+ 4 +

 直ぐに来るのだと思われた戸川さんが現れない。やる事もなく上着を着たまま、ボンヤリと外を眺める。いつからか降り出した雪が、ハラハラと舞い落ちていく。手入れの行き届いた庭に降るそれは、まさに日本の冬のイメージそのままだ。けれど、青く晴れた空での雪というのは、都会生まれには馴染みがなく変な感じがする。
 ふと思い出しケータイを取り出すと、ちょうど昼食を摂っていた時刻にメールが入っていた。夕方から集まるが来ないかとの猪口からの誘いに、無理だと短い返事を送る。送信画面が待受画面に戻ると同時に、画面上隅のバッテリー目盛りがひとつ減った。当然だが、充電器など持ってきてはいない。
 明日まで保つのだろうかと考え、明日だよな?と疑問が生まれる。今日は問答無用で泊まりになったが、明日になれば帰してくれるという保証は、戸川さんが相手ではどこにもないような気がする。一泊だと思い込んでいたので尋ねもしなかったが……。
「…………どうなってンだよ、ったく」
 悪態を吐きながら立ち上がり、なんだよこの展開はと、縁側の椅子に深く凭れ込み座る。極限までに投げ出された足が窓枠にぶつかった。じんわりとガラスを通して外の冷気が身体に伝わる。落ちそうな尻を直すこともせず、不自然に曲げた首や肩に痛みを覚えながら暫くそうしていると、不意に入口から音が上がった。続いて、部屋の襖が開く。
「どうかしたのか」
「……どうかしたから、俺はここにいるんだと思うんだけど?」
 入ってきた水木が訊いたのは、きっとこのおかしな体勢なのだろうが。ンな事よりももっと別に言うべき事があるだろうと、俺は無視してわざと話を変える。それをわかっているだろうに、相手は俺の足を足で小突き、冷えるぞと注意を促す。戸川さんとはまた違う意味で、この男も手強い。
 仕方がないと体を起こし掛けると、腕を引かれ力ずくで座り直された。つい反射的にふて腐れたように唇を突き出すと、指の背で頬を撫でられる。
「…………」
 こんな事で許しはしないけれど。
「……聞いていなかったんだけど?」
 零れたそれに、怒りなど全然含まれてはいなくて。
「俺も聞いてはいなかった」
「…そう」
 俺は、自分の事だけでなく。アンタが慰安旅行なんてものに出ている事も知らなかったと言う事を、ただ言いたかっただけで。仕事を教えろとは言わないけれど、これくらいは言ってくれてもいいんじゃないかと少し責めてみたかったわけで。けれども、そう思う以上に仕方がないのかなと諦めが胸を占めるから、はっきりとは言えなくて。水木のそれが、わざと俺の所在を示すだけの応えなのかと思ったら、それ以上は言えなくて。
「…………」
 どうして、いつも会いたいと思っているのに、実際に顔をあわせるとこんな気分になるのだろうか。こうして水木が側に居る事を喜びたいのに、上手く心が回らない。
 無意識で俯いた頭に手が置かれ、髪に指が絡められた。太く力強い指なのに、俺に触れるそれはいつも優しくて。その重みを意識しながらゆっくりと数度息を吐き出し、不満全てに目を瞑り、気持ちを切り替え顔を上げる。
「俺、今日はここに泊まっていいんだよな?」
 見上げた先に見たのは、先程のような顔ではなく、無表情ながらも心配げなのが伺えるもので。今度は違う理由で、目を反らしそうになってしまう。
 水木を責める資格は、俺にはないのかもしれない。こうしてこの男を見上げるのが何日振りになるのか、俺自身もわかっていない事にふと気付く。もうずっと見ていなかったような感じがするけれど、実際にはきっとそんなに日は経っていない。ただ、俺ひとりだけが寂しがり、悲観し、事実を大袈裟にしているだけなのだろう。
 水木の態度こそが普通なのだとすれば、俺はただ勝手に沈んでいるだけのもので。ならば、こんな自分をこいつは鬱陶しく思うかもしれないなと考えると、装う元気もないのに無駄に声を大きくしてしまう。
「っで、アンタも泊まるの?」
「ああ」
「そっか…。あー、静かでいいトコだなこの部屋。風呂もついているんだけど、見た? あ、そう言えば、ここの温泉の効能って、」
「大丈夫なのか」
「え? あ、うん。大学は春休みだし、バイトは明後日からだから、」
「違う、お前だ」
「何…?」
「平気なのか」
「……あぁ、ウン。多分…」
 水木が何を心配しているのかわかった瞬間、苦労の甲斐もなく俺の気分は急降下した。頬に置かれた手を振り払うように頭を振る。
 顔は見せない、電話もしてこない。会っても嬉しそうにはしないし、余分に喋る事もない。だったらいつでも不貞不貞しくしていてくれれば、俺も存分に悪態を吐けるのに。けれど水木はこうして、優しさなのか自己満足なのかわからない気遣いを示す。十分ではない下手くそなそれに、けれども俺は絡め取られてしまうわけで。
 水木のそんなところは、嫌だ。狡いと思う。もっと、そういうのはわからないようにやって欲しい。だけど、これこそがコイツを嫌いになれない理由でもあるのだろう。
 厄介である事、この上ない。
「…………ひとつだけ、いい?」
「ああ」
「帰りは一緒がいいんだけど…?」
「……」
「…それとも、東京には帰らず仕事、とか?」
「わかった。出来る限り調整しよう」
「出来なくても、それくらいしろよ!」
 思わず本気で怒ってしまう。けれど、無言な男の視線に自分の失態を気付かされ、上った血は一瞬で下がる。ゴメンと呟く声が震えているのに自分でも気付いたが、どうにもならない。
「疲れているんだろう、気にするな」
「……そう言うわけじゃないと思うけど」
 ビクついているわけではないが、いつまで経っても水木との遣り取りはどこかぎこちなく、腰が引けている感じだ。アンタが原因なんだから、少しは俺の事を気にしろよ、と。俺にアンタを気にさせろよ、と。揚げ足を取るわけではないが、そんな風に言ってやる事が出来ればいいのだけれど。言えばこの男は気にするのかもしれないとか、何か策を抉るかもしれないとか思うと、どうすればいいのか判らなくなる。
 それがきっかけで、現状を改善させられるのならば幾らでもバカな事を言うけれど。
 多分、俺が望んでも、叶う事はなくて。今以上に離れるだろう、会えなくなるだろう事が判るから。
 本気で怒りを持続出来ない、本気で我儘は言えない、本気で甘え続けられない。
 それを知らずに二年前に言った言葉に未だ縛られている俺を、けれども水木は救おうとしないから。つまりそれは、そういう事で。
 休んでいろという言葉に返事も出来ず。部屋を出て行く背中を追う事も出来ず。
 閉ざされた襖から手元へ視線を戻し、欲した男を止める手立てのない自分に俺は溜息を落とす。

 一緒にいてくれと言ったところで、水木の顔を顰めるだけでしかないのはわかっているけれど。
 それでも、わかっていても言いたい時はどうすればいいのだろうか。
 誰でもいいから、この胸の苦しさを取る方法を教えて欲しい。

2007/07/08