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 いつの間にかうとうとしてしまっていたらしく、声をかけられて漸く目的地に着いた事を知った。車から降り身体を伸ばしながら、辺りを見回す。思った程も雪は積もっていないが、東京生まれの東京育ちにとっては感動の景色。濃い緑の上に乗った白銀が目を刺激する。
 そして、振り向けば。
「…ここ?」
「ええ、行きましょう」
 旅館正面の駐車場で降りておきながら他のところであるわけがないのに、豪華な作りに気圧されながら思わず聞いてしまう。言っては悪いが、ヤクザ面々を受け入れているような胡散臭い宿には見えない。都心から車で訪れる事が出来る手軽さで、田舎の冬景色そのまんまの景観で、確かな贅沢を味わえる。温泉ブームの昨今では、多分人気の宿ではないのだろうか。豪華でも、漂うのはごくごく普通の一般的な匂い。
 ホント、ちょっと洒落た田舎の旅館。こんなところがどうしてヤクザ一行を受け入れているのか。経営難なのだろうか?なんて心配は大きなお世話だろうが、本日の客の正体を知る者としては思わずにはいられない。都会のホテルならばいざ知らず、特殊な面々はここでは目立つだろう。
 騙されたような訪問だったからか、若干不機嫌にそんな事を考えながら戸川さんの後をついて行く。
 玄関で擦れ違った若いカップルに振り向かれたのは、この際無視だ。何故?どうして?と考えてはならない。自分でも、戸川さんでもないと思う以外してはならない。離れた場所で頭を下げる見覚えがあるような男達も無視だ、ムシ。
「良い処でしょう?」
「ええ、まあ」
「疲れましたか?」
「いえ、別に…」
 曖昧な言葉で戸川さんの返事を流すと、案の定喉で笑われた。聞きたくないわけでも、嫌なわけでもなく。何となく、どう会話を発展させればいいのかわからない。中途半端な昼寝を取り寝惚けているのか、この雰囲気に気圧されているのか、上手い反応を返せない。
「……ぁ」
 手続きを始めた戸川さんの後ろに立ち、手持ち無沙汰に辺りを見回し気付く。
 フロントとは逆の一段下がったラウンジに、水木が居た。彼の前に座っているスーツの男に覚えはないが、一歩後ろで控えている男は見た事がある顔だった。名前は知らないが、水木の部下であるのは間違いない。
 その男が俺に気付き、背を向ける水木の耳に何かを吹き込んだ。多分、着きましたよと、そんな一言だけだと思うのだが――。
「……戸川さん」
 何故か、ちらりとこちらを見た水木の表情はいつも以上に硬くて。遠くからでも、眉間に皺が寄っているのだろう事が感じ取れた。36歳のオヤジのくせして、仏頂面でもいい男なのだけれど。そこに見惚れている余裕などなく、睨まれたような居心地の悪さに問い掛ける声は自然と低くなる。
「俺が来る事を、水木には…?」
「特に言っていませんが」
 私の一存で連れてきましたのでと、さらりと言う男を俺は睨む。なんて事だ、騙された。言っていませんではないだろう、おい。
「大丈夫ですよ」
「……」
 にこりと微笑まれても、全然大丈夫には思えない。何を根拠に言っているのかこの人は。たとえ大丈夫だとしても、俺の気持ち自体は確実に大丈夫ではない。
 もうこちらを見はしないのだろうに、それでももしかすれば振り返り再びあの視線を向けられるのかもしれないと思うと、簡単には顔を向けられずに俯いてしまう。厚みを感じるワイン色の絨毯を踏みつける自分の靴を見下ろし、そこに向けて息を落とす。
「……俺、怒られたくはないですよ」
「水木は貴方には怒りませんから、心配無用です」
「…………」
「大丈夫です」
「いや、でも…、そんなの、わかんないでしょう…」
「わかりますよ」
「……」
「わかります」
「……」
 最早何を言っても、この人には勝てないのだろう。言葉に詰まる。
 確かに、水木とて俺が戸川さんに強請って、ここへ連れてきて貰ったのだとは思わないだろう。戸川さんに拉致られたからだと、事実を正しく理解してくれるはずだ。だが、それに納得するかどうかは、また別の話ではないだろうか。
 実際に顔を顰められたのだから、やはりどう考えてもこの大丈夫はあてにならない。怒らずとも、水木は絶対に呆れているはずだ。俺だって、自分自身に呆れている。
 なんだって、こうして接触の機会を漸く得たというのに。やっと顔を合わせられたというのに、こんな微妙な気まずさを味わわねばならないのか。自分をこんな状況に追いやった隣の男が恨めしい。わざわざ水木と会わせる為に気を遣って俺を連れてきてくれたのだとしても、それに感謝する気持ちには到底なれない。
「先にお部屋へどうぞ千束さん。直ぐに伺いますので、それまではとりあえず部屋にいて下さい」
 どうして俺は簡単にこの人に付いてきたのか。水木以上に俺が呆れているさと溜息を吐きながら、お部屋は離れでございますと促され年配の仲居の後に続く。一体俺を何者だと思っているのだろうか。マニュアル通りの対応に、胸を撫で下ろせばいいのか、眉を寄せればいいのか判断しかねる。
 案内された部屋は、離れと聞き構えた程も広くはなかったが、一人で泊まるには十分な豪華さで。戸川さんの口振りと水木の様子から独り寝は決定事項なのだろうに、これは嫌がらせかと溜息が零れる。八畳二間に、庭に面した板の間は縁側と言うには広い四畳程。部屋付きの風呂は小さいながらも露天であり、明らかに家族用。安くはない部屋だ。けれど、俺としては豪華でなくていいから、質素な部屋でかまわないから、水木の側がいい。
 お茶を入れ仲居が下がると、空しさが俺の上に降ってくる。
 温かい煎茶を啜りながら気分転換に旅館案内を眺めるが、別段心が晴れる事項はない。部屋付きの風呂以外に、本館には一日毎に男湯女湯が入れ変わる大浴場が二つ。散歩の範囲内の距離にある別館には、混浴箇所もある露天風呂。加えて、近くの宿の温泉にも格安で入る事が出来るらしく、正に温泉三昧。だが、別段それに興味を抱いていない俺にとっては、ああそうかと言うもので。
 贅沢だとわかりつつも、どうでもいい気持ちが消えない。
 水木の渋面が、頭から離れない。
 笑顔を向けろなんて、そんな難しい事は言わないけれど。
 もっと、さ。もうちょっと、さ。なんかあるだろう? あるものじゃないか?
 顔を合わせるのが何日振りなのか、わかっているのかあの男は。会わなかった日を数えている自分がバカみたいだ。

 もしも、これが旅行と言えるものなのならば。
 水木と初めてのそれが、これって言うのは。溜まらなく寂しいような気がする。

2007/07/06