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 上座に座らされそうになって、断固拒否した。そんな事に拘っていずにさっさと座れと杜は無理矢理そこに据えようとしたがそれ以上の力で抵抗し、注目を浴びる中、俺は逃げた。けれど、収まったのは部屋の中程の廊下側で、目立つ席に変わりはなかった。入室者が俺の姿を捉える度に、若干だが驚きの色を顔に乗せる。何だってこんなところにいるのかという類のそれは、けれども俺としても違う意味で自分に問いたいそれだ。
 水木が居る訳でもないのに、どうして俺はこんなところで味もわからない料理を口にしているのだろう。酒を飲む気にもならず、チビチビと突付くように皿の中味を減らしていく。
「…………」
 思い思いに騒ぎ盛り上がっているのは、十数人程度なのだけど。一人一人が無闇矢鱈に個性と存在感の強い男供で、広めの部屋も狭く感じる。だから何故俺はこんな席に呼び出されたのか。戸川さんの意図がわからない。やはり、嫌がらせなのだろうか。
 それを確かめたくとも本人はここには居らず、余り良く知らない面々の中で、俺は息を殺すようにじっと座布団の上で固まり溜息を飲む。暫く隣に居た杜は、下っ端にはこういう席では色々やる事があるのだろうか、今は部屋を動き回っている。
 戻って来たとしてもどうにもならないけれど、連れて来たからには一人にするなよなとその姿を目の端で追いかけていると、不意に肩に手を置かれた。
 振り仰ぐ形で見上げたそこに、見知った男の顔が合った。
「あ、阿田木さん」
「お前、何でこんな出入り口に座っているんだ?」
 手にしていた箸を置き、隣に腰をおろす阿田木氏に今晩はと頭を下げると、まじめな顔でそう問いかけられた。この人にとっては俺が宴会に参加している事よりも、座る場所が問題なのか。何だ複雑な気分だ。
「…あぁ、いえ、杜には向こうの席を進められたんですけど…そう長くもお邪魔はしていられないし、ここの方が便利かなと我儘言いまして……拙かったですか?」
「いや、そうか。お前が決めたのならば、問題無いだろう。それより千束、久し振りだな。元気にしているか?」
「はい、お久し振りです。ご無沙汰しています」
「今日はどうした? 戸川にでも攫われて来たのか?」
 自分の存在に気付き近づき掛けた部下を掌を見せる事で制しながら、阿田木氏はからかうようにそう言い小さく笑った。色黒の頬がクイッと上がり、口元の皺が目尻に移る。確か六十に近い年齢のはずだが、こんなところで草臥れている俺よりも断然若さが溢れる笑顔に、何だか少し張っていた肩の力が抜ける気がした。
 いつも思うが、この人の若い頃は水木に劣らない美丈夫だったに違いない。きっとモテた事だろう。現代風の男前ではないけれど今なおかっこいいその姿に、俺は水木の未来を少し想像してしまう。それはそれで同じ男としてはむかつくけれど、奴もきっと還暦を迎えるほどのおっさんになってもイイ男なんじゃないだろうか。
 少し余裕が出来た途端にバカな妄想をしてしまう俺の前で、そこが誰の席であるのか知らないのだろうに、阿田木氏は杜の膳に手を伸ばし躊躇う事無く箸を持つ。
「戸川もしょうがない奴だからなぁ。迷惑かけるな」
「いえ、別に俺も暇をしていただけなので、」
「ああ、大学は休みに入ったのか」
「はい」
「お前が来ているのを知っていたら、隆雅を連れてくるんだった。抜け駆けしたのがバレたら泣かれるかもしれん」
「リュウくん元気ですか?」
 勧められた酒を断り、逆に阿田木氏の猪口に徳利を傾ける。酌なんて、水木に対してもした事はないんじゃないか?――なんて。そんな事をこんな酒の席で考えるのは不毛だし、今思いつくのは反則のような気がするけれど、つい思ってしまう。だから何があるというわけでもないのに、馬鹿だ。
 中途半端に近くにいるからだろうか。水木の事が頭にチラついて仕方がない。
「あいつは、元気すぎるくらい元気だな。ヤマトくんヤマトくんと五月蠅い。悪いがまた相手をしてやってくれ」
「ええ、俺も会いたいですし、喜んで」
 俺が所在なさげなのがわかったのだろう。杜の食べ残しを突付きながら、阿田木氏は暫く俺の隣に座っていた。だが、話すと言っても特に共通の話題もなく、当たり障りのない会話が尽きかけた頃に腰を上げる。
 俺ももういいだろうと、部下達に声をかけに向かう阿田木氏に暇を告げると、「須賀に会わないのか?」と首を傾げられた。誰よりも会いたいと思っている俺に、そんな事を訊かれても困るのだが。
「…来るんですか?」
 期待を込めての問いかけに、けれども阿田木氏は断定をしてくれない。
「多分来るだろう、今夜はここに居るはずだ。俺は少し顔を出しただけだから、すぐまた東京に戻るがな」
 今から帰るのかと驚く俺に会っておけよと真剣な声で忠告すると、軽く手を振り俺が退出する事に許可を出した。ヤツとはもう既に一度顔を合わせているのだけれど。そんな事を態々訂正する意味を見つけられず、曖昧な笑いを返し頭を下げる。
「……」
 阿田木さんはまだ、やっぱり須賀と呼ぶのだな。
 襖を閉め息を吐き、屈み込み靴を履きながらそんな事を思う。俺には関係ない事なのだけれど。俺が感じる程も、誰も気にしていないのだろうけれど。そのパフォーマンスの理由が理由なだけに、その名を聞く度に少し複雑な気分になる。阿田木氏のそれに慣れないだとか、不服があるからだとかではなく。そうなるのは、出会った頃に水木が言っていた言葉を思い出すからなのだろう。
 今でさえ、名前でなんて呼べるわけがないというのに。あの男は昔、警戒丸出しの俺に向かって、水木と呼ばれるのは慣れていないから呼ぶなとぬかしたのだ。今にして思えば、彼は彼なりに色々思うところがあったのだろうけれど。そんな事は微塵も知らない一般人に、知り合ったばかりのヤクザが何を言っているのか。どう好意的に考えてみても、おかしいものは、おかしい。
 馬鹿だ。

「楽しそうですね、千束さん」
「…………いいえ、別に」
 一体いつから見ていたのか。呼び掛けに驚き顔を向けると、そこには戸川さんが当然のように立っていた。指摘を受け、自分が笑みを作っていた事に気付き慌てて俺はそれを引っ込める。懐かしいと思うような記憶でもないのに、笑っていたらしい自分が解せない。
「何かいい事がありましたか」
 答えを求めているような声音でないのは、きっと俺が何も答えないのをわかっていてのそれだろう。昼間と変わらずきっちりと身につけられたスーツに、草臥れた箇所は無い。人を疲れ果てる状況に押しやっておいての戸川さんのそれが、何だか腹立たしくて仕方がない。
「食事は摂られましたか? もう宜しいので?」
「ええ、もう…」
「口にあいませんでした?」
「いえ、美味しかったです」
「相手が杜ではつまらなかったですか」
「そんな事は…ないです」
「本当に?」
「…阿田木さんも居ましたし」
「それは余計に気詰まりだったんじゃないですか?」
「まさか。楽しかったですよ」
「だから、笑っていたのですか」
「……そういう訳じゃないですけど」
「だったらどう言う理由でしょう?」
「…………」
 宴会場から数メートルしか進まないうちに遭遇した戸川さんに、俺が部屋から出てくるのを待っていたんじゃないかと思わず訝しんでしまうが、それ以上に笑顔を覗かれた気まずさに態度は自然と素っ気無くなってしまう。だが、そんな俺を切り崩そうというのか、テンポよく質問を重ねる戸川さんは爆弾のような言葉をそこに混ぜ込み俺の頭を殴りつけてきた。
「もしかして、私に対して怒っています?」
「…………はあ?」
 何故、そうなる!?
 逃げのかたちに入っていた遣り取りが、一気に状態を変えた。廊下の真ん中で、俺と戸川さんは見つめあう。一方は驚きに目を丸くし、一方は慈愛の笑みを顔に浮かべて。
「……なんで、そんなこと」
「色々と思い当たる節がるので」
「…あるんですか、へぇ、そうなんだ……」
 いつも確信犯なのは知っているけれど、反省なんてしないだろう男からのそれに、思わず嘆息する。けれど、戸川さんは俺のその言葉を聞いた後ではっきりと、「冗談ですよ」と笑った。
「……」
 何よりも冗談にすべきなのは、この男の性格じゃないのかオイ。
 見事にハメられた悔しさに、これはやっぱり俺に対する不当な嫌がらせだと捉える事にする。けれど、だからと言って仕返しをする勇気は無く、俺は色々な思いを飲み込み吐き出す言葉を選びなおす。失敗はしないように、慎重に。
「…………ちょっと食べ過ぎたんで、悪いですけど部屋に戻らせてもらいます」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。戸川さんは今からなんですよね? 先に済みません、ご馳走様でした」
 これ以上一緒に居たら、からかわれ倒される。俺は大きく頭を下げ、失礼しますと足を踏み出す。けれど、直ぐに呼びかけられて足を止める事になった。礼儀正しいのではなく、これは意志が弱いと言うんじゃないかと自分で思いながら、俺は身体を捻り顔だけを戸川さんに向ける。
「…何でしょう」
「今夜、この携帯電話を水木に渡しておきますから、寂しかったらどうぞ鳴してみて下さい」
「…………え」
「明日の朝までなら、水木に直接繋がります」
 戸川さんはそう言い、手の中のケータイを俺に見せつけるように軽く振った。
 それは唯一俺に許されている、水木に繋がる全てと言えよう。けれど、いつもは戸川さんが持っている戸川さんのケータイで、実際にそれで水木と話す事など全くと言っていい程ない。何より、こちらから掛けても半分くらいは留守電で、半分の半分はオフ状態で、残りの半分で戸川さんか彼の部下が出るくらいなので、俺から掛ける事も余りない。俺の暇を見計らって無駄話を繰り広げるために戸川さんが掛けてくるのがメインの携帯電話だ。繋がりと言っても、本当はそんな微妙なもの。
 それなのに。一気に多くのものを飛び越えて、水木に直接繋がってしまうらしいそれに、望んでいたにもかかわらず俺はビビってしまう。
「……何で…?」
「無理に連れてきてしまった、私からのお詫びですよ」
 水木が直ぐに出るかどうかまでは保証出来ませんが、無いよりはいいでしょう。
 そう言い笑う戸川さんに、わかったと頷きながらも、頭は全然わかってはいなくて。ただ凄い事だと感じる心が、どうすればいいのか決められずに早鐘を打って。何だか息苦しいと気付いた時には、俺はもう足を踏み出し廊下を進んでいた。
 後ろではきっと戸川さんが天邪鬼のようにニヤついているように感じたけれど、それさえもどうでも良くて振り返る気にはなれない。
 心の準備も無いままに、思いがけずも繋がってしまい、驚きを上手く喜びに変える事が出来ない。

 階段を下りるか、エレベーターを利用するか。ボンヤリと頭の片隅で考えながら、何かが変わったような気がする自分のケータイを、俺はポケットの中で強く握り締めた。

2007/07/22