† - 9

 年末はここで過ごし年始に退院するかと問われた時、樋口は今直ぐにでも退院したいと答えた。まだまだリハビリはしなければならないので、確かに一人暮らしの樋口にすれば、自宅からの通院よりも入院していた方が便利ではある。だが、左肘のギプスが外れたならば、ここに留まる理由はなかった。無理をしてリハビリした自分に対する牽制と嫌味での発言と見越し、担当医にくらい付き勝ち取った退院は、それでも十二月半ばというものだった。
 固まった筋を解しきるにはまだ数ヶ月かかるだろうし、それが出来ずに後遺症と判断し終わる事になるのかもしれない。だが、そんな気の長い未来に、樋口は辟易した。ならば、多少は不便でも、これが自分の身体だと割り切り普通の生活に早く戻りたかった。腕も脚も以前のようにはまだ動かないが、馬鹿みたいにリハビリとトレーニングをしていたので、筋力がカバーしてくれており日常生活にはあまり不便はないはずだ。仕事にも復帰出来るだろう。それを考えれば一分一秒でも早く戻りたく、退院が決まってからの数日は自分にしては珍しく興奮していたように思う。
 そうして少し強引だったが無事退院した樋口を駐車場で待っていたのは、驚いた事に堂本だった。荷物を運びに行ってやると井原がしつこく言ってきていたのを断ったのだが、堂本が仕事のやりくりをしたのだろう事を考えれば、井原に頼んでおけば良かったと上司の姿を認めた瞬間、樋口は後悔する。だが、もう後の祭りだ。謝罪と礼を口にする自分を詰め込むように助手席に乗せ、運転席でハンドルを握った堂本が前を向いたまま口を開いた時は、思わず小さくなってしまった。
「俺が看てやれればこうも長く入院する事はなかったんだろう、悪かったな樋口」
 ご苦労だったと労う堂本に萎縮する。そして、その言葉の裏にあるものが何なのかわからない訳がなく、少し泣きたい気分にもなった。だが、何気なく続けて落とされた言葉に、樋口の身体が固まった。
「ああ、あと、娘が迷惑を掛けているようだな。あいつは、気が強いから苦労するだろう」
「……知っていたんですか」
「いや、昨日までは知らなかった」
 樋口は知らなかったが、昨日の夕方、堂本は病院に来たらしい。自分が向かおうとしている病室から出て来たのが娘だと気付いた瞬間、退院の段取りを話しに来たのも忘れ、彼女の手を取り院内から連れ出してしまったという。夏南を捕まえ聞いた事情は、堂本にとっては驚きよりも溜息が零れるものだったらしい。
「随分と前から知り合いだったんだってなぁ」
「…はい」
 春に出会いそれから世話になっているのだと説明した夏南は、樋口が報告していないのは自分が少しばかり冗談で脅したからで、何も疚しい事はないとはっきり堂本に言ったらしい。苦手だと、嫌いだと言い切った相手に彼女がした説明を思えば、樋口としては誤魔化すわけにもいかないだろう。何より、堂本相手にそれをする気は更々なかった。隠していた事は事実だが、騙そうとしていた訳では決してない。たとえ堂本がそう捉えないとしても、樋口の真実はそれしかなかった。
「あいつは友達だと言っていたが?」
「仲良くさせて頂いています」
「ストレートに言え」
 前を走るトラックに合わせ、堂本がブレーキを踏む。ゆっくりと停車してもなお前方を向いたままの上司の横顔を眺めながら、樋口は言葉を紡いだ。
「妹みたいなものです。部屋に泊めた事はありますが、彼女の言う様に知られて困るような事はしていません」
 堂本と言う男は、荻原を相手にする時は弟を可愛がる兄のようであり、自分達部下を相手にする時は理解ある上司である。だが、時として人としての厳しさや、男としての堅さを見せる。今のこの顔はそのどれでもない、年頃の娘を持つ親のものなのだろうかと考えてみたが、樋口にはそうだとも違うとも言えないように思えた。夏南の事で、樋口に苛立っている訳でもなく、けれどもただ報告を求めている訳でもなく。堂本が何を思っているのかはわからないが、目の前にいるのは樋口が危惧したような父親ではなく、上司でしかなかった。だからこそ、余計にこの車内に満ちる空気の不可思議さが気になるのだろう。
 漸く退院し、これからという時にこの空気は、自分に不安を与えようとしているかのように樋口には思えた。だが、それを嫌だとは感じない。夏南との事が知られても、それをこうして堂本に訊ねられても、そうした思いは一切浮かんでこない。逆に、堂本が自分に問い質す事実が、嬉しく思ってしまうくらいだ。娘を心配しての事だろうが、自分だからこそこうして訊ねているのだろう事を思えば、静かな興奮さえわく。
 この状況で感じるのは不適切だとわかっていても。自分は堂本の傍に戻る事が出来たのだと、樋口は実感した。漸く、帰ってきたのだと。
「初めから俺の娘だと知っていたのだろう。何故俺に言わなかった」
「言う必要があるとは思えなかったからです。訊かれたら話したでしょうが、自分から報告する気は私にはありませんでした」
「だから、何故だ」
 堂本が求めるものは、その答えだけなのだろう。だが、これだという理由は、樋口にもわからないのだ。確かに、はじめは夏南に頼まれたからかもしれない。疚しい事はないが、多少の後ろめたさに逃げてもいたのだろう。だが、それ以上に、すんなりと彼女が自分の中に入ってきて、自然なそれに慣らされたのだと樋口は思う。話す理由も、話さない理由も、そんなものは何もなかったのだ。ただ、あくまでも自分と夏南の関係は二人のものであり、堂本との関係と混ざる事はなかった。それだけに過ぎない。
 もしも、ひと言でも堂本が娘の話をしたのならば。東京の予備校に通っているのだと、そんな面を話題にし、父親の顔を見せたのならば。自分は知っていると、友人として付き合っていると話しただろう。隠す理由などないのだから。だが、堂本は一切、そんな事はしなかった。この男は常に、荻原の側近であり、自分の上司であり、それ以外の者ではなかったのだ。
「樋口」
 叱責する訳でも、答えを急かす訳でもなく。交す会話の割には静かな声が、ゆっくりと促すように名前を呼んでくる。運転する上司の横顔を見ながら、樋口は口を開いた。
「明確な理由はないと思います。話さなかったのは、ただ、貴方から家族の話を聞いた事がなかったからです。親子であるのは知っていました。彼女と貴方の話を全くしなかったとは言いません。それでも、私にとっては、彼女との付き合いは彼女とのものでしかなかったんです。上手くは言えませんが、貴方との付き合いも同じです。混ざり合わないのが自然な事だと、私には思えました。報告しなかったのは、だからです」
「……」
 沈黙が落ちる車内ではあったが、重苦しさは感じなかった。逆に、漸く肩の荷が下りたような、そんな気がした。上司に対する態度としては、自分の判断は間違っているのだろう。だが、後悔はしていないし、きっとまた同じような事があったら同じ事をするだろう。ただ、済みませんと謝る事だけはしたくはなかった。父親の堂本にとってみれば、腹立たしい事なのかもしれないし、それに関しては謝罪もする。だが、自分の行動も夏南の行動も間違ってはいないと樋口は思う。そして何より、自分を庇ってくれた少女に応えたかった。彼女の気持ちを大事にしたいと、そう思う。
 堂本が普段から娘の事を、家族の事を話していたのなら、自分は夏南を見たあの時すぐさま報告をしただろう。自宅に泊める事などなかっただろう。こんな風に付き合いはしなかっただろう。そう考えると、こうなって良かったとも思えてくる。自分も自分なりに夏南を大切にしているのだと、そんな自負が己の中にある事に気付き、樋口は口元を緩めた。父親である堂本に対抗している訳ではないし、まして、夏南に惚れているわけでもない。ただ、彼女の存在を面白くなく感じていた事が確かにあったというのに、いつの間にかこんなにも慣らされ絆されている自分が可笑しかった。
 久し振りに戻った街は見事にクリスマス一色で、車窓を流れていくそれを樋口は長い間見ていた。堂本が口を開いたのは、樋口のマンションの駐車場に車を入れてからだった。
「正直に言おう。お前達の仲を知った時は面白くないと思った。今も、少しそう思う。だがそれ以上に、俺は嬉しく感じる」
「…どういう事でしょう?」
「簡単だ。俺が気に入っているお前を、反抗ばかりしているあいつがそうと知りつつ懐いたんだからな。当然だろう」
 ニヤリと笑った堂本に、樋口は何を考えれば良いのかわからなかった。そうして辿り着いた部屋には夏南がいるのだから、もう、何も考えたくもないというものだ。面白くないといった堂本に何故か勝った気分になったり、嬉しいという言葉が妙に恥しかったり、気に入っているという喜ばしいはずの言葉が少し寂しかったり。そんな感情の理由など、父娘の前ではちっぽけなものだった。だが、それでも。仲が悪いというが、堂本と夏南は良く似ていると樋口は今更ながらに思う。そっくりな父娘だ。
「樋口、ゴメンね。アイツにバレちゃった…」
 ばれたくなかったのは自分だろうに、心底済まなさそうに謝罪する夏南に、樋口は首を振りながら溜息を落とした。
 先程の感じたのは、錯覚だろう。
 自分が堂本に勝てる事など、この世の中にはない。




 復帰した仕事は、長い間離れていたのだから勘を取り戻せと、雑用程度のものが多かった。それでも、入院しているよりは断然気分が晴れるもので、樋口としては遣り甲斐さえ感じられた。車の運転も、事故の恐怖感などは全く湧かず、問題はなかった。ただ、四ヶ月以上離れていた現場の雰囲気は、決して優しいものではなかったのだが。
 以前から上手く遣ってこなかったからこそのツケが当然のようにまわってきたのを、樋口は十二分に知らされる羽目になった。兎に角、遣り難いのひと言なのだ。荻原や堂本に常に同行し飛び回っていた事を面白く思っていなかった面々が、内勤なのを良い事に絡んでくる。新人紛いの雑用をこなす姿を、あからさまに馬鹿にする。彼らの態度も当然だろうと思いもするし、逆に態々ご苦労な事だとも思いもするのだが、だからと言って樋口としてはそれに付き合う気は更々なかった。今までもそうであったように、嫌われたからとて、どうするつもりもない。ただ、前以上に仕事が遣り難い事は不便ではあった。しかしそれも、年が明けた頃には以前のようなパターンの仕事に戻るだろうなので、気にも止める事ではなかった。それなのに。
 そんな風に自分が彼らの相手をしない事に苛立ったのか、本気で彼らに怒っているのか。何故か自分を疎ましく思っていたはずの山下が間に立ち周囲と対立をはじめるのだから、流石に樋口も放っておく訳にはいかなくなった。怒る山下を宥めにかかる毎日は以前と変わりはないが、その内容があまりにも違うのだから、正直疲れるものでもある。以前のように無知を晒しているのではなく、自分を庇っているかのような山下に手を上げるわけにも行かず、かといって言う事を聞くようになった訳でもないので制御のしようがない。止めろと言っても「あんたには関係ないわ」と突き放してくる後輩は謎でしかなく、為す術もなくその場を収める事しか出来ないのだから、樋口にすれば腕力で抑えられた以前の方がはるかに楽だった。
「山下は、一体どうしたんだ」
 仕事の合い間にファミレスで向かい合い昼食を摂りながら、樋口は思わず井原にそう訊ねた。その声が自分でも、質問と言うよりも助けを求めるかのような声音である事に気付き、自身が相当に参っている事を知る。山下の態度が不可解なのは放って置けるが、自分がそれを宥めねばならない状況が耐えられない。対策があるのならば、井原に笑われようとそれを教わりたかった。
「へぇ、流石のお前も気になるのか。だが、そんな事は山下に直接訊いたらいいだろう」
「関係ないと言われた」
「そうなのか?」
「オレ自身に対する態度も物言いも、さほど変わってはいない」
「それは、まあ、照れているんだろう」
 ピラフを口に入れる前にサラリと言われた言葉の意味を、樋口は直ぐには理解出来なかった。どうすればこの話でそんな言葉が出てくるのか、全くわからない。井原までもおかしくなってしまったようだ。
「…何を言っている」
「鈍いな樋口。山下はさ、お前の事を認めたんだよ。だけど、それを素直に表に出せるほど、あいつはまだ大人じゃない。今までの意地や、プライドだってあるんだろう。何より、あいつ自身、どうすればいいのかわからないのかもな」
「どういう事だ?」
「本当に鈍いな、おい。山下が社長に惚れ込んでいるのをお前も知っているだろう?」
 口の端を上げニヤリと笑いながら聞いてきた井原の問いに、樋口は頷きを返した。山下が荻原に心酔しているのは間違いない。だがそれは、まるで粋がっている不良が、権力も実力ある、自分とは全く違う大人の男に憧れるようなものだ。多かれ少なかれ、荻原の下にいる者達は彼に惹かれている。その中で、山下のそれが少々特別な入れ込み方なのは、荻原自身知っている事だ。彼にすれば、惚れ込んでいるなどと言う表現はされたくない類のものだろう。山下のそれは純粋であるのかもしれないが、好ましくはないものだと向けられる当人は判断しているようなのだから。
「社長へのそれが、オレに関係あるのか?」
 今まではどちらかと言えば荻原側に立ち、山下の信仰振りに嫌気をさしていた井原らしからぬ物言いに、樋口は顔を顰めつつも先を促す。そうして落とされた言葉は、意外なものであった。
「だからさ。お前は違うと言うんだろうが、あの事故では結果的に社長を救ったのはお前だろう。あれで山下はお前を認めたんだよ。それまでは、確かに仕事は出来たとしても、お前の性格が性格だからな。素直に聞き入れる事なんて出来なかったし、したくもなかったんだろう。だけど、あの事故でお前への見方を変える事になった。いけ好かなくとも、腕は認めない訳にはいかなくなったんだろう」
「だから、どうだというんだ」
「お前も知っているだろう。あいつはさ、馬鹿で真っ直ぐだ。認めたら、敬意を示すくらいの事はするんだよ。今はまだ、あれだけ遣り合っていた相手だから戸惑っているんだろうが、そのうち落ち着くだろう」
「本気でオレを庇っているというのか?」
「多分、自分が今まで向こう側だった事が、お前を貶す側だった事があまり面白くないんじゃないのか。馬鹿な事をしていたと、反省じゃなく、ただそう判断するようになったんだろう。以前の事を反省しているのなら、あいつは謝るさ。でもさ、お前の態度も問題なんだから、反省なんて必要ないよな」
「そんな事はどうでもいい」
 別段絡まれるのもどうでもいいのだから、謝罪など邪魔なだけだ。そう考えつつ、樋口は憮然としたまま、「ヤケにわかっているな、山下の事」と井原に溜息を丸めて投げる。
「随分と仲良くなったものだ」
「ああ、そうだな。お前が居ない間、何かと組んでいたからな。なあ、樋口。あいつは馬鹿だが、心配する事はないと思うぞ。暫く放っておいてやれよ。そのうち、自分なりに上手くやる方法を見つけるだろう。何よりも、ひとりでも味方はいた方がお前にとってもいいだろう。そう迷惑がるなよ」
「別に、迷惑とは思っていない。ただ…」
 ただ、何なのか。樋口が言葉に出来なかったものを知っているかのように、井原が目を細め笑いながら言った。
「何だ、お前も戸惑っているのかよ」
 気恥ずかしいのかと、井原は肩を揺する。そうではないと答えながらも、樋口は他に適確な言葉を見つける事は出来なかった。




 世間では仕事納めの日だからだろうか。昼間の定食屋にしては幾分か空いている店内で、荻原が塩鯖を箸でつつきながら言った。
「お前、堂本の背中に墨が入っているのは知っているよな」
 はいと応えながら、それがどうしたのだろうかと樋口は茶碗を置き顔を上げる。目の前の上司は井原に訊いていた様な不安定さはなくなっており、すっかり荻原は荻原に戻っているようであった。それえでも若干の浮き沈みを感じる事はあるが、病的なものではなく性格程度に思えるものだ。もう心配はないのだろう。現に、堂本も以前のように落ち着いている。
「何が彫ってあるのか知っているか?」
「いいえ」
「龍だよ、龍。俺が決めた」
 堂本の背に墨を入れたのは、やはり噂どおり荻原らしい。
「社長…?」
「所謂、昇竜ってやつだな」
 見ているこちらが気持ち良くなるくらい、実に旨そうに食事を摂る上司の顔を樋口がまじまじと見つめてしまったのは、あまりにも唐突な話題であり耳にした内容をどのように処理すればよいのか思いつかなかったからだ。まさかこんな所でこんな風に、堂本の彫り物が何であるのかを知るとは、考えてもいなかった。
 何故いきなりこんな話になるのか。普通に昼時だからと店に入り、普通に食事をはじめただけだ。当り障りのない会話を幾つか交わしたが、食べる事に意識を向けていたはずだ。それなのに何故、突然堂本の刺青の話になるのか、荻原の思考回路がわからない。
 落とされ弾けた爆弾に驚く樋口をからかうかのように、茶碗を片手に視線を上げた荻原は、ニヤリと笑いながらおかしな質問を重ねる。
「お前、アニメでやっていた日本の昔話の番組、知っているか? そのオープニングに出てくる龍は?」
 上司の真意はわからないが、多分アノ番組だろうと思い当たるものがあるので、部下としては頷きを返す外ない。樋口の同意に満足したように荻原も一度深く頷き、テンポよく言葉を紡ぎだす。
「まだホンのガキの頃の俺はさ、あの龍が怖くてなぁ。でも、怖いのに見たいという厄介な気持ちがあって、ちっちゃな手で自分の顔を覆って指の隙間から覗いていた。暗い空を泳ぐ緑の龍はさ、もう見た瞬間ゾワゾワとする訳だよ。けれど、怖いばかりじゃなく何故か惹きつけられる。見ないといられないんだな。仕舞いには、あの龍の背に乗っている坊やがかっこよく見える程に、俺は夢中になっていた。流石に、小学校にあがる前にはそんな気持ちはなくなり、普通に見るようになったけれど。それでも俺の中では特別だったんだろうな。堂本の背中に何を彫るかとなった時、俺は迷わず龍が良いと言った」
 器用に話しながら食べ終えた荻原が、お茶を啜りつつさっさと食えよと促してくる。それに軽く頭を振り、樋口は箸を置いた。
「全部食えよ」
「いえ、もう十分です。済みません」
 食欲など、上司の爆弾発言による衝撃で、とうに何処かへ吹き飛んでしまっている。樋口の半分程しか減っていない膳を暫し眺め溜息を吐きつつも、荻原は話を元に戻した。部下の性格など、お見通しなのだろう。
「それで、龍なんだけどなぁ、樋口。俺の中ではもうあの緑でパッチリとした黄色い目の龍が龍って言うものだったんだよ。だから、堂本の背中を見た時は驚いた。俺が思い描いていたあのアニメの龍じゃないんだからな、当然だろう? 何だよ、こんなの龍じゃない!ってな。俺はあの龍が良かったのに!だ」
 今ならわかるあの可愛さが、堂本のそれには皆無だったと真剣な表情を作り語る荻原は、けれども悪戯をした子供のように目の奥では笑っていた。
「こんなのは嫌だと言っても後の祭りだし、流石に子供心にそれを言っては拙いのもわかっていたから誰にも言わなかったけど、あの時は本当にショックだったぜ。それに、何よりも、さ。ガキの頃にあの龍を見たように、堂本の背中の龍に俺はびびったんだよなぁ」
 それが悔しかったと肩を竦めた荻原は、「だけど、あれは大人が見てもびびるもんだから、恥じる事はないんだけどな。子供の俺には、そんな事までわからないからさ」と自分でフォローを入れながら苦笑を落とす。そして。
「なあ、お前は見てみたくはないのか?」
「え…?」
 一瞬、何を問われたのか樋口にはわからなかった。側を通りかかった店員に二人分の膳を下げて貰い急須を頼んだ荻原が、自ら湯飲みに茶を注ぐのを見ながら、堂本の刺青を見たくはないのかという問である事を噛み砕く。だが、問われる意味がわからなかった。堂本の背中は、見たい見たくないという話ではない。任侠集団であった頃から居る者達でさえ知らないものを、こうして知ってしまっただけでも大変な事である。それなのに、見たくはないのかと重ねて問われ、樋口は言葉に窮した。
「刺青に興味はないか?」
「それは…」
「堂本の、だぞ?」
 どこか楽しげに問いかけてくる荻原を見返しながら、この上司にとっては大した事ではないのだなと気付き、樋口は戸惑いの変わりに苛立ちが自分の中に沸くのを感じた。決して墨を見せない堂本の徹底振りを、一番わからねばならない荻原がわかっていないような気になり、言葉に詰まっている自分が馬鹿らしくなる。
「可能ならば、見てみたいと思います」
「なら、見てみろ。俺と同じようにびびった時は教えてくれよ、慰めてやる」
「私なんかがそう簡単に見る事は出来ません」
「そんな事はない」
「堂本さんが肌を晒さないのをご存知ではないのですか、社長。あの人は、部下の好奇心を満たす為にその信条を曲げるような方ではないです」
 硬い声が落ちたのは、目の前の上司に対する苛立ちでしかなかった。それをはっきりと察しているのだろうに、荻原は悠然と笑いを浮かべる。まるで、生意気な子供を余裕を持って相手にしているかのような表情だ。
「そう尖るなよ、樋口。心配せずとも、お前が見たいと言えばあいつは見せるだろう。それとも、言って断られた経験があるのか?」
 そんな訳がない。おいそれと彫り物を見せて欲しいと言えるような相手ではないのだ。第一、言えたとしても、ただの部下の頼みを堂本が聞き入れなければならない理由はない。確かに日頃の物腰から考えれば、声を荒げて怒られる事はないだろう。だが、樋口には、荻原の言葉は到底信じられはしない。
「言い難いのなら、俺が言ってやろうか樋口」
「社長。私をからかうのは止めて下さい」
「からかっていない。お前は一度見てみた方がいいと思ったから、俺は真面目に薦めているんだ」
 荻原の物言いに、本人の意思は何処にいくのだと、樋口は眉を寄せた。堂本の思いを無視した発言は、まるであの男は自分のものだというような傲慢ささえ滲んでおり、とてもではないが平常心ではいられない。
「勘違いするなよ、樋口」
 憮然とした表情を崩さない樋口に、荻原は幾分か呆れた声で苦笑を零した。
「決めるのは堂本だ、俺じゃない。ただ俺は、お前にならば堂本は背中を見せるだろうと思うからこそ言っているんだ。邪推するなよ。なあ、樋口。我慢しなくて良い事で我慢するのは、単なる馬鹿だぞ」
 何を勘繰って不貞腐れているんだと、腰を上げながら伸ばした手で、荻原は樋口の髪をかき回す。優しさが流れてきそうなそれをどうすれば良いのかわからず、ただ温もりが離れていくのを待つ事しか出来なかった。




「樋口、俺に言いたい事があるんじゃないのか?」
 流石に、大晦日ともなれば仕事も少ない。早々と片付け帰りかけた堂本が、不意に思い出したように扉の前で振り返った。事務所内には先程まで数人の社員が残っていたが、今はもう隣のモニター室に監視員がひとり居るだけにしか過ぎない。訊ねられた事がわからず樋口が沈黙を作ると、狭くはない部屋に静寂が落ちてくる。
「…何の事でしょうか」
 暫し頭を捻るが、堂本が何を云わんとしているのかわからなかった。腕を組む上司を眺めながら、思いつかないと正直に告げる。だが、次に落とされた言葉には、思いあたる節が確かにあった。
「お前が俺の裸を見たいようだと聞いたんだが、やはり社長の悪ふざけか?」
 四十のオヤジの体を見ても楽しくはないよなと、覗き込むように窺ってくる堂本に呆然とし、数瞬後に漸く樋口は勢いよく半身を折った。
「申し訳ありません…」
 この間のやり取りを、荻原がどのように堂本に伝えたのか。訊く勇気など全く無い。
「答えになっていないぞ」
「……勘弁して下さい」
 情けなくも、どうにか出たのは腑抜けきった声だった。軽く笑いを落とし、「ま、気にするな」と慰めの言葉さえかけてきた堂本が部屋を出て行くまで、下げた頭はあげられなかった。パタンと扉が閉まり気配が遠ざかってから、漸く樋口は体を起こし長い息を吐いた。
「お疲れ様でぇす…って、どうした樋口?」
 顔がボケていると訝りながら井原が入ってきたのは、それから暫く経っての事だった。未だ立ち上がったままである事に気付き、樋口はストンと椅子に座り再び深い溜息を落とした。
「人の顔を見て、何だよそれは」
 絡んでくる同僚に、煩い黙れと返しながらも、樋口の口から落ちるのは溜息ばかりだ。荻原にも堂本にも、自分はからかわれているのかと思いながらも、それでも樋口は考えずにはいられない。
 もしも、そうだと言ったならば。堂本はその背を自分に見せてくれるのだろうか、と。

2005/07/23