† - 12

 年度末の三月は、普段はない雑用が山のように増え、独りで仕事をこなす事が多くなるのは経験上わかっていた。西へ東へと飛び回る上司達についていける程、何も知らない見習いでも知り尽くしているベテランでもないのだから、当然だろう。しかし、毎日のように都内を走りまわりながら、けれども樋口は何となくじれったさを感じていた。
 仕事に不満がある訳ではない。まして、堂本と毎日顔を会わせられないのが切ないなど、女子中学生のような事は言わない。確かに、直接堂本の傍で動けないのは面白くないが、自分にそれだけの力がまだ備わっていない事は充分にわかっている。ならば、与えられている仕事を的確に片付ける事こそが重要だろう。手は抜けないし、抜く気もない。
 そう、やる気がないわけでもないのだ。ただ、納得しながらも、普段はあるはずの余裕が全く無い事に小さな焦りを覚える。多分それは、この季節が関係あるのだろう。樋口にとってこの三月は、こんな風に慌しく暮らす季節ではないのだ。自身のそれと、実際に身を置いている環境のギャップが今なお慣れず、故にじれったさを感じてしまうと言う事なのだろう。
 自分を分析するのは得意ではないが、集中力が途切れがちであるのはだからこそなのだと樋口は思う。凍てつく様な寒い冬が好きな分、段々と暖かくなっていくのが堪らない。無気力にそれを感じていた四年前と今との違いが、少し空しさを覚えさせる。自分の生気を吸い取りにくるのが五月ならば、三月は現実を叩きつけにくる季節のように思える。
 お前は生きているんだと。時は進んでいるんだと。
 わかりきった事実を他のものに示されるのは、誰だって不快であるものだ。
「どうした、もう疲れたのか?」
 この程度では忙しいにはならないぞと言うように、「月末まではまだ長いぞ、へたばるのが早すぎるな樋口」と堂本が軽口を叩いてきた。しかし、数日振りに顔を合わせた上司の方が、若干頬がこけたようであった。済みませんと答えながら、樋口はさり気なく堂本に問い掛ける。
「食事はどうされますか」
「新幹線で軽く食べたから、このまま行こう。今からだと、九時には着ける」
 関西から帰ってきたばかりの堂本は、ナビを操作し渋滞をチェックしながら、あっさりとそう言った。向かう先は、本社ビルだ。金庫番の霧島との予定を入れているという事は、一時間や二時間で終わる話ではないのだろう。そんな精力的な上司と違い、早くも精神的に弱りかけている自分を樋口は情けなく感じるが、仕事ではなく個人的な問題なのだから対処のしようがない。それよりも、堂本の体調の方が気になった。
「到着したら声をかけますので、少し休んで下さい」
 休むと言っても、三十分足らずの時間だ。しかし、堂本ならばその間に幾つもの仕事をこなせるだろう。だが、大阪からの移動中も仕事をしていたのだろう上司を思えば、そう声をかけずにはいられなかった。余計な事だと思いつつも口にした樋口の耳に、軽い笑いが届く。
「参ったな。そんなに顔色が悪いか?」
「私が気付くくらいには」
「お前だから気付くんじゃないのか? いや、俺も自分が思う以上に歳をとったと言う事か。この程度で疲れが顔に出るとなると、お前の事をからかってはいられないな」
 右手で軽く頬を擦りながら、堂本は楽しげに笑った。そうして、「そうだな、仕事は休憩して、ちょっと気分転換でもするか」と言い、膝においていたアタッシェケースを後部座席へと放る。捻った体を元に戻した堂本は、煙草を取り出し自らライターで火を吐けた。
「さて、樋口。お前、この間社長とどんな話をしたんだ?」
 笑いを抑えるような声で不意に放たれた問いに、樋口は一瞬、反応が出来なかった。
「隠さないとマズイ事なのか?」
 堂本が何を訊いてきているのか、漸く思いあたり軽く首を振る。一週間程前に荻原と交わした言葉を頭に引き出しながら、樋口はゆっくりとハンドルを切った。左折にあわせて周囲を確認した視線が、堂本の笑い顔を捉える。
「自分に嫉妬をする必要はないと、社長は私に言いました」
「他には?」
「堂本さんの事が本当に好きなのかと訊かれました」
 こんな話が気分転換になるのだろうか。少なくとも自分にとっては、どんな仕事よりも難しい話題だと樋口は軽く眉を寄せる。問われる事には答えるし、隠し事もしないが、これでは上司の休憩などになりはしないだろう。
 だが、樋口の心配を余所に、信号待ちで停まったのを良い事に向けた視線の先では、堂本が今なお楽しげな笑顔を作っていた。こんな風に、自分のこの想いは気分転換程度のものなのかと、堂本はそんな認識しかしていないのかと思うと、体の中が冷えていく気さえする。
「ったく。俺がいないところで何を言っているんだ、あの人は」
「済みません」
「お前は謝らなくていい。どちらかといえば、俺の方が謝るべきなんだろう。どうも最近、あの人は色んなところでお節介な事をしているようだ」
「…社長の事、良くわかっているんですね」
 意識する事無く口から零れた言葉だった。おかしな事を言ったつもりはない。だが、堂本はどこか少し驚いたような声で、樋口に問いを向けてきた。
「お前…、本当に社長に嫉妬したのか。樋口?」
 素直に首を縦に振りながらも、声は出なかった。何故今の受け答えからこの質問をされるのかわからなかったが、参ったというように片手で口許を擦る堂本の姿に疑問さえも飲み込まれる。どこか困ったような堂本のその表情を自分がさせているのだと気付いた途端、樋口は冷え固まりそうになっていた身体が一気に熱くなったのを感じた。
 不覚にも、信号の変化に気付くのが遅れ、後続車にクラクションを鳴らされる。
「……私は――オレは、貴方が好きだと言った筈です」
 サイドブレーキを下ろしながら、樋口ははっきりとそう口にした。アクセルを踏み走らせる車内に、数瞬の静寂が落ちる。忘れてはいないと堂本が言葉を落としたのは、再び信号に捕まった時だった。
「だが、お前はわからないと言った」
「しかし、好きなのには変わりはありません。社長に嫉妬するのも、可笑しくないはずです」
「ああ、そうだな。お前がそうだと言うのなら、そうなんだろう。俺としては、何故あの人にそんなものをするのかわからないがな」
「ですから、オレは貴方が好きなんです」
 いつの間にか剥きになった様に、少し強い口調で樋口は同じ言葉を口にする。荻原は的確に自分の心をついてきたとさえいうのに、それを理解出来ないと言う堂本が少し憎らしい。それはつまり、自分の告白を正確には捉えていないと言う事だ。馬鹿げた嫉妬をする程に求めている自分が酷く惨めにすら思え、樋口は顔を顰めた。
「普通、そう言う意味で好きなのならば、次は体を重ねたいと思うものだ。だが、お前はそうじゃないと言った。そうだろう?」
「否定はしていません。あの時は、わからないと言った筈です。……でも今は、可能ならばしたいと思います」
「セックスをか? お前、仁さんに何を吹き込まれたんだ、全く」
「俺の意思です、社長は関係ない」
「なあ、樋口。こんな事を口にするのも馬鹿らしいが、俺とあの人の間にはそう言ったものはないぞ。体を重ねても、勝ち負けの要素にはならない」
「わかっています」
「本当にわかっているのか?ならば、社長にどう嫉妬して、そんな答えに至ったと言うんだ」
 珍しく、少し苛立つように堂本はそう言い、備え付けている灰皿に煙草を押し付けた。くの字に曲がったそれを弾く指先が、言葉以上の憤りを表しているようで、樋口は直ぐに目を逸らす。
「…それは、貴方もオレの気持ちは本物ではないと思っているという事ですか?」
「……樋口」
 左頬に向けられた視線には、怒りではなく戸惑いのようなものが感じられた。だが、それでも目を向けるのが何故か怖く、樋口は頑なに前を見る。それに呆れたのか、堂本が小さな溜息を落とすのを、敏感になった耳が捉えていた。肩に力が入っているのに気付き、樋口は切ったハンドルを戻し終えると同時に、ひとつ深い息を落とす。
 堂本を休ませたいと思っていたのに、何故こうなるのか。今、疲れている上司を困らせ手を焼かせているのが自分自身なのだと思うと、あまりの居た堪れなさに涙さえ流してしまいそうだ。好きになってはいけなかったのだと、こんな想いを本人に向けてはいけなかったのだと、樋口は今更ながらに思い謝罪を口に乗せた。
「出過ぎた真似を、済みません。私の言った事は、忘れて下さい」
「樋口」
「申し訳ありません…」
 唐突な謝罪に、けれどもその意味を知っているのだろう堂本は、「お前はなぁ…」と苦笑と共に深い息をひとつ吐く。
「物分りが良いのなら兎も角、今更、口先ばかりの事を言うなよ」
「確かに、気持ちは変わりません。ですが、それ以上に、貴方を困らせたくはないのです。もう――」
「言いません、か? 別に、それはいいんだぞ樋口。お前は言葉が足らないくらいだからな、言いたい事はどんどん言えばいい。俺は、確かに全く戸惑っていないわけじゃないが、お前の気持ちを偽物だとは思っていないよ。伊達にこの四年、一緒にいたわけじゃないんだ。自惚れかもしれないがな、俺はお前の事は良くわかっているつもりだ」
「堂本さん…」
「だが、だからこそ、お前のその想いが、俺の想う色恋とは違うように思う。お前のそれは、まだ恋でも愛でもないよ樋口。お前が口にするそのままの、「好き」でしかない。今のお前は、焦ってそれを変えようとしているだけだ」
「……」
 荻原と同じ言葉を口にした堂本に、樋口はゆっくりと視線を向けた。直ぐにまた前方へと意識を戻したが、視界の端に残る堂本の手が運転に向けるべき集中力を奪いにくる。
 二人揃って同じ事を言われ、自分がとんでもない事を見落としているような錯覚に陥りそうになった。
 そんな筈はないのに、だ。
「もしも数ヵ月後でも数年後でも、お前が本当に誰かを好きになったら、違いがわかるはずだ。今、俺へ向けるものとは全く別だとな」
「……そうでしょうか」
「ああ、そうだ」
「でも、その好きになったのが、やはり貴方だったら…。自分は後悔するかもしれません。…オレは遠回りはしたくない」
「何て事を言うんだお前は。焦ったら失敗をするぞ樋口」
「堂本さん…!」
 からかう様な笑いを含んだ声音に思わずカッと頭に血が上り、樋口は客待ちタクシーの後ろに車を停め助手席を振り返った。急いでいるのだろうにそんな部下を非難する事はなく、堂本は真摯な目を向け語りかけてくる。
「お前はまだ若いんだ、22歳になったばかりだろう。焦るなよ」
「しかし…!」
 そんな事は無理だと、押さえつけられないこの気持ちをどうしろというのかと、口を開いた樋口を堂本が視線で制した。
「いいか、よく聞けよ樋口」
「……」
「時間が必要なのは、お前だけじゃないんだ」
 堂本の眼が、強く光る。
 それはどういう事かと聞きかけ、樋口は別の言葉を口にした。
「時間をかけたら。何がどう変わりますか? それは必ず良い方へ向かいますか?」
 そんな事は、決まっている訳がないと。不確かな未来ではなく、今この瞬間に、自分は求めているのだと。焦っていようと間違っていようと、それでも確かにこの想いは存在するのだと樋口は堂本へと視線を向けた。
「オレは、今を生きている。未来の為じゃなく、この瞬間の為に」
 明日は誰も死ぬ事がないなど、この世の中は決まっていない。今日居た者が、明日も居るとは限らない。堂本が何を考えているのかはわからないが、自分が何を今欲しているのかはわかる。間違えようがない。
「――克貴は、オレに言ったんです」
 唇から、言葉が無意識に溢れ零れ落ちる。
 軽く眉を寄せ、困ったような表情をする堂本に、樋口はゆっくりと手を伸ばした。
「帰って来たら、花見に行こうと。もう咲いている桜を見つけたから一緒に行こう、待っていろと言ったんですよ。でも、克貴は帰って来なかった」
「樋口……」
「四年経っても、オレはそれを忘れてはいない。……忘れていないんですよ、堂本さん」
 伸ばした手でスーツを握り締めた樋口の腕を、堂本がゆっくりと優しく撫でてきた。まるで、手負いの獣を宥めるかのように、掌全体を押し付けて。
 克貴の言葉を忘れはしないように、自分の中の堂本に向ける想いは一生あり続けるものだと、樋口は更に握り締める手に力を込めた。
 決して、想いを手放してしまわないように。




 きっかけは何だったのか。何が何処でどうなったのか。
 気付けば、堂本に対する想いを中井に言い当てられていた。
「お前が誰かに惚れ込むだなんて、驚きだ」
 散々自分で言っておきながら、しみじみと繰り返す男の頭を叩き、樋口はベッドから体を起こした。からかわれている感はなく、照れる性格でもないが、騒がれて嬉しい話ではない。いい加減にしろよと無言で見下ろすと、中井は何故か優しげな眼で笑った。
「でも、まあ、良かったじゃないか」
「何がだ」
 堂本には受け入れられていないとわかっていながらのその発言に、思わず子供じみた声が出る。
「どこが良いんだ」
「怒るなよ、からかっているわけじゃない」
「……」
「あのなぁ。俺は基本的に、好きじゃないとセックスは出来ない人間なんだ。勿論、仕事は客を喜ばせてなんぼのものだから、体を重ねる時もそれは変わりはしないし、割り切っている。だが、だからこそ余計に、オフでは精神面を求めるタイプだ俺は」
 その点、お前は違うよな。拘りがない。
 唐突に何の話を始めるのかと呆れかけた樋口は、けれどもその内容に、苦笑する中井の顔をまじまじと見返した。一年以上体を重ねる関係を続けてはいたが、初めて知る男のその本音には驚かずにはいられない。感情の豊かさは違えど、基本的に自分と同じ冷めたタイプだと思っていた男がかましたものは、告白以外にはありえないものだ。
 驚いた手前、気付かない振りをするのも難しく、また相手も誤魔化す気はないのか、先手を打たれる。
「俺は、だからお前と寝るんだ」
「……オレの事が、好きだと言う事か?」
「本当に気付いてなかったんだな、お前は」
「聞いていない」
「面と向かって言えばさっさと見切って逃げだしそうだからな、お前は。だから、言わなかった。でも、隠していたつもりもないぞ。気付かないお前が鈍いんだよ」
 鈍いと非難する言葉に、けれどもその色は皆無だった。中井自身それを利用したふしがあるのだから、責める気は全くないのだろう。だが、樋口としては、不快ではないが面白くないと感じるものだ。やられたと、騙されたと思ってしまう。
 何て事だと眉を寄せた樋口を、「本当にお前酷いぞ、そんな顔するなよ」と中井は情けなくも眉を下げた。これが店で1、2を争うホストなのかと思うと、笑うよりも疲れを覚え溜息が零れる。
「好きだよ樋口、愛してる」
「……」
「――なんて言ったら、お前はもう二度と俺に会わないだろう? 恋愛なんて面倒なだけだと、お前は思っているだろう? 愛や恋だの、する奴の気がしれないって思っている」
「……そこまで否定はしていない」
「今はそうみたいだが、出会った頃は違ったよ。自分には関係がないし、関わりたくもないものだっただろう。俺が好きだと言えば、お前はこんなに長く関係を続けなかった。違うか?」
「…ああ、そうかもしれない」
 かもではなく、確実にそうだったと、中井は笑いながらベッドの上に体を起こした。裸で立ったままの樋口の腕を取り、軽く引き寄せる。
「俺は、それでも良かったんだ。お前に愛だの何だのが、無くてもな。俺はそれよりも、執着して逃げられる方が嫌だった。たとえ簡単な関係でも、それを築いておきたかった。そして、今もそう思っている。お前が誰かを好きでも、俺はやっぱりお前が好きだよ。これからもこうして会いたい、セックスしたい」
「中井……」
 言葉程も、自嘲的な感じはしなかった。だが、それでも、相手の微かな緊張が伝わってくる。本気でこんな自分を求めているのかと思うと、我慢などする間もなく口から深い息が零れた。堪らないなと、そう思う。
 しかし。悪かったと、気付けなかった事に対し謝る気は樋口の中には起こらなかった。罪悪感ではないが、男の想いに対し、切なさに似た痛みは感じている。中井が口にしなかったとは言え、一緒にいて気付けなかった罪は自分にも多少はあるだろう。だが、それを今更謝罪するのはおかしく、また相手もそんな事は望んでいないだろうと樋口には思えた。
「……お前、趣味が悪いな」
 何を言えば良いのか、何を言うべきなのか。わからずに口から出たそれは、率直な思いだった。本当に、何故こんな餓鬼がいいのか。理解に苦しむ。
「そんな事はない」
「いや、悪いよ」
「……そうでもないと思うけど。まぁ、お前が言うのなら、そうなのかもな」
 クスクスと笑いながら腰に腕をまわされ、樋口は抵抗せずに中井の頭に手を載せた。髪を撫でるように軽く叩くと、笑いを収めた男が「…良かったな」と、呟く。先程理由を聞きそびれたそれを再び問うと、「俺って凄くイイ男だよなぁ、ホント」と、またもや話を逸らされた。
 結局。
 結果はどうであれ、人を好きになれて良かったなと中井が言っているのだとわかったのは、別れ際に掛けられた言葉からであった。
「お前、イイ顔しているよ。多分、これからどんどんかっこよくなるんだろうな」
 理由が自分ではないのが悔しいが、それでも嬉しいと笑った中井の顔は、今まで見たどの笑みよりも温かかった。
 本当にこの男は自分が好きなのだなと、樋口は笑みと共にその想いを飲み込んだ。




 樋口が夏南の大学合格を知ったは、井原から聞かされてだった。携帯に電話が掛かっている事は知っていたが、手が離せずに放っておいた結果、そういう事態になってしまった。何だか少し面白くなく、仕事を一段落付けて掛け直す。
「井原に聞いた、おめでとう」
 開口一番発した言葉を、夏南は笑う事無く受け取り、けれども続けて文句を言った。
『ありがとう。でも、一番に樋口に言いたかったのに出ないんだもん。仕方がないから井原さんに掛けたんだけど、やっぱり直接言いたかったわ』
「仕事中だ、無理を言うな」
『はいはい、ごめんなさい。でも、と〜ってもお忙しい中こうして掛け直してくるだなんて、何だかんだ言って私の事好きでしょう樋口?』
「馬鹿言っていずに、家にも連絡しろよ」
『したわよ、当然でしょう』
「堂本さんには?」
『……まだ。代わりに言っておいて』
「自分で言え」
 携帯の番号なんて知らない、嫌だと文句をいう夏南を宥めながら樋口は移動し、堂本の元へ携帯を持って行った。喋りながら部屋に入ってきた自分を訝る上司にそれを預け、事務所へと戻る。後で夏南に文句を言われるかもしれないが、堂本が喜ぶだろう事を思えばそれも些細な事でしかない。
 暫くして携帯を返しにきた堂本の顔には、思った以上の笑みが浮かんでいた。
 改めて、彼らは親娘なのだと樋口は思った。そこに嫉妬する心は全く無く、ただ単純に良いなと思う。
 正月に交わした両親との約束を、この忙しさが終わったら本気で考えてみようと、樋口は忘れないように頭の片隅に書きとめた。

2005/10/14