† - 6
堂本が病院にやって来たのは、九月に入って初めての日曜日だった。昼を過ぎた頃病室に姿を見せた上司は、予想以上に疲れている感じで、樋口は入院から一ヶ月以上経っての訪問よりもその様子に驚いた。大変な様であるのは井原から聞いていたので少しはわかっているつもりだったが、堂本ならばそんな状況でも常に堂々としているのだろうと、荻原が参っている分何て事はないような態度を示しているのだろうと考えていた樋口には、その様子は衝撃さえ与えてくるものであった。
常に自分の前に立ちその大きさを見せていた男を、今はとても軟く感じる。その感覚に、樋口は自分の指先が冷たくなった気がした。
「聞いていたよりも元気そうだな、樋口」
ベッドの傍まで来た堂本に言葉を落とされ、反射的に頭を下げ、口を開いた。
「…済みません」
「……」
零れ落ちた言葉が、まるで存在してはならない物体であるかのように、堂本には受け取られずに部屋の隅へと転がっていく。無言の気まずさに、樋口の身体が固まった。一体何に対しての謝罪なのか、自分でも良くわからない。気付けば口から零れていたのだ。あの事故に対するものなのか、自分の不甲斐無さに対するものなのか、それとも飯田の事に対するものなのか。何もわからないが、吐き出せたのはそれだけだった。
堂本がパイプ椅子を引き寄せ、ゆっくりとした動作で腰を降ろす。
「顔を上げろ」
命令に従い頭を戻すと、予想以上に近い場所に堂本の顔があった。確か今年で40歳になるはずだ。いつもは幾分かそれより若く見えるのだが、今はどちらかと言えば歳以上に見えた。若干こけた頬がそう見せるのかと一瞬思ったが、そうではなく自分を見る眼のせいだと樋口は気付く。いつもは精力的に光っているような眼が、今はまるで子供を相手にしているかのように温か気だ。だが、そこには温もりばかりではなく、人生に疲れたような哀愁と、子供への謝罪がこめられている気がする。まるで、街頭インタビューで捕まえた仕事漬けの中年サラリーマンに、家族を顧みさせているかのような視線だった。
夏南にもこんな顔を見せるのだろうかと、こんな眼で見つめるのだろうかと思い、今は自分が父親のようなそれを向けられている事実に気付き、樋口は身体が震えそうになるのを耐えた。何故かはわからないが、堪らない。
「堂本さん…」
呼びかけたのは、その眼に耐えられなくなったからだ。だが、声には縋るわけでも非難するわけでもない、無機質な堅さがこもっていた。それに合わせる様に二、三度瞬きをし、「今まで来られずに悪かったな」と言った堂本は、いつもの上司の顔に戻っておりホッとする。
「いえ。面倒をかけるばかりで、自分の方こそ何も出来ず申し訳ありません」
「そんな事は気にせず、お前はゆっくりすればいいんだ。体を治す事だけ考えろ」
「…はい」
頷いた樋口の髪をクシャリと掻き回した堂本の指が、左頬を滑った。傷痕を撫でられたのだと気付いたのは、言葉を聞いてからだった。
「残るのか、この傷は?」
「…浅いものなので、それ様の治療をすれば殆ど目立たなくなるそうです。ですが、女性ではないですし、傷があったところで困りませんので、私はこのままでも良いと思っています」
「お前らしいな。だが、治るのなら治せよ、樋口。ギブスはまだ取れないのだろう?なら、時間は腐るほどあるじゃないか、治療しろ」
傷が消えなくても良いというのが自分ならば、消せと言うのが堂本らしいと樋口は僅かに口許を上げた。別に拘っている訳ではないので、堂本がその方が良いと言うのならば治療もする。だが、やはり部下の大した事のない傷痕を気に掛けるのは、おかしかった。もしかすれば、自分以上に周りは事故の事を気にしているのかもしれない。だから、隠せない場所の傷が事故の記憶を引き呼せ、目につくのかもしれない。堂本自身はわからないが、荻原にはこれをあえて見せたくないのではないかと、樋口は頬の傷を意識しながら考えた。
確かに見ても嬉しいものではない。だが、この傷が消えたところで、身体には沢山の傷が残るのだ。自分が事故に遭った事実は変わりはしないのに、堂本はそこまで荻原の事を考えているのかと思うと、少し面白くない気がした。
「飯田の事は井原から聞きました。社長は大丈夫ですか?」
「ああ、そうだな。あの人も馬鹿ではないし、自分で何とかするだろう。ただ、残念な事にそれをさせられる時間が限られている。俺がフォローするのも限界があるからなぁ」
長引くのかもしれないと、力のない声が言葉以上に緊迫しているのだろう状況を伝えてきた。だが、樋口はそれには触れず、「貴方は大丈夫ですか?」と堂本に尋ねる。堂本が大丈夫ならば、荻原がどんなに沈み込もうと、駄目になる事はないだろう。
「問題がないとは言えないな。だが、やるしかないんだ。大丈夫以外には答えられない」
「安心しました」
「だから、強がりだ」
「それでも、貴方がそう言うのなら、自分は安心出来ます。だから、私も大丈夫です。もう見舞いにはいらっしゃらなくとも結構ですよ」
社長の傍に居て下さいと言う言葉は、喉元より上にはあがらなかった。来なくて良いと伝えるのが精一杯で、それ以上どうしてくれなど樋口には言えない、言える立場にもいない。
パチクリと目を瞬かせたあと、「全くお前ときたら」と苦笑を零す堂本には全てがわかっているのだろう。自分が何を考え何を思い、ぶつけるようにこんな言葉を吐くのかも。
再び、今度は傷のない側の頬を軽く撫でられながら、樋口は数瞬瞼を閉ざした。
この手は、自分のものではない。
だが、それでも温かいのだと。頭に、心に、刻み込む。
井原が大きな紙袋をぶら下げて入ってきた時、嫌な予感がした。本当に仕事に復帰したのかと思うくらいに顔を出す彼が、今更一体何を持って来たのかと樋口は眉を寄せる。
「横田さんから、見舞いに来れない代わりに預かってきた」
ベッドの上で袋の中から引きずり出されたのは、ぬいぐるみだった。実物の何倍もあるカモが、樋口に溜息を落とさせる。
「何だこれは」
「カルガモ、みたいだな」
樋口の足の上に乗っているカモの頭を撫でるように手で押さえ、井原は小さく笑った。
「親鳥が居ないと雛が鳴いているだろう、って言っていたよ横田さん。だったらさ、これは堂本さんって事だな」
真っ黒な円らな瞳が無邪気に樋口を見る。横田のやるこの手の冗談は、正直扱いに困るものだ。何が堂本だと、ニヤリと笑う井原に顔を顰めながら「…向こうに置いておいてくれ」と見舞い客用のソファを顎で示した。何もしていない日々なのに、一気に疲れた気がするのは気のせいでもないのだろう。
「何だよ、遠慮せずに抱いて寝ろよ」
「精神科の世話になるつもりはない」
「馬鹿か、お前。人形と寝たくらいじゃ、そんな事にはならないさ」
井原が時折するこの手の切り替えしが、本気なのか冗談なのか樋口はいつもわからず次の言葉に窮する。考えが足りない馬鹿だと良く思うが、変に真面目腐った発言をしたり、自分には思いつかない発言をしたりする時がある同僚は、少し不思議な人物だ。時折、井原と言う男は実は賢いのかもしれないと思ってしまう事がある樋口としては、どう捉えればいいのかわからない微妙な発言はとても苦手だ。それなのに。
「ん?どうした?」
きちんとソファに大きなカモを座らせ振り返った当人は、純粋な子供のように首を傾げるのだから質が悪い。馬鹿な奴だと思いながらも好感を抱いている自分のこの認識を少し変えねばならないのかもしれないと、樋口はこういう時は必ず少し思ってしまう。別に、井原がどんどんわからない物体になるだとか、面白くない大人になるのだとかは思わないが、この男ももっともっと成長し人としても変わっていくのだろうと思うと、言葉には出来ないおかしな感覚に襲われるのだ。
18歳の頃から連れ始め、井原はこの夏で22歳になった。自分は兎も角、多感な時を過ごしているのだから、変わったところでおかしくはない。その時も一緒に居るのかはわからないが、五年後十年後には、井原も素直さなどなくしたおっかない男になるのかもしれない。今はまだ変わってしまう姿など思い描けないが、可能性はなくはないのだ。だが、自分が変わる可能性はないように樋口には思えた。
この先ずっと、自分は自分のままだと、このままの自分が居るように思える。それは、過去の自分と今の自分を見比べれば当然の未来でもあった。多少は、変わったところはある。だが、それは時の経過によるものであり、年齢からくるようなものではないように思う。30歳になろうが、40歳になろうが自分はこのままなのだと、樋口にはそれ以外の想像は出来ない。
だからなのだろう。先日ひとつ気付いた事があったが、だからと言って何かが変わる訳でもなかった。意識したからこその小さな違和感はあるが、それ以上のものはない。それは、自分の未来を既に知っているからこそなのかもしれないと、可能性が引き出す興奮がないからなのだろうとそう思う。
「オレは堂本さんの事が好きなのかもしれない」
「……はぁ?何言ってるんだよ、いきなり」
ベッド脇のパイプ椅子に座りかけた中途半端な姿勢で動きを止めた井原は、胡散臭げな表情を樋口に向けてきた。突然の告白に驚いたというよりも、何を今更言っているんだと訝る表情に、「多分、好きなんだろう」と言葉を繋げる。気付いたというよりも、何となくそう意識するように自分を分析してみたのは入院してからだったが、きっかけは多分以前井原に言われた言葉だと思う。
「前に言っただろうお前。駄目だ、諦めろ、報われないとかさ。その時は何を言っているのかわからなかった。オレは傍に居る事以上のものを、堂本さん自身には求めていないつもりだったから。だけど、こうして離れてみて、正直参った」
怪我をして入院しているのだから、傍に居られない確かな理由は存在した。それ相手に、自分は納得したくはないと駄々を捏ねるような性格ではないと樋口にもわかっている。それなのに、面白くないと思った。堂本が荻原を気遣うのはわかるが、それを傍で見る事も出来ない自分が歯痒かった。仕事でも何でも、役に立たなければ、自分と堂本を繋ぐものはないのだと思い知らされた。
「オレはあの人の役に立ちたいし、それを認めて欲しい。傍にいたい。そう自分が望んでいるのは知っていたが、お前に言われて思う以上にそれが大きい事に気付いた。例えあの人が望まなくとも、俺は傍にいて仕えたいとさえ思う。これが、好きという事なんだろう?」
「…俺に訊かないでくれよ」
「お前が言い出した事だ」
「いや、でもさ…」
「ならば、お前はオレの何をそう感じたんだ。他にもあるのか?」
樋口の言葉に、ほとほと疲れたような困った顔をした井原が、長い沈黙後に深い溜息を吐く。
「俺はさ、もっと自覚しているのかと思っていたよ樋口。別にお前の性癖を知っているからじゃないが、そう言う意味で惚れているんだとずっと思っていた」
「だから、そう言う意味なんだろう」
「いや、正直に言うと、今の話を聞いたら違うのかもしれないと俺は思っちまった…」
どういう意味だと問うと、言葉のままだと井原は眉を下げた情けない顔で苦笑した。
「お前のそれって、俺が思ったよりも純粋なのかもしれない。恋愛云々じゃなくさ、お前はたださ、好き以上に堂本さんを好きなんだろうな」
好きの上に好きがあるのか? そんな感情は初耳だと、眉を寄せる樋口の困惑を笑うように、「いい機会だ、もっと自分で考えろ」と井原は口の端を少し引き上げた。何が何だかわからない。
意識していなかったわけではなく、ただ自覚していなかったのだと、堂本を好きだと気付き樋口は今までの自分をそう思った。只管真っ直ぐに追いかけていた訳ではないが、そういう感情を組み込む事なく、堂本を見ていた。求めていた。井原に言われ夏南に刺激され、事故によって飯田の死によって、荻原の姿を聞き知り、そして堂本の今まで目にしなかった一面を垣間見て。そう言う意味で好きなのかもしれないと、漸く可能性を組み込み、やはりそうなんだろうと納得した。それなのに、また振り出しに戻すかのような井原の発言が恨めしい。
堂本に自分が思っていた以上の特別な感情を抱いているとしても、直ぐにどうこう変わるわけではない。意識したからといって、何か別の形に変化するような気持ちでもない。だが、それでも。気付いた思いをその辺に放り投げておく程も、自分は無骨な人間ではないつもりだ。
「考えて出した答えだ」
「そうか。じゃ、もう言わないよ。でもさ、樋口が片想いかぁ」
似合わねぇと笑う井原に、樋口も肩を竦めな苦笑を零した。自分のこの思いがそんな言葉で表現するようなものなのか、正直わからない。けれど、悪くはないなとそう思う。
一生報われる事はないとわかっているそれだとしても、悪くはない。
左小指に続きギプスが外れたのは、右腕にはめていたものだった。綺麗に折れた左足のそれの方が早いと思っていたが、骨の太さによるのだろうか、外部に骨が飛び出し付いた裂傷のせいか、思う程も定着していないらしい。骨が折れただけで、肉は殆ど損傷しなかった腕の方が早いのは、医者からすれば当然といったものらしかった。
正直、樋口自身としては、歩きまわれる方が何かと都合が良いので足の方が早く治って欲しかった。無理ならば、左腕だ。半身にギプスが偏っていては、何も出来ない。松葉杖すら使えないのだから、結局入院はまだ続くのだろう。
切られ剥がされていくギプスを眺めながら、樋口は小さな息を吐いた。その息に重なるように、奇妙な声が上がる。元々細かった腕が更に細くなり皮が余っているかのような現れたそれを見て、「うえぇッ…」と蛙を踏んづけたような声を出したのは、丁度見舞いに来ていた夏南だった。
「何か、気持ち悪い…」
「血色が悪かったですからね、でも直ぐにまた戻りますよ」
「これって…もしかして、垢?」
うぅっと唸りながらも興味津々にしている少女に、医者は苦笑を落とし、樋口は溜息を落とす。試しに包帯の取れた腕を挙げ、顔を顰めながらも覗き込む夏南の頭を払うよう軽く叩くと、微かに骨に響いた気がした。筋肉は勿論、人間は例え贅肉でもなければ不便らしいと身をもって知る。昔は、もっと食べろと言われていたが、この歳では流石に注意を受けることは少なく不摂生していた自分を、樋口は少しばかり反省した。たった二ヶ月使わなかっただけで骨だけになってしまった右腕を眺め、残る左足と左腕のギプスに再び溜息を吐く。この分ならば、どちらも同じように肉が落ちているのだろう。ある程度予想はしていたが、衝撃はそれ以上だ。夏南の発言ではないが、自分の体の一部としては違和感があるものだ。
左手の親指と中指で輪を作り、試しに手首から滑らせると、指は離れずにに肘まで行った。それを見ていた夏南が、「私より細いよ、絶対」と自分の腕を並べてくる。流石に彼女より細い事はなかったが、似たり寄ったりだと樋口は口元を上げた。
「樋口って、骨自体も細かったんだね」
何故そんな発言が出るのか、喧嘩は強くても実はか弱いんだと笑う夏南を無視し、樋口は傷痕を消毒する担当医に質問をした。一体、井原は自分の知らないところでこの少女に何を吹き込んでいるのか。少しばかり気にはなるが、今は問い詰めても仕方がない。
「センセイ、これは残りますか?」
「今は赤黒い色をしていますが、数年経てば肌よりも少し白い色になると思いますよ。それでも、消えはしないので、やはりこの大きさだと目にはつくでしょうね」
「他のもそうなんですか?」
「整形手術が出来ない事もないですが、あまり進めはしません。顔は人目もあるのでそうはいかないでしょうが、体の方は袖のある服を着るなりすればわからないですから、このままでどうですか? それでも気になるのなら、」
「気になっているのは背中です」
右腕の傷痕を治療する方法を詳しく説明し始めようとする医師を遮り、樋口は腕から視線を上げ「治りますか?」と言葉を繋げた。腕の傷など、どうでも良い。
一瞬不可思議な顔を見せた担当医が、理解したように瞬きをし、「…難しいですねぇ」と軽く首を振った。
「直したいんですか…?」
何に対しての問いか気付き、樋口は大きく頷いた。
樋口が鏡越しに背中の傷を見たのは、一昨日の事だ。もしもそこに救世主が描かれていたのならば、彼の左腕は千切れ、腹が抉れていた事だろう。車体により傷を負った背中は、何十針も縫いはしたが、別段樋口は気にはしていなかった。その傷のお陰で出血多量になり死にかけた事は知っていたが、殆ど臓器に傷をつけなかったのだからそう大した事はないと思っていた。深い傷だと聞いていたが、骨折同様、聞いた時はもう生死に関わるものではなく気にとめる理由もなかった。
だが、何気に見た背中は、想像していたよりも酷かった。縫った針の後がはっきりとわかり、爛れたような肌とは似つかない変色した傷に眩暈を覚えた。切れただけではなく、肉が抉れたのだろうと思える箇所が、まるでペンキでも塗ったかのように目立っていた。研がれた刀で切られたわけではないのだ。そうなって当然であったのに、樋口は完全に失念していた。
「傷痕に墨を入れる事が出来ないのは知っています。ならば、皮膚移植か何かをして、新しい肌に墨を入れる事は可能なのですか?」
「……火傷などなら兎も角、これは傷なんですよ。簡単に言えばこれは皮膚ではなく肉なんです。するのならば、移植ではなく整形手術ですね」
右腕の傷痕に触れながら言葉を濁す医者に、だからと言って何なのかはわからず、樋口は眉を寄せた。その表情に気付き、「不可能ではないでしょうが、元通りにはならない可能性の方が高いです」ときっぱりと担当医は言い切る。それは、傷自体の事ではなく、墨の事をさしているのだろう。自分以上に今まで何度も見たのだろう背中がどういった状態なのか、この男が一番良く知っていた。だから、これが真実なのだと思いはするが、樋口としては簡単に納得出来るものではない。
「センセイは馬鹿だとお思いでしょうが、私には大切なものなんです」
「医者としてではなく、個人的に言わせてもらえば、確かに私はよく理解出来ません。それがお洒落ならば、汚れたものは取り替えたいと思うでしょう。何らかの理由があってしているのならば、欠けてしまい心が揺らいだり不安になったりするでしょう。ですが、苦痛を我慢して描いたそのものを大切にするべきだと、私は思います。形に拘らず、中身を大事にしてはどうですか、樋口さん」
整形手術をするとなると、今残っているオリジナルが更に欠けますよ。貴方はお洒落で入れている訳ではないのでしょう?と、医者は宥めるように優しげな瞳の中に真剣な思いを込めてそう言った。まるで幼子に接する父親のようだと思い、樋口は堂本を思い出した。彼ならば、もしも自分と同じ境遇になったらどうするのだろう。荻原の為に彫ったという墨が欠けたのならば…。
「……樋口」
不安げに自分の名を呼ぶ声に、夏南の姿を探し首を振ると、いつの間にか彼女はソファに座っていた。その横で少女と同じように、大きなカルガモのぬいぐるみが自分を見ていた。
「大丈夫だ」
考える事無く口から滑り落ちた言葉は、まるで自分に言い聞かせるようなもので、樋口は軽い笑いを落とす。大丈夫。先日、堂本相手にそう言ったのは虚勢だったのかもしれないと、今頃になって気付いた。
ただ大丈夫と自分の立っている地面を信じたいだけで、本当は何ひとつ安心など出来る要素はないのかもしれない。
身体も、心も、全てが今はとても曖昧だ。
2005/07/06