バックポケットに突っ込んでいた携帯電話が震えた。画面を開くと、堂本の名前。
飯田はそれを同席していた二人に告げ、その場で通話を受けた。
短い挨拶の後の問い掛けは、荻原の居場所だった。一緒に居ないかと伺ってくる堂本の声は、若干疲れを含んでいるような気がした。心当たりは?とまで訊いてくるところをみると、何やら振り回されているらしいことが窺えて。
「大変そうですね」
労うつもりも何もないのに、飯田はついそんな言葉を口に乗せた。それに対し、同席していた井原と樋口が何かあったのかと視線を向けてくる。だが、言われた堂本は軽く笑ってそれを流した。
『飯田さんは今どちらに?』
「井原と樋口と一緒に飲んでいます」
そう応え、店の場所を告げると、『お邪魔しました、ごゆっくり』と堂本は通話を切った。
飯田が携帯電話を置くと同時に、樋口が席を立つ。一言断り店を出て行くその背を見送った井原が、空のグラスを指先で弄りながら口を開いた。
「なあ、飯田。お前、社長と上手くいっているのか?」
「…さあな」
上手くいっているのかと問われても、飯田にはわからない。
だが、今の互いの状態がベストだとは到底思えないのは事実。
荻原にとっても、満足だとはとてもではないが言えない状況であるだろう。
少し温くなったビールを飯田は煽り、店員に追加を頼む。便乗して烏龍茶を頼んだ井原が、「無理はするなよ」と笑いながらも心配そうな目を向けてきた。
「そんな事はしないさ」
そう応えながら、何が『無理』にあたるのだろうかと飯田は考える。
荻原が現状維持を続ける自分を許す限り、この関係を終える気はない。
もしも、荻原が変化を望んだとしても。自分は受け入れる事も突き放す事も出来ないのは、飯田自身が良くわかっているのだ。関係を変えようにも、変える事が出来ない。
時間は廻るこの世で。スピーディに動くこの社会で。この動かぬ関係が良いはずもない。
既に無理であるように思え、いつか今が崩れるのだろかと考えるが、だからといってやはり何も変えられない。壊れるその瞬間まで、きっと自分は変えようとは思わないだろうと飯田は思う。
戻ってきた樋口が、詫びを口にして座を辞したのを機に、飯田と井原も腰を上げた。
井原と二人、他愛ないは言葉を交わしながら駅に向かい、そこで別れる。
電車に揺られながら、飯田は過去の記憶を呼び出した。
数年前であるのに、もう随分昔のように思う。
暦の上では残暑であるにもかかわらず、白いカーテンを揺らして室内に入り込んできた風は、真夏の熱を含んでいた。
あの時。
飯田は静かに現れた荻原に言った。
残り少ないけれど。それでよければ、くれてやる。
自棄でも、悲観からでもなく。ただ、それもいいと思ったまでの事だった。
だが、荻原は断った。要らないと。
けれど、そうかと苦笑する飯田に、静かに言葉を重ねもした。
捨て置くのは勿体無いと。だったら、一時預かってやると。
お前にとって意味があるようにして返してやるよと、荻原はそう言って喉を鳴らした。
結論として、その言葉どおり、荻原は飯田に未来を追加した命を返した。
都合良く、縛る事も作り変える事も出来ただろうに。何ひとつせず、自分を加えもせずに、ただ返してきた。
だが、実際には想像を絶する苦痛に苛まれる途中経過があった。正直、浅はかにも荻原に命を預けた自分を悔いた事もあった。だが、それを維持し続ける余裕はないほどに、飯田は苦しんだ。生きたいと思って泣いた事すらどうでもいいと思うほどに、一切の気力を無くした事もあったほどだ。
だから。
返してやるよと荻原が言った時、戸惑いもあったが安堵の方が大きかった。終わったと思った。そして、もとに戻ったとも思った。
けれど、結局は。あの夏に戻るわけでもなく、月日は確実に流れていて。その間にあったことも全て現実で。
再び手に入れた人生は、自分のものであって自分のものでないような、違和感が常に付きまとうものだった。
今なおそれに慣れない中で、飯田が選んでいるのは戻る場所くらいだ。
居場所ではない。
外から見上げた部屋に明かりはなく、駐車場にも車はなかったが。玄関を開けると、脱がれた靴があった。中からはテレビの音が聞こえてくる。
明かりのついていないリビングのソファで、荻原がテレビを見ていた。振り返った男の顔は逆光で、表情はわからない。
「堂本さんが探していたぞ」
「ああ。電源を入れると同時に電話がかかってきてな、いま怒られたばかりだ」
反省の色もなく笑いながら話す荻原の言葉に、そうかと飯田は頷きカウンターのスツールに腰をかける。
テレビに顔を戻した荻原の横顔が、よく見えた。
限られた光の中で見るそれに、飯田は年齢を感じる。
この男はいつまで俺に付き合うのだろうかと、そう思う。
「何だ?」
首だけを傾げ、荻原が飯田を見た。
「…別に」
「飲み会は楽しかったか?」
「……井原と樋口だ」
飲み会じゃなく、ただの飲みだ。相手は、よく顔を合わす二人で、楽しいも何もない。
そう応えた飯田に、それでも荻原は何を見たのか。
良かったなと目を細め、喉を鳴らした。
たとえこの先、どこに居ようとも。
その時、そこにいる事を。自分は後悔する事はないのだろうと、飯田は漠然とだが思った。
- END -
2008/06/30