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何処へ行くのかと問うと、何処へ行きましょうかと返された。しかし、窺ってくるわりには躊躇う事なく、車は首都高に乗り北進する。
「お昼、決まりました?」
「あー、別に何でも良いです。戸川さんのお薦めで」
「では、少し走りましょうか。美味しい店があるんです」
そう言って口にした地名は、田舎と言って差し支えのない場所で。何故そんな処をよく知っているのだろうかと首を傾けると、イタリアンは好きかと問われた。
「昔から地元で人気のパン屋なんですが、二代目がイタリア修業から戻ってきて始めたランチが雑誌で紹介され有名になりまして、週末には遠方からの客で予約を取らねばならないほどです」
「お知り合いなんですか?」
「ええ、少し。友人の妹の嫁ぎ先です」
「へぇ、そうなんだ」
その友人は、一般人ですよね?なんて尋ねられるわけもなく。なんと返事をすればいいのかわからずに、自分で聞いておきながら流すような答えを返す。場違いにも、ハンドルを握る手に意識を奪われ、会話への集中力を欠く。左の小指に巻かれた白のテーピングが、シックな色合いの内装の中で映えている。どうしたんですかと問う勇気はない。
「試験はどうでした?」
「ええ、まあ、程々には出来たかと」
「結果はいつです?」
「四月に入ってからです。今更どうにもならないですし、単位落としていたなら春になって騒ぎます」
「千束さんならば大丈夫でしょう」
「だと良いんですが」
軽く笑いながら視線を手元へ落とし、ゆっくり息を吐く。車が加速し、身体に圧力がかかった。目を開けると、視界の端をトラックが後方へと流れていく。
三回生では留年する事はないので、その点の心配はない。だが、予定の単位を取れていなければ四回で改めて修得するしかなく、卒論に影響をきたさないとも限らないのだ。出来るならば、それは避けたい。しかし、今更何を言っても遅い。後は、教官の判断に任せるしかない。それよりも。
季節が変われば、もう四回生だ。卒業論文もそうだが、卒業後の身の振り方も考えねばならない。大学に残るか、就職をするか。都内から離れるつもりはないが、そこで居続ける為の努力も未だ殆どしていない。同期の波に乗り、就職活動らしきものは何度かしたが、冷やかし程度のものだ。
「留年したら、いっそ大学を辞めてうちで働きますか?」
「……縁起の悪いことを言わないで下さいよ、留年なんてしません」
「だったら、来年卒業した後にどうです?」
「……あいつに怒られるから、嫌ですよ」
「私は、怒られても平気です」
「……」
貴方が平気だからって、だからどうした。それは俺の助けにはならないじゃないか。
意味がわからない答えに溜息を吐きながら、いい加減やめてくれよと心で嘆く。からかいの範囲内でしかないが、いつの頃からか戸川さんは俺をスカウトするような言葉を紡ぐようになった。多分、紹介先はヤクザのヤの字も覗えない、極々一般的な普通の会社なのだろうけど。それでも、プライドを抜きにしても頷けはしない。
冗談ですよと笑う声に、一体どれがそうなのかと問いかけたが。
喉の奥に引っかかり止ったそれは、言葉にならずに掻き消える。
昼食後、当然都内へ戻ると思っていたのだが。そんな俺を嘲笑うよう、どんどんと北進する車に不安を覚え、思わず縋り付くかのように隣の男を凝視する。
このまま日本海まで行くつもりかオイ。俺は寒い海に用はないぞ?
「……何処へ、行くんですか…?」
「さて、どこでしょうか」
「……」
「到着してのお楽しみです」
「…………はぁ」
間違いなく、楽しいのは当人だけだろう。俺は全然楽しくない。だが、俺もまだ命は惜しいので、そういうツッコミはせず曖昧に頷く。横目でにこりと微笑む戸川さんから視線を外して向けた前方には、トンネルが口を開けて待っていた。まるで、ドーム型のそれは怪物のもののようだ。
滑るように吸い込まれた車体が、出口を求め加速する。単調なリズムが身体に響き、等間隔のライトが車内を照らし、一瞬にして眠気に誘われた。思わず欠伸をすると、すかさず休んでもいいですよと声を掛けられる。
「到着したら起こしますので、遠慮せず寝てください。まだ少し掛かりますから」
「…遠いんですか?」
「そうですね。空いていますし、一時間程で着けると思いますが」
天候と道路の状態もありますからね。夕方までに着けばいいですし、ゆっくり行きましょう。
そう言う戸川さんに、だから何処へ行くんだよと内心では突っ込みつつも、喋る気はないのだろう事を悟り深くシートに凭れ込む。少し後ろへ倒した座席は、丁度良く身体にフィットし、本当に眠ってやろうかと思う。だが、流石にそれはと思い直し正面を見詰めるが、オレンジ色のトンネル内では睡魔と闘う術はなく、それ程も眠かったわけではないのに瞼が落ちる。まるで暗示にかけられたようだ。
腹が満たされたこの状態では、なおさら意識を保つのは難しい。
「千束さんは、温泉は好きですか?」
「……ぇ?」
漸くトンネルを抜け拓けた視界に目を瞬かせた時、唐突な質問が横から投げられた。理解出来ぬまま反射的に首を回すと、「温泉です」と同じ言葉を向けられる。
「温泉…?」
……温泉って、あの温泉か?
他の温泉ってどんなだよと頭の隅で突っ込むが、突然すぎて巧く反応出来ない。
「簡単に言えば、慰安旅行ですかね」
「ハイ…?」
「いま人気でしょう? 温泉」
「…そう、ですね」
「千束さんはどうです? うちの奴らにもウケが良かったのですが」
「えっ、何が…?」
慰安旅行の文字が頭の中で暴れ回り、いつの間にか温泉は弾き飛ばされていた。何を問われているのかわからずに戸惑う俺を、戸川さんは苦笑しながら救ってくれようとするけれど。ですから温泉は好きですかとお聞きしたんですけど、如何です?――と重ねる言葉が本当に救いになっているのかは微妙だ。
「ですから、温泉ですよ」
喉を鳴らし笑われ、自分がボケきっている事に気付く。だが、それと同時に、わかっていて楽しんでいるのだろう相手の意地悪さにも気付く。自分はからかわれているのかと深い息を吐き、わかるようにもう一度言ってくれと俺はハンドルを切る戸川さんに頼む。
「慰安旅行って、何ですか?」
「ちょうどあちらで仕事が幾つかありましてね。良い機会なので都合がついた奴らだけですが、日頃の苦労を労ってやろうかと思いまして」
「それで、慰安旅行…ですか」
「なかなか好評です。まるで子供のように楽しんでいますよ」
修学旅行生のようだと言った戸川さんは、「千束さんも是非楽しんで下さい。良い処ですので、のんびり羽を休めて下さいね」と無理な注文を簡単に言葉にしてくれた。それが命令であったとしても、俺には難し過ぎて実行など出来やしない。どこの世界に、ヤクザに混じって温泉に浸かりリフレッシュ出来る学生が居るのか。小説の中で居たとしても、それはコントかギャグだろう。現実的ではない。
「あの、」
「はい?」
「何で俺が、そんなところへ…?」
「私が誘ったからでしょう」
「……」
お言葉ですが、戸川さん。俺はこうして連れられてはいるが、誘われた覚えは微塵もないんですが? もしも伺ってくれていたのならば、丁重にお断り申し上げたのに。辞退する機会も与えずに、その理由はないだろう。
相変わらずな物言いに視線を下げた俺を戸川さんは小さく笑い、「ご都合が悪かったですか?」としゃあしゃあとふざけた事をぬかす。最早、言い負かす気などゼロとなり、突っ込みすら入れる気分ではなくなる。
それでも、これは確かめねばと。この答えがNOならば、車が停まった瞬間に逃亡してやるぞとの決意を固めながら、意を結して訊く。残念ながら、天邪鬼だとわかっていても、戸川さんしか居ないのだからこの人に聞くしかないのだ。
「……水木も、居るんですか…?」
「ええ、居ますよ。一応」
「一応って…?」
「彼の状況は、その時々で変わるので。予定通りならば宿に居るはずです」
「予定通りなら、ね…。そっか…」
それって、ものすごく当てにならないと。俺は不貞腐れているような短い返事をしながら、シートに肩を押し当て体を預ける。一気に沈んでしまった気分に、何かを期待していたらしい自分に気付くが、それが何なのかは知りたくない。
「単なる旅行――とは、水木の場合はさすがに言えません。他の奴らとは違い、きっちり働いて貰っていますので。済みません」
「別に、俺に謝る事じゃないし……。それに、それってそこで仕事をしていると言うことでしょう?」
「そうですね」
「そんなところに、俺なんかが邪魔をしていいんですか? 忙しいのなら、俺は別に、」
「仕事ばかりではなく、時間が空く時もあるので大丈夫ですよ」
「…いや、大丈夫って……」
まるで俺が水木に会いたいと言っているかのような、その返答の仕方はなんですか。わざとでしょう、戸川さん。俺を好き勝手に誘導しようとしているように感じるのは、気のせいではないだろう。俺自身は別に、水木に会わせろと迫ったわけではないのに。寂しいんだと訴えたわけではないのに、何なのだろうかこれは。水木の所在を断言しないのに、何故に俺を煽るのか。全く解せない。
「例え水木が居なくとも、千束さんの知っている奴も来ているのでご安心下さい。春休みはバイトが詰まっているのでしょう。のんびり休んで下さい」
「はァ…」
もっともらしい事を言っていても、そこに正当性はないはずなのに。
頷いてしまう自分が、ちょっと悲しい。
2007/07/02