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意外に湯船が深いだけであって。また、水木の脚を跨ぐ為に開いているからであって。決して、俺の脚が短いわけではないと思うのだが。
浴衣が湯に触れそうなのに気付き直していると、問答無用でここに連れ込んだ男が低い笑いを落とした。自分でもマヌケだとは思うけれど、元よりこんな姿で格好なんて付く訳がないのだから笑われるのは何だか癪だ。俺のせいではないのに……畜生。
もう温泉は充分味わったし、水木に関しては全然充分ではないけれど、なんだか居づらいし。取り敢えず上がろうか、やっぱり部屋で待とうかと気持ちを傾ける俺の考えに気付いたのか、水木が湯の中から手を出し俺の浴衣を指先で軽く引っ張る。何をするんだと、引かれて下がった分の裾を帯へと押し込むが、直ぐにまたピッと下げられる。
「……ヤメロ」
口に出して注意をしても、口元に笑いを浮かべるばかりで止めはしない。馬鹿みたいだけれど意地になりやり合っている内に、いつの間にか浴衣が濡れていた。当然として文句を言う俺を、けれどもやはり水木は聞き流す。
「……サイテー…」
呟くように落とした非難すらも、この男には何の効果もないようで。
水を吸った重みで帯に差し込んでいた浴衣の裾が落ち、湯面に広がった。
「あぁ、もう」
だから止めろと言ったじゃないかと、頬を膨らませ唇を突き出す。湯の中をたゆたう浴衣を上から見下ろし、溜息を落とす。こいつは何をしたいんだと水木に視線を向けると、相手は俺から視線を外し湯の中へそれを落とした。
泳ぐ布切れを水中から上に向かって指先で弾きながら、湯船に預けていた背中を起こす。
「…ッ!」
不意に、俺の太腿に水木は指を這わせると、腰にもう一方の手を強く押し当ててきた。突然の攻撃に驚き短く息を吸い込んだ俺は、股に近い内腿に生暖かい唇が触れた瞬間、その頭を反射的に叩いてしまう。何すンだよ!と、色気もへったくれもない裏返った声が口から飛び出た。
「ちょっ、止めろッ!」
いや、だって。いきなりこれは……。
心の準備をしていなかった俺はなんだか襲われたような気分になってしまい、相手は水木だから構わないのだろうに身体は勝手に抵抗をしてしまう。何て事をするんだこの男。ヤメテクレ。
本気で焦る。けれど、水木の肩を押す腕には力が入らない。俺の意志に反して背中は自然と曲がっていき、まるでその頭を抱えるかのような格好になってしまう。
それでも。
「イヤイヤばかりだな」
「……」
隆雅より酷いなとからかう男を根性で押しのけ、俺は湯の中から、水木の前から退散する。一発やり返してやりたいくらいに腹が立っていたとしても、ここは撤退するのが賢明だ。けれど、当然、逃げながらも気持ちは水木に向かっていっている。背中で怒る。
俺の主張をワガママだと言うのかクソッ。お前こそ、戸川さんより酷いぞ、コラ! 折角一緒にいるのに、だからどうして、こんなにムカつかねばならないのか。もっと俺の気持ちを汲み取れ、優しくしろ。この、ロクデナシ。そう悪態を胸の中で吐きながら、脚に張り付く浴衣をそのままに脱衣所へ飛び込み、俺は勢いよく扉を閉める。
バンッと上がる大きな音に重ねて吐いた溜息は、けれども一度では終わらずにその後も続いて落ちた。洗面台に両手をついて凭れ、項垂れる。顔は上げない、鏡は見ない。不細工な男が映っているのは決まっているのだから、あえて見たくはない。
「…………」
久しぶりに会って、けれども思うのとは違って。ヘコんで、浮上して、また落ちて。焦って、はしゃいで、悩んで。この半日でいつも以上に色々あって。それでも、今は水木が居て。俺は俺なりに、それらの事を消化しようと思っているのに。やはり、上手くいかない。
そんな風に、ムカツク事が沢山あるのに。更に水木に遊ばれると、何だか必要以上に虚しくなる。一杯いっぱいな自分が、哀れに思える。愚かに感じる。俺は、余裕なんて全然ないのに、水木はそうじゃないのだと示されているみたいで嫌だ。憎まれ口を叩いてじゃれあう事もしないわけではないけれど、今はそれは無理だ。出来ない。
でも、それが出来ないのは俺だけの問題なのであり、水木に向けるのはただの八つ当たりなのかもしれない。そう思うと、更に寂しくて、申し訳なくて、遣り切れない。
結局どうする事が一番良のか俺はわからないんだと、何度目になるのか最早わからない溜息を落とし、体を起こす。浴衣を肩から落とし、乾いた部分で濡れた脚を拭っていると、背中に水木の存在を感じた。早くも、上がってきたらしい。
「……折角入ったんだから、もっと温まればいいのに」
愛想がないなと声をかけるが、自分のそれがただのパフォーマンスであるのを誰よりも俺自身が気付いているのだ。水木もわかっているだろう。
声もかけらず唐突に、無言で肩を掴まれた。背中から抱くように回された水木の腕が、俺の首に絡まる。
「……ァ」
反射的に抵抗し離しかけた身体を押さえられ、顎に歯を立てられた。零れた声は、直ぐに水木の口内へと吸い込まれてしまう。
歯列を探られ、上顎を撫でられ、怯む舌を捕らわれ。重なった唇に戸惑うばかりの俺は、抵抗も反撃も出来ずに、熱い塊にいいように犯される。
「ちょッ……待っ……」
唇が離れた隙に抗議するが、それさえも直ぐに消されてしまう。
いつもの素っ気ない態度とは裏腹に、こうして攻めてくる水木はちょっと苦手だ。けれど、それを軽く上回るくらいに、気持ちは高まる。興奮する。ヤクザなどやっているロクでもない奴にやられて喜んでいる自分もどうかというものだが、力のある男がただの学生である俺なんかを相手している事に酔ってしまう。
それでも、今日は。
っていうか、今は。
ちょっと、待って欲しい。水木の熱に、集中出来ない。
横を向き唇を離しても追いかけてくる水木に、俺は声を震わせ訴えながら藻掻く。
「いや、あの、なんて言うか…その、さ……」
身体の間に両腕を入れ、首に張り付く熱を引きはがす。しかし、その間にも、水木の手は下着の中に進入してくる。これを脱がされたら、俺は丸裸になってしまう。一貫の終わりだ。
「ちょ、だから、待って…!」
正確に言えば、ある意味始まりと言えるのかもしれないけれど、それを始めるのがダメなので当然抵抗する。本気で頑張る。けれど、アンダーシャツは無情にも、俺の頭から抜けていった。最後の砦を守るように手首に落ちてきたそれを握るが、そんな事をしてもどうにもならない。ただ、自ら両手の自由を奪っているだけにすぎない。
遅ればせながらにもそれに気付き、シャツは諦め床へと落とし、両手で水木の裸の胸を押し返す。火照った身体はとても熱くて、触れた手にそれが移った。
「……ンッ、あァ…」
吐くはずの非難が、吐息に変わる。
「何だ」
「……ッ!」
短い言葉を吹き込まれ噛まれた耳を、千切り捨ててしまいたい。真っ赤になっているだろうそれは、俺の心を絶対に水木に伝えてしまっている。抵抗よりも、期待の方が大きい事を証明している。いっそそのまま噛み切ってくれればいいのにと本気で思う。
「……ここで…するつもりじゃ、ないよな…?」
上がる息を押さえ吐き出す声は、情けないくらいに掠れている。だが、そんな事に構っている余裕はない。
連絡用に携帯電話を渡した事を思えば、なんだか戸川さんにお膳立てされたような気がするので、この状況は正直戸惑う。水木と一緒にいても居なくても、たとえどちらに転んでいたとしても、絶対あの人に笑われるのだろうけど。それとは別に、今日は名前も知らない奴等にも、俺がここにいるのはわかっているわけで。ヤるのが当然で、誰もそれについてツッコミなんて入れないだろうけど。けれど、なんていうか、だからと言って気にならなくなる訳じゃなく、寧ろ逆に気になるわけで。それを言うならいつも、水木の帰宅はそう言う意味に捉えられているのかもしれず、今更なのだけど。
何だか初めてエッチをした次の夜を迎える高校生のように、バカみたいな事が真剣に頭の中を過けめぐる。
けれど。
「嫌なら止める」
「……イヤっていうか、なんていうか…」
「嫌なのか?」
念押しされても、さっきの今で嫌とは言えないし。実際、嫌なわけでもないし…。両手を広げて受け入れるのは、この状況が恥ずかしすぎて無理だけれど、押されたら受け入れるだろう。そんな自分が誰よりも一番わかっているので、言葉に詰まる。
「だから…、それは、違うけど……」
「誰も気にしない気にするな」
「……」
…ナニ?
「問題ない」
「…………」
その言葉に、俺が何に対して戸惑っているのか、この男がきちんと認識している事を知る。つまり、水木は俺の心境をわかっていてやっているのだ。ならばこれは、慎ましく恥じらっている恋人をいたぶっているというわけか。
何てヤツだ。
慣れていない状況に、子供のように戸惑う俺も俺だが。それを楽しむ水木も水木だ。大人げない。畜生。
「…………いつか、絶対やり返してやる」
最早既に勝負はついているので負け惜しみでしかないのだが。それでも、一言でもいいから言ってやりたくて、威嚇する犬のように呻りながらそう口にすると、「まるで何もやっていないような言い方だな」と指摘を受ける。それもまた聞き捨てならない言い分で、攻防を繰り返しながら俺は噛みつく。
「ナニそれ。俺は、全然やっていないだろう…。からかわれてばかりじゃん……」
「充分俺は振り回されている」
…このヤロウ、まだ言うか。
「それって、我儘だって言いたいのか?」
漸く動き回る水木の両手首を押さえる事に成功し、掴まえたそれを強く握りながら問いただすが――。
「違う。俺が参っているだけだ」
「…………」
あまりの反撃に身体から力が抜け、再び自由を奪われる。唯一身につけているパンツも、直ぐにでも奪われそうな勢いだ。
「いつも、お前にヤられている」
「…………バカ」
首筋にキスを受けながら、何て事を言うんだと顔を顰める。だが、実際には呆れよりも照れの方が強くて、頬が火照っているのが自分でもわかった。そんな俺に水木は真面目な声で、女に惚れた男なんてそんなものだろうと開き直るように宣言する。確かにコイツは、バカでアホで、その上マヌケだ。俺だって負けず劣らずだけど、それ以上だ。
急にそんな事を言われても、恥ずかしいだけで、全然嬉しくない。どうしていいのかわからない。
「……俺、オンナじゃないから」
「ああ、知っている」
「…………」
知っているのなら、態々そんな事を言うな。似合わない軽口を叩くな。
つい頬を膨らませ横を向くと、「だから、抱かせろ」と耳に囁かれた。
何が、だからなのか。それがどう続くのかわからないが。
俺に異論を唱える理由は、ない。
2007/08/31