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 まだ雪はちらついていたが、傘を差さずとも塗れはしないと判断し、そのままフラリと外へ出る。案内通りに道を進むこと15分。散歩に適した場所に、簡素な作りの別館があった。こぢんまりとした受付でルームキーを示せば無料で使用出来る露天風呂だ。
 夕食前に一度温泉を味わっておこうと皆が考えるのか、思ったよりも込んでいる。だが、当たり前なのだろうけど、見知った顔はどこにもなかった。慰安旅行とはいえ、こんな時間に温泉に入れるほど暇ではないのか、それとも一般客に混ざらないようにしているのか、案外本館の大浴場を占領していたりするのか。彼らがどうしているのか全然知らないが、とりあえずここには居ない事に俺は安心する。
 微かに濁った湯に浸かり、水木との会話を振り返る。やはり、まともな言葉を交わしたようには思えない。顔を合わす事で得たものが何なのか思い付かず、気分が沈む。会えない時は、ほんの少しでもいいからと望むのに。実際に会ってみると物足りなさばかりに目が行き、満足出来ない。相手の素っ気無さは予想範囲内のものであるのに、水木の簡素さに俺は必要以上にヘコんでしまう。
 これならば、中途半端に会わないほうがマシだ。そう思うが、俺にはそれが我慢出来ない。泣く事になっても、怒る事になってもいいから、少しは顔を見たいと思う。声を聞きたいと思う。けれど、それは決意ばかりでしかなく、未だ最後まで貫き通す事に成功したためしがない。いつも、会わなければ良かった、喋らなければ良かったと後で思ってしまう。
 水木と出会って、もうすぐ三年。未だに俺は、あの男が何を考えているのかわからない。言動の予測は多少たつようになったが、本心を把握する事は出来ていない。
 戸川さんはよく、水木は難しくはない単純だと口にしている。若林さんは、別に判りたいとは思っていないので特に考えないといつだったか言っていた。俺とて、全てを知っておきたいわけではないが、偶にしか会わない日々の中では少しでも繋がるものが欲しいと思うのだ。だが、それこそが難しい。
 例えば。俺に惚れたと言うその言葉を、俺は信じていないわけではない。けれど、この先も一緒に居たいと願う気持ちは本物であっても、水木がそれを維持する努力をするのかどうかは疑わしく感じる。ひとつの歯車が狂った時、水木は気持ち以外の理由で妥協し、俺との関係を清算してしまうのではないかと思えてならない。一方の俺は、これが最後の恋だなんて言わないけれど。それでも、この関係を終わらせない努力をし続けたいと思う。何よりも、それを優先したいと思う。
 けれど、それが俺と水木の違いだ。互いを深くわかり合えたとしてもどうにもならない、ただの大学生と大勢の人間の上に立つ男との立場の違いだ。
 余りにも、背負うものが違いすぎて。何をどう水木に求めるのが正解なのか間違いなのか俺には計りきれなくて。水木がどこまでならば俺を許容出来るのかわからなくて。俺はいつも空回りばかりしている感じだ。それが、疲れる。けれど、止められない。止めるつもりもない。
 そして、止める訳にもいかない。
 三年前とは違い、俺も少しは大人になって、この社会で生きると言う事が多少なりともわかるようになった。自己主張だけにしがみ付き、泣き喚いていた事もあったけれど。どのくらいまでが可能な夢で、どこからが夢でしかない夢なのか、どこまでいくと邪魔な夢になるのか、本能的に嗅ぎ取れるようになった。無謀な夢は、夢見る前に避けるようになった。それでも、譲れないのが水木であって、最早その存在をなくしては人生が狂う程なのだ。
 たとえ止めたくなっても、止めてはならない。
 そこまで決めているのに、それでもウダウダする自分が俺は嫌いだ。水木の家に転がり込んだ頃と何も変わっていない、進歩がない。
 だから。俺は水木ともっと繋がりを持っていたい。愛を囁けなんて言わない。だけど、戸川さんのようにどうでもいい事で構わないから、言葉を交わしていたい。ペットのようにいつでも構ってくれとは言わない。だけど、邪魔はしないから、近くにいたい。
 俺は、いつでも水木を望んでいる。馬鹿みたいだけれど、恋をしている、愛している。けれど、その気持ちをストレートにはぶつけられない。何より、俺が何をどう思おうと、肝心の水木が居ない。目の前に居る時は居る時で、俺はその気持ちを何故か忘れ去ってしまう。
 要するに。俺は未だ、三年経っても水木に慣れていないように思う。焦がれる時間が長すぎて、いざ実際に顔を合わすと見事にテンパってしまうのだ。
 そんなウザイ奴に、仕事の合間を縫って頻繁に会おうとするのか。甚だ疑問だ。もしかすれば、俺自身が今のこの不便な状況を作っているのかもしれない。
 湯あたりしたかと思うほど火照った身体を少し冷まし、別館を後にする。ジャケットを手に来た道をゆっくりと歩くが、半分も行かないまでに身体の表面は寒さを覚え、袖に腕を通すことになった。ロングコートにすれば良かったと思いながら、それでも道を外れて散歩の延長を決める。
 水木と会った後は、あの背中を見送った後は、馬鹿みたいだけれど後悔が胸を占める。どうして俺は楽しげに笑えないのか、恋する女子中学生のような事を考えてしまうくらいだ。それがあの時のトラウマからなのか、それともそんな風に惚れているからなのか、どちらなのかわからない。わからないが、多分きっと、未だに可愛げのない意地を張りつづけているのは同じ理由のような気がする。
 土産物屋の前で肩を寄せ合い棚を覗き込んでいる恋人達の後ろを通りながら、こんな風に人前でじゃれ合いたいなんて思っていないのに、どうして羨ましくも感じるのかと矛盾する心を持て余す。
 無いもの強請りをする子供の自分の置き場所を、俺は決めかねている。


 そろそろ夕食の時間だと部屋に戻ったところで、杜に捕まった。お前もこっちで一緒に食事を摂れと言う。
 こっちとは、そっちであって。それってつまりは、もしかして。
「宴会に参加しろなんて言うんじゃないだろうな…?」
「そうだ、出ろ」
「マジかよ。っていうか、なんで俺がそンなとこに……。嫌だぜ」
 こいつらは、本気で慰安旅行中なのか。戸川さんの言葉を疑っていたわけではないが、半分以上本気にしていなかったので、ただただ驚く。そして、そんな中に俺を呼び込もうとしている事実に、今更ながら腰が引ける。
 個人とは話をする事もあるが、ヤクザ面々の集まりに飛び込むほども俺はそこに浸かってはいない。水木との関係を続けていく中で多少の知り合いは増え続けているが、俺の生活に踏み入るようなものはない。戸川さんや若林さんは、個人的に親しくなっているので数には入れたくないが、それでも彼らはヤクザとして俺に接する事は殆どない。今までに何度か、それらしく感じる面々と顔を合わせたり食事をしたりした事もあったが、それは数人の集まりだ。個人的なものだ。
 そう言う意味では全く免疫のない俺が、何故にあからさまな集まりに顔を出さねばならない。これは、どういう事だ。嫌がらせか?
「俺も田野さんに呼んで来いって言われたんだ」
「どうせ、田野さんは戸川さんに頼まれたんだろう?」
「そこまでは知らない。ただ、俺がお前を連れて行かねば怒られるって事は確かだ」
「だったら、怒られろ。潔く散れ」
 鍵を開け玄関に足を踏み入れたが、直ぐに腕を引かれ戻される。引き戸はゆっくりと閉まり、無情にも俺の目の前でロックを掛けた。また解除せねばならないと鍵に手を伸ばしたところで、もう一度腕を引かれる。
「冷たい事を言うなよ。行くぞ」
「だから、勝手に行けって」
「ンじゃ、勝手に連れて行かせてもらうわ」
「ちょッ、待てよ! 俺はもう部屋で食べると頼んでいるから、」
「断っておいてやるよ」
「……普通に行きたくないんだけど?」
「無理だろ、それは」
「…なんでだよ」
 あっさりと否定する杜に顔を顰め突っ込むと、逆に突っ込み返された。
「何でって、さ。じゃお前、何しに来たんだよ?」
「…………知らねぇーよ」
「だったら、来い」
「…………」
 何がどう「だったら」だ。俺はヤクザの中に混ざって酒を飲む為に来たわけではないと言いたかったが、流石にそこまでは言えず言葉に詰まる。大学の友人達のように遠慮なく言い合っているが、これでも一応この男もそのヤクザの仲間なのだ。当事者の俺としては確かに死活問題ではあるが、実際にはくだらないものでしかないこんな事で命取りな暴言など吐けやしない。何より、思いとどまる程度に、俺は杜に感謝している。その存在に助けられている。
 それなのに。
 お前は言われたようにしていろと、これはそう言う事か。杜もそれが当然だと思っているのか。
 そう考えると、とてつもなく悔しくて。それ以上に虚しくて。抵抗する気力がなくなる。これが、俺に全てを望むのが水木ならば、惚れた弱みだと諦められるのかもしれないけれど。水木がこれを進んで行っているのならば、それに倣うけれど。そうではないのだ。
 こんな事は、多分きっと水木すら望んでない。
 俺もそうだが、水木もまた、その立場に締め付けられているわけで。誕生日に声ひとつ聞けないのもそのせいなわけで。遣る瀬無くて仕方がない。
「…おい?」
 どうしたと、肘を掴み誘導していた杜がふと足を止め顔を覗き込んできた。
「気分でも悪いのか?」
「いや…大丈夫」
「顔、硬いぞ」
「緊張しているだけだ、構うなよ」
「本当か?」
「しつこい。俺をそこへ引き込もうとしているお前が、今更何言ってんだ」
 ヤクザに囲まれて笑える程、俺の神経は太くないんだ繊細なんだ、ふざけるなよ。怒ると言うよりも愚痴のようにブツブツそんな言葉を落とすと、杜は子供の我儘だとでも思ったのか苦笑しながら歩みを再開した。けれど、俺の方は足を一歩踏み出す事に、体の中が冷えていく。
 緊張ではない。これは一種の、恐怖だ。

 それが何に対してなのかなんて。
 沢山ありすぎてわからない。

2007/07/17