† - 8

 十一月に入り暫く経つと、病院の敷地内の木々が一気に赤や黄色に色を変えた。四角く切り取られた窓から見えるそれらの変化に、けれども樋口は四季を楽しむ余裕などなく、ここに来て再び焦りにも似た思いを持っていた。
 左足のギプスが外れた時、退院したい意向を担当医に告げた。しかし、返事は否だった。左肘の経過が良くないので、もう少し安静にしている方が良いというのだ。せめて、松葉杖などは使えないのだから、左足の筋力をある程度戻してからだと説得された。担当医にそう言われては、納得せざるを得ない。だが、季節が過ぎていく焦りには我慢出来なかったのだろう。
 ギプスを外して一週間もしないうちに、リハビリのやり過ぎで足首を疲労骨折しかけ、ドクターストップをかけられた。暫く大人しくしていろと、何をここまで来て焦っているんだと井原に溜息を吐かれた時は、思わず手を上げてしまった。流石に、「痛てぇ…」と口元を抑えつつもやり返しては来ない友人を見た時には頭も冷えたが、情けなさに泣きたくもなった。
「七月の終わりからだから、三ヶ月ちょっとか。そりゃ、焦りもするよな。だけど、それで腐ってどうするよオイ」
 井原が言うとおり、予想以上の長期入院に堪えていた。けれどそれだけではなく、堂本や荻原の様子が更に焦りへと繋がったのだと樋口は自覚している。だが、自覚した所で、対処法などありはしなかった。それこそ、井原に愚痴ったところでどうにもならない。八つ当たりをしても、空しいだけだ。
「焦っても仕方がないだろう。時間をかけなきゃ、骨はくっ付かないし、自由に動けないんだからさ。治りたいのなら、コツコツしろよ。ぶり返していたら元も子もないだろう。半年かかろうが一年かかろうが、そうやって治すしかないんだかさ樋口、…聞いているのか?」
「ああ、聞いている」
「なら、もう無理はするなよ」
 ああそうだなと答えながら、仕事に復帰した時、自分には確かな居場所があるのだろうかと樋口は漠然と考えた。こんなにも焦る気持ちが何故なのか、井原とて気付いていないわけではないだろう。それでも、あえて核心に触れないもどかしさが、不安を与えてくる。
 三ヶ月。働いていれば一瞬で過ぎるワンシーズンでも、こうして過ごす三ヶ月は思った以上に長い。考えなくても良い事まで考えてしまうくらいに、時はゆっくりと進む。
「……社長は、どうしている?」
「ああ、相変わらずだよ。突っ走っている感じ。…お前より危なげかな、少し」
「堂本さんは?」
「あの人も、相変わらず忙しそうだ。社長の事を構ったり放っておいたり、大変そうだな」
「そうか」
「ああ、そうだ。……なあ、樋口。心配しなくても、堂本さんはお前の事も考えているぞ」
「わかっている」
 そんな事は、充分わかっているのだ。堂本が、自身で目を掛けている部下を蔑ろにする訳がない。それこそ、自ら拾ったものを、この機会に捨てようなどとはしないだろう。樋口とて、それは良くわかっている。ただ、自分自身が勝手に、堂本は居なくなるのかもしれないと思ってしまうだけなのだ。この世から命はなくなってもなお心にあり続ける克貴とは逆に、実際に傍に居ても自分には見えなくなってしまいそうだと、何故か思えるのだ。
 以前、井原はもっと考えろと言ったが、やはり自分のこれは執着だとか刷り込みだとかではなく、好意以上の想いなのだと樋口は思う。来なくて良いと言ったあの時、会えない事がこんなにも堪えるものだとは、正直思ってもいなかった。こんな焦りに囚われるとは、考えてもみなかった。堂本をものだとは思っていない。だが、ここでこうしていると、堂本自身が荻原に所有されるのを望んでいるかのようにまで思えてきてしまうのだ。荻原も堂本も、互いが傍にいるのが当然だとしている。それが、堪らない。
 克貴と烈貴の間に入れた様にいく訳がない。そんな事を望んでいる訳でもない。
 だが、それでも苦い思いが体の中に存在する事に、自分は囚われそうになっている。ただそれだけの事に、何かを見失いそうになっている今が耐え難い。




 樋口が両親の離婚を知ったのは、リハビリ室で隣に座った男が読んでいたスポーツ紙の見出しからであった。病室に戻りつけたテレビで、離婚してから既に三ヶ月近く経っていると言う事を知り、溜息が零れた。新聞で知る以上に間抜けな話だが、季節が変わる前のそれに今更言える事はない。彼らとて大人なのだから色々考えての結果なのだろうし、別に一人息子を無視したわけでもないのだろうから、言うべき事もない。流石にあの両親でもこの事態ならば息子を探していただろうので、迷惑をかけたのは自分の方かもしれないなと、ワイドショーを見ながら樋口は考えた。一度、家に連絡を入れるべきなのだろう。
 来るだろうと思っていた通り、仕事を終えた烈貴が樋口の病室を訪ねてきたのはその日の夜の事だった。驚いたと話す彼に自分もそうだと答えると、退院したら帰れよと怒られる。三年半近く実家には戻っていない話をした時も顔を顰めていたので、烈貴にも色々と思う事があるのだろう。自分はもう充分に大人である歳なので取り乱す事はないが、堤夫妻が離婚した時、烈貴はまだ小学生だったのだ。あの時、幼馴染の心境など深く考えもしなかったが、本人は小さな胸を痛めていたのだろう。
「絶対に帰るんだよ、ゆーくん」
「考えておく」
「考えるじゃなくてねぇ」
 溜息を落とす烈貴に、問題はないと樋口は応える。実際、忙しい両親と過ごした時間は確かに少ないが、息子とも偽りなく本音で付き合う彼らの性格を樋口は十分理解していた。元から、夫婦と言うよりも、協力者といった方が似合っている関係だったのだ。離婚するのは意外であり驚いたが、そうなってもおかしくはない二人でもあったのであっさりと納得出来るものもある。彼らが決め、息子である自分も理解しているのだから、問題などあるはずがない。
 それでも、心配せずにはいられない性質なのだろう烈貴に譲歩し、電話でもしておくと樋口は折れておいた。したところで、そう言う訳だからとあっさり報告されるだけだろうと思うが、確かに長い間行方をくらませる形になっているのは拙いだろう。夫婦としての関係は兎も角、彼らは自分にとって良き親である事には変わりないと樋口は思い、ふと、半月程前に夏南が愚痴るように両親の事を話していたのを記憶から呼び起こした。
 離婚から思い出すのも何だが、意外な事に、堂本が夏南の母親と籍を入れたのは一年程前の事だという。長年内縁関係にありながら、何故今になってと訝る樋口に、夏南は腹立たしげにその理由を口にした。自分が18歳になったからだと、あの人達は前からそれを待っていたのだと。そして更に驚く事に、本人が出会った時に言ったとおり、夏南は堂本の子供でもなければ養子にもなっていないという。その訳についても私が嫌だったからだと簡潔に語った少女の複雑な胸の内を気遣ってやれる程の余裕は、その時の樋口にはなかった。
 だが実際には堂本の娘なのだろうと、気付けば口にしていた樋口のその質問に対する夏南の答えは、知らないわよという思いもよらないものだった。認知はされていない。だが、母親の態度やその夫となった男の態度は、それ以外に有り得ないものだと語る夏南の話は、樋口が想像していたような家族とは少し違った。
 彼女が物心ついた頃には、既にもう群馬に居たのだが、夏南が生まれたのは大阪であるらしい。どういう経緯でそうなったのか、赤の他人である老夫婦が営むペンションに母子は暮らしていた。住み込みの従業員ではなく、家族だったと夏南は言う。長い間、老夫婦が実際の祖父母ではないのを知らなかったと言うのだから、本当にそのようであったのだろう。
 時折ペンションにやって来る堂本が客ではないのを、初めから夏南はわかっていたと言う。母親の事を名前で呼ぶ男を、父親なのかと尋ねた事に他意はなかった。だが、母親は違うともそうだとも言わず、悲しげに笑うのみだった。子供心にもう訊いてはいけないのだと悟ったのは、母よりも父の方が必要なのかと泣きながら問われた時だった。幼い少女はその時、父親なんか要らないとそう答えたという。だからこそ堂本が嫌いだと言う様に、樋口にその言葉を告げる夏南はどこか泣きそうな顔をしていた。
 母親と堂本が籍を入れると聞いた時、夏南の中でそれまで感じていた事がはっきりしたらしい。母親は、常に女であったのだと。自分を捨て堂本を選ぶのだと。そして、堂本はやはり父親であるのだと。
 養女にはならないと言った夏南に、母は泣き、堂本は溜息を落としたという。樋口には信じられない事だが、「アイツはいつでもそうなのよ」と少女は綺麗な顔を顰めた。堂本は、いつも何か言いたげに息を吐くらしい。その息を、我が儘を言うだとか、扱い難いだとか思っているに違いないと決める夏南に、自分はそうは思わないと樋口が言ったのは思わず零れた言葉だった。あの人はそんな人ではないと堂本を庇うような発言に怒り身を翻すようにして帰った夏南は、その後一週間程病室にはやって来なかった。久し振りに顔を出した時は井原も一緒で、先日の話は蒸し返すなという態度をありありと見せていた。
 元のような関係に戻るのには更に数日要ったが、樋口は夏南に向けた言葉を間違いだとは思わない。自分が知っているのは多分堂本洋輔という男の一部分だけなのだろうが、夏南が言うように、子供の扱いに困り忌々しげに溜息を吐く事など絶対にないと言い切れる。それよりも、心底困り果て娘に対して言葉を紡げないといった父親像の方が堂本らしかった。しかし、それを言ったところで夏南が納得するはずもなく、彼女が本当の堂本を知るかどうかは、二人の問題で樋口には踏み込むことは出来はしないのだ。
 堂本の家庭は想像していたようなものではなく、夏南の堂本に対する反発が思う以上に大きい事が、彼女の話から良くわかった。だが、それでも。そんな風に反抗する姿こそが、家族だからこそ出来るもののように樋口には思えてならない。表面上の付き合いならば、堂本の事だ、彼女を簡単に扱い制する事が出来るだろう。だが、それをしている様子は全く無い。何より、真摯に大事に思っていない存在を、荻原に紹介する事はないだろう。やはり夏南がどう思おうと、堂本は彼女を娘として大切にしているのは事実である。
 書類上はどうであれ、やはり夏南は堂本の娘だ。
「…ねえ、ゆーくん。結婚てさ、そんなに難しいものなのかな」
 樋口家の事だけでなく、自分の親の事も考えているのだろう烈貴が、いつの間にか落ちていた沈黙を破り力なく呟く。両親とも再婚し新しい家庭を築いていくのを、この幼馴染みはどんな風に見てきたのだろう。克貴のように、そこには加わらず出て行く道を選ぶ事はなかった烈貴が何を感じたのか、正直樋口にはわからない。二十歳を過ぎた自分がする経験と、まだ小学生だった彼がした経験は、両親の離婚と言う意味は同じではあっても、中身は全く違うものだ。
「お前、そう言う相手が居るのか?」
「居ないよ。相手よりもまず、僕はまだそう言うのがわからない」
 どういう事だと樋口が軽く眉を寄せると、「恋愛感情、だよ。結婚したいという気持ち」と烈貴は照れもせずに子供のように真っ直ぐな瞳でそう言った。純粋にわからないと、ただそれだけの疑問であるかのようなものだ。
「僕もいつか、好きになった相手と結婚したいと思うのかなぁ」
 全然想像出来ないよと笑う幼馴染みに返せる言葉は、樋口にはなかった。しかし、口を噤んだ事に気付いているのかいないのか。烈貴は「ゆーくんは?」と首を傾げてくる。
「ゆーくんは、そう言う相手居ないの?」
「オレは……」
 結婚したいと思った事はおろか、恋愛について考えた事もあまりない。自分のそんな思いを烈貴のように探してみた事すらないと、樋口は問われて気付く。堂本に対する思いが、上司へ向ける思いの範疇を越えているのは気付いた。それは、好きだからこそのものだと結論付けた。自分はあの人を、何よりも求めているのだと。だが、その思いが、この気持ちが、恋愛感情なのかと言われたならば。正直、よくわからないのだと、頷く事は出来ないように思う。
 離れている事を、傍にいられない事を、自分の中で消化し切れず焦ってしまう程に苦しく思った。この先も傍に居られるようもっと役に立ちたいのだと、少しでも自分という者を認めて欲しいと、焦がれる程に熱望した。こんな風に入院を強いられ、上手く出来ない自分は、直ぐに居場所をなくすのではないかと、あの人を失うのではないかという思いにも囚われた。それらが、全て自分の思い込みだとは流石に樋口とて思ってはいない。今まで気付かずにいた感情であり、長期の入院によって適当に作られたものではないと信じている。
 だが、それが恋愛感情である事を示すものなど、何もないのだ。
 井原は、恋愛ではなくただ好き以上に好きなのだろうと、樋口の気持ちをそう表現した。言われた時は、その意味は良くわかりはしなかったが、今なら少しわかる気がする。この思いが確かに恋や愛と呼べるものだとしても、自分は端から報われる事を望んではいない。堂本に必要とされる事を、傍に居続けさせてくれる事を望んではいるが、彼の恋や愛を欲しいとは思っていないのだと樋口は気付く。それこそ、好きだ、愛しているなどと言われても嬉しくはない。それよりも、三年先、五年先、十年先にも自分を必要とする確かなものが欲しい。こんな風に距離を置いても、揺るがないものが欲しい。
 そんなこの思いは恋愛感情というには狡猾であるように思え、樋口は溜息とともに頭を軽く振った。烈貴の言葉に対して、わからないと、ただ応える。
 自分が本当に求めるものが何なのか。言葉にすれば崩れ落ちわからなくなってしまいそうで、何も口には出来なかった。




「ね、こんな感じでいいんだよね?」
「ああ、間違ってはいないが…こっちの方が簡単だ」
 夏南が書き連ねた式の横にもうひとつ別の式を書き込みながら、樋口は淡々と説明をした。添削と言う程のものではないが、季節が変わってから見舞いに来ても問題集を手放さない夏南の受験勉強に、樋口は気付けば付き合うようになっていた。漸くエンジンがかかったのかと思えば、そう言うわけでもなく。どこか暇潰し的な感じがあり、集中力はそう高くはない。
 勉強を見るきっかけになったのは、やはりと言うか何と言うか、井原のひと言だった。樋口に勉強を見て貰えばいいじゃないかと、二人連れ立って病室を後にした際に、夏南はさらりと言われたらしい。何故樋口がそんな事をという疑問を持ってやって来た彼女に、自分は時間があるからだろうと樋口が井原の意図をわざと誤魔化したのは、受験生の勉強を見る気など初めは更々なかったからだった。自分が受験したのは四年も前の事であり、それらが未だ頭に残っているはずがなかった。だが、実際にやってみると意外に出来てしまい、以後、樋口の病室は夏南の勉強場になる事が度々ある。
「ねえ、樋口。井原さんが言ってたんだけど、現役で東大受かったってホント?」
「昔な」
 またも余計な事を言いやがってと、舌打ちしそうになるのを飲み込みながら、小さな息を落とした樋口を夏南が見上げてきた。何故と問う大きな瞳が純粋な子供のようで、理由を話すのは気が引ける。気まずさから口を閉ざした樋口に、夏南は「何?秘密なの?」と、今度はどこか余裕を見せるかのような表情で大人っぽく笑った。大人でも子供でもない19歳は、大人でもあり子供でもあるのだと、自分でもわからない妙な納得をしながら樋口は口を開く。
「ただ、行く理由がなくなったから行かなかっただけだ」
「受かったんでしょう?大学通うのに、他の理由が欲しいの?」
 確かにそうだと軽く笑いながら、樋口は肩を竦めた。
「面倒を見てくれていた人に大学へ行けと言われたから、オレは受験した。だが、その人がその春に死んでしまい、入学する意味がなくなった。だから、手続きをしなかった。ただ、それだけだ」
 頭が良いんだから、受験しろ。そう克貴に言われた時は、正直樋口は面倒だとしか思わなかった。それでも、大学へ行けと自分を嗾ける克貴に折れる形で受験をしたのは、ただ、合格すれば彼が喜ぶだろうと思ったからだ。自分のレベルでは少し難しいとわかりながらも東大を選んだのは、何気なく言った克貴の言葉からであったし、失敗しても頑張ったなと誉めてくれるだろうという邪な考えもあっての事だった。
 決して恵まれた環境ではなかったが、毎日のように克貴の隣で参考書を広げ受験勉強に勤しんでいた姿は、今思い出しても自分らしくいい加減なものであったと思う。集中力は短いが、それでも一生懸命夢に向かって頑張る夏南の姿を見ていると、一人の男に見せる為だけに勉強し受験に挑んだ自分は滑稽でさえあると樋口には思えた。けれど、あの頃は受験自体に気乗りはせずとも、健気な程に真剣ではあった。克貴が望むならば、自分に出来る事は何でもしても良いと、本気で思っていた。腕だけではなく、背中にまで刺青を背負う事にしたのも、結局はそうした思いがあったからこそなのだろう。ただ、克貴の側に居るのが心地よく、自分の居場所をそこに存在させておきたかったのだ。
 自分の受験は、そんな打算ではじめたゲームのようなものでしかなかったのだと樋口は思う。だからこそ、克貴の死後、彼の望みを叶える為に大学に通おうとは思わなかった。克貴がこの世に居ないのならば、入学するメリットが樋口には何もなかった。自分が大学生になった事を喜ぶ彼が居なければ、本当に何の意味もなかったのだ。居ない相手の望みを叶えたところで、何も得られはしない。
「…ねえ、正直に言っていい?」
 樋口の言葉に唸っていた夏南が、強い視線で伺いをたてる。
「ああ、いいぞ」
「すご〜く、すご〜〜く、もったいないっ!」
「そうかもな」
「カモじゃないわよ、馬鹿!」
 バシンと勢い良くベッドの上で転がっていたぬいぐるみを叩き、夏南はそれを掴み上げると樋口に投げてきた。横田の思惑はさて置き、なかなか活用されている見舞いの品だ。退院する頃には草臥れ果てているのかもしれないと、樋口は軽く口角を上げる。
「馬鹿なのは、そんな理由で受験した事だろう」
「でも、それは樋口らしい。だからこそムカツク。ね、その面倒を見てくれていた人って誰?恋人?」
「違う、幼馴染みの兄貴だ」
「ふ〜ん。でも、好きだったんでしょう?」
 もういいから勉強しろと、問題集を突付いた樋口を下から見上げながら、夏南はニヤリと笑った。こういうところは、詮索好きのオバサンのように見えてしまう。しかし、見えたからといって、本人には言ってはならない言葉なのだろう。
「ねえ、どうなの?」
 何と答えれば少女は満足するのだろうかと思いながら、樋口は次に井原が来た時は頭の一発でも叩いてやろうと決意した。幸い、右腕のリハビリは今のところ順調であり、殆ど後遺症もなく復活しそうな勢いだ。
「好きだった?」
「ああ、そうだな。本当の兄貴のように慕っていた」
 でも、それは恋ではなかったと言い切ると、夏南は面白くなさげに問題を解き始めた。
 もしも、今も克貴が居たならば。彼が事故に遭う事なく、あのまま成長していたら。自分は彼に恋心を抱いただろうかと考え、樋口は直ぐにそれはないなと否定した。
 克貴はあくまでも、克貴でしかない。

2005/07/15