これは砂糖だと、そのクッキーを齧った瞬間に若林が思ったのはそれだけだった。「またか…」と顔を顰めた阿田木が胡乱な視線を向けてくるのを、続けてクマ型のそれに手を伸ばしながら、若林は上司の視線に応えた。
「食べられないことはありません」
「食いたいものじゃないだろう」
「隆雅さんに頂いたものですからね」
若林の言葉に阿田木が肩を竦める。確実に、甘くて硬いクッキーよりも、隆雅に心酔気味の自分に呆れているのだろう。だが、それがどうしたというものだ。
自身のことを棚に上げている男の視線をものともせず、若林は三枚目のクッキーに手を伸ばす。手にしたそれは、奇妙な形だった。
「何だと思います?」
「アメーバーだろ」
「想像力が乏しいですよ」
「お前の味覚よりマシだ」
「美味いとは言っていません」
多分、元はアヒルだ。型から上手く外せなかったのだろう。
小さな手が生地を引っ張り形を崩している姿を頭に思い描きながら、若林は阿田木の言葉に訂正を入れる。自分は食べられないことはないと言っただけだ。隆雅からのものでなければ、口にするつもりもない。
そもそも、甘いものは好まない。
「旨い時は、旨いんだがな」
当たり前な事を感慨深げに言いながら、阿田木が指先でクッキーを弄ぶ。
隆子と隆雅の母子は、よく菓子を作り組員に裾分けをする。父親である雅は、息子が組員と関わるのを歓迎してはいないが、このくらいは許容範囲なのだろう。だが、貰う方としては、時たま問題が発生する。時折だが、ハズレの時があるのだ。
脳に障害を持つ隆子は、イレギュラーな事態に弱い。応用が利かない。料理は、料理本の通りにしか作れない。手違いでひとつの材料を入れすぎたのなら、他のものも増やせばいいのだとか。その部分を取り除き、他の量もそれに合わせ調整するだとか。そういう対応が殆ど出来ない。子供のままごとだ。
更に、集中力にも欠けるので、本人の意識のしないところで事態が動いている時がある。そして、それに気付くような聡さがない故に、失敗作が組員達に広がる。
しかし。天使のような子供から届けられる好意に、例えそれが不味い品であったとしても、目くじらを立てるような者はここには居ない。組長の家族というのを抜きにしても、あの母子はそれなりに大事にされている。
だが、示しがつかないのも事実だ。
隆雅が成長すれば出来なくなる。多分、今だけのものだろう。
不味さなど、自分は問題にすらならない。むしろ、不味くあろうとも届かなくなる事の方が問題だ。若林はそんなことを思いながら、口に出来ない不味さはこの程度ではないと阿田木に教える。
「何であれ、須賀よりもマシです」
「酷いのか?」
「今は知りませんが、昔は料理のセンスはゼロでしたね」
「男なんてそんなものだろう」
第一、お前達の昔なら、奴はガキじゃないか。
結局二個目は口にせず、阿田木は煙草を取りだした。ライターの火を差し出しながら、若林は肩を竦める。
「この歳になれば、それで許せるのかもしれませんが。自分達もまた大人ではなかったので、戸川と一緒に殺意を覚えましたよ」
「穏やかじゃないな」
「須賀にとって、食べるという行為はただ空腹を抑える意味しかなかったんです。欲求を満たすものですらなかった。不味くとも危なくとも、空腹感が消えるのならばそれでイイという、適当な感覚です。生きるためというほども必死ではなく、ただの習慣に近かったんでしょう」
「可愛くねぇガキだな」
「須賀は親なしで育ったようなものですから、食事を楽しむなんて感覚はなかったんでしょう。そんな奴が作る物に期待出来るはずもなく、口にする前に気付き難を逃れたなんて事は何度もありましたよ」
もう二十年前のことだ。あの頃はまだ組には入っていなかったが、大学に通いながら好き勝手なことをしていた。気に入ったのではなく、こいつは使えそうだと須賀を構っていたのは戸川ばかりではなく、自分も何だかんだと彼の自宅へ足を向けていたなと若林は過去を思い出す。
若かった。青かった。だが、選択も思考も行動も、自分の全ては正しかったと言える。
それは、須賀の料理に関してのことでもだ。
「私は重曹入り味噌汁を飲んでからは、須賀の出すものは食さない事に決めました」
「重曹…?」
紫煙と共に零されたその呟きが消える前に、阿田木の眉間に皺が寄る。
「匂いを嗅いだ時は大丈夫そうだったので、つい口をつけたんですが。飲み込めるものではありませんでしたよ」
須賀は先にそれを口にしていた。平然と飲む男に、警戒もせず含んだそれを吐き出しながら若林が感じたのは、絶望だ。当然、怒りは湧いていた。だが、それ以上に、この男は救う価値もないと思った。
それまで多少あった、矯正しようと言う考えは吹き飛んだ。
若林の中には、自衛の意識だけが残った。
「それにしても。また何故、重曹だったんだ」
「出汁がなかったからのようです。味噌だけではなく、味噌汁には出汁が必要だとは知っているのに、重曹は調味料じゃないとは知らなかったんですよ、須賀は。有り得ません」
「出汁なし味噌汁の方が断然マシだな。だが、男ならそんなものかもしれないぞ」
「だとしても、飲んだら普通、間違いに気付きます」
「…気付かなかったのか?」
「いえ、気付いたでしょう。ですが、それだけです。腹に入れられるのなら、味を問題にしない。私が指摘して漸く、不味いなと認めましたが、それで終わり。吐くほど苦いものを奴は飲みきりました」
「凄いガキだな」
「ただの馬鹿です」
味覚がいかれている訳ではない。いかれているのは、須賀瑛慈の頭だ。
若林が学生時代に悟ったそれは、一緒に居た戸川もまた悟ったことだろう。けれど、彼は徹底をせずに、今なお危険に身を晒している。不味いものは口にしないと公言しているのも関わらず、物好きな男だ。
傷んだものは加熱すれば大丈夫と言う認識が、須賀のそもそもの間違いだ。傷んだものは、どうしようとも傷んでいる。しかし、それを言ってもわからないのもまた須賀と言う男である。
喰うなと言えば、その時は喰わない。だが、同じ事を繰り返す。
饐えた卵を茹でる、皺が寄ったキュウリを炒める、変色した豆腐を煮る。
須賀の食卓には危険物が並んでいた。だが、手も足も出して注意した方としては、まさかまだそれがあるとは思わない。
故に、戸川は時折、その爆弾を引き当てていた。正常が続いた事に安心しての誤算は、戸川のミスだ。しかし、それが通用する相手ではない。一体、その件で戸川が須賀を責めるのを、今までに何度見ただろう。
いつになろうと、怒られる須賀。
それに比べ、誰も何も告げないだろう甘いクッキーを齧りながら、若林はいつかどちらかの被害に遭うのだろう青年を頭に描いたが、直ぐに消し去り腰を上げる。
もしも、その時に問題が起こったとしても。対処するのは自分ではない。するつもりもない。
阿田木のもとを後にし執務室となっている部屋に若林が戻ると、ソファで戸川が寝ていた。テーブルの上のカップは空だが、室内にはコーヒーの香りが残っている。寝転がって間がないのだろう。
「戸川」
声を掛けながら、脇を通る。ふとゴミ箱を見ると、隆雅が渡したのか、件のクッキーが入っていた。捨てられている量から考えるに、殆ど口にされていない事がわかる。齧ったものまで吐き捨てたのだろう。
「珍しいな、食べたのか」
「……あのバカが問題ないと喰ったんでな」
クッキーぐらいと付き合ったら、これだ。忌々しげにそう吐き捨てる戸川に、思わず若林は口角を上げる。また須賀にやられたのだ。
不味いものは勿論、甘いものも口にしたくないと思いつつ、隆雅に渡されれば食べる自分。
信用出来ないとわかりつつ、気紛れのように須賀に付き合う戸川。
結局は、つまり。どちらも既に毒されているという事だ。
隆雅が居なくなった途端に投げ入れたのだろうそれをもう一度眺め、若林はそう結論付け仕事に戻る。
須賀の言うとおり。
だからと言って、問題はどこにもない。
- END -
2008/06/01