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 綺麗に敷かれた蒲団を前に、俺は小さく息を吐き、握り続けていた携帯電話を放した。ポケットから取り出した掌を眺め、うっすらと赤くなった跡形を指でなぞる。
 別に、期待なんてしていたわけではないけれど。
 戸川さんだって、だからこそ俺にあんな事を言ったのであるから、布団がひとつなのは正しいのだけれど。
 逆に二人分用意されていたのなら、恥ずかしすぎてふざけんなよと怒ってしまうのだろうけれど。
 けれども、なんて言えばいいのか。戸川さんの発言にフワフワドキドキしていた身としては、戻ってきた広い部屋にポツンとシングルサイズの寝床がひとつ用意されているのは複雑だ。大げさすぎるかもしれないが、冷や水を浴びせられたような。見かけていた夢を一瞬にして醒まされたような、そんな感じがする。
 戸川さんがそれを思い付いたのは直ぐ先程で。流石にまだ水木に携帯電話は渡っていないのだろうけど。
 こうして繋がっていても、やっぱり遠い事に変わりはないように思えてならない。いや、実際に、まだまだ遠い。
 やっぱり簡単にはいかなものだとケータイを取り出して俺は居間のテーブルにそれを置き、代わりに浴衣を手にして戻ってきたばかりの部屋を後にする。
 静かな通路を本館に向かって歩くと、奥からざわついた気配が向かってきた。多くの客が食事を楽しんでいる時間帯なだけに、見える人影は殆どが従業員。けれども聞こえてくる音は、姿は見えない年配客の笑い声ばかり。さっきまで自分も同じようなところに混ざっていたのに、一度出てしまうとその空気は馴染み難いもので。何がそんなに楽しいんだと、やっかむかのように少し苛立ちを覚える。
 騒がしいそれから逃げるように向かった大浴場は、夕方の別館に反して空いていた。曇ったガラスの向こうに見えるのは片手ほどの人数で、寂しいくらいに広々としている。
 誰も居ない脱衣所で服を脱ぎ、タオルを手に俺はドアを押し開けた。

「アレ、千束?」
 湯の花が漂う温泉に浸かったところで、思いがけずも声を掛けられた。さほど大きくはないのに響くその声に身体ごと向きを変えると、目を丸くした大淵が湯の中で立っていた。まさか、大学の友人に会うとは驚きだ。何だよお前と騒ぎながらバシャバシャと湯を掻き分け近付いてきた大淵が、肩に掛けていたタオルを頭に置き、俺の隣に腰を下ろす。
「こんなところで会うとはなぁ、スゲエ〜。っで、どうしたんだよ?」
「それはこっちの台詞だ」
「俺? だって俺は地元だから。帰省した時はよく来るんだよココ」
「えっ、お前こっちだったの?」
 知らなかったと応える俺の顔に、ピシャリと湯がかかる。両手を合わせた大淵が、水鉄砲で俺を狙っていた。
「止めろよ」
「白状すれば、実家はもうちょい南なんだけどな」
「どこ?」
 車で山道を一時間程だと言い口にした街の名は、悪いが俺には覚えのないところで。
「ひとりで来たのか?」
「いや、こっちの友達と。遊んだ時はいつもあちこちの温泉へ行くんだよ。ドライブにちょうどいいからさ」
 他にも、あっちだこっちだと温泉の名前を上げるが、それもまた俺には耳慣れないもので。ふうん、と軽く返事をしながら肩まで湯に沈む。土地勘のない者には、何がなんだかよくわからない。わからないというか、思わぬ遭遇で調子が狂っているのか、変に緊張しているようで頭が回らない。働かない。
「…で、その友達は?」
「外だよ、外。お前も温まったらあっちへ行ってこいよ。この時間なら猿は出ないからさ」
「……昼間は出るのかよ」
「冗談だ。ここは出ない」
 そう言ったそばから、ぎゃはははと露天風呂から笑い声が響いてきた。大淵が素早くツッコミを入れる。
「アレは猿じゃなくて、バカだ」
「友達?」
「そうとも言う。それより、お前の連れは? まさか彼女と旅行中とか? だったら、俺ってマズイところに遭遇しちゃった?」
 ていうか、噂の彼女見てぇ! 俺はあの千束の秘密を握っちゃうてか!?
 異常なハイテンションで一人盛り上がる大淵に、俺は溜息を落とす。何が、噂だ、あのってどのだ。確かに一見の価値はある奴だけれど、彼女じゃなく彼氏であり、握る秘密はおいそれと他人には喋れない悪質なものだ。あまり関わらない方が身のためじゃないかと俺は思うが、そんな事を知らない男は勝手に騒ぎ興奮する。逆に、ここまで盛り上がられれば、こちらは冷めるというもので。
 アホだなと俺は息を吐く。
「違う、ただの知り合い連中とだよ。彼女じゃない」
「照れるなよ、隠すなよ。減るもんじゃないだろ?」
「照れていない。元から居ないものを隠せはしない」
「怪しいなぁ〜。男同士できていたら、態々ひとりで温泉なんて浸かってないだろう。違うか?」
「宴会抜け出して来たから、ひとりなだけだ」
「宴会? なにお前、呑んでるの?」
「別に、そんなには――」
「タイスケ、卓球しようぜ卓球ッ!」
「ッ!?」
 大淵のしつこさに辟易する中、唐突に浴場内に響き渡った奇声に俺はビクリと身体を震わす。同じ様に驚いた大淵は、けれどもその正体を素早く認識し、「ったく、うるせぇーなぁ」と舌打ちを落とした。
 肩越しに振り返ると、裸の若い男が二人、ガラス戸を潜り駆けて来くのが見える。茶髪とボウズの猿二匹。見ている俺は転ぶんじゃないかとヒヤヒヤしているが、当人達は気にもせずに濡れた床の上で飛び跳ねている。
「おい、お前らなぁ――って、うわ!イテッ!」
 ヒャッホー!とテンション高く湯船に飛び込んだ二人の男が、手に盛っていた小さな雪玉を遠慮なく投げ付けてきた。攻撃を受け悲鳴を上げる大淵の横で、湯面を跳ね上げ沈んでいくものを掴もうと俺は手を伸ばすが、届くよりも早くそれは溶け消えてしまう。
 大淵の頭に当たり跳ねた雪玉が、俺の肩を掠めて落ちた。意識するより早く、冷気が触れた箇所に指先を押しつける。痛くはないけれど、なんかキた。頭が一瞬に弾けたような感覚だ。
「タイスケ行こうぜ」
「てか、誰こいつ?知り合い?」
「ああ、大学の同期」
 偶然会ったんだと大淵の説明が終わらないうちに、一人が俺の腕を握り引っ張った。無理矢理に立ち上がらされ、その手を振り払う事も忘れ、隣の友人に縋るような目を向けてしまう。意識しすぎているのは俺の方だろうけど、捕まれた腕が妙に心地悪い。
「な、なに?」
「何って、卓球だとよ千束。泊まりなら時間あるだろう?やろうぜ」
 俺の動揺をよそに、大淵も立ち上がり俺の背中を軽く叩いた。
「そうそう、俺らと一緒に遊びましょうチヅカくん」
 茶髪の男が俺の肩に手を置く。
「…………」
 この状況がわからないわけではない。ただ、この状態が受け入れがたい。温泉巡りが趣味ならば裸にも慣れているのかもしれないが、初対面の奴とこの姿でじゃれつくのは、俺としては遠慮したい。恥ずかしいと言うよりも、普通に退く。
 水木以外の身体に欲情なんてしないから、問題はない。ただの小さな嫌悪だ。同調出来ないからと言って怒るほどの事でもないと、さりげなく身体をずらし逃げる――が、逃げきれない。
「なあ、チームどうしようか? お前卓球上手い?」
「え、いや、あんまりやった事ないんだけど…」
「でも、そいつテニス部だよ」
 大淵の声に、ンじゃ俺と組もうぜと両人から声が上がった。大人気だ。けれど、テニスと卓球は全然違うだろう。何より、正しく言えば元が付くテニス部員なんだけど。
 っていうか、俺はまだそんなに温泉に浸かれていないんだ。身体は夕方に洗ったけれど髪はまだで、もう暫くはあがる気はないんだ。だから、その手を離せ。頼むから。
 などと心の中で喚いているうちにも二人がかりで引っ張られ、気付けば卓球勝負に強制参加させられていたりするのだから、情けない事この上ない。浴衣の帯を絞めながら、益々もって俺は何をしているのかと現状に呆れる。
 俺は大淵が思っているような温泉旅行に来たわけではないんだけれど。確かに少し水木に会いはしたが、それ以外は正にそんな感じの状況で。これ以上は望んでも仕方がないのではないかと改めて思ってしまう。温泉といえば卓球であるので、これも甘んじて受けるのが俺の義務なのかもしれない。
 つまりは、俺は俺で生きていて。この社会で生活をしていて。水木は水木で、同じ様に生きている。それを思えば、交じり合い重なり合わないのが当然で、近くにいても一緒に居られない事にも頷けるような気になるのだけど。
 けれどもやっぱり虚しいと、ラケットを握りながらも部屋に置いて来た携帯電話を俺は恋しく思う。

 気晴らしになれば良いと、気を抜けば何処かへ行ってしまう意識を維持し、テンションを上げ挑んだ卓球は、けれども惜しいところで勝利を逃した。
 頑張っても、努力をしても。
 駄目な時は、駄目なものなのだ。

2007/08/02