† - 1

 四月に入り一気に咲き始めた桜は、その勢いのまま、早くも散り始めている。フロントガラスに落ちてきた淡い色合いの花びらを見ながら、樋口は右手の指を一本ずつ折り曲げた。さしたる年月が経っている訳でもないと言うのに、毎年この季節になるとこうして数を数えてしまう。あれからまだ片手で充分足りてしまう程度でしかないのだと、たった三年しか時は進んでいないのだと、曲げた指に教えられる。
「はい、樋口です」
 不意にあがった電子音に、思考を中断された。通話を受けてから、自分が少し感慨に耽っていた事を知るが、現実に戻ってしまえばそれはどうでも良い事だった。
 堤克貴がこの世から居なくなった事は、悲しいと、寂しいと思う。だが、あの時も、そして月日が経った今も、虚無感や喪失感を覚える事は余りない。それは薄情故なのか、そもそも人としての感情が欠落しているからなのかは、自分ではわからない。ただ、こんな自分を、克貴は「損な奴だな」と呆れていたのを樋口は忘れる事なく覚えている。
『どうかしたか、樋口』
 用件を言い終えそのまま通話を切ると思った上司が、どこか少し楽しげな声でそう問いかけてきた。
『お前まで社長のようにフラフラされたら困るぞ』
 確りしてくれと注意を口にする堂本は、けれども言葉程も困った様子はない。携帯を耳にあて笑う男の顔を想像し、樋口は僅かに目を細めた。
『まあ、そんなところで待っているのも退屈だろうからな。この天気だ、眠くなっても仕方がない』
「済みません、気をつけます」
 決して眠かった訳ではないが、上司との会話中に別の事に気をとられかけていたのも事実なので、自然と謝罪の言葉が出た。最も、樋口の立場では他の言葉など言えはしない。たとえ生意気な事を言ったとしても堂本は怒りはしないだろうが、樋口自身そうしたけじめは必要だと考える性質だった。
 では失礼しますと断りながら、ドアノブに手を掛け、通話を切るより早くに車外へと降りる。真っ直ぐとこちらに向かってくる上司を認め、樋口は反対側へと回り込みドアの横で背筋を伸ばして立った。近付いてくる男がそんな自分に気付き笑っているのが感じられたが、それよりも、頭上から降りかかる桜の花びらの方が気になり気付かない振りをする。
 頭を下げる事をせず視線を上げれば、ヒラヒラと舞うピンク色の花びらの向こうに、少し白く濁った水色の空が広がっていた。春だなと、今更ながらに当たり前な事を実感する。
 克貴が亡くなってから、三年。
 この仕事も、この春で四年目になる。
 そのまま雲隠れする事もなく、先の宣言通りに戻ってきた荻原は、予定していた仕事を別の人間にまわした甲斐があったのか随分と御機嫌な様子だった。普段も何がそんなに楽しいのかと思わず呆れてしまうくらいにテンションの高い男だが、こうもあからさまではない。それだけ今会ってきたはずのあの青年を気に入っているのだろうと、後部座席で携帯に向かって言葉を送る姿をバックミラー越しに数瞬眺め、樋口は大学の敷地を後にした。何の手続きもせずに通してくれた守衛に会釈をし、次の目的地への道順を思い浮かべながらハンドルを切る。
 三年前。もしも、あの時違う選択をしていたのならば。自分も今見た特殊な空間の中に身を置いていたのだろうかと、樋口は自問する。大学という壁に守られ、檻に閉じ込められながらも、その中で青春などと言う甘さに浸かっていたのだろうか。頭の中でキャンパスを歩く同年代の男女に自分の姿を紛れ込ませようとしても上手くはいかず、これ以上は無理だと運転への集中を樋口は選んだ。
 だが。
「なあ、樋口。あいつの事をどう思う?」
 いつの間にか仕事の話を終えたらしい荻原が、唐突にそんな質問を後ろから投げかけてきた。フロントガラスにぶつかり飛び跳ねながら自分の下まで転がってきたようなそれを、拾うかどうするか一瞬考え、とりあえずは触ってみる事にする。自分が何を望まれているのか、相手はどんな返答を待っているのか、考えたところで樋口にはわからない。第一、荻原相手にそんな芸当をしようと企む事自体が、無謀もいい所なのだろう。
「飯田さんの事でしょうか」
 わかりながらもあえて訊いたのは、先日会った青年を記憶から引き出す時間が必要だったからに過ぎない。荻原に頼まれ飯田を駅まで送った間、特に必要な事以外は話していない。だがあの綺麗な青年は、どちらかと言えば無言の方が感情を素直に表しているような人物だった。それから樋口が感じられたのは、良くも悪くもないと言う評価だ。
「話をしたんだろう、どう思った?」
「どうと言われましても、別段思うところはなかったというのが正直な感想です」
「面白くない答えだな」
「私に面白さを求める社長が間違っています」
 確かにそうだがと喉を鳴らして笑う男に、だから何が言いたいのだろうかと樋口は首を傾げたが、上司はそれ以上は何も言わなかった。
 荻原はああして飯田を思い出す事で楽しんでいるのかもしれないと、樋口がそう気付いたのは一日の仕事を終えてからの事だった。それが当たっているのか外れているのかは別にしても、いつにもまして楽しげに、幸せそうに笑う上司の顔がやけにちらつく。羨ましい訳でも、あの性格になりたい訳でもないが。自分にも荻原のように感じられる心があれば良いのにと、樋口は思った。そうすれば、少しは生きている事を実感出来るのだろうにと。
 克貴が亡くなり、自分が段々と透明になっているような感じがして仕方がない。三年前までは常に傍に克貴がいたが、今はたとえこのまま空気に解けたとしても問題はないと考える、味気のない樋口雪というものしかいない。この世に繋ぎとめるような、色を与えてくれるような者がいなければ、自分自身はとてもつまらない人間でしかないと樋口は知っていた。
 そんな自分を、虚しいとは思わない。寂しいとも思わない。だが、シャワーの下で樋口は自分の二の腕に刻まれた十字模様を指先でなぞりながら、克貴の事を考えた。
 彼がいない自分は、多分きっと、死んでいないだけで、生きているわけではないのかもしれない。




 予期せずポカリと空いてしまった時間を、当然のように荻原は自分の為に使った。働きすぎなくらいに働いているのでそれ自体に文句はないが、その使い方が問題のようで、荻原が車を出てもなお堂本は難しい顔をしていた。一体何処へ向かおうとしているのかわからないままに、荻原の指示に従いハンドルを切ってきた樋口としては、仕方がなかったとは言え少し居心地が悪い。
「あんなにも楽しそうにされたら、小言も出なくなってしまうな」
 俺もまだまだだとボヤく堂本は、助手席に深く凭れ、外へと向けていた眼を樋口へとまわしてきた。運転席から同じように消えていく荻原の背中を見ていたので、間近で視線が重なりドキリとする。
「お前にも面倒をかけるな、樋口」
「いえ。私は面倒だとは思っていません」
「ホント、いい子だなぁお前は。仁さんにも見習って欲しいものだ。社長を抑えるのはお前に任せようか。あの人を躾けてくれ樋口」
 どうだいい案だろうとからかい漸く笑いを落とす堂本に、勘弁して下さいと頭を下げながら、樋口は「差し出がましいですが…」と断り言った。
「私は今の社長も嫌いではありません」
「ああ、そうだな」
 答える言葉は短くとも、満足そうに頷く堂本に、本当に出過ぎた真似をした事を知る。堂本も、一人の青年をこうして追いかけている荻原を、言葉にする程も嫌だとは思っていないのだ。荻原の夢中になる姿はどこか少年のようで、子供の頃から傍にいる堂本としては、微笑ましくさえあるのかもしれない。
 貴重な空き時間を使い、きっと嫌な顔をされるのだろうに、荻原は態々青年の下へと行く。
 堂本に言った言葉は嘘ではない。そんな上司を嫌だとも可笑しいとも思わない。だが、そんな風に誰かに夢中になる事自体は、樋口には理解出来ないものだ。
「そう言えば樋口。また山下と遣り合ったそうだな」
「いつもの事です」
 不意に変わった話題に動じる事無く、遣り合ったと言う程の事でもないとさらりと返した答えに、堂本は喉の奥で笑った。問題の多い同僚を、別段樋口は嫌ってはいない。ただ、考える頭はあるのだろうにそれを使う前にキレるので、何かと手を出してしまう事が多く、上手くはいっていない。今のところそれで困った事はないので特に何も思ってはいないが、こうして堂本にまで窘められるようならば、何らかの対処を講じねばならないのかもしれないと流石に思う。しかし、思ったところでどうすれば良いのかわからない。
「使える使えないは別にして、山下を相手にするのは難しいか?」
「自分ではそうは思っていません。確かに、あまり上手くはやれていないのでしょう。私とは歳も近いので、むこうもやりにくいのだと思います」
 自分が年齢よりも若く見えるのは、樋口とて充分わかっている。だが、だからと言ってそれが馬鹿にするアイテムのひとつにはなりはしないのだが、気にしないでいられる程も山下は大人ではないのだろう。初めて顔を会わせた時から、年下だと思い込み偉そうな態度をとり、年上だと知ると何かと突っかかり、面倒を見はじめると敵視するようになっていた。それでも、教わるべき立場でいるのを少しはわかっているのかむやみやたらに反抗はしないが、飲み込みの悪さは嫌がらせかと思ってしまうくらいの態度を平気でとる。若さ故なのだろうと出来る限り取り合わずにいるが、指導する立場にいるのだからそのまま放置も出来ない。少しずつでも覚えて貰わなければこちらも困ると、つい簡単な方法をとり手を上げてしまう。普段馬鹿にしている相手にそれをされれば山下がキレるのはわかっているが、樋口には彼の感情などどうでも良かった。仕事を覚えてくれさえすれば、それでいいのだ。
 教える事が重荷だとは思っていない。だが、自分以上に適任者がいるのは確かだった。山下のような者には、もう少し圧力を与えられる者をつける方が良いだろう。山下は何故か荻原を崇拝しているので、そのお陰でまだ何とかやっていけているが、それでも手に余っているのは確かだった。それは、樋口だけが感じるものではないのだろう。慕われている荻原さえも、山下の粗雑さに呆れており、どこか別のところで勉強をさせて来いとはっきり口にしている。だが、それを拒否し近くに置いているのが堂本なのだ。たとえ難しくとも、樋口には山下を教育するしかない。
「ですが、だからこそ山下は学ぶべきものがあるとも思います。手を上げる事は反省すべき点でしょうが、私は彼にいい加減に接しているつもりはないです」
「わかっている、そう怒るな樋口。誰もお前を責めているわじゃない。あいつは馬鹿だからな、手が出るのも仕方がない。お前は良くやってくれているさ。何度も同じ事を繰り返しているのを見る度、お前をつけて正解だったと思っている。あいつの頭は一度で覚えられる程も性能は良くはないのだとわかっていても、二度目を教える気にはなれない風体だからな。他の奴だったら直ぐに匙を投げているだろう。ただな、樋口。俺はお前の事を知っているから、根気良く頑張っているのがわかる。けれど、山下にはわからない」
 努力をしたところで、それを相手に見せなければ意味がないぞと堂本が目を細めて言う。良く意味がわからないと軽く眉を寄せる樋口は、しかし、何となく上司が言いそうな事の予想はついた。山下への接し方を変えろという事なのだろう。
「同じ事を口にするのならば、一度目と二度目に違いがあった方がいい。お前のように淡々と繰り返していては、山下には何も伝わらないぞ。馬鹿なあいつの相手をしているんだ、樋口。気に食わない奴だと思われ続けるのは損じゃないか?」
 結局は、もう少し上手くやれと言う事かと樋口は唇を噛んだ。堂本の言うように、頑張っているだとか努力しているだとか、そう言う必至さはないが、それでも自分なりに気を使いやってきたのは確かだ。それをこんな形で、否定でないにしろ指摘を受けるのは面白くはなかった。
「そんな顔をするな樋口。別に、山下に優しくしろとは言っていない」
 ならば、他に何があるというのか。荻原さえも眉を寄せる山下に、何故堂本は拘るのか。謝罪を口にしながら、やはりそう言う事なのだろうかと樋口は思う。
「堂本さんは、山下を気に入っているんですね」
「ああ、そうだな。若くて馬鹿なところもそうだが、何よりあのベタベタな関西弁がな、心地良いというか懐かしいというか、面白い」
 予想外の言葉に軽く目を見張った樋口を、堂本は声を上げて笑った。からかわれているのかと思ったが、この上司ならば本気なのかもしれないとも思う。二十歳の頃に大阪から東京に来て悪さをし、荻原に命を救われたのだという堂本の過去の話は有名なものだ。
「山下は、馬鹿だが悪い奴じゃない」
 堂本の言葉は真実だとしても、樋口には関係ない。そんな自分の性格をわかっているのだろうに、それでもあえてそう言う上司が、今は少し憎く思えた。




 別段贔屓にしている店ではないが、月に数度は顔を出すクラブの入口を樋口が潜ったのは、日付が変わる前の事だった。顔馴染の店員がいつものカウンター席を示してきたので、軽く頷き足を向けかけ、ふと視線を店の奥へと飛ばした。何気なく見ただけだった。だが、そこに見知った顔がいては、流石に気にせずにはいられない。
 その少女を見かけたのは、過去に一度あるだけだった。それはもう一年以上前の事で、高校の制服を着ていた事は覚えているが、それがブレザーだったのか、セーラー服だったのかは記憶にない。駐車場に停めた車の中から、帰宅する彼女を思いのほか熱心に見ていた覚えはあるが、それ以外の事は朧気だ。
 それなのに、何故自分は彼女の事がわかるのだろうか。人違いではないと確信も持っているのか。樋口は不可思議な自分の記憶に僅かに顔を顰めながら、二十歳前後の男達が数人群がっているテーブルへと足を進めた。チラリと僅かに覗いていた少女の顔がはっきりと確認出来るにつれ、どんな理由で彼女を見極められたかなど最早どうでもよくなった。頭はわからないが品行は良くないと断言出来る男達に囲まれているのが、自分の上司である堂本の娘だというその事実以外は、今の状況にはあまり必要のない事だ。
「悪いが、彼女に話がある」
 少女に直接呼びかけようにも名前は知らず、樋口はまず馬鹿そうな男達を退けようと、そのひと言とともに輪の中に入り込んだ。だが当然の事ながら、渋ってはいるがもう少し粘れば断りきれずにこのまま付き合うだろうと目論んでいた男達が、そんな簡単な言葉で少女から手を引くはずがない。何よりも、彼女にとっては樋口も、先程から自分を囲んでいる男と何ら変わりはないのだろう。
「…ダレよ、貴方」
 冷たく言い放つ彼女の目を見ながら、樋口は軽く眉を寄せた。綺麗な顔には似合わない言葉は兎も角、困っているのだろうに簡単に敵意を表す面が、予想以上の幼さを引き出す。警戒するのは良いが、もう少し上手く立ち回らなければその意味がない。案の定、男達が少女よりも先にそれに気付き、笑いを落とした。
「知らないってさ、おい。ほら、さっさとあっちへ行け」
「そうそう。高校生が夜遊びなんて、いけないなぁ」
 何者だと顔色を変えかけた男達が、樋口の見た目の幼さと少女の言葉に余裕を持ったのか、まるで子供を相手にするかのような声で言う。だが、何ともわかりやすい思考回路を示すそれを無視し、樋口は少女にだけ向けて声をかけた。数人で一人の少女を落とそうとしている男とも言えないガキを相手にする気は更々ない。
「オレは樋口という。以前、荻原社長から君の事を教えられた」
「――それって、アノ荻原さん…?」
「自分は堂本さんの下で働いている」
 彼女が言う「荻原さん」が自分の頭にある人物と同一とは限らないからと、樋口は別の言葉で身分を示した。途端、綺麗な少女の顔が盛大に歪み、大きな黒い瞳に嫌悪が浮かぶ。まるで癇癪でも起こしたような豹変振りだ。酒が入っているのかもしれない。
「はぁ!?なに、それ。もう、ムカツク!サイテーーッ!」
 初対面の相手に向かい、眉間に皺を寄せ汚い言葉を口にのせる、その行為こそが最低なのではないのか。そう思いはしたが、自分に対してならば別段都合が悪い訳ではないと樋口は聞き流す。これが、教育するべき新人だったり同僚だったりしたのならば、頭のひとつでも叩くところだが、幸いな事に自分は彼女を育てる親ではない。腹を立てられようが、抵抗されようが、樋口が今するべき事はひとつだった。
 息巻く男達の一人を沈め黙らせた後、少女を店から引きずり出すように連れ出したところで、樋口は掴んでいた手を放した。相当痛かったのか手首を擦りながら、逃げもせずどういうつもりだと食って掛かってくる彼女に、危ないと思ったからだと口にする。それ以外、強引に連れ出す理由はないだろう。
「…だからって、貴方に何の関係があるのよ」
 自分自身でもわかっていたのだろうか。先程の男達が何を目的に声をかけてきたのか気付いているらしい少女は、幾分か声を落としながらも、頬を膨らませたままそう言った。
「別に、私はあいつらについて行く気なんてなかったわよ。そこまで馬鹿じゃないもの。でも、ちょっと遊ぶくらいなら大丈夫だったはずよ。貴方のせいで、もうこの店にも行けなくなったじゃない!」
 言葉を返さない樋口に痺れを切らし続けた少女の言葉は、どう解釈すれば良いのか難しいものだった。付き合う気はないが、ちょっと遊ぶとはどういう事なのか。彼らの目的はひとつしかないだろうに、あのまま軽く話をして終われるとでも本気で思っているのだろうか。あの手の若者達は慣れている分、ひと言でも会話を楽しめばその後に待つものは決まっている。
「寝たい男でもいたのか、あの中に」
「――最低ッ!!」
 言葉にもならないような驚きを表した後、少女は叫ぶようにそう言うと踵を返し歩き始めた。確かに不躾な質問だが、疑問を沸きあがらせにきたのは彼女の方だ。もし自分が思った答えが正しかったのならば申し訳ない事をしたと、謝罪をする為に訊いただけなのだから、そんなにも怒る事はないだろう。夜の街でひとり遊び相手を探している割には、どこか初心な小娘のような態度をとる少女を放ってはおけず、樋口は仕方がないと後を追った。怒っている今の方が素だとしたら、思う程も擦れた性格ではないのかもしれない。
「何処へ行く」
 そう声をかけながら、一年程前に見た時は制服を着ていた事を思い出し、一体幾つなのかと考えた。整った容姿から自分と変わらないと思い込んでいたが、よく考えずとも未成年ではないだろうか。最悪、まだ高校生と言う事も考えられる。
「おい、答えろ」
 益々放っておけないのではないかと歩みを速める少女の腕を取ると、「貴方には関係ないでしょう!」と睨みつけられた。
「家まで送る」
「群馬の田舎まで?」
 ふっと馬鹿にしたような笑いを落とした少女は、次の樋口の質問にしまったというような顔をした。
「こっちに住んでいるんじゃないのか?」
「……」
「終電は…もう間に合わないな。車を出そう」
「結構よ、今日は帰るつもりはないから」
 その言葉で、どうやら本当に下宿している訳でもない事を悟り、樋口は眉を寄せた。
「友達の家にでも泊まるのか?」
 誰かを引っ掛けホテルにでも行くつもりだったのかという問いかけは辛うじて飲み込んだ。相手にしているのは、男ではないのだ。言葉を選ばないと、貝の様に口を噤んでしまうだろう。男ならばそうなっても殴れば済むが、流石に堂本の娘に手をあげる訳にはいかない。普段堂本が家族の存在を匂わす事は殆どないが、それでもあの男ならばそれをとても大事にしているだろう事は簡単に想像出来た。不貞腐れてはいても、綺麗で可愛い少女だ。それこそ、目に入れても痛くはない娘だろう。
「泊まる所がないのか?」
「だから、貴方には関係ないでしょう」
 気まずくも強気で応えるその声が、樋口に状況を教えていた。
「関係はある。君は堂本さんの娘だろう」
「違うわよ。あんな奴、親じゃないわ。母さんの旦那ってだけよ。もういいでしょう、放っておいて!」
「オレのところか、ビジネスホテルか。今ここでどちらかを選べ」
 一分だけ待ってやると、そう言った樋口を少女は胡散臭げに見上げる。
「…貴方、サイテーね」
 選ばなければ樋口が何をするのかわかったのだろう少女は苦々しげにそう呟き、「私に何かしたら、荻原さんに言いつけるからねっ!」と、歩道の真ん中で恥しげもなくそう叫んだ。

2005/06/16