† - 5

 飯田真幸の死を知ったのは、八月に入って少し経っての事だった。あの歳で、ガンに侵されていたのだという。様子がおかしい井原を問い詰め、あの青年が荼毘にふされてもう半月近く経つと聞いた時は、身体の力が抜け切り「…そうか」と掠れる声で呟けるだけだった。昨日今日の話なら兎も角、既に過去とさえ呼べる程に時間が経過しているのだ。何に対して憤れるのかもわからず、樋口は暫く天井を眺め、瞼を閉じた。黙っていて済まなかったと呟く井原に、そのままの状態で謝る必要はないと応え、暫しの沈黙を味わう。傍らに座る友人よりも、ドアの向こうを行き交う人の気配の方が強く感じられた。
 自分が目を覚ました時、井原が何故あんなにも泣いていたのか、漸く謎が解けた。そして、荻原も堂本も何故見舞いに来ないのかも。
 半月前の事故時に同じ車に乗っていた荻原は、大した怪我もなく検査の為に一日入院しただけであったが、逆に樋口は満身創痍の状態だった。引き千切られた車体で背中を抉られ、多量の血を失った。ショック死を免れたのは、奇跡的に内臓の損傷が殆どなかったからなのだが、それでもはっきりと意識が覚醒するまでに五日かかった。医者には、この昏睡状態のまま死に至る可能性もなくはないとさえ言われていたらしい。そこまで宣告され、ただの部下でしかないが、荻原も堂本もそんな状態の自分を心配しない上司ではない。意識が戻れば、両腕と左足と胸部の骨折が病院のベッドへと固定しているだけなので、心配する事など確かにないとも言えるだろう。時間をかければ治るものだ。だが、事故の状況を考えれば、上司二人がやって来ないのは異常でさえあった。
 そう樋口が考えたとおり、予想もしていなかった理由が井原から告げられた。もっと早く問い詰めていれば良かった。いっそ気付かずにおれば良かった。静かに胸の中で湧き上がる衝撃に、樋口はゆっくりと息を吐く。深呼吸をするだけで痛んでいた胸が、今は違う感覚で自分を苛めているようだった。
 何も出来なかった事が、今なお何も出来ない事が、口惜しい。
「……社長さ、部屋に篭ったままなんだ」
 少し広めの個室にはクーラーが効いており、日光を避けるため窓には淡いグリーンのカーテンがひかれていたが、今は外の暑さを感じたいと樋口は思った。一人で起き上がる事は出来ない体でそれは無理だが、無性に夏の空気を吸いたくなる。きっとカーテンの向こうには、目が醒める様な青空が広がっているのだろう。
「…堂本さんは?」
「ん、働いているよ。社長がいないから忙しいみたいだ」
「お前は、何をしている」
「俺は、半休業中って感じかな」
 視線だけを動かし見た井原は、足元でも見ているのか瞼を伏せていた。一応はスーツを着ているが、だらしない事この上ない。まるでサイズの大きいものを着ているかのように、服ばかりが目立つ姿だ。リストラされ途方にくれる中年サラリーマンのよう。
「毎日顔は出しているんだけどさ、一段落ついたら、帰って休めと言われる。…泣きまくっていたからさ、俺。田端さん、心配してくれているんだ」
 田端というのは、井原の直属の上司だ。樋口は実直な男の顔を思い浮かべ、彼なら井原を上手く立ち直らせるのだろうなと思う。腑抜けた部下を見捨てる事も、突き放す事もない人物だ。
「自分でも確りしないとってわかっているけど、まだもう少しは無理そうで、…俺はそれに甘えている。情けないけどな。でも、お前と喋ると元気が出る気がするから、――ホント、確りしないと」
 だから毎日ここに来ているのか、それとも、本当はあの青年のように樋口も消えてしまうかもしれないと考え怯えているのか。頼りなくやつれた顔で笑った井原に、樋口は「頑張れよ」と声をかけた。
「お前、頑張るの得意だろう。ガキみたいに泣いているな」
 ベッドで横になり掠れた声での叱責は迫力に欠けるが、それでも井原はムッと下唇を突き出した。自分の口の悪さを喜ぶのは、この同僚くらいだろうと樋口は思う。
「時と場合による、俺をその辺のバカみたいに言うな。第一、もう泣いていないだろう」
「泣いている」
「泣いていない!」
「なら、確りしてくれよ井原。オレはこんなんだ、お前に頼むしかない」
「…樋口」
「社長と堂本さんの事を頼む。社長もそうだが、堂本さんだって飯田の事を悪くは思っていなかったんだ、参っているはずだ。だから、」
「俺じゃ何も出来ないよ。お前の変わりは無理だ…」
 樋口の言葉を斬るように口を挟んだ井原の顔は、それこそ本当に泣き出しそうなものであった。井原が飯田の事を気に掛けしていた心配は、荻原のそれと何ら変わりはしないはずだ。無理な事ではない。無理だと思うのなら、頼まない。少なくとも、こうして寝ているしかない自分よりは出来るはずだと、樋口は視線を逸らさずに口を開いた。
「何も遺言じゃないんだ、そう構えるな」
「当たり前だ! ……冗談でもそんな事は言わないでくれよ樋口」
「泣くな」
「…泣かせるな」
「別に俺になれなんて言ってはいない。なって欲しくもない。お前はお前のままでいいんだ井原」
 一ヶ月前、こうなる事など予想していなかったのだろうが、何かをしてやりたいと思うのは間違ってはいないと、心配するのは当然だと言った井原が今は必要なのだと樋口は思う。この男は自分と違い、人の痛みをわかる人間だ。多分きっと、今の荻原や堂本の傍にいるのは自分よりも井原の方が良いだろう。僻みでも妬みでもなく、ただ樋口はそう感じる。
 もしも自分が傍に居たとしても、荻原にも堂本にも、それこそ井原にだって何もしてやる事は出来ない。飯田が消えかけていると感じながらも、自分は何もしなかった。それを後悔してはいないが、彼を心底心配していた井原や荻原を慰められる程、厚顔無恥なわけでもない。多分、自分が一人の青年の死を知り感じる痛みは、他の者達とは全く違うのだと樋口は思う。
「情けないよな、本当に。俺、こんな風に近い奴が死ぬのは、初めてなんだよ。でも、だからって……」
「初めて、か…」
 それは、今まで幸せな道を歩んできたとさえ言えるものなのだろう。誰だって、身近な者の死など、出来る限り経験したくはないものだ。だが、誰かを亡くしたからといって不幸になる訳ではない。まして、人の死を近くに感じず過ごしてきた井原の二十年が偽りであった訳でもない。
 井原の戸惑いを、情けないとは思わない。ただ、こんなにもうろたえる心情が、樋口にはわからないだけだ。かけるべき言葉が何なのか、思いつかない。
 井原がわからないのは、納得するのが怖いのは、ついこの間まで確かにあった存在が今は何処にも居ないという事だろう。心にはあるのに、記憶にはあるのに、現実にはその相手が居ない。そのアンバランスさが、不安を呼ぶのだろう。だがそれは、それこそ仕方がない事なのだ。肉体がこの世から消えるその死を認めないなど、生きている人間には無理な芸当だ。自分が生きているのと同じ理由で、同じ理不尽さで、死というものは存在するのだ。生と死は対なのだから、片方だけから目を逸らそうとする事自体が間違いであり、バランスの悪い事態が生じるのだ。
 同じ歳の飯田が死んでしまったそれ自体にも参ってはいるが、井原の苦しみはきっと死そのものの事もあるのだろう。ならば、救えるのは井原自身しかおらず、自分は何も出来ないと樋口は思う。納得はおろか、生きる事にも死ぬ事にも大した不安も疑問も持たずに来た自分が言える事など、何もなかった。それこそ、心配してくれる上司や同僚の中に身を置いていた方が井原には良いだろう。田端ならば正しい手助けをするだろうと、井原の上司である男を再び思い浮かべ、続いて樋口は自分の上司を思い浮かべた。
 堂本は、きっと今、苦しんでいるのだろう。
 荻原が部屋に閉じ篭っているのは、樋口には意外な事であった。井原の言葉を疑う訳ではないが、こうして聞く限りでは少し信じ難い。驚くものではなく、寧ろ彼と飯田との関係を考えればそうなったとしてもおかしくはないのだろうが、それでも荻原らしくないとそう思う。しかも、堂本が荻原のそんな行為を許容しているともいう。そうとなれば、ややはり違和感が増すばかりであり、彼ららしくはない上司達が気になった。
 荻原は井原と違い、死を受け入れられずに苦しんでいるのではないと樋口は思う。逆に理解しているからこそ、虚無感や喪失感に襲われ気力をなくしているのだろう。そして、堂本はそんな彼を守るかのように、様子を見て世話をし、代わりに仕事をこなしているのだという。有り得なかった。誰もそんな堂本をおかしいと思わないのだろうか。歯痒さが、樋口の中を通り過ぎ、小さな眩暈を感じた。自分が知らない何かがあったのだろう。
 それとも、これこそが人として当然の行動であり感情だというのならば、自分はやはりどこかおかしいのかもしれないと樋口は思う。飯田の死をこんなにもあっさりと受け入れているのは勿論、周りの動揺が理解しきれない自分は、人より感情が欠落しているのだろうか。井原に頑張れと簡単に言い、荻原と堂本の事を頼んだ自分がとても不完全な人間のように思え、大した物は入っていない胃がカッと熱くなった。
「……飯田は、幸せだったのかな…」
 問い掛けではないだろう、井原の呟きが耳を掠める。樋口は堪らずに目を閉じた。
 時計の針の音が、今を過去に変えていく。




 事故時の事は、はっきり言って殆ど覚えていない。別に、睡魔に襲われ疲れていただとか、何かに気をとられていただとかではなく、普通に運転に集中していたのだから、あえて脳が記憶を操作しているのだろう。朧げに、対向車のトラックだとか、助手席の荻原だとか、そう言ったものの断片は頭にはあるが映像としては繋がらない。子供が撮った写真を見るかのような曖昧さだ。何がメインなのかわからない。
 居眠り運転のトラックが突っ込んで来たのだと聞かされても、そうだったのかとそこで漸く知る程に、樋口の中での事故は空気を手で掴むかのような頼りなさしかなかった。死にかけていた時に感じていたのは、克貴の事も確かにあったが、井原の鬱陶しい様子であり、痛みなど殆どなかった。もしかしたら、荻原を守らねばならないだとか、どうにか抜け出そうと、突っ込んでくるトラックを見ながら必至に何かを考え行動したのかもしれないが、気がついた時にはそんな感情も記憶も微塵も残ってもいなかった。
 それでも流石に、出血多量で重篤状態だったとか、包帯だらけの自分の身体の容態を知った時は、眩暈を覚えた。だがそれは、事故に対してではなく、使い物にならない自分に対しての脱力であった。内臓の方はそう問題はないだとか、折れた骨も時間はかかっても殆どは綺麗にくっつくだろうだとか、最悪かなりの後遺症が残る可能性もなくはないだとか、そう言ったものはどうでも良いと思える程に樋口の中では今動けない事が予想以上に堪えるものであった。頭の大部分では仕方がないとわかっていても、役に立たない自分の価値が見出せず、焦りさえ覚えた。井原以外の者が、堂本が見舞いに来ないのが、そんな思いに拍車をかけていたのだろう。
 だからこそ、渋る井原を問い詰めたのかもしれない。
 飯田の死を知ってから、焦りのような苛立ちは消え、樋口の中には別の感情が生まれていた。言葉にするとそれとも少し違うように感じるが、自分の中にあるのは空しさだと思う。何に対してなのかは、わからない。少なくとも、生きる事に対してでも、動けない事に対してでもないだろう。ただの身体的精神的な疲れが、自分にそんな感情を与えてくるかもしれないが、それでも確かな空しさが心にあると樋口は感じる。そして、それは少し、懐かしいものでもあった。
 克貴が死んだ時、こんな思いを味わったようにも思う。心の中とは言わず、身体の中が空洞になったかのような虚しさだ。克貴の望む事が自分の望みであった樋口には、彼が居なければ何を望めが良いのか本気でわからなかった。18歳の男としては頼りないと言われようが、頭がおかしいと思われようが、実際に無気力に日々を過ごしていた。途方に暮れていた訳ではないので改善する必要もなく、ただそのままそう過ごそうとしていた。
 堂本に声をかけられたのは、そんな時だった。克貴が数度話しているのを見た事があったので、堂本の顔に覚えはあった。だが、俺と一緒に働くかと誘われた時は、どんな仕事をしているのか知りもしなかった。ヤクザ紛いの事にも足を突っ込んでいる人間だと知っていたら、多分そう言う世界は面倒だと思い自分は断っただろうと樋口は思う。だが、知らなかったから、頷いてしまった。仕事や堂本自身に興味を持ったというよりも、この男は克貴を知っているんだというそれだけの理由が、「暇だから、構わない」と言わせたのだ。あの時自分は堂本を見ながら、克貴を見ていたのだと樋口は思う。克貴は良く「可愛くないところが可愛い」と、樋口の愛想のない言葉に笑っていたのだ。そして。
 そして、自分のそんな言葉に、微かに喉を鳴らしながら口許をクイッと上げた堂本に、樋口は見事に捕まった。この人の傍に居れば、またこの笑いを向けてもらえるのかもしれないと思うと、離れる事が出来なくなった。堂本の笑みは、克貴の死により生まれた空しさを一気に吹き飛ばす程の威力を持っていた。
 堂本の事を知れば知るほど、一緒に居れば居るほど、自分の何かが満たされる気がした。それは克貴の傍に居る事と似てはいたが、全くの別なものでもあった。克貴に対しては、ただ傍に居られれば良かった。しかし、堂本に対しては役に立ちたいという思いがあった。あまり興味が持てない仕事も、上との付き合いも下の指導も、堂本の傍に居るからこそ出来るものであった。多分それはきっと、自分を見て貰いたいが為のものだったのだろうと、今ならわかる。堂本に、大勢居る部下の一人ではなく自分をきちんと認識して欲しかったのだと。その点、克貴は自分を良く見ていたと樋口は思う。彼が誰かに向ける感情など別段気にも止めない程に、あの男は自分を特別のように扱い安心を与えてくれていた。
 堂本が、自分をないがしろにしているとは思わない。だが、克貴と比べる訳ではないが、あの頃のような安心がないのだ。与えられるものに満足していた頃に比べて、自分は貪欲になったのだろうか。堂本のそれが少ないとは思わないが、自分が満足しきれていない事に樋口は気付いている。多分、それが二人の違いなのだろう。克貴は、自分を切る事など絶対にしないと樋口には自信があった。何があろうと、この関係は揺るがないと。だが、堂本の場合、いつまで経とうがそんな確信が持てる事はない。上司と部下であるのならば、求められるのは能力になる。それは、いつか限界が来るものだ。そして、そこには何の保障も絆も存在しない。
 視線を当てていた壁で、西日が徐々に移動しながら弱まっていくのを樋口はぼんやりと眺めた。また自分は色を失うのだろうかと、ふと考える。堂本を失うのかもしれないと、いやもう失ってしまっているのかもしれないと唐突に思いつき、体中から力が抜けきった。自分はどうしようとも、ひとりのただの部下でしかないのだ。役に立たなければ、切られてしまうような存在だ。
 克貴がいなくなり、堂本までもがいなくなったら、自分は更に存在意義の無い人間になるのかもしれないと、消えていく太陽の光を見ながら樋口は思った。幻想ではなく、本当に、自分は全ての色をなくしてしまうのかもしれない。
 飯田のように、自分は色を残して死ぬ事など出来ないのだろうと漠然と思う。




「――樋口ッ!」
 点滴を受けながらまどろんでいたところに、突然悲鳴のような声で名前を呼ばれ、ベッドの上でビクリと体を揺すった。何事かと振り向くより早く、視界に綺麗な少女の怒った顔が飛び込んでくる。夏南だった。
「事故に遭ったなんて、知らなかったわよ。教えてよね!」
 井原に聞いていなかったら自分はあの部屋を占拠していたと言う夏南に、一体、人の部屋で何をしようとしていたのかと呆れながら、樋口はけれども飛び込んできた様子から不安にさせていた事を知り謝罪を口にした。
「悪かった。だが、連絡出来ない状況だった」
「……」
 返らない答えに訝り椅子に座った少女の顔を覗くと、辛そうに眉を寄せていた。この姿を見れば当然だろうかと、樋口は点滴を受ける腕を軽く上げながら、「見た目ほども大した事はない」と僅かに唇を歪める。実際、事故から一ヶ月近く経つので血の気も戻り、入院当時よりもかなり良くなっている。体を起こす事さえ出来なかった頃を見てきた井原だ。あえて、夏南には黙っておき、今になって入院の事を教えたのだろう。あの同僚も、この少女に怒られたクチかもしれないと考え、樋口は小さく唇の端を上げた。
「大丈夫だ」
「…全然、大丈夫には見えない」
 ミイラみたいだと呟きながら、泣きそうな視線を夏南が向けてくる。今こうして見えるだけでも、左足に右腕、そして左手がギプスで固められており、顔には大きな傷があり、頭には包帯が巻かれているのだ。慄くのも無理はないだろう。実際にはこれ以上に身体に傷が散らばっているのを知れば、この少女は本当に泣くのかもしれないと樋口は気付かれない程度の息を吐いた。着衣で隠れている左腕は肘下から二の腕までのギプスが巻かれているし、背中には大きく厚いガーゼが張られ、包帯で巻かれている。掠り傷を入れれば、怪我をしていない箇所を見つける方が難しいかもしれない。だが、それでも、死んでもおかしくはない事故に遭いながらもこうして生きているのだから問題はなかった。
「ひとつひとつはもう、大した事はない。ただ、数が多いから退院出来ないだけだ」
 それは夏南を安心させる為のものではなく、自宅療養が可能な環境ならば入院の必要がないのは事実だった。だが、身の回りの世話や通院を考えれば、退院しても意味がなかった。片足や片腕だけの骨折ならば、動き回る事は無理でも事務所での仕事は出来る。だが、この状態では座るのもやっとであり、無理に退院しても箸のひとつ持てはしない。金銭的に入院していられない訳ではないのなら、このままここにいるしかなく、樋口としては正直暇を持て余しているくらいだった。寝ているだけなのだから、多少不便ではあるが、夏南が感じているのだろう程も身体は辛くはない。
 今、樋口に求められているのはただ大人しくしている事であり、けれどもそれそのものが焦れったく苦しくあった。これならば、息をする度痛みを覚え耐えていた当初の方が楽だった様にさえ思う。
「…全然樋口が帰ってこないから、心配した」
 包帯の隙間に入り込むように左の手首に刺された針から管を視線で伝い、半分ほど減ったビタミン剤を見上げながら夏南が口を開いた。ポトリと落ちる黄色い液体を追う様に再び視線を戻し、黒い眼がゆっくりと樋口の体を滑る。
「でも、事故なんて思わないから、仕事なんだろうなって勘違いして、…いっぱい荷物置いちゃっているの、ゴメンなさい。帰ってこられないくらい忙しいのなら、あの部屋、乗っ取ってやろうと思っちゃって」
 ちょっとふざけるだけのつもりだったと眉を下げる夏南に、まだ当分は退院しないから好き勝手にすればいいと許可を出してやる。
「悪いわよ」
「今更遠慮するな。お前が居てくれたら、井原に面倒を頼まなくても済む」
 ギプスを嵌めた右腕と腹筋を利用し体を起こしながらそう応えると、すかさず手を添え夏南が助けてくれた。ベッドを起こす事自体も出来るが、痛みが走ろうがこのくらいの事は自力でしていないと身体が鈍る。少し不安定な体勢に大丈夫なのかと問う声に樋口が礼を述べると、少女はしみじみと呟くように言った。
「樋口って、私にホント甘いわよね」
 一瞬何を言われているのかわからず、理解した途端笑いが零れた。身体に響くので直ぐに止めたが、自然と顔が緩んでしまう。珍しいものを見るように唖然とした表情を向けてくる少女が可笑しく、樋口は更に口角を引き上げた。別に我が儘だとは思ってはいないが、それに近い強引さを展開している自覚は本人にもあったらし。それが可笑しくて堪らない。夏南の性格から言えば計算してのそれではないだろうが、許容しているのではなく、まさに振り回されているかのような立場の自分も樋口には笑えるものだった。
「……ね。やっぱり、私がアイツの娘だから、樋口は優しいの?」
「違う。お前だから、だ」
 確かに、堂本は全く関係ないとは言えない。だが、もしも夏南が自分の事を本当に優しいと感じるのならば、それは夏南が夏南自身でいるからこそだと樋口は思う。もっと堂本の娘と言う意識が高ければ、こんな風になりはしないだろう。自分はきっと、父親の部下としては力不足だと判断され、人としても面白味がかけると見られるだろう。夏南が堂本の人となりを良く知り仕事振りを知っていたら、必ず比べられるはずであり、それがされていないからこそ自分達は上手くいっているのだと樋口は思う。そして。
 そして、多分きっと、もっと夏南が堂本の娘である事を主張していたのなら。きっと気にはかけなかっただろう、好きにはならなかっただろう。逆に、疎ましくさえ思ったかもしれない。
「確かに堂本さんの事も抜きには出来ないが、きっかけに過ぎない。オレはお前の事を態々報告するつもりはないが、したところで何も変わりはしない」
「それって、私の事を気に入っているって事? 私が迷惑じゃないの樋口は」
「そう思う奴に部屋を貸す程、オレはお人好しじゃない」
「ふ〜ん、そっか。あ、ね、樋口って兄弟いるの?」
 唐突に話題を変えた夏南に軽く眉を寄せながら、樋口はいないと首を横に振った。
「そうか、私と同じひとりっ子なんだ。じゃ、私って妹みたい?」
「オレが兄貴みたいだというのか?」
「そうね、樋口は年子の兄って感じかしらね。でも、私はどちらかといえば、妹か弟が欲しかったのよね」
「オレは子供の頃は兄貴が欲しいと思っていたな」
「ちょっと、嘘でもいいから妹が欲しかったって言いなさいよ」
 気が効かないと、夏南が頬を膨らます。そんな彼女を、やはり樋口は嫌いではないと思う。こうして接すると、年下の少女を相手にしているからか、穏やかな気持ちにもなる。先程言った言葉は嘘ではない。だが、本心を語ったわけではないのも、樋口自身わかっていた。
 夏南の事は、好きだ。だが、堂本の娘となると、本当にそうなのかわからない。堂本に報告しないのは、多分その気持ちが理由なのだろう。自分と堂本の関係に、娘と言う人物を組み込みたくはなかった。とてもではないが娘に勝てるわけがないと、多分きっと頭が判断し遠ざけようとしているのだろう。あまり自覚はしていなかったが、そんな考えを持つと、それ以外の理由などない様に樋口には思えた。
 夏南と対抗している覚えはない。馬鹿げた事だ。だが、堂本の中の娘に、自分はどこかで少し怯えているのかもしれない。負けるのがわかっていて同じフィールドに立つ事など、樋口には出来ない芸当だ。
「早く元気になってよね、つまんない」
「受験生だろう、勉強しろ」
「お見舞い、また来てもいい?」
 だから勉強しろよと言う言葉を飲み込み、好きにすれば良いと樋口は溜息交じりに吐き出した。
 自分の本心を知ったら、気の強いこの少女は何をどう思うのだろうか。

2005/07/02