† - 7

 気付けば、十月に入っていた。
 温度調節が整った院内では季節の変化を身体で感じる事はなく、秋らしさを覚えたのが井原のスーツからであったというのは、風流にかけるというよりも寧ろ不快さえ呼び起こすものだった。仕事ではないのだから問題はないのだが、駐車場から病院までの暑さが我慢出来ないというように緩められたネクタイに眉を寄せていたのは、つい最近の事のように思える。だが、いつの間にかそれが解されていなくなり、ジャケットをきちんと着るようになる頃にはスーツが夏物から秋物へと変わっていたのだから、いくらなんでも気付かない方がおかしいだろう。
 だが、それで気付く自分もどうだろうかと思いながら、樋口はリハビリ室の入口で擦れ違った女子高生の姿を思い出す。井原に文句はないが、自分も男だ。せめて、同じように他人の服装で季節を感じるのならば、可愛い女の子のそれの方が良いように思う。少なくとも、同僚の男のスーツではなく紺色のセーラー服ならば、空しさも味気なさも覚えなかっただろう。逆に、疚しい事はないが何だか少し不毛な自分に情けなさを覚えなければならなさそうでもあるが、長期入院中の身ならば恥じる事もないはずだ。
「――アレ? ゆーくん…?」
 いい加減そんな馬鹿な考え事に飽きかけていた時、不意に前を横切った人物に樋口は声をかけられた。数歩進んだ足を戻し近寄ってくる者の気配に、床を眺めていた視線を上げる。
「あ、やっぱりゆーくんだ!」
 上下白衣姿の若い男が、満面の笑みを浮かべていた。
「…烈貴」
「久し振りだね。って、ゆーくん。ここに入院していたの?」
 知らなかったと目を丸くして驚いているのは、堤克貴の弟だった。顔を会わせるのは克貴の葬式以来だが、あの時は会話らしい会話はしなかったので殆ど記憶には残っていない。それ以前に会ったのは、両親が離婚し母親に引き取られる事になった烈貴が樋口に挨拶に来た時なので、もう十年は前になる。樋口がそんな相手を直ぐにわかったのも、顔ではなく呼び方のお陰であった。
「もう「ゆーくん」は止せよ」
 成長しても昔と変わらない和やかさを持つ幼馴染みを見上げながら軽く眉を寄せて言うと、「ダメ、ゆーくんはゆーくんだよ」と訳のわからない理由で却下された。だが、まるで子供を諭すようなその姿に毒気も抜かれたのか、反論は沸いてこない。何よりも、昔の呼び名は少し懐かしく、また克貴の事も思い出せ、樋口の口からは苦笑が零れた。
 家は近所だが校区は違い、同い年の烈貴と知り合ったのは通っていた合気道のクラブでだった。いつの間にかクラブから一緒に帰るようになり、互いの家を行き来するようになるのにはそう時間もかからなかった。烈貴は初め、樋口の事をきちんと「ゆきくん」と呼んでいた。だが、子供の舌では発音が難しいのか、気付いた時には「ゆーくん」になっていた。それを聞いていた兄の克貴が、樋口の名前を「ゆう」だと勘違いしたのも無理はないだろう。何故自分が「ゆう」と呼ばれるのか疑問に思いながらも、克貴しか呼ばないその名が嬉しく、長い間樋口は問う事もなかった。随分経ってからどうして「ゆう」と呼ぶのかと聞いた時は、自分の勘違いを棚に上げた克貴に怒られ呆れられ、そして謝り倒された。だが、結局それ以降も克貴が樋口の事を「ゆう」と呼ぶのは止めず、理由は「ゆうはゆうだから、それ以外にはない」という訳のわからないものだった。
 兄弟揃って本当に面白いと喉を鳴らしながら、樋口は烈貴の先の質問に答えた。事故に遭い入院して、もう既に二ヶ月以上経っているのだと。
「そうだったの、全然知らなかった」
「お前は、何をしているんだ?」
「ん、介護師になったんだ。まだペーペーだけど、何かと使われて大変だよ」
 苦笑する烈貴のその姿が、やはり兄である克貴を思い出させ、樋口も軽い笑いを落とした。人懐っこいところなどの内面は似ているが、外見は言うほども似ていない二人がそれでも兄弟だと思えるのは、こうして自分に向ける笑顔なのだと樋口は思う。昔から、何故か二人は可愛げのない自分を気に入り構い続けていた。そんな兄と弟を、樋口が羨ましいと思った事は一度や二度ではない。弟を可愛がる克貴と、兄を信頼しきっている烈貴の姿を見ているのが樋口は好きだった。一緒に居れば、自分もそこに混じれた気がした。あの頃の自分は、彼らが生み出すその空気に安心しきっていたように思う。
 両親の離婚により烈貴が引っ越すと知った時、樋口はただ驚くだけであった。実際に彼と母親が出て行き随分経ってから、漸くもう遊べないのだなと理解した。そして、もうあの兄弟の空気を味わえないのだなと少し寂しく思った。だが、その「寂しい」は克貴に比べれば大した事はなく、心に残り続けるものではなった。
 烈貴が居なくなっても、近所なのを良い事に樋口が堤家に足を向けたのは、ひとりで居る克貴が気になったからだった。決して弱さを見せるような彼ではなくいつも笑っていたが、学校帰りに寄る家はしんとしており、克貴には似合わなさ過ぎて樋口の方が不安になったのだ。自分の家とて、両親が殆ど居ないので静かだった。しかし、それが当たり前で樋口は寂しいと思った事はなかった。だが、それまでの堤家は専業主婦の母親が必ず家にいたので、克貴ひとりになった家は静か過ぎた。多分、克貴自身も次第にそれに耐えられなくなったのだろう。
 樋口が中学に上がり、克貴が高校生になった頃から、顔を会わす機会が一気に減った。部活帰りの夕方遅くに訪ねても不在の事が多く、いつの間にか樋口は堤家の前を素通りするようになった。父親が夜遅くにしか帰らない事を知っていたので、明かりが点っている時には克貴が居るのだとわかりはしたが、互いの環境が変わった事を考えると、ふらりと顔を見せに入る気も湧かなくなっていた。中学生になり少し大人になった樋口には、もう子供のように自分から克貴には甘えられないのだと良くわかっていたのだ。
 そうして、近くにいながら音信不通になっていた二年以上の年月は、けれども克貴にすれば気にとめるようなものではなかったらしい。偶然街中で再会した時は、互いの間に溝などないのを確信しているかのように、躊躇う事無く克貴は樋口の頭に手を伸ばしてきた。昔と同じように髪をかき回しながら、相変わらず小さいなと楽しげに笑った。久々の再会などと言った空気はなく、そこに漂うのはまさに克貴と烈貴が共有していたような温かく優しいもので、樋口も一瞬にして二年半という時を埋めた。
 再会した時には既に高校を中退していた克貴は、チームと呼ばれる若者グループに身を置いていた。暴走族といったような危険なものではなく、ただ仲間内で楽しんでいるかのようなそれに樋口が加わるようになったのは、ただそこに克貴がいたからだ。樋口が高校に進学した頃、克貴は父親の再婚を気に自立し、定職にも就いた。それでも、チームを抜けなかったのは、そこが克貴にとって安らげる場所であったからだろう。その中で笑っている克貴を、樋口は気に入っていた。だから、遊びに来いよと誘われるままに、夜には自分もその中に身を置くようになった。面倒見が良く人当たりのよい克貴ならば当然のように、いつの間にかチームの中心的存在になっていた彼の傍に居るのは心地良いものだった。
 病室を訊き、遊びに行くからねと約束を残し去って行く烈貴の後ろ姿を見ながら、樋口は軽く目を細める。
 樋口が高校を卒業した春に克貴が交通事故で亡くなるまで、共に過ごしたのは三年半という短くはない年月だった。その間、話題にする事は少なかったが、彼が弟の事を気にかけているのは知っていた。克貴の性格を考えれば、当然の事だった。そして、今この時になって再会した烈貴もまた、離れて暮らす兄の事を気にかけて過ごしていたのだろう。
 もしも。もしも、克貴が死ぬとわかっていたら。自分は、兄弟を会わせようと努力しただろうか。自分が居るべき場所は、本来なら弟である烈貴が座るところなのだと、彼に譲っただろうか。
 考えても全く意味はなく、逆に不毛であるだけなのだとわかっていても、樋口の頭からそれは消えなかった。




「確かに言葉数は少ないけど、樋口は無口じゃないわよ」
 ソファに座っていた夏南が、大きなぬいぐるみを腕に抱いたまま立ち上がりそう言った。ベッドの空いたスペースに腰掛け、井原の発言に軽く眉を寄せる。自分の事ではないのだから放っておけばよいのにと思いながら、樋口はいつもの戯言だと溜息を吐いた。
「おいおい、戯言って事もないだろう。半分以上当たっているじゃないか」
 少しオーバーに肩を竦めながら、井原が座った状態のままパイプ椅子を後ろに傾けさせる。バランスを崩し椅子ごと倒れそうになったのは一度や二度ではないのに、井原はこの行為を止める事はない。まるで、小学生の悪餓鬼のようだ。
「でも、樋口は普通に喋るわよ…?」
「今は相手によっては喋れるようになっただけで、基本的には無口なんだよこいつは。出会った時なんて、ムカツク奴だったよ本当にさ。何を聞いても喋らない。頭は大丈夫なのかと思ったね俺は」
「じゃあ、樋口って昔は大人しかったの?」
「大人しいっていうか、可愛げがなかったんだよ。なあ?」
 同意を求めるように向けてきた井原の視線を無視し、興味を持ち始めたような夏南に「聞き流しておけ、出鱈目だ」と、樋口はとりあえず忠告をしておく。実際にはそれが役には立たないのだろう事がわかってはいたが、だからといって井原により脚色されるのを知りつつも警告をしないのは趣味が悪いというものだろう。しかし、案の定自分の気使いなど何処吹く風と言ったように、井原と好き勝手に話し始めた夏南に樋口は小さな溜息を落とした。嘘でも何でも、楽しければ良い年頃なのだろう。
 確かに、井原が言うように、昔よりも樋口は喋るようになった。それは、この仕事を始め、荻原や堂本に関わるようになったからだろう。その点では、夏南に教えた事は間違ってはいない。だが、昔は無口だったのかと問われたならば、ノーと答える方が正しいだろう。引っ込み思案で他人と話せなかった訳でも、相手を馬鹿にして話さなかった訳でもなく、ただ喋る機会が少なかっただけなのだ。今のように多くの人と会い話しをするのも仕事であるような、そんな環境にいなかっただけだあり、昔も誰かと話す時は普通に話していたと思う。特別、無口と言う評価を受ける程、口を開かない人間だった訳ではない。
 だが、それでも。確かに以前は他人に関心が薄いあまりに、話し掛けられても直ぐには応えられなかった事が多かったのだろう。何を言われたのか、どう答えようか。樋口がそんな事を考えているうちに、相手の方が待ちきれなくなり、無視をされたと怒られる事がよくあった。誉められないがあまり友好的な性格ではなかった為、自分の返答に相手が言葉を失う事もあり、会話が弾む事も少なかった。そんなものであるからこそ、無口と捉えられてしまうのもわからなくはないものでもある。しかし、今更それを掘り返されるのも、面白くはない。
「相手がどうでもいい奴だったら、必要な事も喋らない性格だぜこいつは」
「それって、ちょっと陰険じゃない…?」
「無自覚でするから、余計に質が悪いんだよな。下の者相手だと、言葉よりも断然出るのは手の方が早い。嫌われるのも当然だ。もうちょっと、愛想良くしてやればいいのによ。なあ樋口。そこんとこ、どうなんだよ?」
「無理だ」
「…ほら、な。こう言うところが、駄目なんだ」
 即答した樋口に、井原が苦笑を漏らす。
「ね。だったら、さ。こうしてお喋り出来る私達って、結構好かれているって事よね。ね、樋口そうでしょう?」
「さあ、どうだろうな」
 別に、その者との相性によって意識し使い分けている訳ではないので、聞かれてもわからない。どちらかと言えば、自分の態度は相手の捕らえ方によって決まっているように樋口は思う。例えば、仕事をしてから会話をする事が多くなったのも、傍にいる荻原と堂本の性格のせいだ。荻原は、樋口が困っていようと鬱陶しく思っていようと、好きなだけ喋る。答えを求める時は、納得するまで求め続ける。そして堂本は、荻原のように騒がしくはないが、樋口が言葉を返すまでじっと待つのだ。その待つのも自然体で、急かして来るような事はない。また、返す言葉がどんなに短くとも、真摯に受け止める。その点で言えば、上司達の会話は面倒でも苦手なものでもなく、付き合い易いものであった。
 そうやって少しずつだろうが弁の立つ二人に鍛えられたからこそ、他の者達とも仕事上ではさほど困らない程度に会話は出来る。だが、井原にしても、夏南しても、樋口にとっての二人はどちらかと言えば荻原や堂本に似ていた。二人がこんな自分を認めているからこそ、こうして付き合えるのだと思う。現に、初めて顔を会わせた時は、どちらともまともに噛み合った会話はしなかったように思う。
 ならば、当然、自分を恐れたり不快に思ったりしている者相手に、上手い立ち回りなどそう出来るはずもない。井原の言うようになるのは、死ぬまで努力しても無理だろう。
「ねえ、思ったんだけど。樋口は無口じゃなく、寡黙なんじゃない?」
 どう違うんだよと顔を顰める井原と、辞典引きなさいよとあしらう夏南を見ながら、どうでもいいから人を出汁にして病室で騒ぐのは控えて欲しいと樋口は溜息を落とした。
 無口だろうが寡黙だろうが、自分は自分でしかない。




 ふらりと病室を訪れた荻原は、夏の頃よりは幾分か痩せたように感じたが、他のところは別段変わりはしないように樋口には思えた。
「何だよ、これは。お前、こんなのを貰うような女がいたのか?」
 水臭いな教えろよと荻原はニヤニヤ笑いながら、態々ソファに置いてあったぬいぐるみをベッドへと持って来た。樋口に顔を向けるように腕に抱えパイプ椅子に腰を降ろして居るその姿は、夏南が良く見せるもので知らないうちに苦笑が零れ落ちる。
「こんなものを持ってくるんだから、若い子なんだろう?意外だな、お前は年上しか相手にしないと思っていたがな」
「社長、その冗談はキツイです。笑えません」
「ん?」
「横田さんからです、それ」
 きょとんと目を丸めた荻原が、次の瞬間「…クソオヤジ」と忌々しそうに呟く。ポンポンと腕の中のカモを叩きながら、荻原はお前達は何をやっているんだと深い溜息を吐いた。自分をからかう以上に、横田がこの男で遊び可愛がっているのを知る樋口としては、やはり小さく笑うしかない。
「ったく。女なら兎も角、お前もあんなオッサンに貰ったものを律儀に置いておくなよ」
「済みません。しかし、無下にも出来ませんので」
「してやればいいじゃないか、突き返せ。出来ないのなら、捨てろ。そうじゃないと、段々エスカレートしていくぞ。それでなくとも、あの人はお前を気に入っているんだ。気を抜いていたら攫われるぞ樋口」
 まさか、それはないだろう。そう思いつつも、気を付けますと軽く頭を下げた樋口に、堂本ははっきりと眉間に皺を作った。手にしていたぬいぐるみをベッドに置き、徐に立ち上がる。
「…気をつけるのは、俺達だ。お前じゃない、俺や堂本だ」
 不意に声のトーンを変えた荻原は、静かに樋口を見下ろしてきた。今更ながらに、見上げる荻原の顔が、スーツの中の身体が、上辺だけの生気しか纏っていないように感じる。中身は空っぽであるかのようなそれは、何度か樋口自身も己に感じた虚しさだった。荻原であるのは間違いないのに、自分の知る上司とは違う雰囲気に心が冷える。
「お前が、横田さんでも別の誰かでも、一緒に働きたくなったのならばそうすればいい」
「私は別に、」
「わかっている。お前が今は何処に居たいのかは、良くわかっている」
 可能性の話だと、樋口の声を遮り言葉を続ける荻原の顔は、真剣なものと言うよりも味のない強張りを持っているかのような不可思議なものだった。ちょっと針で突けば、その中から興奮や葛藤や絶望と言った感情が溢れ出すようであり、爆発する事無く静かに萎んでいきそうでもある、そんな対照的な雰囲気を抱えているかのようだ。唐突に、この男はまだ落ちついた訳でも受け入れた訳でもないのだなと樋口は悟る。未だひとりの青年の死を持て余しているのだと、見た事のない上司の様子に教えられた。
「なあ、樋口。堂本が何を望むかじゃなく、お前は自分自身が何を望むのか、もっと良く考えろよ。…いや、頼むから考えてくれ」
「それは、どういう意味でしょうか」
「言葉のままだ、ふたつはイコールじゃないって事だ樋口」
 俺はもう、こんな事は二度と御免なんだ。
 泣き笑うかのような顔を見せた荻原のその言葉が何を指すのか、彼が病室から去ってからもなお考えたが樋口にはわからなかった。飯田の事なのか、事故の事なのか、それとも樋口自身の態度の事なのか。何が荻原にあんな顔をさせたのか、予想もつかない。彼の姿は、ただ今もなお苦しんでいる事だけを教えてくるものだった。
 しかし。苦しげにじっと自分を見下ろしてきていたあの男の傍には常に堂本がいるのだと思うと、落とされた言葉が意味のわからないものでも確実に自分の身体の中で苦さが増していくのは良くわかった。口の中にまで広がるそれを飲み下しながら、樋口は顔を歪める。自分の望みは、堂本の望みを助ける事だ。少しでも力になる事だ。そうして傍に居る事を望み、彼を中心に過ごしている。それを否定されては、自分は自分ではなくなるではないかと樋口は胸中で吐き捨てた。
 同僚や周りの者が、嘲笑交じりに言うのも軽蔑を込めて言うのも構わない。だが、常に堂本に求められ与えられている荻原には云われたくはなかったと、無意識の内に奥歯を噛み締める。
 あんな男は知らないと、自分が知る上司ではないと苦々しく思っている樋口を更に刺激するかのように堂本から電話がかかってきたのは、荻原が病室を出て一時間程経った頃だった。個室なので携帯電話の電源は常に入れているが、仕事メインのものなので入院してからは殆ど鳴る事がなく、着信に気付くのに少し長い時間が要った。済みませんと待たせた謝罪を口にする声を訊いているのかいないのか、『社長は…?』と堂本は開口一番に荻原の事を尋ねてくる。
「一時間程前に帰られました。私の病室には、十分も居られませんでしたが」
『ああ、そうか』
「何かあったんですか?」
『いや、いつもの様に逃げられただけだ。悪かったな、突然』
 その謝罪が電話に対するものなのか、荻原の見舞いに対するものなのか、樋口にはわからなかったが訊く気にもなれなかった。だが、堂本の声をもう少し聞きたくて、切られる前に話題を振る。振れる話題など、堂本を足止め出来るものなどひとつしかなく、余計な事と承知で荻原の事を樋口は口にした。
「先程の社長は、私が知る社長とは少し違っていました」
『…そうか。何か話したのか?』
「いえ、特には…」
 一瞬、荻原との会話を話そうかと思った。だが、話せばきっと、堂本はフォローを入れてくるだろう。自分を納得させにかかるだろう。何故かそれは嫌だと樋口は思い、思った瞬間、甘えようというのか愚痴りかけていた自分に気付き胃の辺りが痛くなった気がした。
 自分が今、何を堂本に求めようとしていたのか。考えたくはなかった。

2005/07/11