雨宮が彼を初めて目にしたのは、偶々泊まったホテルでのことだった。
知人にもならない、覚えがあるだけの人物が連れていた男に目が行ったのは、偏にその容姿ゆえなのだろう。
綺麗と言うよりも、端正な青年だった。だが、纏う空気が静寂すぎて、さびれた印象を与えた。
年齢的にも、雰囲気的にも、また職業的にも。似合わない人物を連れている。一体、どう言う関係なのか。そう思ったのは一瞬でしかなく、雨宮の関心は二人の関係よりも、青年そのものへと向かったのだ。
ただ数瞬見かけただけの見知らぬ若者に対して持つにしては、過剰な感情。
引っかかったのだと気付いたのは、次に別な場所で一緒になった時だ。
会員になっているフィットネスクラブのプールで件の青年と再会した時、雨宮は自分が既にあの時落ちていた事を確信し、納得した。
ゆっくりと、けれども力強く水の中を進む青年は、先日見かけた時とは別人のように活き活きとしていた。
しかし、プールから上がった瞬間にはもう、その溢れていた生命力はなりを潜め、静寂を漂わせた。
いや、静寂と言うよりも。あれは孤独に近いと、雨宮はプールサイドで立ち尽くしたままそう思った。寂しいゆえの孤独ではない。彼はいかなる時も独りである事が当然な人種なのだと、それを悟る。
地上に何の期待も希望もしていない。水中にいる時だけ、本当の意味で息をする。
まるで、尾びれを二本の脚に変えられた人魚だ。
本気で、そう思えた。全てでそれを感じた。だが、雨宮はそれでもあの男は人間なのだと、自分の考えを一蹴することを選んだ。彼のそれを汲んでいては、どうすることも出来ないと思ったからだ。
例え本当に人魚であれ、自分が望まれていない人間であれ。この手の中に欲しい。
その気持ちに押されるよう、どこかで罪の意識を少し持ちながらも、雨宮は止めていた足を真っ直ぐに青年へと向けて動かす。
ジャグジーに浸かり目を閉じている様子は、ここがどこなのか忘れるほどに静かだった。
失礼と、あえて邪魔をするように声をかけ、隣に身を置いても。青年は反応ひとつ示さない。小作りな顔を見下ろしながら、雨宮はこの男が欲しいと改めて思った。
その時点ではまだ、彼がホストであるのは知らなかったし。自分が男を相手にするなどとも考えていなかった。
ただ単純に、欲しいのだと雨宮は思ったのだ。
だから。
気付けば、無意識に手を伸ばし。
人差し指の背で、眠る青年の頬を撫でていた。
青年は驚く事もせず、ゆっくりと瞼を上げ、傍の雨宮を静かに見上げた。
意志の強そうな瞳。けれども、覇気のない表情。アンバランスなそれに、雨宮の口角が知らずに上がる。
「名前は?」
「……」
「教えてくれないか」
「…………」
手順も何もかもを省略した雨宮を、怪訝な顔も作らずに見返しながら、青年は身体を起こし無言で立ち上がった。
咄嗟に手首を掴み退き止めると、その手を見下ろし、雨宮に再び視線を当て、「ナニ」と短い言葉を発する。けれどもそれは、訊ねつつもどうでも良いと言うような、気のない声音。
「キミの名前を知りたい」
己の不躾さを悟りつつも、雨宮の口から零れたのは結局、言葉足らずな願いだった。
見知らぬ男に、唐突に問われる不快さ。逃げられるのも当然だと、自分の落ち度を頭の隅で分析したのだが。
雨宮の行為に対して、青年は体の向きを戻すと、「お好きにどうぞ」と平坦な声でそう言った。
「…何だって?」
「好きな呼び名をつければいい」
名前なんて、呼ぶ方と呼ばれる方がわかっていればいいものだ。
何を言っているのかわからず唖然とする雨宮を放って、青年は口元で小さく笑う。
そして、握られた手首に乗る雨宮の手を、逆の手でするりと撫でた。
「……ああ、悪い…」
放す気はまったくなかったのに。まして、叩かれたわけでもないのに。
まるで魔法にでもかかったように、あっさりと解放し、謝罪まで零した自分に雨宮はあとから気付き驚くが。
その時にはもう、青年はプールサイドに立っていた。
どこからか、誰かを呼ぶ声が聞こえた。青年は雨宮を見たまま、一度瞬きをし、「無粋だな」と、再び静かな声を落とし身を翻した。
その背を視線で追った雨宮は、細い身体が一人の男のもとへと進んでいくのを見た。
隣のジムで汗を流したと思しき男が、青年に呼びかける。
雨宮の耳に届いた彼の名は、ミナトと言うものだった。
二度の接触。
意識してホテルやジムを利用した結果。
数ヶ月の間で、雨宮は幾度かミナトと言う名前らしい青年を見かけたのだが。
大抵の場合、人を伴っており。
その相手は、いつも違う人物だった。
雨宮が彼が何者なのか特定出来たのは、季節が二度変わってからだった。
「初めまして、雨宮さま。ミナトです」
表情ひとつ変える事なく、マニュアルなのだろう挨拶を口にした青年は、会員制高級クラブのホストだった。
ストレートに言えば、男娼だ。
しかし。正体を知るまでと、知った後でも。雨宮の意思に変わりはなかった。時間と金とをかけて漸くここまで辿り着いたのだ。今更、何ひとつ引く気はなかった。
だから。
「私は君と、長期の契約をしたいと思っている」
焦っているのかと、まるで子供の告白だと気付きながらも、雨宮は策を講じる余裕もないように、単刀直入にそれを伝えた。
あの時、名前を問うた時と、同じだった。
そして。
相手の反応も、まるで変わりはなかった。
「そうですか」
初めての客が何を言い出すのかと、笑うことも呆れることもなく。青年はただそうなのかと、静かに言葉を受け取っただけに過ぎなかった。
「冗談ではなく、本気だ。私の意思は既に店には伝えている。あとは、君次第だ」
「それは、違う。契約をするかどうかを決めるのは、俺じゃない」
「どういう事だ」
「俺は、既にオーナーと契約をしている。俺が何をするのかは、彼が決める。俺はそれに従うだけだ。アナタが俺との契約を望むのなら、俺じゃなくマネージャーを落せばいい」
「……君の意思は…?」
「俺とアナタの間に、それは必要ない。俺の意思は、オーナーに従う、それのみだ」
気負っているだとか、悲観しているだとか。そういった類のものは一切なく。例えば、太陽はひとつだという当たり前の事を話すように、青年は表情ひとつ変えずに言った。
つまり、それは。
「全て仕事だという事か」
相手が誰であるのか、それがどんな内容であるのか関係ない。やれと言われればそれをする。それが自分の務めだという事か。
瞬きだけで頷いた青年に、雨宮は小さな息を落した。口説けばどうにかなると思っていたのだと、甘かった自分に気付く。青年に示されたのをビジネスと考えるならば、店側に信用と金を積めば契約は可能だ。だが、渇望したのは、物ではない。この男自身なのだ。
それを願うのは愚かだと知りながらも、雨宮は青年が自分を選ぶことを望んでしまう。
捕まったのだ、あの時に。
だから今度は、自分が捕まえるのだ。全てを。
立場は、客と男娼というものでしかないが。漸く、正式に、向かい合えたことに対して興奮していた頭が、心が、一気に冷めた。変わりに、いつまでも、どこまでも立ちはだかるのだろう壁に、苛立ちが浮かぶ。先程とは違う意味で余裕を失いかける。
けれどそれでも、努めて平静に。雨宮は腰掛けた椅子に深くもたれながら、青年に問うてみた。
「男娼なら、そういうのは隠して、客に媚を売るものじゃないのか?」
「アナタが嘘とわかっていながらもその言葉を望むような客ならば、ここには居ないはずだ」
「どういう意味だ?」
「俺の客は選別されている」
「君は…甘い愛は囁かないという事か」
それには応えず、眉を寄せた雨宮に、青年は忠告のような宣言をした。
「俺に会う前から、アナタは長期契約を望んだんだ。アナタはこれから、試される」
「試す?」
「俺の貸し出しがアナタに可能かどうかを、だ」
「……そうか」
試す。
青年が言ったその言葉どおり、それから雨宮は数ヶ月、長期の契約は叶えられないまま、彼に会うだけの期間を余儀なくされた。だが、他人に試されているのだと思うのは不愉快でも、青年と時間を共にするのは、思っていた以上に収穫のあるものだった。
刹那的な思考で、欲しいと思った。それを持続させたのは、どこか意地もあったはず。
それでも、会う度に。雨宮は青年への執着を深めた。
愛の言葉ひとつ返さないどころか、愛想さえない男娼に。
予定が早まり、長期契約を交わせないまま日本を離れることになった時。
雨宮は、本気でこの青年を攫ってしまいたいと思った。
青年の意思など関係ない、これで終わりなど有り得ないと。
だが、結局は。
何も変えられないままに出国の日を迎えた。
「試されていると言ったはずだ」
「……」
驚くべき事に、機上の人となって半刻もしないうちに、求め続ける人物が目の前に現れた。
雨宮は、何故ここにいるのかとの問いに返されたその言葉に、直ぐには思い当たらなかった。当然のように、そこに立つ青年を数拍見つめ続けて漸く、初めて客になった日に言われた言葉だと気付くも、それが今の状況に繋げるのは難しかった。
「とりあえず、アンタは合格したんだろう」
「…合格?」
「もし、アンタが馬鹿なことをしていたら、契約はされなかったはずだ」
「契約…」
その言葉で漸く、自分の願望が叶ったことを雨宮は悟る。
「期間は、約八ヶ月。その間は、アンタが俺のマスターだ」
「ミナト」
「物好きな公使殿、着席の許可を」
尊大な態度で差し出された左手を、雨宮は立ち上がりながら掌で受けた。
自然な動きで隣の席に腰掛ける青年を見下ろす。
シートに腕をつき体重を預け、身を屈めて口づけを落す。
触れた唇は抵抗する事無く、雨宮の想いに応えた。
- END -
2008/06/17