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 気象庁が早々と梅雨入り宣言をしたというのに、それを馬鹿にするかのように晴天が続いた六月半ば。漸く降り始めた雨は、勢いを蓄積していたかのように良く降った。このまま永遠に雨が降り続けるのではないかと考えてしまうくらいに、雨の街を見慣れてしまい、太陽の光を忘れてしまいそうだった。
 揶揄ではなく実際に、もう既に日の光など記憶から消えているだろう男の良く動く手を見ながら、樋口はグラスに口をつけた。客商売の癖に愛想がなく、整えているのかも怪しいのに何年経ってもスタイルが変わる事のない白い髪と髭が印象的な店主は、霞を食べて生きていそうな人種だった。モグラなどとふざけた通り名をつけられたのも、地下のこの店から一歩も出ないからなのだろう。樋口が知る限り、冗談ではなく店主は本当にここだけで生活しているようだった。まだ40半ばの年齢の男が長年そんな生活を出来るのは、それなりのバックがついているからだろう。あくまでも噂でしかないが、昔この店主はある人物に選択を迫られたという。今直ぐに死ぬか、一生日の光を拝まず地下で暮らすかを。そうして店主はここでモグラになった。噂と言うよりも、笑い話のようなものだ。
 カウンター席のみの店は、十人も客が入れば埋まってしまうが、樋口が来た時に満席だった事は一度もない。いや、席が半分も塞がっていた事すらないだろう。隠れ家のような洒落た場所ではないが、それなりに人は集まってくる。だが、誰もが長居をしないのは、この店では注文が二杯までしか通らないからだろう。三杯目を頼もうものなら、店長の抑揚のない声が飛ぶらしい、不可思議な店だ。しかし、憚る事なく流れる噂が、別の所にあるのだろうその理由を匂わせていた。店そのものを気に入り足を運ぶ樋口としては、そんな店の背景になど興味はなく、また殆どの客は真実など知り得ていないだろう。それだけ物好きな大物がモグラを飼っていると言う事であり、迂闊に探る方が痛い目を見るのは明らかだった。
「ガキがこんな所で何をしている」
 唐突に落ちてきた言葉に視線を上げると、隣の席に小沢が座るところだった。荻原の知人でありヤクザをしている男だ。訳ありの店だけあり、やって来るのは裏に通じる者が多い。かくいう樋口自身もそうだ。今でこそ荻原は表の人間となっているが、元暴力団の彼の仕事は昔の名残が色濃く残っている。小沢との繋がりもそのひとつだ。
「新しい玩具を見つけたらしいな、荻原は」
 店主に酒を頼むのと同じ流れで小沢が問い掛けを落とす。自分に向かってのものだと直ぐに気付いたが、樋口は暫し間を置き首を傾げ、ゆっくりと視線を向けた。グラスに口付ける男の横顔は、僅かに自分を意識しているように感じられたが、問いを投げた者の持ち物ではない無関心さが張り付いている。
「さあ、何の事でしょうか。何を言われているのか、私にはわかりません」
「上司のプライベートに対する守秘義務はあるのか」
「社員規定にはそのような項目はなかったと思います」
「お前の考えは?」
「個人的な見解で言わせて頂くと、答えはNOです」
「何故」
「上司が部下のプライベートを他所で語るのですから、逆を禁止するのは可笑しいでしょう」
 単なる言葉遊びだ。実際には、上司が何を言おうが、下の者が愚かな行為をする理由にはならないと樋口は考える。多分、それはきっとヤクザの小沢の方が身に染みてわかっているだろう。だが、それをあえて訊いてくるのは、それ程までに情報を欲しているのか、自分がその程度の人間だと見縊られているのか、樋口には判断出来ない。何より、小沢の思惑は何処にあるにせよ、荻原と飯田の関係で樋口が話せる事など何もなかった。大学生を自宅に住まわせている荻原の行動は、既に小沢の耳に入っているだろう。たとえ教えたくとも、樋口が知るのもそれだけなので密告のしようがない。飯田の人となりは多少はわかっているが、荻原の相手自身の事など小沢にはどうでも良い事だろう。
 グラスの底に残っていた酒を樋口が呷ると、「ならば、喋れ」と低く呟く男の声が氷の音と重なった。
「残念ながら、知らない事を話せる程、私は器用ではありません」
「お前、荻原に弱みでも握られているのか?」
「どうでしょうか。今のところそんな自覚はないですが、あの方でしたら何かを掴んでいたとしても不思議ではありません。ですが、そんな事は関係ありません」
 淡々と、まるでよく喋る女をあしらっている様に煩げに言葉を発していた小沢が、漸く両眼の視線を樋口へと向けた。
「私が貴方の話に付き合うのは仕事ですよ、小沢さん」
 プライベートならば、態々会話などしない。そう言い切った自分を見る視線が瞬時に鋭さを持ったのに気付き、樋口は逆に僅かな笑いを口許に乗せた。いつも無駄に明るい荻原よりも断然、小沢のような人間の方が接するのは楽だ。人の事を良くわからない自分でも、何を考えているのか想像が付く。
「お前――」
「オイコラヤクザ。樋口を苛めるなよ」
 待ち合わせでもしていたのだろうか。タイミングよく現れた男が、果敢にも後ろから小沢の頭をパシリと叩いた。そうしてそのままグリグリと髪を掻き乱す人物に、樋口は椅子から降り頭を下げた。
「お疲れ様です、霧島さん」
「ああ、お疲れ。今晩は」
 仕事帰りなのだろう、少し緩めたネクタイの皺が目立つ。荻原を頂点とする組織の若い金庫番の仕事は、樋口が想像するよりも更に激務なのだろう。だが、霧島はいつ如何なる状況で会っても笑っているような人物だった。好青年という言葉は、荻原よりも霧島の方が合っているのではないかと思う。
「悪いな、樋口。小沢は荻原の事が気になって気になって仕方がない奴だからさ、許してくれよ」
 一体いつから聞いていたのか、霧島は樋口の肩を叩きながら笑った。
「俺が気にしているんじゃない」
 乱された髪を手で梳きながら、小沢は舌打ちをする。何度か仕事ででも顔を会わせた事はあるが、どちらかといえば小沢は自分と似た性格のようで、人前ではあまり表情を変える事はない。だが、こうして霧島と会っている時は流石にこの男も絆されるのか、はっきりと顔を顰め不快を表す様子を目の当りにし、樋口は少し先程とは違った意味で口許を緩めた。
「なんだ、平良さんか。そんなの気にさせておけよ。それよりさ、親友としてもっと心配しろ。お前さ、荻原がホモになったよどうしよう!?とか思わないのかよ?」
「思う訳がないだろう」
「ちったぁ、焦れよ。真性の俺のがあいつに染ったんだったらさ、次は確実にお前のところに行くんだぜ、小沢。もっとビビろよ、面白くないねぇ。俺は荻原よりも、お前の方がこっちよりだと思うんだけどなぁ。そこんところ、どうなのよ?」
「部下の前で馬鹿を晒すな。疎まれるぞ」
「お、心配してくれるのか?でも大丈夫、こいつ口は堅いから。何より、こいつもどちらかと言えばこっちより、てね。なあ、樋口、今更だよな。男も女も知りまくっているものな、お前。小沢も意外と見る目ないなぁ。こんな顔しているけど、結構やるんだぜ、こいつはさ」
 たとえそれが事実だとしても。何故霧島が自分の性癖を知っており、他人に語っているのか、樋口としては考えたくはない。図らずも、先程小沢に言った言葉がこんな所で証明されるとは。お前も厄介な上司を持っているなと、ちらりと自分を見た小沢の視線がそう言っているように感じられ、樋口は霧島に気付かれないようそっと息を吐いた。
「小沢、樋口は堂本さんのハチ公だ。荻原に仕えている訳じゃない分、手強くて厄介だぞ。訊きたい事があるのなら俺にしておけよ、なあ」
 どこか拗ねるような声で小沢に絡む霧島に断りを入れ、樋口は店を後にした。地上に戻ると、やはり雨はまだ降っていた。




 樋口の正式な立場は、都内にあるシステム会社の契約社員となっている。一度としてそこに勤めた事はないが、会社の様子や仕事内容は一通り頭の中に叩き込んでいた。しかし、忘れる前にそれを使うような事はなさそうである。この世界に入って三年余りになるが、「万が一」と言った特別な事態に陥った事はない。
 実際の樋口の仕事は、専ら荻原と堂本の手伝いであり、その関係で他の者の下へ付き動く事も偶にあった。しかし、彼らの仕事をサポート出来る程のものではなく、使いっぱしりのような雑用が主な仕事であり、運転手に毛が生えた程度だ。荻原や堂本の傍にいる事で、少しずつ仕事の遣り方や内容を覚えていってはいるが、実際に経験を積むのにはまだ早いだろう。欲の薄い自分に何かを任せる程も、荻原や堂本は甘くはないと樋口は思っている。彼らとしては将来的にもう少し使える人物にしたいのだろうが、別段樋口としては今の立場のままでも問題なかった。いや、どちらかと言えば独立などせず、ずっとこのままで居たいと思っている。
「久し振りだな、ヒナ。お前ちょっと見ないうちに大きくなったんじゃないか?」
 堂本に託り訪れた事務所で、樋口は久し振りに横田と顔を会わせた。ご無沙汰しておりますと頭を下げながら、久々に耳にするあだ名に、ふと先日霧島に言われた言葉を思い出す。
「お前の親鳥はどうしている?」
「今朝早く名古屋に行きました」
「あいつも忙しい奴だな。ヒナは放って行かれたのか、そうかそうか。寂しからとピイピイ泣くんじゃないぞ」
 泣きませんよと苦笑しながら、雑談を興じ始めた横田に樋口は付き合う。これもひとつの仕事だと、割り切っているからこそ出来るものだ。
 ヒナ、ヒナと可愛らしい女の子のような名前でこの男に呼びかけられるようになったのはいつの頃からか。話に相槌を打ちながら暫し考えたが思い出せず、けれどもその前のあだ名よりはマシになったその進歩に僅かに樋口は口の端をあげた。ヒナと呼ばれる前は、フンだったのだ。動物になっただけでも凄いが、それを言うなら、横田のセンスにも脱帽する。オヤジ発想もいいところだ。金魚の「フン」に、親鳥の後を追いまわす「雛鳥」。その次に一体何がくるのか想像もしたくないが、人間に昇格する事はないだろう。
 堂本の後ろばかりを付けている自分が陰でなんと呼ばれているのか、樋口は知っている。霧島や横田のように毒気もなく呼ばれる事の方が稀なのだ。だが、堂本にべったりなのも事実なので、樋口はそんな悪意を全く気にはしていない。しかし、そんなところがまた周りの奴らの気に障るところなのだろう。堂本に関する事になると融通が利かないのは、自分自身でもわかっていた。だが、ここに居る意味がそれだけしかない樋口にとっては、他の行動は出来ないものであった。
 堂本に拾われ仕えると決めたからこそ、自分はここに存在している。堂本が傍に居なければ、居る意味がない。仕事で一旗上げたいだとか、金を稼ぎたいだとか、そう言う思いは樋口の中には一欠片もないのだ。ただ、堂本の傍に居る事が目的で、彼の為に何らかの事が出来るのならそれをしたいという考えがあるだけだった。
 だから、もしも。もしも、堂本が克貴のように目の前からいなくなったならば、自分は未練も何もなくこの仕事を辞めるのだろうと樋口は思う。生き甲斐と言うのは嘘臭いが、自分な中にそんな甲斐があるとすれば、それは堂本でしかないのだと思う。依存している訳でも、固執している訳でもないが、堂本の傍に居たいと思う気持ちが全てなのだ。当然、克貴の代わりなどと言うわけでもない。正直、樋口には堂本以外の事はどうでも良かった。それこそ、周りとは仲良くしろと堂本に言われたら出来るだけの努力はするかもしれないが、言われない限りは同僚の感情などに関心はなかった。
 目の前で豪快に笑う横田は、言葉数の少ない自分がそれでも何故こんな風に雑談の相手をするのか、その樋口の本心を良く知っているのだろう。だからこそ、こんな風に口に出してまでからかうのだ。堂本との関係が悪い相手になど、余程の理由がない限り樋口は笑わない。その点で言えば、自分は堂本の関心のバロメーターのようでさえあると他人事のように思う。
「お前もそろそろ巣立つ時期じゃないのか、ヒナ。もう三年経っただろう、独り立ちしろよ」
「まだ私には早いですよ」
「かなり利益を上げたと聞いたぞ」
 恰幅よい腹を掻きながら、横田はニヤリと口元を歪めて笑った。何の事かと一瞬考え、まだ寒さが残る春先に手にした株での事だと思いつく。これまでにも小さな利益は何度も上げていたが、噂になるほどの山を当てたのは初めての事だった。だが、計画的なものではなく、偶々購入したものが中っただけにしか過ぎないそれは、樋口の中では別段記憶に残るようなものではなかった。その後直ぐに荻原から株には手を出すなと厳命されたので、買った株がどのように扱われたのか良く知らないのだ。
「あれは社長が上手く捌いたのでしょう。今は全くそちらには手を出していません」
「ああ、そう言えば仁一郎に止められたらしいな。損も出したのか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
 株を取り扱う姿が危なっかしいと、自分を止めずにはいられなかった荻原の心境を暴露するのは憚れ、樋口は曖昧な笑いを落とした。その笑みに、「巣立っても、ヒナはヒナなんだろうな」と横田が独り満足げに笑う。男の云わんとしている事は、何となく樋口にはわかった。
 自分の関心が向くのは、ひとつしかないと言う事だ。




 鍵を外す音が響いたのだろうか。玄関のドアを開けると、すかさず「お帰りなさい」という声が樋口を迎え入れた。
「ああ、ただいま」
「…樋口」
 すっかり慣れてしまった呼びかけに返事をしたところで、部屋の中から聞き覚えのある声が上がる。樋口が部屋へ向かうより早く玄関に顔を出したのは、予想通り井原だった。この世界に入ったのが同じ時期であり、仕事でもよく顔を会わせるので何かと連れている同い年の同僚だ。彼の表裏のない性格は心地良いとさえ言えるものだが、時としてそれがウザい場合もある。
「何をしている?」
「それはこっちの科白だ。お前、…いつから彼女と一緒に住んでいるんだよ?」
 不貞腐れた顔をしながらも、冷静さは頭の中に残っているのだろうか。幾分か声を落としそう聞いてきた井原に、樋口は何故こいつが面白くない顔をするんだろうかと思いながら僅かに首を傾げた。面白くないのは、仕事を終え帰ってきた部屋で男の仏頂面に向かえられた自分の方だろう。だが、それは口にして尋ねる程の事でもない。井原の思考回路を理解しようとは樋口も思っていない。
「訊いていないのか?」
「お前が言わなくて、どうやって俺が誰に聞くんだ」
「あの子に訊いていないのか、と言っているんだオレは」
「そんな不躾な事が出来るかよ。第一、俺も今来たばかりだ」
 なるほど、と樋口はそこで漸く状況を把握する。井原は、夏南の事を恋人か何かと思ったのだろう。堂本の娘だと知って不貞腐れている訳ではないようだ。
「勘違いするな、彼女は堂本さんの娘だ」
「――はあっ!?」
 馬鹿みたいみ大きな口を開け固まった井原の横を通り抜け部屋へと足を踏み入れると、夏南はベッドに寝転がり漫画本を読んでいた。気付けばいつの間にか、部屋には夏南の私物が増えている。
「勉強しろ」
「休憩中」
 親切心で嗾けてやるだけなので、反論されようが問題はない。言っても無駄だとわかりながら続けて言う気もなく、樋口はスーツの上着をハンガーに掛けネクタイを外した。ちらりと玄関を見ると、未だ井原は固まったままだ。鬱陶しい。
「井原」
「うっ、あ、…あぁ、な、なんだ?」
 首だけで振り返る姿は、まるで怯えているかのようで間抜けだ。実際に井原と言う男を樋口は馬鹿だと思っているので、だからと言って今更評価が下がる訳でもないが、今ここに居るのは二人だけではない。
「そんなところで突っ立っているな」
「ん…あぁ」
「ねぇ、井原さんって樋口の何?恋人?」
 誰かがここに訪ねて来るのは初めてだと言いながら体を起こした夏南が、可愛く首を傾げながら純粋な疑問のように訊いた。恋人とくるのは、樋口が同性を相手にする事もあるというのを知っているからだ。だが、きっかけは確かにあったが、それを認めたつもりはない。しかし、性格上剥きになって否定もしないので、夏南の中では自分は既にホモになっているらしいと今更ながらに樋口は思い知る。別段それ自体はどうでも良いが、男物の香水の移り香だけでそう断言するのもどうだろうか。ませた事を言う割には潔癖な面を見せる彼女のそれに、怒っておくべきだろうかと考え樋口は止めた。そう言う役目は、井原の方があっている気がする。
「――と言っているが、井原」
 あえて樋口は、同僚に話を振った。
「お、俺に回すなっ!」
 瞬時に顔を真っ赤にした井原を眺め、「照れるという事は、本当なの?」と、今度は顔を顰めながら夏南は樋口に向かって訊いてきた。どうやら、男云々ではなく、恋人かどうかが気になるらしい。恋人に訪ねて来られては、流石に出て行かねばならないとでも思っているのだろう。
「照れているんじゃない、井原は怒っているんだ」
「どうして?」
「こらお前っ! どうしてなんていうのはこっちの科白だバカ。友達の部屋に来て、何でそこにいた女にそんな事言われなきゃなんねーんだよ、ふざけんなっ!」
「友達?ホント?」
「当たり前だ!」
 不安が消えないのか、怒る井原を気にせず夏南は樋口に向かって首を傾げた。彼女の大きな瞳が真剣な分、からかわれていると思っているのか騒ぐ井原が樋口には間抜けに見えてしかたがない。年下の女の子に、どうすればそこまで剥きになれるのか。一種の才能だ。
「ね、樋口。ボーイフレンドじゃなく、ただの友達?」
「ああ、そうだな」
 正確に言えば同僚だが、恋人ではないのなら出て行かなくても済むと安心し息を吐いているところに言うのは少し気の毒に思え、樋口は頷いておいた。夏南は未だに、樋口が堂本の部下であるのが面白くないらしく、井原もそうだと言えば暴言を吐きかねない。それでも事実は事実なので直ぐにばれるのだろうが、井原の勢いがこのままでは、樋口一人で二人を静めるのは面倒なのでもう少しそこには触れないでおく事にする。
「なんだ、友達か。良かった」
 納得したのか、再びベッドへ寝転びかけた夏南を、部屋の入口までやってきていた井原がビシリと指差し「お前なぁ、ふざけるのも大概にしろよ!」と強い口調で夏南を叱った。
「良かったじゃないんだよ、全く。そんな勘繰りしてんじゃねーよ。ったく、今時の女ってなに考えてんだかわかんねぇ。俺と樋口でどこをどうやったらそんな発想出来るんだよ」
「何よ。それじゃ私が下品みたいじゃないっ!」
 ムッと顔付きを変えた夏南が反論に出る。突っ込むところはそこなのかと、些かずれているように樋口には思えるのだが、二人が納得しているのならば指摘する必要はないだろう。堂本の娘だと言ったのを忘れているのか、そんな事はどうでもいいのか、顔を顰めて怒る井原はとても強気だ。柄が悪いとまでは言わないが、普段は人懐っこさの中に隠れている不良少年の名残が窺える。最も、やはり年下の少女相手にそれを見せているのが、何とも井原らしく情けないのだが。
「ちょっと持ってよ。私は別に、ただ恋人かって訊いただけよ。樋口は男を相手にするんだから、部屋に来たのがそうなら聞いて当然でしょう。貴方達がどんな風にセックスするのかとか言った訳でもないのに、うるさいわよ!」
「セ、セッ…。女の子がそんな言葉を使うなっ!」
 そこでどもってしまうのもこの男らしく、樋口は二人に気付かれないようこっそり笑った。別に井原は初心と言う訳ではない。だが、ある程度の慎みはあるのだろうか、この手の話はどちらかと言えば苦手であるようだった。気のおける仲間内で話題になっても、自らの性癖を語る事はまずない。人の話を茶化す事はあっても、逆に突っ込まれれば顔を赤らめる。22歳になる男としてはそんなものでも可笑しくはないのかもしれないが、それでも幾分可愛過ぎるものでもある。
「女性差別よ、それ」
 しれっと言い放った夏南に勝てる言葉は、普段良く喋る井原でも持っていなかったようだ。助けを求める為か、それとも苛立ちの原因だと思っているのか、「樋口ッ!」と鋭い声で井原が叫ぶ。
「何なんだよ、これはっ!?」
 何に対して言っているのか、当てはまるものが多すぎてわからない。樋口は肩を竦めると、「とりあえず座れ、用があって来たんだろう?」と井原を宥めた。
「別に用はない。通りかかったら電気がついていたから寄ってみただけだ。邪魔したな、帰るよ俺…」
 尻すぼみになりながらそう言うと、井原は玄関へと向かった。引き止めても仕方がないだろうと、樋口は追いかけ自分も玄関を潜る。先程まで降っていた雨が止んでおり、シャツ一枚では少し寒かったが、井原と並んでマンションの下まで降りた。
「お前さ、どういうつもりなんだ」
「何がだ」
 少し拗ねたような声での問い掛けに、樋口は隣の男に視線を向けた。自分と違い歳相応に見える井原は、まるで仕事に疲れた新人サラリーマンのような様子だ。疲れている理由が夏南とのやり取りのせいだと考えると、自然と口角が上がってしまう。案外、井原と夏南は気が合いそうだ。
「…堂本さんの娘っていうのは本当なのか?」
「今更何を言っているんだ」
「だってさ、…何で居るんだよ。堂本さん、知っているのか?」
「……」
「……おい」
「言っていない」
 樋口の答えに盛大な溜息を落とした井原が、「何を考えているんだよ、お前は」と小さく舌打ちをした。まるで、普段とは逆の立場に入れ替わったような気がして、少し居心地が悪くなる。
「彼女とは、偶然街で会っただけだ」
「泊まっているんだろう、あの子」
「疚しい事は何もしていない」
 顔を顰めて樋口がそう言うと、更に顔を顰めて井原が「そんな事はわかっている」と忌々しげに吐き出した。
「俺は、そんな事を訊いている訳じゃない。どういうつもりなのか訊いているんだ? それとも何か、惚れたとでも言うのか?」
「それはない」
「なら、何だ」
 何だと訊かれても、樋口には直ぐに応えられるものはなかった。何故、部屋に越させているかと言えば、それを夏南が望むからであり泊めるのも同じ理由だ。嫌だと思わないのなら、簡単なそれくらい叶えてやるのが普通だろう。確かに、強引に踏み込まれたという面もある。だが、それは樋口自身が了承した以上、何の理由にもならない程度のものだ。
「やっぱり、…堂本さんの娘だからか?」
 何と答えるべきなのか、考えあぐねている樋口に井原が落とした言葉は、否定をするようなものではなかった。一理あるだろうと考え、「ああ、そうだな」と頷く。だが、頷いた途端、結局はそう言う事なのかもしれないと妙に納得した。樋口が夏南に構うのは、堂本の娘だからだ。別の人間ならば、部屋にさえ上げないだろう。泊める事など有り得ない。ならば、堂本の娘の力になってやりたかったのだろうか。そう考えてみたが、それは少し違うような気がした。
「お前がさ、ここまでするほど堂本さんに惚れているのはわかった」
「井原…?」
「だけどさ、やっぱ駄目だ。いい加減諦めろよ、報われるはずがないだろう。お前が辛いだけだぞ樋口」
 唐突に真剣な眼で詰め寄られ、一瞬樋口には状況が見えなくなった。夏南の事を話していたのに、何故堂本の事になっているのか。井原が何を言っているのか、言おうとしているのか予想も出来ない。
「……言っている意味が全くわからない。悪いものでも食べたか井原」
「お前さ、前から聞こうと思っていたけど…自分の気持ちに気付いているのか?」
 困ったように笑いながらも真剣な井原の言葉は、考えた事もないもので、樋口にはやはり判断しかねた。堂本を慕う事に、理由などない。そう思っていたが、違うのだろうかと樋口は自分の心に目を向けた。しかし、井原が云わんとしている事はやはりわからず、困惑に眉を寄せる。
 いつの間にか再び降り出した雨が、樋口の背中を濡らし、白いシャツに模様を浮かび上がらせた。

2005/06/24