† - 13

 また、桜の季節がやって来た。この四月を始める季節に決めたのは一体誰なのだろうか。咲いては散ってゆく桜は、もう少しゆっくりと過ごしながら堪能するべきものだと樋口は思う。日本はこの時期を国民に慌しく過ごさせる無骨さをもっと知るべきだ。いつだったかそう言ったのは、確か荻原だった。何を言っているのかとその時は笑ったが、今なら少し同感してしまいそうだ。だが、それでも。出会いと別れを経験する時期に桜が咲いているのは良いと思う。悲しいものでも楽しいものでも、その思い出と共に桜があるのは何よりもの贅沢だ。
 月の初めに慌しく関西へと引っ越した夏南は、部屋の片付けは終わっていないのだろうに、その日の内に携帯電話を鳴らしてきた。用件は、大学周辺の桜が殆ど散っているという、東京に住む樋口にはどうでも良いものだった。今朝発ったばかりだと言うのに、早くも街中を散策している少女の元気さに脱帽するが、怒りの矛先が気候なのだから相手にする気が起こらなかったのも無理はないだろう。仕方がないだろうと、それでも取り合えず宥めた自分を誉めたいと、樋口は本気でそう思った。もしも、通話を受けたのが事務所であったのならば、間違いなく堂本にその役を押し付けていただろう。
 夏南が堪能出来なかった今年の桜を見ながら、東北辺りならゴールデンウィークにもまだ咲いているのかもしれないなと考え、樋口は小さな溜息を落とした。自分がすっかり彼女に毒されている事実に、少し疲れを覚える。
 だが、やはり。それを嫌だとは思わない。
「お待たせ。なに?どうかしたの?」
「いや、何でもない。もういいのか?」
「うん、ごめんね待たせて」
 リハビリに訪れた病院で仕事を終える間際の烈貴と会い、樋口は夕食を一緒に摂ろうと幼馴染みを誘った。駐車場に植えられた何本もの桜を見上げながら待った時間は、そう長いものではない。けれども、済まなさそうに眉を下げて謝る烈貴に、樋口は軽く肩を竦めるだけにしておいた。最早烈貴の謝罪は口癖のようなものであるのだから、気にするなと言ったところで直りはしないし、そう言葉にする方が気にしそうなのだ。放っておくに限るだろう。
「まだ少し早いが、何処に行く?」
「何時?」
「六時半」
 時刻を問いながら空を仰いだ烈貴が、桜の木に視線をとめ、舞い落ちてきた花びらに手を伸ばした。無意識な行動のように自然な動きは、けれども見た目程も神秘的でも何でもない。ガシリと音がしそうな勢いで空中で踊っていた花びらを掴み、樋口を振り返った烈貴は子供のようにニパリと笑った。
「ほら、ゆーくん」
 指先に摘んだ小さな花びらを、樋口に向けて弾き飛ばす。沈む太陽が照らすそれは色を増し赤く染まっていたが、その美しさよりも趣も何もない男の行動に溜息が零れる。
 だが。
「昔さ、兄さんと一生懸命、桜を集めた事があるんだよね。来ていたシャツを地面に広げて、その辺に落ちている花びらをかき集めてそこに包むんだ。っでね、滑り台の上で一気にシャツを広げるの。勿論、兄さんが上でそれをやって、僕は下で花吹雪を堪能するわけ」
 あははと笑いながら話す烈貴が、再び花びらを掴みとり、今度は手に溜めていく。
「桜が綺麗と言うよりも、何だか雪のようで楽しくてね。僕が喜ぶから、兄さんは何度も何度も繰り返すんだよ。自分は全然見られないのに、止めないんだ。家に帰る頃には、兄さんのシャツは土で汚れていてねぇ、母さんに怒られるんだ」
「……」
「それなのに、懲りずに何度もやってくれたよ。でもね、実は僕は、滑り台の上でシャツを広げている姿よりも、母さんに怒られている兄さんの記憶の方が強いんだ。心配する僕にさ、兄さんは母さんの目を盗んで笑うんだよね。まあ、結局最後には気付かれて、母さんの小言は増えていたけどね」
「……そうか」
「うん、そう。兄さんらしいだろう?」
「ああ、克貴らしい」
 気付けば、烈貴の手には小さなピンクの山が出来ていた。数十枚の花びらを目の前に翳し、笑い顔のまま樋口に向かってそれを吹きかける。
 ふわりと舞い目の前を踊る桜に、樋口も小さな笑いを落とした。
「ゆーくん、兄さんの命日に墓参りに行った?」
「仕事があったから、前の日にな」
「桜、供えた?」
「ああ」
「兄さんはホント桜が好きだったよねぇ」
「克貴の場合は、桜が好きというよりも。多分、桜を見て喜んでいる人が好きだったんだろう」
 滑り台の上から見下ろす桜も、お前が下で笑っているんだから、あいつはちゃんと好きだったんだろう。だから何度もやったんだ。
「…うん、そうだね」
 樋口の言葉にくしゃりと顔を顰めた烈貴は、それでもはっきりと頷いた。
 桜を見に行こうと言って笑った克貴の顔が、もう四年も前の事なのに今も変わらずはっきりと思い出せる事を、樋口は嬉しいと初めて思った。




 先日、中井に思わぬ告白をされ気付いた事がある。少し前に荻原に言われ気付いた事と似ていたが、それは全くの別物でもあった。自分は誰かに好きになってもらう事が出来るらしいのだ。この自分が誰かを好きになる以上に、それは思ってもみなかった事のようで、正直不可思議な感覚を味わった。だが、それを嫌だとは感じない。
 特別だと思っていた訳ではないが、結局自分もまた普通の人間だったのだなと、樋口はこの歳になってやっと認める事が出来たような気がした。まるで長い反抗期でも過ごしていたように、本気で自分は人として欠落していると思い込んでいたのだから、終わってしまえば馬鹿だったとしか言いようがないようなものだ。誰よりも一番自分を信じていなかったのは、自分自身なのかもしれない。
 そうして改めて眺めた樋口雪と言う男は、樋口自身から見てもまだまだ青い餓鬼でしかなかった。そう、そんな子供に求められては、大人である堂本はどうしたものだろうかと悩んで当然だろう。今更ながらに、上司に無理をさせていた事実に気付き申し訳なく思うと同時に、樋口は自分の強引さに呆れ果てた。よくもまあ、一心に求められたものだと思う。
 人を欲する上で、無くてはならないものが己には欠けている事に、ここに来てやっと気付けた。
「少し、わかったような気がします」
「何が?」
 鮮やかな緑の葉が目立ち始めた桜の木を見上げながら口にした言葉に、隣に並んでいた堂本が穏やかな口調で先を促すのを、樋口は心地良いと思う。唐突に口を開いても、この上司はいつも自分の言葉を受け入れてくれる。全てを認める訳ではないが、少なくとも初めから否定をする事はない。
「何がわかったんだ?」
「自分はまだ半人前です」
「樋口?」
「今の自分では、到底、貴方に惚れて貰えるような者ではないと言う事ですよ」
 自虐的にも捉えられてしまいそうな言葉をサラリと口に乗せた樋口を、けれども堂本は振り返り、少し低くした声で尋ねてきた。
「…どうかしたのか?」
 樋口は視線をずらし、どこか心配げな堂本を見る。珍しく困惑しているのだろうその表情に、思わず喉がなりそうになった。それを我慢し口を開いたが、それでもやはり声は少し踊っている感じがする。
「いえ、どうもしません。ただ、それがわかっただけです」
 内容のわりには楽しげな自分の発言にどう答えようか迷っている上司に、樋口は内心で笑い声をあげる。堂本をからかう気など更々無いので、こんな表情をさせている事を申し訳なく思う。だが、それ以上に楽しいと、嬉しいと感じてしまうのだから仕方がない。一体いつからこんな思いを抱くようになったのだろうか。部下の前では尊敬出来る上司であるが、荻原の前では兄のようになる堂本をただ見ているだけだったのは、そう遠い昔ではない。
 こんな些細な事でも、本当に自分は堂本が好きなのだなと、樋口は改めて思う。だが、それ以前に自分はまだ彼に好きになって貰えるような人物ではないのだと、中井の告白をきっかけに気付き、今直ぐどうこうしなければと焦る気持ちは一気に萎んだ。確かに、傍に居たいし、この気持ちを受け入れてもらいたい。だが、好きという気持ちばかりではなく、好きになってもらえるかどうかも色恋ではやはり重要だろう。それに気付いて漸く、堂本が言っていた言葉に納得出来た。確かに、堂本との関係は、焦っても仕方がないものだ。
 己の未熟さを自覚した樋口が思ったのは、自分が自分に自信を持てるくらいに成長しなければ、なにも始まりはしないのだと言う事だ。堂本にどれだけ迫ろうが、今の自分では、彼が気持ちを向けてくれる可能性はかなり低いだろう。部下としても半人前な自分の何が、この男を惹きつけられるというのか。今のままでは、どうにもならない。
 先を、未来を望むのなら。
 自分が変わらねばならないのだ。
「堂本さんから見れば、私はまだ青臭い餓鬼なのでしょう」
「そんな事は無いぞ」
「いえ、餓鬼ですよ。私は自分がどんなに利己的なのか知っています」
「…利己的か。お前ほど、その言葉が似合うのに似合わない奴はいないだろうな」
「私は、いつでも自分の事しか考えていませんよ」
「ああ、そうだな。だが、お前の「自分」は自分ひとりじゃない。周りの奴らとの関係、仕事上での立場、そんなものをひっくるめて作り上げた「自分」だ。己だけの事を考えているのならば、お前はこんなところにはいないだろう。違う道を歩んでいた筈だ」
「……」
 そうだろうか。
 堂本の言葉に、樋口は軽く俯くように視線を落とし考えてみた。この仕事に入ったきっかけは、堂本の誘いだった。克貴は、決してこの道に進むのを望んではいなかっただろう。もし彼が生きていたとしても、自分が選んだものに反対はしないだろうが、そもそも克貴が居たのなら堂本には付いてはいかなかった筈だ。堂本がいるからこそ、今なおこうしてこの仕事で働いている。この上司が克貴のように居なくなったら、きっと自分は辞めるだろう。
 そんないい加減な自分が、堂本の言うような人間には思えない。やはり、自分だけの事を考えた勝手な生き物だと思う。だからこそ、変わろうと思ったのだ。誰かの事を考えられるような人物ならば、堂本に強引な事はしなかっただろう。
「貴方を困らせている事は、自覚しています。ですが、私は反省も後悔もしていません」
「それが、普通だろう」
「言っている事が、矛盾していませんか…?」
「していないさ。良いか樋口。恋愛感情は、自分勝手かどうかを量るものじゃあない」
「……よくわかりません」
「お前は馬鹿じゃないからな、自分勝手な行いはしない。だがな、色恋は利己的じゃなきゃ生まれないものだ。それに関してだけは、お前も例外じゃないんだろう。でもなァ、俺はお前のそれが嫌いじゃない。普段は我儘なんて言わないお前が、戸惑うような事を言ってくるのが、俺は楽しい。確かに困りはしているが、それは俺の技量不足だ。お前は悪くはない」
「……」
「青臭い餓鬼には無理だが、お前ならばその気になれば、選り取りみどりで相手を選べるだろう。今も充分に、お前には魅力があるよ樋口」
 言葉を交わしているうちに自分自身で己を蔑んでいる訳ではないと気付いたのか、珍しく沢山喋る部下との会話を単純に愉しんだのか。ニヤリと唇を曲げながら、堂本はそう言った。思わぬ反撃に、一瞬樋口は言葉に詰まる。
「……あったとしても貴方には効かないのだから、俺には意味がないですよ…」
 思わず出てしまった拗ねたような声に、堂本は参ったなと喉を鳴らして笑った。この場合、確実の参っているのは自分の方なのだが、それに気付きもしない上司に小さな溜息を零し、樋口は言葉を続ける。多分きっと、今ならば何を言っても良いような気がした。
 そう。曝け出してもいいだろう。今感じるものは、言葉にするのものは、絶対に嘘ではないのだから。
「やはり、私はまだ半人前です」
「頑固だな」
「ですが…、今はそうですが。無理だと認めても、諦めたわけではありません。いつになるかはわかりませんが、オレは貴方をオレに惚れさせますよ、絶対に。今は餓鬼でも、餓鬼のままで居続ける気はないんです、堂本さん」
 真っ直ぐと堂本の眼を見つめ、宣言する。
 血迷った部下の言葉をも、上司は丁寧に受け止め、笑った。
「おいおい、悲観しているのかと思ったら、今度は俺を脅すのか?」
「どうとでも取って下さい」
「怖いな、そう張り切らないでくれよ」
「いえ、頑張りますよ。オレは貴方が好きだから。可能性があるのならば、何だってやります」
「樋口」
「貴方は言いましたよね、時間が必要だと。堂本さんが何故それを必要としているのかは、わかりません。考えれば、オレは自分に都合の良いように捉えいてしまいそうだから、今はやめておきます。けれど、自分の事はわかります。オレに必要なのは、自分勝手な餓鬼から成長する時間です。貴方を諦める時間でも、冷静に未来を選ぶ時間でもない。望みを叶える為の時間です」
 今ならば、未来はあるのだと信じられる。堂本の傍にいる限り、明日も自分は生きているのだと思える。刹那的に生きる時期はもう終わったのだと、納得出来る。自分は確かに前に歩き成長しているのだと、実感すら持てる。
 馬鹿みたいだけれど。本当に心ひとつで、何もかもが変わるのだ。今までの生き方を否定する気は無い。あれも確かに自分の全てであったのだから、間違っていたとは思わない。荻原を羨んでいた自分を、愚かだとは思わない。堂本が受け入れてくれる事を求めていた自分を、卑怯だとも思わない。ただ。
 ただそこに堂本を好きになったという気持ちを加えただけで、こんなにも先を目指す自分が生まれた事が、単純に新鮮だと感じるのだ。自分は変化などしないと思っていた己はまだこの中に居るのだろうが、変わりたいと思う気持ちの方が断然強い。
「全く、お前は。俺を振り回す天才だな」
「社長ほどでもないでしょう」
 冗談交じりに軽口を叩いた堂本に、樋口は同じように切り返す。この男を振り回せる事が出来るのならばしてみたいものだが、実際にはまだまだ敵いはしない。こんな言葉遊びが精一杯だ。それでも、先を望めばキリがないのだから、今はこれを心から愉しみたいと思う。
「あの人と比べたら、私のは可愛いものでしょう」
「まあ、社長は年期が入っているからな」
「ご苦労お察しします」
「ああ、察して労わってくれ。俺ももう歳なんだからな」
 お前もお手柔らかに頼むよと笑う堂本の肩に、桜の花びらが乗っていた。一言声を掛け断り摘み上げると、草臥れた白い桜が樋口の指先に張り付く。何気なく動きを止め眺めていると、横から伸びてきた手にそれを奪われた。堂本が放った白い花びらが地面に落ち、風に吹かれ視界から去っていく。
「堤克貴が、お前の背に何故十字架を入れたのか知っているか?」
 低空で舞い踊る花びらに、先日烈貴が話していた光景を頭に描きかけた時、タイミング良く声を落とされた。考える事なく、樋口はそれに答える。
「克貴が好きだったからですよ。それが何か?」
「堤はお前に言わなかったんだな」
 堂本の微かに笑う表情に、樋口は首を傾げた。
「何をですか?」
 十字のデザインを好み身につけていた彼が、自分の身体にもそれを入れたのは、樋口にとっては何ら疑問になるような事ではなかった。好きだから。それ以外に理由などあるはずがなく、考えた事もなかった。だが、意味深な堂本の発言に、別の理由があるのかと再び問い掛ける。克貴の性格を考えれば、秘密のひとつやふたつ持っていようと不思議はないが、自分自身の背がそれに関与しているとなれば聞かずにはいられない。堂本がその理由を知っている事に、驚かずにはいられない。
「克貴はどうして、この絵を?」
「堤は言っていたよ。『ゆうはああ見えて不器用だから、欲しいものを手にするのがとても下手だ』とな。自分の事を棚にあげ、本当の弟のようにお前を案じていた。お前の望むものが、お前のもとに来る事を願っていた」
「…どういう意味ですか?」
「十字架は、神に祈る為のものだろう?」
「……」
 いつの間にか、堂本の手が背中に伸びてきていた。子供をあやす様に軽く数度叩かれ、ひと撫でされる。スーツ越しの接触に、けれども体温が上がった気がした。描かれているのは無機物なものなのに、まるで堂本の背の龍のように息衝いた気さえした。実際に疼くのは背ではなく胸の鼓動なのだろうが、触れられていない右腕までもが脈打つ。
「お前は何も欲しがらない子供のようだと、あいつは言っていたよ。例え欲しくとも我慢する、可愛くない餓鬼だと。だが、堤にとってはお前のそこが可愛かったんだろうな。お前の事を、よくわかっていた。もしも、望みを持ちそれを口にするとしても、小さな声で呟くのが関の山だ。大きな声で叫び求めるような事はしないだろうと、な」
「……」
 今こうして一緒に仕事をしているのは、克貴が縁ではあるが、堂本と彼について話す事はあまりない。だが、話す機会がなかった訳でもない。
 彼が死んでから、この春で丸四年が経った。長い間知らなかった事実を、上司である堂本に告げられる不可思議さが樋口を襲う。話される内容を耳に入れ頭で理解しても、直ぐには心までやってはこない。噛み砕けても、飲み込めても、吸収出来ない物質が体内を動いているような感覚だ。確かなのは、背中と右腕の熱、堂本の手の強さだけだ。
「だから、あいつはお前の身体に十字架を彫った。お前の小さな声でも、神に届くように。いつでも、どんな時でも神の目にその姿が映るように」
「……馬鹿ですね」
 考える前に出てきたのは、端的な言葉だった。だが、言った後でこれ以外にはない的確なものだと樋口は思う。堂本の言葉が本当ならば、克貴の行動は馬鹿としか言えない。
「確かに馬鹿だな、考えがなさ過ぎる。幾ら理由があっても、17、18の子供にする事ではない。だけど、俺はそんなあいつが嫌いじゃなかった」
「……」
 樋口とて、身体に彫られたその意味を知っても、馬鹿だと思いこそすれ克貴自身を嫌う気持ちは全く浮かばない。だが、自分も嫌いではないと今ここで口にするのは、何故だか出来なかった。堂本の言うとおり、キリスト信者でもないくせに、そんな理由で十字架を彫ろうとは短絡的過ぎる。しかも、ヤクザが阿弥陀を彫るのとかわらないものを、他人の身体に入れ込んだのだ、性質が悪いとさえ言えるだろう。果たして、彼は躊躇わなかったのか。克貴の性格を思い出し考え、微塵もそんな躊躇はしなかったのだろうなと樋口は結論をだす。
 高校生の子供にする事ではない。彼の考えた事が正しいとは限らない。だが、自分に与える誕生日プレゼントとしては、やはりこれは適確な物だったのだろうと樋口は思う。自覚は余りないが、この四年の間に自分は何度も刺青がある事に救われたのだろう。今まで克貴の思いを知らなかったと言うのに、十字架はその役目を果たしてくれていたのだ。そして、これからもきっとそれは変わらないだろう。
「お前が何を望むのか、それが叶うのか。あいつの代わりに見てやろうと俺は思った。お前に声を掛けたのは、だからだ。あいつはな、樋口。お前の事を俺に刷り込んでいたんだよ」
「……それにまんまと嵌ったんですか。…貴方も、馬鹿ですね」
「そうだな。だが、間違ってはいなかった」
 それは自信を持って言えると、堂本は笑い樋口の背中から手を離した。
「お前は、俺の自慢だよ。部下としても、ひとりの大人の男としても」
「オレは……早まったのかもしれません」
「ん?」
「今直ぐ貴方が欲しくて堪らない」
「お前、……そんな満足そうな顔で、冗談を言うなよ」
「嘘ではありませんよ」
 そう言いながらも、樋口は我慢出来ずに肩を震わせた。参ったと言うように困り果てながらも同じ様に笑い声を落とす堂本に、ただただ感謝をする。克貴に再び会わせてくれた事に。彼の代わりのように、今まで自分を助けて来てくれた事に。
 そう、神などではなく。自分の願いを聞きいれ続けてくれたのは、他ならぬ堂本なのだ。この場所にいたいと、貴方の傍が良いと、親離れをしない雛の面倒を見続けてくれているのはこの男なのだ。多分きっと、堂本も克貴と同じ様に、自分の幸せを願ってくれているのだろうと樋口は思う。十字架を持った自分以上に、そんな祈りを捧げてくれているのだろう。自分が堂本の傍に居るだけではなく、既にもうずっと前から、堂本もまた自分の傍に居るのだと漸く気付く。そう思うと、何ともいえない温かさを樋口は身体の中に感じた。克貴の洒落た贈り物が、この上ないほどに愛しく感じる。
「何だお前ら。俺に仕事をさせておきながら、自分達は随分と楽しそうだな?」
 非難する言葉とは違い笑いを含んだ声に振り返ると、荻原がビルから出て来たところだった。車の扉を開ける樋口とは逆に、堂本が上司に近付きシャツの襟元を直す。目敏い奴だなと顔を顰める荻原を気にせず、堂本は先のからかいもなかったかのように飄々とした言葉を口にした。
「全てに目を通して頂けましたか?」
「ああ、やらせて頂きましたとも」
「問題は?」
「特に無い。ただ気になるのが三点。横田さんのところで回収した債権だが――」
 あがる質問に的確な答えを返しながら、堂本は荻原を後部座席に乗せ、扉を閉めた。
「樋口」
「はい」
「俺は社長が大事だ。同時に、一緒に仕事をしている他の奴らも、家族も友人も、皆が大切だ。人を失う悲しさを知っている奴は、欲張りになる。俺も例外ではないし、お前もそうだろう?」
「はい」
 何を言おうとしているのかはわからなかったが、堂本が言っている事の意味は良くわかった。この上司も、車の中で会話を聞いているのだろう荻原も、大切な者を亡くす痛みを経験している。それを忘れず覚えている。そして、それは自分とて同じだ。大事なものを知っているからこそ、無くしたくはないものが多いのだと樋口は思う。だが、それは欲ではなく、意志だ。堂本が何を以てこんな話をするのかはわからないが、この男が私利私欲の為に動く事はありえない。
「つまりは、そう言う事だ」
「……はい」
 頷きながらも、何を示されたのかは全くわからなかった。困惑を浮かべた自分を軽く笑い、自ら車へと乗り込む堂本の姿を暫し眺め、仕方がないと樋口も運転席のドアを開けた。
「堂本は、お前を手放す気はない、と言っているんだよ樋口」
 軽い笑いを含む声が、そんな言葉を紡いだ。シートに腰を下ろしながら振り返ると、書類に視線を落としたままの荻原が、口の端を引き上げ笑っていた。
「そのまま押していけば、案外早く落ちるかもしれないぞこいつは」
「…仁さん」
「いい歳をしたオヤジの癖に、純情な奴だからな。可愛く迫ってみるのも手だぞ、樋口。あまり真面目に行くと、色々考えるだろうからな。考える間を与えない勢いで押し倒せば上手くいくんじゃないのか。なあ、堂本?」
 書類から顔を上げ、呆れる堂本に同意を求める荻原は、実に楽しそうであった。からかっているのだろう。だが、嘘はついていないはずだ。そんな事をする人物ではない。しかし、だからこそ、性質が悪いのだろう。
 相変わらずおかしな上司だと呆れる樋口と違い、堂本としては一言文句を言わねば気がすまなくなったのだろう。軽く眉間に皺を止せ、見せ付けるような溜息を落とした。
「何を考えているんですか、貴方は」
「お前がはっきりしないからな、ちょっと樋口に協力してやろうかと」
「何て部下思いな上司なんでしょうね、涙が出ますよ」
「おぉ、だったら泣けよ。ほら、泣け泣け」
「…憶えておいて下さいよ」
「いや、忘れる。綺麗サッパリ忘れてやる」
「だったら、黙って仕事をして下さい」
 堂本をからかい笑う荻原に、荻原の冗談に付き合い呆れる堂本。見慣れた光景のはずなのに、とても懐かしく感じながら、樋口はエンジンをかけた。車が走り始めてもなお、馬鹿な言い合いをする二人の声をBGMに、通行車の多い都会の道を泳ぐ。
 この身体に背負う十字架が、本当に神へと声を届けてくれるのならば。今は、一言だけでいいから、克貴に自分の思いを伝えて欲しい。いや、神に届くのならば、克貴にも届くだろう。直接、言いたい事がある。
 克貴。オレはもう、待つ事はしない。だから。
 だから、いつか自分が行くその時まで、今度はあんたがそこで待っていろよと、樋口は心の中で笑った。
 待って居ろよと言って笑った克貴の顔を思い出しながら、同じ様に笑顔を作る。
 車内の騒がしさは兎も角。
 今ここで、こうして居る事は。
 何にも換え難い贅沢なのかもしれないと、樋口は思う。

 今年の桜の季節も、もう終わりだ。

END
2005/10/30