† - 10

 正月早々、中井に呼び出された。一月に入ったら連絡をするから覚悟して予定を空けておけと笑いながら言っていたのは、クリスマスの頃だ。詳しくは聞いていないが、年末は馬鹿みたいに忙しいらしく、その電話も意味不明な宣言後に直ぐに切れた。だが、まさか。元旦の夜にそれが実行されるとは樋口も流石に思ってはいなかった。
 入院中携帯の電源は切っていなかったので何度か電話を貰ってはいたが、その都度忙しいからと断り続けていた中井は、けれども何処で聞いたのか怪我の事を知っていた。未だ生々しい身体の傷痕を見ても驚かず、「大変だったな、お疲れさん」と労う始末だ。まるで塀の中に居たかのような言葉に、樋口が溜息を落としたのは、久々に会った男がらしくなく落ち込んでいるかのような雰囲気を感じ取ったからだった。
「何か言いたいんだろう」
「別に」
「本当か?」
「確かに言いたい事は色々あったが、もういいんだ」
 軽く笑いながらそう言い、中井は樋口の肩を押し伏せに反転させると、広げた掌で背中を大きく撫でた。まるで舐めれば治らないかというように、ゆっくりと傷痕に舌を滑らせる。
「怒っているのか?」
 何を指しての言葉かわかったのだろう。肯定も否定もする事はなく、ただ背中に愛撫を施してくる中井に、樋口は再び小さな溜息を落とした。告げる機会はいくらでもあったのに、最後まで入院している事を言わず、こうして体を合わせても怪我の事を口にしない自分が面白くないのだろう。だからこそ何も訊いてこないのかもしれないと、この男にしては珍しい意地の張り方に途方に暮れる。面と向かって詰め寄られても、話さなかった理由など特にないのだからどうしようもないが、それでもらしからぬ空気は少し居心地が悪い。
 気にさせたのなら悪かったと樋口が口にしかけた時、それよりも早くに中井が言葉を落としてきた。
「なあ、これって黒じゃないのか?」
 訊ねると同時に勢いよく体を起こし、中井はベッドから降りた。何の事だと眉を寄せながら姿を追うと、部屋の電気のスイッチを押し直ぐに戻ってくる。絞ったスタンドの光りに慣れていた目にそれは少し眩しく樋口が目を瞬かせている内に、中井は再び背後にまわり背中に指を滑らせた。
「黒と青の二色か?」
 先の質問が刺青の色だと気付き、樋口は「黒はないと思うが…?」と応えた。背中なので自分ではまじまじとは見られず調べたわけではないが、青系色で描かれているはずだ。濃紺をベースに、模様の陰影により色を薄めたと聞いている。
「言われてみれば、確かに群青色だな」
 その箇所なのだろう、中井の指が線を描いていくのを樋口は頭の中で追った。十字を作っていく動きが不意に止まり、「…勿体無いな」と中井が嘆くように言葉を落とす。再び傷痕に口づけをされた時には、思わず軽い笑いが零れていた。確かに、初めは樋口自身ショックではあったが、今はもう別段気にしてはいない。良い治療法が見付かったとしても、今はもう傷痕を消す気もあまりない。
 担当医の受け売りではないが。
 克貴に貰ったものだ。汚れようと、削れようと、ありのままでいる方がいいように思う。冷静になって考えてみれば、克貴に与えられたからこそ価値のあるものであり、刺青自体には自分の関心は殆どないのだ。直すのも馬鹿げているというもの。傷があったところで、何ら問題はない。
「無事に生きている、それで充分だ」
「ああ、確かにそうだな。だが、それでも勿体無い事には変わりないだろう? 折角彫ったんだから、綺麗なままの方がいい」
「別に、そこまで大した物じゃない」
「それでも、俺は好きだ」
 言った中井に、暫く気付きもしなかった癖にと軽口を叩き、樋口は体を返した。見下ろしてくる男の首に片手をかけ引き寄せ、唇を合わせる。克貴が望み入れた墨は、彼が喜ぶからこそ意味があるものだった。克貴が死んだ後は、必然とそれは消え去った。樋口にとっては、ただ背中にそれがあるだけでしかないというのに、中井はそれを好きだと口にする。好きだったと過去形ではなく、傷が走る今も変わらずにそうだと言う。
 その思いを、嫌悪する気はない。だが、樋口自身としては、あまり聞きたくはないし、考えたくはないものだ。中井の思いはどうあれ、克貴以外のものはそこに欲しくはない。
 そう考え、不意に堂本もそうなのかも知れないという思いが樋口の中に浮かんだ。荻原によって与えられたものならば、彼以外の者の評価など邪魔でしかないのだろう。だからこそ、噂話にも耳を貸さずに隠し続けているのかもしれない。荻原の為にあるものは、荻原でなければ意味がないのだ。
 昨日、からかうように自分を窺ってきた男の顔を思い出す。荻原は一体何をどんな風に堂本に言ったのか。あの時、笑ってはいたが心の中では複雑な思いを抱いていたのかもしれないと、樋口は過去の上司に意識を飛ばした。だが、今更考えてみたところでわかりはしない。
「昔さ、」
「ん…?」
「昔、腰の曲がった爺さんの背中一面の彫り物を見た事があるんだが、何を描いているのか全然訳がわからなかった」
 明確な意図を持って樋口の体に指を滑らせながら、中井は思い出し笑いに肩を揺すった。
「っでさ、俺、背中まだ汚れているよって言ったんだよな親切心で。その後、オヤジが血相変えて飛んできて謝り倒していたから、ああ、なんだやっぱり墨だったのかってさ」
「馬鹿だな」
「ははは、可愛いだろう? でも。マジ何がなにやら、黒ずんでいて見れたもんじゃなかったんだよ」
「…どういう事だ?」
「刺青って言うのは、肌だろう。歳を取るにつれて血行が悪くなり、張りもなくなるもんだから、墨も同じく衰えるんだよ。色は褪せてくすんでいく」
「そうなのか?」
「知らないのかよ。彫った時に言われなかったか?」
「形が崩れるから、太るな痩せるなとは言われた」
 背が伸びたら横にも大きくならないと駄目だ、バランスよく成長しろと克貴が樋口に教えたのはそれだけだった。だが、確かに考えずとも、中井の言うとおり肌の一部なのだから歳とともに老いるのが当然だろう。
「カラフルなら色褪せは目立つだろうが、お前のだとそうでもないのかな」
「さあな」
「もっと気にしろよ。ホント、あの爺さんのはみすぼらしかったんだぞ。若い頃は迫力あるものだったんだろうなと思ったらさ、哀れにすら感じるぐらいにな」
「一体、そんなものを何処で見たんだお前は」
 樋口の問いにキョトンと目を丸めた中井は、けれども次の瞬間には「それはヒミツだ」と造りの良い顔を歪ませニタリと笑った。オヤジが実の父親なら、銭湯か温泉かプールか、そんなところだろう。別のものなら組関係かとも思えるが、だとしても特に興味はない。
「なら、いい」
「何だよ、もう少し気にしろよ。可愛くない」
 ならば、突っ込んでくるそれは何なんだと呆れながら、樋口は目を閉じ沸き上がってくる快楽に身を任せた。中井とのセックスを受け入れ続けているのは、他の者を相手にするよりも楽だからだ。商売柄か、多少の無理をする事はあっても、中井は負担を与えるような行為は殆どしない。同じ男として感嘆するくらいに、技術に長けている。
「……ン」
「…まだ、感覚が戻っていないな。力抜けよ、ホラ」
「あぁ…悪い。……大丈夫だ」
 大きく息をしながら答えた樋口の耳に、小さな笑いが届く。目を開けて確認せずとも、中井の笑顔が簡単に想像出来た。
 焦らすように小さな律動を繰り返していたものが、大胆な動きに変わっていく。
 瞼を透けて差し込む光が、見た事のない龍を浮かび上がらせる。堂本の背中にいるだろうそれを思うと、理性がはじけ飛びそうな気がした。どんな風に、龍はあの男の背で息づいているのだろう。ただひたすら、高みへと上り詰める快感の中で、樋口はそれを見たいと思った。
 きっと堂本のそれは、中井が見たようなものではなく、精気に満ち溢れたものだ。




 退院してからは何かと慌しくしていたので、烈貴との約束を守り両親に連絡を入れたのは、新年に入り半月ばかり経った頃だった。自宅は留守だったので、母親の事務所に電話を入れ用件を伝えると、一時間もしない間に携帯が鳴った。
『元気にしているの?』
 流石の彼女も連絡が取れない息子を心配していたのだろうに、一切怒る事はしなかった。三年半前にふらりといつもの様に出掛け、そのまま帰ってこない息子をどう判断していたのか。声音からは窺えないが、今もまだ家族である事が揺らいではいないその事実が感じられ、樋口もそれで充分だとあえて問う事はしなかった。許されている身である自分が、語られない言葉をほじくる事などしてはならない。
 この母親の態度こそが答えだと、樋口は胸の内で感謝する。仕事を始め、詮索されないのを良い事に家へ帰る時間が減り、いつの間にか遠ざかり今に至る自分の行動を後悔してはいない。だが、息子として、家族として配慮に欠ける行為であった事は事実だ。両親に余計な心配をさせたのは、樋口自身悪いと思っている。しかし、それさえもわかっているというように苦笑し水に流す母親を前にすると、何かを言葉にするのは馬鹿馬鹿しかった。
『たまには顔を見せなさいよ、雪』
「ああ、わかっている」
『和人も会いたがっていたわよ』
「オヤジと連絡をとっているのか?」
『当たり前でしょう』
 少し呆れるように、けれどもどこか楽しそうに笑う母親の声は、携帯電話越しだからだろうかはっきりと記憶の中よりも歳を取っているのを感じる。ならば、自分は逆に少しは大人になったのだろうかと樋口は考えながらも、耳に入ってくる笑い声に、逆に子供に戻るような気がした。
 特に何て事はない話のように離婚した事を告げ、母親は仕事だからと五分程で通話を切った。身体に気をつけなさいと言いおき、あっさりと。それがサバサバとした彼女らしく、樋口は笑った。逆に、母親に聞いたのだろう夜中に電話をかけてきた父親は、ズルズルと会話を引っ張り睡眠時間を削ってくれた。寝るから切るぞという息子の言葉など端から聞く気はない父の態度に、樋口は何度も欠伸交じりの溜息を吐く事となった。
『朝美も俺も、ふたりで考え充分に納得して選んだ事だから言い訳はしない』
 だが、お前にも認めて貰えたら嬉しいと、父親は離婚の事を息子相手に真摯に語る。とうに50歳を過ぎた男が恥ずかしいと呆れながら、心配するなと樋口は言葉をかけた。
「母さんは、これがベストだと言っていた。オレには、それが正しいのかどうなのか、ふたりの事なんだからわからない。だが、オヤジもそう言うのならば、間違ってはいないんだろう。少なくとも、オレ達家族の間では」
『ああ、俺はそう思っているよ』
「ならば、問題はない。認める認めないじゃなく、オレも今に納得しているんだ、それでいいだろう。離婚しようがどうしようが、オレの親はふたりしかいない。家族もそうだ。昔から、離れて暮らしていたようなものだろう。大して何も変わってはいないさ」
 ベッドに仰向けになり、閉じてしまう瞼に逆らう事無く目を瞑ったままそうゆっくりと言葉を紡いだ樋口を、最高の息子だと父親は評価した。本当に恥ずかしい男だなと思いながらも、耳に心地良く響いてくる声が深い眠りへと誘う。
 いつの間にか通話中に眠ってしまった樋口は、翌朝目覚めてその事に気付いた。
 相変わらずな両親に肩を竦める自分同様、彼らも相変わらずな息子に笑ったのだろうなとふと気付き、ベッドを降りながら樋口は短い笑いを落とす。
 三人揃って顔を会わせるのも、そう遠くはない未来なのかもしれない。




 駐車場に車を停めた時は、既に夜中の一時を回っていた。鋭い冷え込みに自分が無意識に腕を擦ったのを、樋口は堂本に声を掛けられて知る。
「痛むのか?」
「…いえ、大丈夫です」
 リハビリは週に数度通っているが、寒さによる痛みはどうにもならない。これはもう治るものではなく、慣れるものらしかった。寒い日や雨の降る日などは特に痛むだろうと聞いてはいたが、小さな疼きのようなジクジクとした痛みは激痛よりも質が悪いものだと、退院してから樋口は知った。痛みとまではいかない疼きでもそこを擦ってしまうのは、もう癖と言ってもいいくらいのものだ。気付けば、腕に触れている。
「今夜は泊まって行け。今から自宅に帰るよりは、その方がいいだろう?」
 明日は早い時間から仕事が入っていた。確かに、このまま事務所に泊まる方が睡眠時間を確保出来るだろう。幸い、寝相は良いのでソファで寝ても落ちる事はない。事務所の上には自立していない下っ端や泊まり込みの者ように幾つも部屋はあるが、流石にこの時間でそこに潜り込むのは気が引ける。何より、常日頃の彼らの態度を考えれば、部屋を選ばねば揉める事になるのは絶対だ。そんな面倒よりも、多少窮屈だろうとソファの方が断然寝心地は良い。
 エレベーターに乗り込み、事務所が入る三階のボタンへ伸ばしかけた樋口の手を制し、堂本が自ら操作をした。ランプが点灯したのは、堂本の自室がある階だけだった。
「言っただろう、泊まれと。もうこんな時間なんだ、事務所へも寄らなくていい」
 先の発言が、堂本の自室へ泊まるよう言われていたのだと気付き、頭が真っ白になった。樋口は思わず隣に立つ上司を見上げ、「……それは出来ません」と直ぐに俯いた。事務所で良いと続けようとした言葉に、先手を打たれる。
「今夜は冷え込んでいる。風呂に入って温まれ」
 傷痕が痛むんだろうと、はっきりと窺わせる言い方に言葉が詰まる。
「…でしたら、下で世話になります」
「何時なのか考えろ」
「……」
 確かに、明日早い自分達にとっては遅い時間だ。だが、普段ならばまだ仕事をしていても可笑しくはない時刻でもある。共同部屋を利用している殆どの者がまだ起きているだろう。それなのに、何故堂本はこんな事を言うのか。樋口と彼らならば揉めるのは必至だと、上司もまたそれを危惧しているのかと考え、樋口は言葉に詰まる。
 だが。
 扉が開くと同時に押し出され、咄嗟に樋口はドアを掴み抵抗した。その行動で、思う以上に自分が動揺し焦っている事を知り、そんな己を制する事が出来ずに上司に見せてしまった羞恥に伏せた顔が上げられない。
「……帰ります」
「しつこいぞ、遠慮するな」
 行くぞと腕を掴まれ、抵抗など出来るはずもなく引かれる。逃げると思ったのか、堂本は樋口の腕を掴んだままロックを解除し、玄関を開けた。扉が閉まったところで漸く手首を離される。先に上がった堂本が、続かない樋口を訝り振り返った。
「何をしている、上がれ」
「気を使って頂いて済みませんが、やっぱり帰ります」
 顔を上げずに言った樋口に、堂本は何故だと問いながら溜息を落とした。
「そんなに俺の部屋は嫌か?」
「嫌と言うわけではありません……」
「なら、何故?」
 何故なのか。そんな事は樋口自身が知りたかった。先程までは、平気だったのだ。今日、殆ど一日一緒に居たが、そんな気にはならなかったのだ。だが、部屋に来いと言われた瞬間、我慢出来ない自分を自覚した。今夜一緒に居るなど、絶対に無理だとわかった。これ以上堂本と居れば、きっと自分は強請ってしまう。
 何も考えず、子供のように。
「樋口」
「……」
 短い沈黙に耐えられなくなったわけではないだろう。だが、堂本にしては珍しく、樋口の頭に手を置くと力を加え無言で顔を上げる事を強制した。いつもより少し上の位置から、静かに自分を見下ろしてくる双眸に樋口は飲み込まれる。
「言いたい事があるのなら、言え」
「……」
「樋口、どうしたんだ?」
「堂本さん……」
「何だ?」
「――自分に、背中を…」
 零れ落ちてしまった言葉は、けれどもそれ以上は続かなかった。言える訳がないとゆっくりと口を閉ざした樋口を暫く眺め、堂本が先を確信しているかのように続ける。
「墨が見たいのか?」
「……はい」
「別段、見ても面白いものじゃないんだがな。こんなものを見てみたいのか、お前は?」
 予想通り怒る事はなかったが、また何故こんなものをと少し呆れるかのように、趣味が悪いなと笑うように、堂本は肩を竦めた。本当に荻原が喋っていたのか、何を唐突にと、驚いた様子さえない。
「…見たいんです」
「そうか」
 ならば上がれと、堂本は樋口を導き、リビングへと通した。何度か足を踏み入れた事はあるが、いつ来ても堂本の部屋は整いすぎているくらいに綺麗に片付いている。荻原の部屋もそうであるので、多分綺麗好きと言うよりも、殆ど部屋に居ない事がその理由なのだろう。ここにはそれこそ寝に帰っているようなものだ。
 エアコンのスイッチを入れた堂本は、酒を作るよう樋口に頼むと居間を出て行った。風呂を準備しに行ったのだろう、カウンターキッチンへ入ると微かに水音が聞こえてくる。冷凍庫から氷をひとつ取り出し、グラスへと落とす。ウィスキーを注いでいると、堂本が戻ってきた。カウンターにグラスを置くと、それがひとつである事に気付き苦笑が落とされる。
「お前も飲めよ」
「いえ、結構です」
 肩を竦め、軽くグラスを揺すり、堂本は琥珀の液体を一口喉へと流し込んだ。それをカウンターに置きスーツの上着を脱ぐと、「これで風邪をひいたらお前の責任だな」と軽口を叩く。
 今更だが。
 この上司は本気なのだと、樋口はスッと自分の体温が下がるのを感じた。堂本の背中を見る事が出来るという興奮ではなく、こんな事をさせている自分自身に緊張が走った。何て大胆な事を頼んだのかと、欲望のまま突っ走った餓鬼のような青臭さに身体が強張る。
 樋口の躊躇いなど他所に、堂本は捲り挙げたアンダーシャツから頭と腕を抜いた。引き締まった体に、無意識に喉がなる。恐怖なのか、興奮なのか。自分でもわからない思いが体を駆け巡っており、樋口は思わず視線を逸らした。見たいと願いはしたが、自分なんかが見ても良いものなのか、今になってもなおわからない。覚悟がつかない。
「どうした。見たいんだろう、来いよ」
 カウンター越しに向けられたそれは、命令のようでさえあった。キッチンから樋口がまわりこむ間に、堂本が酒を呷る。樋口がリビングへ出てきた事を確認し、テーブルについていた肘を外して斜めにしていた体を真っ直ぐと起こし向けてきた堂本の背には、躊躇いなど吹き飛ぶような龍がいた。荻原の話から緑の龍を想像していたが、蒼さの方が目立つ。
 青龍が、堂本の背で息衝いている。
 左肩にかかる場所にある顔は、真っ直ぐとこちらを見るのではなく、後方に視線を飛ばすようにどこか遠くを見ていた。人を射抜くようなものではなく、人には見えない何かを見定めているかのような、不思議な金の眼だ。そう飛びぬけて広いわけでもない、どちらかと言えば細身の背中を流れるように描かれている龍の胴は、腰から下にも続いているのだろう半身しか見えない。
「全部脱ぐか?」
「…いいんですか」
「お前がいいのならな」
「……」
 どういう意味なのか、わからなかった。ただ、見てみたいという思いだけで、樋口はお願いしますと言葉を口にした。
 予想通り、腰から臀部、そして太腿にまで龍の身体は伸びていた。尾は右の膝のあたりまで捲きついており、そんな龍の全身を眺めていると自分の足元から何かが這い上がってくるような感じがした。凄い、などという言葉は意味をなさないだろう。圧巻された人間に云える言葉は何もないのだと、樋口は初めて知った。子供だった荻原が慄いたのも無理はないだろう。
 願い、焦がれ続けたものが、信じられない事に今、自分の目の前にある。
 右手が伸びたのは、無意識だった。指先からゆっくりと触れ、ピッタリと背中に掌を合わせ、唇を震わしながら樋口は息を吐く。こうして触れても、自分と同じ人間の背中には思えなかった。神々しい訳ではないが、もっと何か別のものであるように思えた。そうでなければ、こんなにも血は騒がないだろう。引き寄せられるようにして、首元に頬を当て、決して自分を見はしない龍に口づけを落とす。自分が何をしているのか、考える余裕など何処にもなかった。
「――満足したか?」
「…余計に飢えている自分に気付かされた気がします」
「お前は、何に飢えているんだ樋口」
「……」
 貴方に、と。
 喉元まで上がった言葉が口を出る事はなく、樋口はそっと体を離した。振り返った堂本が、真っ直ぐと視線を向けてくる。
「樋口」
 視線を落としたその先の太腿に、龍の尾が斜めにはしっていた。多分、きっと、自分はその鱗のひとつでは満足出来なくなっているのだと朧な頭で確信する。龍になりたい訳ではない。ただ、今の部下と言う立場から変わりたい衝動が体を駆け抜けた。
「オレは、貴方が好きです。堂本さん」
 言った瞬間、鱗でなければ側には居られないのだろう事を思い出す。それでも、言葉は続いて口から溢れた。
「拾われたあの時から、ずっと。ずっと貴方の背中を追いかけていた」
「そうか」
「だけどオレは、姿ばかりを求めて、…本当の貴方自身は見えていなかったのかもしれない」
 知らなかったと、僅かに左脇腹に覗く龍の身体に、樋口はそっと指先で触れた。その瞬間、何故かとても泣きたくなった。我慢する為に歪めた頬を、堂本が指の背でそっと撫でる。
「……社長の為に彫ったと言うのは、本当ですか?」
「彫った理由は、お前のこれとあまり変わりはしない」
 スーツ越しに背中を滑る堂本の手を感じ、理性がはじけ飛んだ気がした。気付けばしがみ付く様に堂本を抱いており、樋口は嗚咽を噛み殺していた。
「色々あっても、結局は俺が決めた事だ。俺が望んだものだ。お前もそうだろう、樋口?」
「堂本さん…、オレは……どうしたら良いんですか?」
 何も言えない変わりに、樋口は問い掛けた。堂本の笑い声は、耳ではなく重ねた体から響く。心地良くもあるが、それ以上にもどかしさを樋口は覚えた。
「お前の好きは、俺を抱きたいと言う事か?もしくは、抱かれたいのか?」
「……わかりません。でも、今のままでは…我慢出来ないのだと思います」
「何を我慢している。わからないのならば、単純に体を重ねる事ではないんじゃないのか?」
「…そうかもしれません。でも、わからない」
「わからない、ばかりだな」
 堂本は苦笑を落としながら、後頭部に手を押し当ててきた。髪を梳き地肌に触れた堂本の指を、樋口はとても熱く感じる。このままでは、まるでチョコレートのように蕩けてしまいそうだ。
「お前は、怖いのか?」
 何を?と、何故か訊く気は起こらなかった。ただ、吐き出す自分の息がとても甘いように思えて、喉が震える。心が震える。
「……オレは怖がっているんでしょうか?」
「俺が訊いているんだがな、樋口」
 体に響く堂本の声が、身体の隅々まで染み渡り、やはり自分が飢えている事に気付かされる。
 チョコレートの甘さを知ったら、キャンディでは我慢出来なくなるのかもしれない。

2005/08/18