もう、嫌だ。
無理。
我慢出来ねぇ。
「千束さん、心配せずとも戻ってきますから」
「…………」
一ミリたりとて、あんな男の心配などしていない。俺の存在を無視するかのごとく目も向けない男の心配など、するわけがないだろう。
何を言っているんだと、半分睨むような視線を戸川さんに向けると口の端を上げて笑われた。両隣に美人を置いてのその表情は、もの凄く憎たらしい。高いスーツに身を包み、女性にしな垂れかかられている光景は、男としてのプライドを刺激される。だが、それを言うならば、俺だってそうだ。スーツではないが、俺の隣にも女性が二人。状況としては負けていない。
けれども、きっと、俺の姿を見たとて誰も羨ましがりはしないだろう。むしろ、その場に居るに相応しくない奴、この場が似合わない奴と判断され呆れられるだろう。
この違いは、何だ。
歳か? 性格か? 仕事か?
ふざけた事を言った戸川さんを睨みながら考えるが、全てが要因のようで、逆に根本的な問題は別にあるようで、結局はわからない。
どのみち、それが何であれ、ムカツクことに変わりはない。
今の俺は目に付くもの全てが、まるで親の敵のように思えると。柄が悪い事を承知で、口内で舌を打ち酒を喉へと流し込む。きっと、旨い酒なんだろう。加えて、高い酒なんだろう。だけど、そんな事を気にする余裕はない。何もかもが、イラつく。
たった今、戸川さんに注意されたところだと言うのに、俺の視線は自然と斜め向かいの席へと流れる。
「…………」
少し照明が絞られている店内だが、この距離ならばその表情までわかる。俺に横顔を曝している水木は、相変わらずこちらを一切気にしていない。いつもの無表情だ。
先程まで、奴は俺のひとつ隣に座っていた。綺麗な女性に挟まれようが、戸川さんの喋りに付き合っていようが、俺がここに居ようが。同じように、「人生に面白いことはない」などという考えでも持っているかのように、それを実行するような愛想のなさを発揮していた。
問答無用でわけもわからず連れてこられた俺は、それでも水木が居た事に喜んだというのに。肌も露な女性が間近に座って居るのだとしても、会えたことを嬉しがったのに。
何なんだ、これは。
数十分前の自分を修正したいと本気で思う。
今はもう、この状況全てが許せない。
あとから現れた男に促され、水木が席を外してからも、俺の機嫌は下降の一途だ。戸川さんが何かと話し掛けてくるのも、鬱陶しい。そもそも、この人が俺をここへ連れこまなければ、俺は今頃、飲み会で友人達と楽しんでいたはずだ。毎度毎度拉致しやがって、この悪魔。
しかし、悪魔に向かう勇気は俺にはない。なので、戸川さんの事も含めて怒りが向かうのは、いつの間にか移した席でもホステスを隣に置いている男だ。
クソッ!
俺は被害者だぞ!
何でその俺がこんなクラブで旨くない酒を飲んでアンタの面白くない顔を見てねばならないんだ!?
構わないのなら帰らせろ!!
「……って」
帰らせろ、なんて。許可が出るのを待つ必要はないじゃないか俺。
そうだよ、帰ればいいんだよと。俺は思った瞬間に腰を浮かす。同時に、カチャンと嫌な音が上がる。
「あ…」
テーブルに膝をぶつけ、グラスを倒してしまった。サッと両隣のホステスが動く中、戸川さんが「大丈夫ですか?」と、笑いを含んだ声を落す。
「……すみません」
俺の不注意だけど。その笑いは何だ。…本当にムカツク。
中身は少なかったので、ささっと両隣のホステスがお絞りでひと拭きしただけでテーブルは元通り。だけど、出鼻を挫かれたような俺は、腰を戻して新しく作ってくれた酒を煽る。いい酒だからと言うよりも、単にアルコールが苛立ちに負けているようで、全く酔えそうもない。
「千束さん。そんなに寂しいなら、アチラに行ってもいいですよ」
涼しげな顔で戸川さんは言うが。
行かせて俺に何をさせる気なのか。
「…行きません」
俺は寂しくなんてない。腹立たしいだけだ。
第一、行ったとしても、無視だろう。さっきからのあの男の態度を見ていないのか。それとも、それが見たくて俺を呼んだのか…?
この天邪鬼ならそれもあり得ると、テーブルに置いたグラスを眺める。
すっと横から伸びた細い手が、また新たに酒を作る。
「…………ン?」
何気なく、白い腕を伝い通路側に座る女性を見た俺は、何かが頭でカチリとセットされるのを聞いた。
「…………」
この女、見たことがあるような…?
「あ、あの…?」
俺の視線に気付いた女性がこちらを向き、次の瞬間には顔を逸らしながら口篭もる。ハスキーボイス。だが、煙草の匂いはしない。
きめ細かそうな白い肌。はっきりとした二重。開閉の度に音がしそうなマツゲは偽物だろうけど、大きな黒目は本物だろう。化粧を落しても、可愛いのかもしれない。
声に憶えはないが、この顔は知っている、と思う。だが、誰なのかは出てこない。
水木との間に居た女性ばかり気になっていたので、何十分も隣にいるのに顔を気にしたのは今が初めてなのだが、相手は俺を認識していたのだろう。気まずそうな表情が、それを物語っているような――
「千束さん、それはちょっと」
じっとホステスを見ていた俺の額に、小さな音を立てて掌が張り付く。目玉だけを動かし見ると、テーブルに片手を付いて身を乗り出した戸川さんが眉を下げ苦笑していた。
「…何ですか」
止めてくださいよと手を払う。だが、直ぐに、「近いですよ。ジュリさんも困っていますから、戻ってください」と再度手を伸ばし俺の肩を押す。そうされ漸く、自分が身を乗り出していた事を知る。ジュリというホステスにいたっては、バランスを崩せば通路に落ちてしまうほど仰け反っている。
「……」
いや、気付かずにとはいえ、無言で近付いたのは悪いが。ホステスなら、受け止めるくらいしないか普通。そんなに避けるか?
ちょっとショックなんだけど…?
戸川さんの両隣の女性も、俺のもう一方の女性も。多分同じことをしたとしても、避けないと思う。っていうか、「どうしたんですか?」とくらい聞く。客をあしらうのは得意だろう。
やっぱり、おかしい。
こいつは俺を知っているんだと、適当な理由で断り席を立ち去っていく女性を振り返って見送り、俺もまた「トイレ」とひとこと言い置き立つ。嘘ではなく、本当に尿意を覚えてのことだ。
しかし、気付けば俺は誰だったかと考えるあまりに、トイレの前で足を止めていた。丁度そこへ、件のホステスが現れる。相手は俺に気付いた途端、目を張り、そして顔を下げた。そのまま通り過ぎようとするのを、思わず止めてしまう。
「ち、千束、さま…」
そこそこの店にしては、若い女性だ。だが、化粧でどうとでもなるのかも知れず。いったい幾つなのだろうと思っていたところに、か細い声で名前を呼ばれ、頭の中で閃きが起こる。
思い出した。
「……まさか、西畑? 西畑吾朗?」
「…………人違い、です…」
だったら、青い顔をして言うなというものだ。
「驚いたな。久し振りじゃないか」
モヤモヤが解消した気持ちよさもさる事ながら、旧友との再会に俺は顔を緩める。西畑とは中学に入って知り合い、クラスが一緒になった事はないが、共通の友人を通して何度も遊んだ。高一の途中で九州の学校へ転校してからは一度も会ったことはなかったし、東京に戻ってきていると聞いた憶えもない。
まあ、これでは旧友に連絡など取りにくいというものだろうけど。
「それにしてもお前、そういう趣味あったっけ?」
「だから、人違い――うわっ!」
「…色気のない声」
しらばっくれるのに付き合う気はないので、確かめてやろうかとスカートを摘み上げると、案の定地声を出した。女に聞こえなくもないが、ハスキーでは通らない太さだ。
人間、驚くと素が出るもので、勢いよく裾を直した西畑は、「ふざけんなよ!」と睨みつけてきた。逃げているのを忘れたようだ。ついでに、ホステス役も忘れたようで、あからさまな溜息を落す。
「酔っ払いオヤジかよ」
「やっぱり、西畑だ」
「……よく、わかったな。っていうか、よく覚えていたな千束」
「今の今まで思い出さなかったけどな」
と言うよりも、周りを気にする余裕は全くなかっただけで、西畑を記憶から消していたわけではない。第一、中学の同級生だとしても、変装をされれば気付かないものだろう。西畑の場合はたまたま、学園祭での女装姿が記憶に残っていたから、数年の後でも引っ掛かりを覚えたのだ。記憶力の賜物だ。凄いぞ、俺。
しかし、相手の西畑は「思い出すなよ」と、綺麗な顔で疲れきったような苦笑をした。
「それで、何なの。趣味?仕事?」
「まあ、どっちも、みたいな…? 色々あんだよ」
「色々ねぇ」
「言うなよ、千束。絶対、誰にも。俺も、お前の事は言わないから」
真正面から、真剣な声で懇願と脅しを受けた。
「俺のこと?」
ホステスの件について口にチャックをつけられるのはわかるが、俺の何を同等に扱ったのか。本気でわからずに首を傾げると、「あの人達のことだよ」と店内を仕草で示される。
「千束がヤクザと仲良しだなんて、俺も驚いた」
「…………別に、仲良くない」
低い声で告げた俺の言葉に形勢逆転とでも思ったのか、西畑がニヤニヤと笑った。嫌な笑いだ。
俺が彼等と付き合うのと、男の西畑が女装してホステスをしているのと。どちらが悪いかといえば、確かに俺かもしれない。けれど、社会的にはそうでも、世間的にみれば絶対、言い触らされて困るのは西畑だろう。
だから俺は負けてはいないぞと、何故か沸き起こる対抗意識をそのままに、笑う西畑に俺は目を据える。
「それにしても、化けるもんだな。女にしか思えない」
「声、大きいよ」
聞かれるだろうと潜めた声で怒る西畑の肩をポンポンと叩き宥めながら、剥き出しのそこから腕を滑らせて手首を掴む。高いヒールに慣れないのか、少し腕を引くと体が傾いた。壁に押し付けるようにして、密着する。
「な、なに?」
「お前も色々あるように、俺にもあるの。…慰めてくれ」
「…お前、酔ってるだろう。しっかりしろよ」
「平気。でも、トイレへ行くんだった。出そう」
「だったら、行けよ!」
重い、ここでするなよと、ひそひそ耳元で喚く西畑に俺は凭れかかる。やはりバランスが取れにくいのか俺が重いのか、支えきれない西畑の唸り声に笑った途端、頭が壁についた。
壁と自分の身体の間で固まる友人の腰を両腕で抱く。硬いが、細い。この華奢さがあるから、女に見えるのだろう。それにしてもいい匂いがすると、男の首元に鼻先を埋めたまま、それでも俺は何をしているのだろうかとどこかで思うが、解放してやろうとは思わない。
西畑の指摘が勘についたわけではない。逆に、ささくれていたところに遣って来た旧友に、気分が高揚して構いたくなったといったところだ。腕の中で焦る西畑が面白い。楽しい。心が晴れる。
いじめっ子の気分だと、俯けた顔でニヤリと笑った俺なのだが。
「何をしている」
「あ…」
「……チッ」
邪魔者の登場に、声を零したのは西畑。舌打ちしたのは、もちろん俺。
放っておけ、あっちへ行けと。拒絶の姿勢で身動きしなかったが、重ねた西畑の緊張が伝わり、俺もドキドキだ。
後ろから引っ張られた時は、ちょっと安心した。
けれど、離れた西畑が見上げる視線を追って眺めた水木の先程とは変わらない表情に、一気に気持ちは冷める。折角、旧友と会ったのに、邪魔するなクソッ。
「…離せよ」
身を捩って開放を求める。だが、そんな俺を無視し、水木は西畑を顎の一振りで退却させた。去っていくその細い後ろ姿を見送り、俺はもう一度手を打ち払う。
離れた手が再び伸びる前に、俺は身を翻しトイレに駆け込む。鏡に映る顔は不満一色。西畑との遣り取りで高揚した気分は、何処かへ完璧に吹き飛んだようだ。もの凄く、何もかもが腹立たしい。
用を足しドアを開けると、水木が壁に凭れて立っていた。無視して席へと戻る俺の後ろをついてくる。性質の悪い追跡者だ。
今更構うつもりか。
だが、もう遅い。
俺は帰る。
絶対、帰る。
「千束さん」
席へ戻ると、戸川さんが俺を呼び笑った。どうせ、水木のことでからかいたいだけだろうから、無視だ無視。
「なあ、ジュリさん。お仕事、いつ終わるの?」
律儀に仕事に戻っていた西畑に、俺は通路に立ったまま訊ねる。胡乱な視線を向けてくるその顔に顔を近付け、「ゆっくり食事でも、どう?」と囁くように言ってやる。
「ダメ? 今夜が無理なら、いつならイイ?」
「え、あ、あの…」
「脅しているわけじゃないんだし、ビクつくなよ。普通に考えろって、なあ?」
周囲からは、ホステスを誘っているように見えるだろうか? それとも、俺の扱いは雑か? だけど、こいつ男だからな。これ以上は無理だし、と。バレないように考慮するのは、今の俺には無理だろう、と。何より、ホステスの口説き方なんて知らないし、と。
頭で思いながら、勝手に回る口をそのままに喋るが、視線が集まっている事に気付く。
目立ってる?
…確実に目立っている。
「あー、悪い。強引、だった?」
「……いえ、あの」
「飲み過ぎたみたいだ、ゴメン。ま、とりあえず、携帯の番号教えとくから、連絡――わっ!」
してくれと言い切る前に、強い力で引っ張られた。ちょっと待てよと、なに邪魔してるんだよと訴える間もなく、「帰るぞ。戸川」と言った水木に足を進められる。
引き摺られるようにしながらも振り返った先には、驚いてこちらを見ている友人の顔だ。情けない。その向こうで笑みを浮かべたまま携帯電話を耳に当てている戸川さん。…笑ってないで、助けろ。助けてくれ。
だが、こう言う時に手助けしてくれないのも戸川さんだ。諦めろと言うように、俺に手を振る。畜生。
水木が発した短い言葉が、『お前は自分と一緒に今から帰るんだ、その用意をしてくれ戸川』というものであるのはわかってはいるが、理解したくない。してやるものか。今更、一緒に仲良く帰れるか。帰るのならば、俺は一人で帰る。
「帰りたいのなら、戸川さんと二人で帰ればいいだろう!」
店のドアを潜った背中に吼えるが、無視。だけど、腕の拘束は弛まない。認識しているのなら、反応しやがれ。手を離せ!
足を止めさせようと抵抗するが、通常であっても敵わないのに、酒のせいで力が入らない今はされるがままだ。そんな俺を都合がいいという風に、水木は有無もなく扱い動かす。腹立たしすぎて、今なら憤死できるかもしれない。
「ちょ、待てよ!イヤだって!」
「……」
「俺はまだ用があるんだよ!」
「……」
「聞けよ、オイ!」
予想通りだが、戸川さんの手配にぬかりはないようで、当然のように店先に車は待機していた。開かれた後部座席のドアに投げ込むよう、腕一本で俺をひき寄せそのまま押し出すようにし、水木もその流れで車内に入る。蓋だ、蓋。ダメ元で確かめた底であるもう一方のドアは、案の定しっかりとロックされていた。このぬかりなさは、水木か戸川さんか、それとも運転手か。
人を追い詰める事に関しては、プロだとしても。俺を追い詰めるなクソ野郎。何をするんだ、この男。意味がわからない。
後頭部でドアが閉ざされる音を受け、この二時間程の間に溜まった怒りが体の奥底からこみ上げてくる。
「何がしたいンだよ、アンタ」
「…………」
「漸く喋ったと思ったら、またダンマリか」
「…………」
「降りる。停めて。ドア開けて下さい」
無視をするのなら、俺がここに居る意味がない。相手をしないのなら、俺だって相手をする必要はない。
なので俺は水木に言い、運転手にお願いしたのだが。それもまた無視だ。ムカツクったらない。
しかも、実際に胃がムカツクのだから、気分だけではなく具合も最悪。今になって酔いが回り始めたようだ。
全てがこの男のせいのように思える。腹立たしい。
「……」
黙ったままこちらも見ない男の横顔を暫し睨むが、埒があかないので止める。なるべく距離を取ろうとドアに寄り、シートではなくそのままそこに体重をかける。汚れたとしても知るものかと、窓ガラスに額を置き目を閉じる。だが、はっと気付き、俺は丸めていた背中を伸ばす。西畑だ、西畑。忘れていた。
戸川さんに電話をかけると、まだ店だった。昔の知り合いなんだと説明し、メアドを教えておいてくれと頼む。水木が邪魔をしたというのに、あっさりと了承したところをみると、既に実行されていたのかもしれない。この人は、面白そうと言う理由だけで何でもやりそうだ。
『それよりも千束さん。水木のは嫉妬みたいなものですから、あまり怒らないでやってくださいね』
「はあ? 何ですって?」
『可愛いものじゃないですか。客商売で綺麗に着飾る女性に対抗するだなんて、お笑いですけど、貴方にとっては悪くはないんじゃありませんか?」
「仰っている意味がわからないんですけど…?」
『いずれお判りになるでしょう』
それではと、意味深な笑いで切られた通話。手の中の携帯電話を見つめ、酔っているから思考が働かないのか、戸川さんの意地悪か、理解出来ないのは何故なのか考えながら俺は訊ねる。
「……なぁ。アンタでも、嫉妬なんてするの…?」
水木が、嫉妬。何に対してかは、やはりわからないけれど。そもそもそれ以前に、そんな感情を剥き出すような事を、この男がするだろうか。気にくわないだとかで、俺をあんな風に店から出したのか? いつもの、ただのマイペースじゃなかったのか?
視線を動かし、それにつられるようにして顔も向け、水木を眺める。相変わらずの無表情。
けれど、よく見れば、眉の間に皺が寄っている。
「……アイツは、ただの友達なんだけど」
何となく、西畑のことを言ってみると、「いま知った」との短すぎる答えが返った。それはそうだろう、最初から知っている方がおかしい。ンなことはわかっている。
そうじゃなくて、さ。
ほかに言うことがあるだろう。
「邪魔、しただろ」
謝れとのニュアンスを込めて言った俺の言葉に、水木は眉間の皺を消さないままに言い返してきた。
「お前のあれは、友人へのものか」
「……」
何故に、非難だ。それをしているのは俺であって、される謂れはないはずだ。
「……アレって、ナニ? 抱きついたこと? でも、あのくらいは普通だろ」
女装中の為に遠慮したくらいで、本来ならもっとじゃれていたかもしれない。なんたって、数年ぶりの再会だったのだ。確かに、友人のその姿を見たらドン引きするのが正しいかもしれない。だけど、面白くない状態の俺にとっては、あれはマグナム級の興奮剤みたいなものだったのだ。バレたくないらしい奴をからかうのも、悪ふざけをしかけるのも普通のことだろう。
だから。俺はまったく、怒られるような事はしていない。むしろ、あんなものを気にするこの男がおかしい。
そりゃ、ヤクザ面々が抱きつきじゃれあうのはキモイかもしれないが。俺はまだ学生で。若い男の友人同士のスキンシップの度は決して越えてないはずだ。むしろ、酒の席では言えないような馬鹿をしたりするのだ。あれくらいで怒られるのは、理不尽極まりない。
俺に、誰とも接触するなとでも言うつもりか、オイ。
つまりこれって、ただの上げ足取りじゃないのか?
何をしていたって結局、コイツは俺に対して怒るんじゃないのかと。西畑の事はたまたまじゃないのかと。戸川さんのあり得ないからかいの言葉も相乗して、我慢出来ないくらいに腹が立つ。酒が胃の中で沸騰している。何かもう訳がわからないけれど、とにかくムカツク。全てがイラつく。
戸川さん。この男に可愛く嫉妬をさせてから、俺をからかってくれ。一瞬でもその言葉に反応した自分が情けない。嫉妬どころか、俺は今、不当な責めを負っているんだ。どうしてくれる。拉致したのなら、最後まで責任を持ってくれ…。
「アンタだって、美人と仲良くやってただろうが。俺ばかり言うな」
一体なんだってこんな事になっているのか。戸川さんが悪いのか、水木が悪いのか、俺が悪いのか。一番悪いのは誰なんだと、そいつを殴り倒してしまいたいと重いながらも出てくるのは、そんなバカな台詞。これでは俺が嫉妬しているみたいじゃないかと、胸中でツッコミを入れる俺の空しさをも知らずに、水木はマイペースに答える。
「ホステスは仕事だ」
……本気で、ムカツク。
もう、ホント、嫌だ。
「……ンなの知らねーよ。あいつは俺の友達なの。友達なら肩ぐらい組むだろ、ハグくらいするだろ。何で怒ってんの、意味わかんねぇ。散々無視してたくせに、気紛れで構うな。絡むな。俺に謝れ」
「悪かった」
「思ってもない事を言うな」
「悪かった」
「あっさり謝るなよ、ムカツク。アンタもう喋るなよ、煩い」
「大和」
「だから、煩いって! 聞かない!」
シートに凭れて言葉を吐き続けるが、何を言っているのか自分でも怪しくなり、喋るのが面倒になる。なので、もう止めだと打ち切ったというのに、水木が人の名前を勝手に呼ぶ。本当に、煩い、うざい。だから、今更構うなというものだ。今日の俺はもう店仕舞い。はい、サヨウナラ。
「眠いんだ。疲れてる、放っといて」
「悪かった」
録音テープでも仕込んでいるのか、コイツは。アホだろう。
「だから、もういい。アンタは邪魔してくれたけど、結果的には戸川さんがフォローしてくれたんだから、もう終わり。問題なしだ。俺の中に残っているのは、酒とアンタへの不満だけ。西畑のことはもういいの。ンで、この不満は、今日は処理不可能。俺は放っておく、だからアンタもそうする。オッケイ?」
「何が不満だ」
「俺の言う事を聞いて下さい。ついでに、聞き入れて。オッケイじゃなくても、そうしろ。俺は今、疲れてるの眠いの。アンタとケンカする気もないし、する元気もない。アンタはずっと俺を無視しただろ。だから、今度は俺がそうする番だ」
と言うわけで、黙ってろよ、と。何だって俺はこんな説明をしているんだろうかと、アルコールが入ると口が回るようになるのは確かだけど内容がバカすぎるぞと思いながら、拒絶の姿勢で背中を向ける。
苛立ちよりも、睡魔が勝っているこの瞬間に眠らなければ。
そう、寝よう。
一度寝れば、いつもの事だと水木の態度も許せるかもしれないし。
若干、寛容になった俺は、その後に空しさが来るのだろうとわかりつつも目を閉じたのだが。
「…ウぁッ!!!」
しっくりくる態勢に落ち着いた途端、肩を掴まれ後ろへ倒された。動いたのは90度。けれど、360度以上まわった気がする頭と胃の中の気持ち悪さに、喉が鳴る。
「言っておく」
吐く、吐きそうだと、腹の中のものがせり上がってくる感覚に焦って口元を押さえる俺を真上から見下ろしてきた男は、低い声で告げてきた。
「お前は肝心なところがわかっていない」
「……」
「俺が求めているのは、お前だ」
「……」
「飾りじゃない、お前自身だ」
「……それの、何が、俺の無知に繋がるんだよ…」
驚きの余り、吐き気も収まる告白だけど。何故に、無視という仕打ちを受けて苛立つ俺への言葉が、これなのか。求めたから、無視するのかお前。小学生のガキか。しかも、またしても俺のせいにするのか…?
マジで意味がわからない。口から手を外し、水木の胸に凭れるようになってしまっている身体を起こしながら、俺は溜息を吐く。
「嫉妬もすれば、下手な意地も張る」
悪足掻きもする、と。またもや、会話の流れを無視して、唐突に落ちてきた言葉。
今度は何だと、胡乱気に振り向けば。
「……」
相変わらず、眉間には皺が浮き出ているけれど。
俺を見返す眼は、バカみたいに清んでいて。
水木が言った言葉を頭の中で繰り返し、俺は「…そう」と愛想の無い返事をしながら、ゆっくり身体を傾けてみる。
逃げる事も、阻止する事もない水木。運転手が居るのをわかりつつ、俺はそれに満足して男の肩に額を押し付ける。
戸川さんがからかうように、水木は西畑を気にしたわけではないだろうし。同席した俺を相手にしなかったのも、もっと別な理由があるのだろうけど。
とりあえず、大事に思われているのに変わりはないのかなと。
馴染んだ空気を吸いながら、俺は背中に伸ばされた腕を許した。
誤魔化されたと思う気持ちはまだ多少あるけれど。
この方が、絶対。
良く眠れそうだ。
- END -
2008/06/12