みたいじゃないか。
「……」
 脚を伸ばせば、水木の膝を蹴れる。
 水の中で白く浮かぶ長いそれを注視しながら、どうするべきかと本気で悩む。蹴りを入れたとしても怒らないだろうが、それより尚も無反応であったならば、普通にヘコむ。それは、虚しい。けど、一発くらいは喰らわせたい気分だ…。
「4月7日は空いているか?」
「…エッ?」
 悪巧みをしていたせいで声が裏返った。水木の言葉を取り込んだ耳はそれを脳へ伝える事無く、そのまま外へと追い出してしまう。何があいているって…?
 前置きもなく沈黙を破った問いにただ反応し顔を向けると、寝ているんじゃないかと思うような態度だった水木が俺をまっすぐと見ていた。いつから眺められているのか、落ち着き始めていた心臓がまた早くなる。
 …な、何なんだコレは。水木じゃなく、俺がおかしいのか?
「4月7日だ」
「…4月、7日?」
「ああ」
「…………だったら、大学、始まってるンだけど…何で?」
「隆雅の入学式だ」
「……入学式」
 水木が落とした言葉を口の中で転がし思うのは、そうくるのかよ!?ってなツッコミだ。別に、リュウが原因であるのが不服な訳ではない。だが、そう言うのとは別なところで、気持ちが少し沈んでしまう。期待していたなんて事はないのだけれど、ほんの少し理不尽さを覚える。ドキドキした分、自分が哀れだ。
「へぇ、そうなんだ…。…っで、だから?」
「都合がつけられるのなら行ってくれ」
「……どこに?」
「入学式」
「それは…リュウくんの、って事だよな?」
「無理なら仕方がない」
「いや、無理って言う訳じゃなくてさ。…普通、部外者は行かないものだろう? 俺が行っていいの?」
 防犯意識が高い昨今、家族以外が行って良いものなのか? 良かったとしても、何処の誰だと一筆署名させられるんじゃないのか?
 行きたくない訳ではなく、余りにも唐突に、そして自然に水木が言うので、驚いて退いてしまう。けれど、そんな俺を気にする事無く、水木はペースを崩さない。
「隆雅本人がお前に来て欲しいと言っているんだ、問題ない」
「……」
 いや、問題ないと断言されても。例え問題が起こったとしても、お前はそこにいないんだろう? 困るのは俺なんだけど。…本当に、大丈夫なのか?
 そんな風に、文句以上に不安がどんどん溢れそうな話だけれど。それ以上今ここで議論を展開する気にはなれなくて。
「そう…。うん、じゃあ…都合つけるよ。多分、行けると思う」
「頼む」
「…………ウン」
 水木が言うように、ただ知り合いの入学式に行くだけの事を思えば、大層な話では全然ないのだろうに。真っ直ぐ見つめられ言われた言葉に改めて頷くには、何故か勇気がいった。ものすごく緊張しているような自分に、自身で戸惑う。片思いの相手ではなく、まして知り合ったばかりの関係でもないのに。何だってこんなにぎこちないのか。上手く息が吸えない。
 俺だけがそうなっているのを考えれば、その原因は自分自身にあるのだろうけれど。
 言葉を続ける事は出来なくて視線を外すが、水木は俺を捕らえたままであるのがヒシヒシト肌で感じる。けれどそれは、非難ではなく面白がっているかのような柔らかいもので。
「…………」
 促されたのか、誘われたのか。
 居ても立ってもいられずに腰を上げた俺は、どんな顔をすればいいのか判らないまま、唇を固く結んで水木と向かい合う。

 伸ばした水木の脚を跨ぎ仁王立ちな俺を、水木は目の玉だけを動かして見上げ、満足げに笑った。

2007/08/23