† - 11

 二月に入って直ぐに迎えた誕生日は、歳をひとつ重ねた以上の収穫はなかった。翌日、偶々顔を会わせた烈貴がおめでとうと言ってくれたが、22歳にもなればそちらの方が恥ずかしく思える。だが、何故前以て教えてくれないのだと、夏南に責められた時は更に困った。
「もう、こういう事は先に言ってよね。教えてくれたらちゃんとお祝いするのに、可愛くないわよ樋口」
 全く意味のわからない事をブツブツ言いながらも、コンビニの袋から取り出すのは丸いケーキなのだから、樋口としてはもうどうすれば良いのかわからない。そもそも彼女に誰が自分の誕生日を教えたのか。可能性としては、井原か烈貴だろう。だが、井原は何故か五月生まれだと勘違いしていた前科があるので、候補から外した方が良いのかもしれない。
「ほら、お皿出してよ。流石にローソクは要らないわよね?」
「オレの誕生日なんて、誰に聞いたんだ?」
「誰だって良いでしょう。はい、どうぞ。コンビニだけど、結構美味しいのよ。えっと…五日遅れだけど樋口、誕生日おめでとう。はいこれプレゼント」
 ここまでしなくともと思ったのが顔に出たのか、「安物だからね」と夏南は強引に小さな包みを樋口へ押し付けてきた。つき返す事など出来るわけがなく、大人しく礼を口にする。開けるぞと断り綺麗に結ばれたリボンを外し箱の蓋を取ると、中にはクリスタルのキツネがちょこんと座っていた。
「可愛いでしょう?」
 ケーキを口に放り込みながら、ニヤリと笑う。
「樋口は動物で言ったら、キツネよね絶対」
 絶対などと、何を根拠に確信しているのかわからないが、その強気さに樋口は軽く喉を鳴らした。ガラス細工を手に取り、テーブルの上に置く。
「小さいな。なくさないだけじゃなく、壊さないように気をつけないとな」
「転がすくらいならそう簡単に割れないから、大丈夫よ」
 自分の言葉にそう応えつつも満足げに笑う夏南に向かい口角を上げながら、樋口はそういえばと軽く首を傾げた。浪人してまで目指しているのが獣医学部であるのを本人から聞き知ったのは、まだ入院していた時だ。正直、聞いた時は無理だろうと思ったのだが、それ以上に応援したくなった。だからこそ、勉強にも付き合ったのだろう。
「お前、受験は?」
「……美味しいもの食べている時に、余計な事言わないで」
 フォークを銜えたまま頬を膨らます夏南は、それでもジュースを一口飲んだあと、「センターは予想以上に出来たわ、樋口のお陰かもね」と照れたように笑った。
「そうか、良かったな」
 樋口が退院してから、夏南が部屋にやってきたのは数えるほどしかない。受験勉強が追い込みに入り忙しくなったのか、堂本に関係を知られ気まずくなったのか。気にはなっていたが、樋口自身仕事に復帰し慌しい日々を送っているので、忙しさにかまけ連絡をとる事はせずにいた。こうして漸く本人の口から聞いた結果に、思わずホッと息が落ちる。
「二次も頑張れよ」
「うん、わかってる。ねえ、それよりも。勉強みてくれたお礼代わりに、ひとつ教えてあげるわ」
 皿の上のケーキを突付きながら、夏南は樋口の応援をサラリと流し、視線を合わせずにポツリと言った。
「樋口の誕生日を教えてくれたのは、あいつなのよ、アイツ」
「堂本さんが…?」
 夏南が「アイツ」というのは、一人しか思いつかなかった。だが、いつものような声音ではなく、そこからは険が消えていた。
「そう、アイツ。…この前、ふらりと来たのよ家に。樋口知ってた?」
「いや」
 堂本が最近、仕事でその方面に行ってはいないのは確かだ。ならば、全くのプライベートで少女の自宅に向かったのだろう。四六時中一緒にいるわけではなく、まして自分にも上司にも休みも自由になる時間もあるのだから、不思議な事でもおかしな事でもないのに。夏南の言葉を、その事実を少し面白くないと感じる自分に気付き、樋口は気付かれない程度に眉を顰めた。
「それでね。話をして、その後積もった雪を見て言ったの、樋口の事。別に何て事はないのよ、仲良くしているようだなとかなんだとか、まるで中学生の子供を気にする親みたいな話。そんな時、樋口は昨日が誕生日だったな、なんて事を言い出してねアイツ。早く言ってよって、思わず怒っちゃったわ」
 その時の事を思い出したのか、クスクスと夏南は笑う。
「っで。その勢いで、私、訊いちゃったのよね。っていうか、なんだか私と樋口を仲良くさせようとしているかのようで、ちょっとムカついてもいたのよね。後で考えれば、私とアイツの共通の話題なんて樋口くらいしかいないんだから、あの会話は必然みたいなものだったんだろうけどね」
 くらい、とはなんだ。相変わらず失礼な事を言うと思いながらも、続きが気になり、珍しく樋口は話の続きを急かした。
「何を訊いたんだ?」
「怖い顔しないでよ、大した事じゃないわ。樋口の気持ちを知っているのかって、それだけよ」
 それが本当に大した事でなく詰まらないものであるならば、自分は人としての価値がないというものなのだろう。そう言っている事に気付いていないだろう少女に溜息を落としながら、何故夏南が自分の気持ちを知っているのか樋口は考えた。これは間違いなく、井原の仕業だろう。
「…堂本さんは何て答えたんだ?」
「はじめは笑って誤魔化そうとしたのよ。っで、ムキになって訊いたら、俺は知っているって。知らないのは樋口の方だって。ね、どういう事?」
 どういう事かと訊かれても、樋口にもわからない。刺青を目にして抑えられずに思わずした告白を、堂本は茶化す事も否定する事もなく扱ってくれた。それで充分だと樋口は思え、以降は今まで通りに接している。別段、堂本も変わりはしていない。
 今なお、堂本の姿を見る度、スーツの下で息衝いているあの龍を思い出し身体が震える事があるのは事実だ。だが、それは当然の衝動だと樋口は思うので、特に制する事も誡める事もしていない。あの時のように、抑えられない感情が湧いてくる事もまたあるのだろう。だが、その時はその時だ。今はあれこれと考えても仕方がない。
 考えるべきなのは、そんな身体の反応でも心の勢いでもなく、今の自分が何をどうしたいのかだろう。
「あと、ね。私、アイツの子供じゃなかった」
 堂本は知っており、自分は知らないそれは何なのだろうか。その考えに意識を飛ばしかけていた樋口は、落とされた爆弾に気付くのが遅れた。その衝撃を先に感じたのは口に運ぼうとしていたケーキの様で、フォークから皿の上へと落ちる。
「……どういう事だ?」
 問いかける事が出来たのは、たっぷりの沈黙を落としてからだった。夏南が堂本の子供ではないなど、考えた事すらないし、噂にも聞いた事がない。七瀬母子の存在を知る者は皆、夏南を堂本の子供として認識している。荻原ですらそうだ。まだ学生だった少女を初めて樋口が見た時、あの上司は堂本の娘だとはっきりと口にした。堂本自身、娘だと言い切った。書類上は兎も角、実の父子でない可能性など、今まで何処にも存在しなかった筈だ。
 少なくとも、樋口の周りには。
 そう、夏南を含めて。
「なら、堂本さんは…?」
 その言葉が真実ならば、彼は一体何なのかと樋口は目の前に座る少女に問い掛けた。夏南の顔が、小さく歪む。
「ホント、何なんだろうねアイツ。本当の事を言わずにずっと嫌われ続けて、馬鹿みたい」
「……」
 みたいではなく本当の馬鹿だよと言いながら、夏南はテーブルに座っているガラスのキツネを指先で触れた。弄るようにまわし、愛しむように小さな体を撫でる。
「……本当の父親は私が生まれる前に死んでいて、アイツとは親友だったって。お母さんと三人で幼馴染みなんだって、笑っちゃうわ。ホント、笑っちゃう。……嫌だ嫌だって言っていたのに、本当に違ったら寂しいて思っちゃうんだもん。…私ってサイテーね」
 母親がずっと精神安定剤を飲む程に悩み続けていたのを知らなかった。彼女は何度も話そうとしたのに、嫌だと言って聞かなかったのは自分。そんな母を叱咤し励まし続けたのは、嫌っていた男だった。今更に母親と籍を入れたのも、親友の家族に出来る限りのものを与える為の方法でありそれ以上の思いはないのだと聞かせられた時、自分は泣けばいいのか笑えばいいのかわからなかったと夏南は樋口に力なく微笑みかけてきた。
「夏南って私の名前ね、お母さんが死んだ父親を思って付けたんだって、アイツに教えてもらったの。父親の名前、ミナミって言うんだって。夏が好きな南の子供で、夏南。とてもいい名前だって、今更ながらに誉めるのよアイツ。本当の子供以上にお前を大切に思っているって、面と向かって言うのよ。南の分と、そして親友の子供を思う自分の分と、二人分の想いがあるんだからって、40過ぎのオジサンが真面目に言うんだから、参っちゃったわ」
「…そうか」
「うん、そう。ホント、……堪んない」
 二人して呟き、沈黙の中でケーキを食べた。先程まで甘すぎると感じていたのに、いつの間にか味がわからなくなっている。何をどう思えば良いのか。静かな衝撃は、まるで地震の前のひと時のようで、次にやって来る爆発的な力を恐ろしく思う。夏南が堂本の実子ではない事も、彼女の母親との間が自分が思っていたものとは少し違うような事も、樋口には関係のない事なのだ。人として、喜ぶのは勿論、他の事も感じてはならないだろう。だが、それでも。言い知れぬ衝動が体を駆け巡る。堂本が欲しいと、先日以上に樋口は思ってしまった。
 人間として失格な思いであったとしても、止められそうにない。
「ねぇ。樋口はどうして、「雪」って名前なの?」
「生まれた日に雪が降っていたから」
 静寂を破り向けてきた他愛ない質問に、樋口は簡潔に答えた。何を思っているのか、「へぇ、そうなんだぁ」と夏南は感心するかのような声を出す。
「樋口に似合っているわよね、とても」
「そうか?」
「私はそう思う。東京だとわかんないでしょうが、雪ってね、とっても綺麗なのよ。一晩降り積もって出来た雪原は、神秘的でいて凄く強さが感じられるの」
 あの光景は一度は見ておかないと人生損をすると、何処の受け売りか玄人臭い意見をする夏南に、樋口は肩を竦めた。
 もしも降っていたのが霰なら、そう名付けたのか? そんな質問をするような子供でも親でもなく、樋口にとっては、人の名前はそんな風にして付けるのかと思うだけのものでしかなかった。当然、名前自体に、単純だとかふざけているとかいった感想は持っていない。夏南が言うように、似合うかどうかなど考えた事もない。物心ついた頃には、当然の事だが、既に問答無用で与えられていたものなのだ。可も不可もなく二十余年使ってきたが、特別何かを思ったり感じたりするものではなく、その思いはこれから先も変わる事はないだろう。自分にとって確かに特別だったのは、克貴が呼んだあの呼び方だけのように思える。
 ただ、それとは全く別の意味で。堂本に呼びかけれらる事を嬉しく思う。何の変哲もない、特別な呼び方ではなくとも。




「おいおい、明日で今月も終わりか?」
 早いなと、仕事の予定を確認していた荻原が嘆くような声を上げた。
「今年ももう二ヶ月過ぎるのか。この調子だと、一年はあっという間だ。勿体無いよなぁ」
「そうですね」
 特別意見を求められている訳ではないのだろうが、助手席からの言葉に樋口は同意を返しておいた。それをどう思ったのか、荻原が微かに喉を慣らす。上司の癖なのだろうこの笑いは、心地良くもあり耳にもつく、何とも持ち主に似た厄介なものだ。
 笑いに続き荻原が口から落としたのは、先の話題とは何の繋がりもない言葉だった。
「お前さ、堂本と絶対に寝ないといけないわけじゃないのだろう?」
 上司が部下にする発言としては勿論、人として間違っているようなその問い掛けに、樋口は沈黙を作る。いや、作ったと言うよりも、唐突にこんな事を言い出した荻原が何を言おうとしているのか全く見えず言葉に詰まっただけだろう。今更ながらに、先の言葉に返事をしてしまった事が悔やまれた。だが、それももう遅い。
 樋口の内心を知らないわけではなく、知っていて楽しんでいるのだろう。荻原は躊躇う事も気遣う事もなく言葉を続ける。
「好きだから体を合わせるっていうのは、確かに間違ってはいない。だけど、お前も堂本も、セックスを好き嫌いのバロメーターにしているわけじゃないだろう。確かにあいつはノーマルな性癖だが、だから男と寝たらそれが本気かと言う程、純な奴でもない。そんな奴と寝たからといって、そこに何がある?お前は寝たら満足なのか?堂本が自分をどう思っているのか判るのか?自分の気持ちがどのくらいのものなのか量れるのか?」
「社長」
「答えろ」
 非難めいた抵抗を試みかけたが、あっさりとかわされてしまい、樋口は暫し考え答えた。
「……多分、自分には何もわからないと思います」
 彼ら二人の間にどんな遣り取りがあったのか。考えるのも馬鹿らしい事だが、堂本は全てを荻原に話している訳ではないようだ。刺青を見た時も、堂本から同じような事を問われ、樋口は同じくわからないと答えた。それに偽りはなく、身体を求めているのではないようだと、確かにあの時堂本に指摘され本心からそう結論付けた。欲しいのはもっと確かな、別のものなのだろうと。だが、それでも、今は違うとも思う。
 求める何かとは同様ではないにしても、身体も欲しいとそう思う。欲張りになったというよりも、初めから胸にあるそれに今漸く気付いたという感じだ。思った途端、ストンと納得してしまうのだから間違いないだろう。荻原の言うように、体を合わせたからと言って何かを得られるとは限らない。堂本との場合は特に、その可能性は低いように思う。だが、それでも。例え何もなくとも、ほんの少しだろうと今が変わる事にはかわりないそれを、心は確かに求め始めている。
 その思いは、夏南と堂本に血の繋がりはないと聞いた時の衝動に似ていた。あの時言った、堂本に伝えようとした飢えが、今は何であるのかはっきりとしていた。自分はやはり、堂本という人間に飢えている。
「ですが、それでも。可能ならばそうしたいと思っています」
 本気ですと付け加えた樋口の声に重なるよう、荻原は大きな溜息を吐いた。
「なあ、樋口。お前はただ人を好きになろうとしているんじゃないのか?」
 ちらりと見た助手席では、上司が真っ直ぐに前を見ていた。堂本の背中を見てみろと言った時の様な、面白がっている雰囲気は全くない横顔に、樋口は疑問を向ける。
「それは、どういう事でしょうか」
「どういう事って、そのままだ。大抵は、子供の頃から徐々にそういうものを覚えていくもんなんだよ。母親を独占したいだとか、他の子供と競争してみたりだとか、物を好きなのと人を好きなのとの違いだとか、それこそ愛と恋の違いだとか。年を重ねるごとに何となくわかってくるもんなんだよな、そういうのは。けれど、お前は極端に言えば今までそう言うのがなかったんじゃないのか? 自分が誰かに恋をするだとか誰かを愛するだとか、あまり考えなかったんじゃないのか?」
 荻原の云わんとしている事は、何となくわかるような気がした。だが、それが自分に当てはまるのかまでは理解出来ない。
「今になって漸く、自分もそれが出来る人間だと気付いた。そして、ならば誰に対してだろうと考え、手近なところに堂本がいた。自分は堂本が好きなんだと思い込んだ」
「…自分の気持ちは錯角だという事ですか?」
「そうじゃない。お前が堂本を好きなのは誰だって知っている。だが、それがさ、二十歳を過ぎた男が口にする好きというものかどうかは怪しいと俺は思う。お前の好きはさ、中学男子みたいなものじゃないのか?」
「子供だという事ですか」
「愛情よりも独占欲の方が強いと言う点ではあっていると思うぞ。セックスにばかり走らない点で言えば、小学生レベルかもしれないがな。結局はお前、俺に嫉妬したんだろう?」
 思いがけない言葉に、思わず荻原をまじまじと見つめてしまった。おかしな理論を展開するのはいつもの事なので慣れているが、それでもその言葉は樋口の体を貫く。前を見ろと顰め面で示され慌てて運転に集中したが、長くは続かない。
「嫉妬って…私が社長にですか?」
「不本意だがな」
「そんな事は…」
 ないとは言い切れない事に気付き、言葉が続かなかった。入院中の焦りは、今にして思えばそう言うことなのかもしれない。
「井原にでも聞いていただろう、俺の状態が最悪だったのはさ。そして、そんな情けない男の為に、堂本はずっと走り回っていたのも聞いていた。そうだろう? それでお前は何を思った?堂本の眼が俺にばかり向いているのを面白くないと、そう思ったんじゃないのか?」
「あの人が社長を大切に思っているのは、自分も良くわかっているつもりです」
「そんな事を言っているんじゃない。俺と堂本の間には入り込めないだとか、そんな二人の絆を切ってやりたいだとか、堂本にもっと自分を見て欲しいだとか。そう言う事は思わなかったのかと聞いているんだ樋口」
 どこか笑いを含んだいつもの声ではなく、静かだが強い声音だった。こうした荻原の声は、過去の経験上、出来るならこのまま逃げ出したくなるようなものだ。気を抜けば、弱さを見せれば、あっさりと取り押さえられ従わされてしまう。心のうちを見透かしているような目が見えない分マシだが、それもあまり慰めにはなっていないと、樋口は自分の言葉が詰まった事で思い知る。
「答えろ、樋口。俺に嫉妬はしなかったのか?」
「……したと思います。ですが、ただ少し、…社長が羨ましいだとか、堂本さんに今以上に必要とされたいだとか、そんな我が儘みたいなものです。実際何かをしようだとかどうだとか、そういうものではありません」
「お前がそんな事をするとは、俺も思っていない。心配するな」
 信号に捕まり車は停まっていた。だが、荻原を振り向く事は出来ず、前を向いたまま樋口は頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。お前に嫉妬されるなんて、なかなか出来るものじゃない。貴重な体験だな」
 硬さをとかれた低い笑いに、けれども返せるものはなく、アクセルを踏んだ。先程まで晴れていた空が、今にも雨を落としそうな程に暗くなっている。この寒さならば、霙が降るのかもしれない。
「冗談はさて置き、樋口。お前、堂本ともっと話してみろよ」
 何が冗談だと言うのか、荻原が軽い欠伸をしながら言った。
「俺とあいつの関係は、お前が思っているほども神懸りなものじゃない。過去に何もなかったとは言わないが、俺達を繋いでいるのは噂になっているような大層なもじゃないさ。ただ、長い間一緒にいて、一般人には出来ない経験をともにして、互いの事をよくわかるくらいに喧嘩して笑って泣いて。そうやって少しずつ築いた関係だから、お前は羨ましいと思うんだろう。何せ、時間ばかりはどうにもならないからなぁ。だが、お前はまだ、堂本のところに来て四年じゃないか。俺と比べるのが間違いなんだよ。こんな事で不貞腐れるな」
「社長……」
「なあ樋口。本当に欲しいのなら、手に入れようとしなければ駄目だ。勝手に転がり込んでくる程、この世の中は甘くはないし優しくはない。堂本自身からも奪うくらいの勢いで向かわなきゃ、あいつは手に入れられないぞ?」
 喉を鳴らして笑う荻原は、「まあ、俺は欲しいと思ったからこそ、それをしなかった口だから偉そうには言えないんだが」と肩を竦め、誰かを思い出すように瞼を閉ざした。
 あの青年を思い出しているのだろう上司の横顔に一瞬視線を向け、フロントガラスに落ちてきた雨粒に、樋口は長い息を吐く。
 諦めきれないのならば、荻原の言うように、手に入れるしかないのだろうか。

2005/09/11