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 目の前が真っ暗になるという経験は今までにも何度かした事がある。大きいものだと、三回といったところだろうか。
 一度目は両親が二人揃って死んだ時。
 家族とは名ばかりの親だった。一緒に暮らしていたはずなのに、どんな人だったのか思い出せない。いや、知らなかった。父は仕事ばかりで家庭には目もくれず働いていた。母はそんな父を最低だと罵っていた。思い出すことが出きるのは、母の冷めた声と父の後ろ姿ぐらいだ。俺は彼らという人間を全く知りもしなかった。
 棺の中の彼らを見た時、こんな顔をしていたのかと妙に感心した。実際は潰れてしまっていた顔を修整したのであって、それが本来の顔なのか怪しいものだが、俺にはその判断は出来なかった。だが、生前の彼らからは見ることも出来ない、無の表情。これを穏やかな、というものなのかどうなのかわからなかったが、心が震えた。
 どうでもいいと思っていたはずなのに、彼らの死に俺はショックを受けた。
 初めて身近に起きた人の死。中学生のガキが両親の死にショックを受けないはずがないだろう。だが、俺は彼らの死よりも、自分が彼らを思うことが出来るのだということの方がショックだったのだ。
 嫌っていたわけではないが、好きではなかった。関心がないわけでもなかったが、反抗からくるものでもなかった。親だと意識していても、それによって彼らに感情が行くことはなかった。ただ、同じ場所を住み処とする他人と何ら変わらなかった。
 なのに、名ばかりの家族でも、俺たちは確かに家族だったのだ。
 父も母も親としては足りなかったかもしれないが、人として、あんな死に方をしなければならないわけではなかったはずだ。もっと穏やかに死を迎えてもいい人達だっただろう。
 そんなやるせない思いが駆け巡った。
 だが、もう遅かった。今更彼らのことを考えてもどうにもならない。
 死者は美化されるものなのだろうか。
 生きている間にどんなことが起こっていたとしても、彼らに関心は行かなかっただろう。死んだからこそ、俺は彼らのことを考えられたのだ。だから、気にすることはない。
 今ならそう思うが、あの頃はまだそんな風には割り切れなかった。
 不仲だった両親。父は俺をどう思っていたのだろうか。母は何故嫌っていた父と一緒に死んだのだろうか。
 残ったのは謎と言葉に出来ない憤り。そして、彼らへの思い…。
 その時学んだのは、人間なんて簡単に死ぬのだということだ。

 二度目は両親の死後、親戚の荷物となった俺を引き取ってくれた人が亡くなった時。
 彼女は親戚とも呼べないほど遠い知り合いの俺を、何故だか引き取り可愛がってくれた。母のようでもあり、姉のようでもあった彼女は俺に家庭をくれた。彼女との生活は気持ちが良かった。必要以上に俺の中には入ってこようとせず、負担のかからない場所で見守っていてくれる。そんな存在だった。
 他人と関わるのが苦手、というか関心がなかった俺は、冷たい家で育ったので、感情を持っていないのだと本気で思っていた。しかし、それはただ関心のもてる相手がいなかったというだけだったのだろう。それとも、彼女が心をくれたのだろうか。
 彼女との生活が心地よくなるとすぐに、俺は当たり前のように彼女を好きになった。初めて俺は人を大切だと思った。
 だが、そんな彼女との生活も二年前にあっさりと幕を下ろした。
 どんなに願おうと、なくす時は必ず来るのだと思い知った。
 この世の中に永遠に存在するものなんてない。物も、想いも、何もかもが変わっていく。変わらずにあり続けることなんて出来ない。
 そう、人間なんていつかは死ぬ。そのいつかが人により多少の違いはあっても、この大きな宇宙の時間にすれば人の命なんて一瞬の輝きにも満たないものだ。10年だろうと、100年だろうと、差なんて殆どない。
 世の中なんてこんなものだ。こうして世界は回っているのだ。望みも、夢も、希望も何も持たなければいい。そんなものは持たなくても生きていける。持っていなければ、無くした時に、絶望も、悔しさも、悲しみも、何も味わわずにすむ。
 そうすれば、所詮こんなものだよと、すぐに現実を受け入れられる。そう、この世界はどんな時でも動いていく。止まることは決してないのだ。そして、俺達も立ち止まる事は出来ないのだ。だから、何も望んではいけない。叶わない事実に気づいた時、立ち止まってしまうかもしれないから……。立ち止まれば、俺達は、生きていくことが出来なくなるだろうから――
 そう思って生きてきた。何も望まず、ただこの現実だけを見て。
 ……いや、俺はそう思っている振りをしていただけにすぎない。そうすることで、自分は大丈夫なのだと信じていたのだ。何があっても、歩けるのだと、それこそ夢見ていたのだ。
 実際は、突然やってくるものに備えて身構えていても、結局はそれに驚き、どうすればいいのかわからなくなり、迷うのだ。そう、今現在が正にそれだ。
 目の前が真っ暗になる経験を、今日、先程味わった。
 今もその衝撃が心の中で爆発している。
 乱れた心。
 …仕方ない、なんて思えない。
 でも、そう思わなければ、駄目なのだ。だが……。
 ――狂ってしまいそうだ。
 この感情を捨て去ることが出来るのなら、俺は何だってするだろう。突如俺の上に落ちてきた現実に、押しつぶされてしまいそうだ。どうして俺が、と叫びたくなる。暴れたくなる。
 こんな時、人は何故生きているのかと考えても出てくる答えは、死ぬためだろう。なんて冴えないものだ。だが、俺の頭が狂ったわけではなく、当たり前の答えなのだ。これが。生きている者が最終的に行き着くのは、死しかない……。
 そう、本当に、仕方ないのだ。何が起ころうと、俺はこの世に生きている。降ってわいたような信じられないものでも、それが現実なら受け入れなければならないのだ。嫌でも何でも、そうしなければこの世界では生きられない。
 仕方ない。
 その一言で終らせよう――


 擦れ違った数人の女子高生が、すぐに大きな声を上げ騒いだ。悲鳴のような高い叫び声に、単語しか話せない意味不明な言葉。俺にとってはそうでも、彼女達の間では意思の疎通は出来るみたいだ。それはそれですごいことなのだろう。だが理解したいとは思わない。
 振り向かなくとも後ろの彼女達が俺を指差しているのがわかる。常識も何も知らないのだろうかと疑いたくなる。だが、そうではない。ここが街中だろうと何処だろうと彼女達には大したことではないのだ。平気で道に座り込む者達に、常識を問う自分の方がおかしいのだろう。世間の習慣を知らない者達を常識に欠けると非難する言葉は、今や意味なんて殆どない。場所を考えずに騒ぐのも、他人に迷惑をかけるのも、何もかもが当たり前なのだ。そう思い込んでいる。そして、この世にはそんな者達が少なくはない。何が常識かなんて今ははかれないだろう。非常識も当たり前になる世の中なのだから。
 彼女達の声に、他の周りの者達も俺に視線を注ぐ。不躾に他人を見ることを何とも思わないのは若い彼女達ばかりではない。そう、誰だってそうだ。視線を受ける者のことなど気にしない、関係ない。人間なんて自分が満足できればそれでいいのだ。
 自分の姿にあまり興味はない。だが、全く持たずにいられるほど、周りは大人しくしていてはくれない。
 物心ついた頃から、俺は容姿について言われるのが嫌でならなかった。綺麗、かっこいいだなんて、たかが見た目だけで判断する同年代の者達はもちろんのこと、それだけで人間の価値を認める大人達が理解できなかった。俺という人格はどうでもいいというのかと、たまらなく惨めだった。この姿は自分が手に入れたものではない。なのに、他人はそれしか見ないのだ。
 …今はもう、これについては諦めてしまっている。
 だが、この顔により注がれる視線も、変な思い込みで近付いてくる者達も、うっとうしくて仕方がない。今のように一人で街を歩いていれば騒ぐ女子高生に後をつかれる事も、変な奴が言い寄ってくる事なども日常茶飯事だ。それは諦めたと割り切れるほどのものではない。慣れることは絶対にない嫌な視線……。
 全く知らない他人にそんな奇行をとられるのなら、「お前がいれば女が寄るから」と、友達でもないのに当たり前のように俺の顔を目的として合コンに誘う知り合いの方がはるかにましだ。
 軽く溜息をつき、俺はシャツの胸ポケットから取り出したサングラスをかけ、足を速めて喧騒の中に紛れ込んだ。

 春になったとはいえ日が暮れると気温は一気に下がる。だが、この街ではそんな寒さはまるで関係が無い。空には星があるのだろうが、目障りなほどの輝くネオンが邪魔をし、見上げても見られない。いや、見られないだろう、だ。今はもう上を向き見えないことを確認することなんてしなくなってしまった。
 まだ夜の8時を回った頃、大勢の者達が騒ぎ街は賑わっている。いや、季節も時間もこの街には関係ない。いつでもこの場は人が途絶えることはないのだ。
 仕事帰りのサラリーマンもいれば、制服姿の中高生もいる。客引きをしている者に、道端に座り込み歌う者。異様な光景。だが、この街では当たり前なのだ。
 眠らない街。東京をそう呼んだのは誰だっただろうか…。
 そんなどうでもいいことが頭に浮かんだ。眠らないではなく、眠れないのだろう、この街は。眠るなんて行為は忘れてしまっている、眠りを知らない街なのだ。安らぎではなく、騒ぎの中で過ぎ去る時を忘れようとするかのようだ。
 滅びに向かい動き続ける街。止まる事は最後の時を迎えるまで決してないのだろう。
 普段この街のことを考えるという事は全くない。なのに、考えてしまうのはやはり今生きているこの街に自分の居場所を求めたくなったからだろうか。
 こんな街に? ……いや、求めたくなったのではなく、この街を捨てたくなったのかもしれない。
 足を止め立ち止まる。そうしても誰も俺を気にする者などいない。歩道の真ん中で立ち止まっているのは邪魔な奴だ、そう思うぐらいだろう。
 笑いあい歩く者もいれば、喧嘩が始まった声もする。怪しい日本語でビルの陰に入り込む者達もいる。
 こんな所に人々は何を求めてやってくるのだろうか。
 居場所? ――そんなものは何処にも無い。
 そう、何となくだろう。何となくここに集まる、そうすれば誰かがいる。そんな程度のものだろう。
 そして、そういう俺も……。
 普段から人付き合いは積極的ではないが、誘われれば適当に付き合う。そんな名前と電話番号しか知らない友達とは呼べない関係の者達と、この街で何となく過ごしている。
 誰もがそうだろう?
 今この場にいる者達で、確かな、人に言える目的でここにいる奴はどれくらいいる? そんな者は一握りもいないだろう。
 所詮そんなものだ。だが、それでいいじゃないか…。
 ふと、頭の禿げた中年男の顔が浮かんだ。彼の言った言葉が、頭に浮かび上がる。
『希望を捨ててはいけない』
 …何が一体「希望」だというのか。
 少なくともこの街にそんなものはない。俺は今を生きている。どうなるかわからない未来ではなく、現実(いま)、この時の中で生きているのだ。
 そして、この世界では、願う気持ちだけでは何も変わらないということを俺は知っている…。


 お大事にと頬を染めて会釈する看護婦に、俺は何て返しただろうか。
 気付けば公園のベンチに座っていた。夕日の残照がビルの向こうにある。その赤が直ぐ紫、青となり真上はもう濃い群青色の空になっている。
 消えていくその赤い光を俺は睨むように見続けていた。
 闇が落ちてくる…。
 一人では居たくない。こんな時は何も考えず騒ぎに紛れていたい。
 そう思いズボンから携帯電話を取り出し、消していた電源を入れる。淡く光るディスプレイ。メモリを呼び出そうとして、指が止まった。
 呼び出せる者なんて誰もいない。初めてそのことに気が付いた。
 いつも誘われるままに付き合うだけで、自分から誰かを誘うなどしたことが無い。
 暇をしている者ばかりだ、呼び出せばやっては来るだろう。だが、根掘り葉掘り聞かれるのが容易に想像出来る。自分が楽しければそれでいい、そういう奴等なのだ。黙って傍にいてくれる友人なんて俺にはいない。
 結局俺は何もせず携帯をポケットにしまい、その場を後にした。
 自然と足はマンションではなく、普段煩いと眉を顰める街に向かう。
 誰でもいいというわけではないが、誰かに傍にいて欲しい。一人では居たくない。商売人でも素人でもいいから、今晩だけ傍に…。
 そんな者を求めてここに来たのかもしれない。だが、実際に誰かを誘う気は起こらない。いや、誘わずとも向こうからやってくる。だが、その誘いに乗る気もしない。
 そう、どんなに傍にいようと、俺にはそれが何の効果もないものなのだとはっきりわかっているのだ。
 心は求めていても、頭が体が人を拒絶している。そんな矛盾した感覚が俺を惑わす。
 このままこうしてうろうろと歩き続けようか。それがいい。そうして夜を乗り切ろう……。
 時は過ぎている。どんな状態だろうと止まることはない。なら、早く朝がくればいい、そしてまた夜になり朝が来る――。もっともっと早く時が過ぎればいい。そうすれば考えなくてすむ。苦しむことも悩むことも無い…。
 そう、そうなればいい。そうして、俺に考える時間を与えないでくれ。



「…すみません」
 突然体に来た衝撃に一瞬戸惑ったが、直ぐに足を踏ん張った。その時には、人とぶつかったのだということに気が付き、反射的に口から言葉が零れ出た。
 歩道でぶつかったのならお互い様だろうが、こちらが周りに注意がいっていなかったのは事実だし、ゆっくりだが動いてもいたので、当たり前と言うか、何と言うか。大して悪いと思わずとも口にして誤るのは一応の礼儀だろう。
 だが、俺がぶつかった相手はそうは考えない人種のようだ。
「あぁ? 何や、お前」
 そう言われ、そのまま通り過ぎようとした俺の前に立ちはだかる人物に、俺は下げていた視線を上げ焦点を合わせた。その先にはイカニモなソレらしい男が立っていた。
「どこ見てあるいとんじゃ、兄ちゃん。えぇ?」
 彼の後ろ、駐車禁止の道路には黒のベンツが止まっていた。窓ガラスはフロント以外全て黒というお決まりのものだ。男同様、イカニモだ。
 さほど背の変わらない小太りの男。服装はパーツそれぞれはまともなのかもしれない。シャツにネクタイ、ウエストではなく腰ではいたズボンが異様に短いがそれも別に珍しくともなんともない。何処にでも居る中年サラリーマンの服とさほど変わらない。
 だが、雰囲気は全く違っていた。そのせいなのか、この男が着ると何の変哲も無いスーツがいやに禍々しく見える。いや、男とのギャップに思考がついていけず、ただ単に理解が出来ないのでそう感じるだけなのかもしれない…。確かなのは、似合っている似合っていないなどという基準のものではないはないということだ。
 どす黒い顔色に、太い眉。鋭いというよりは無意味に細すぎる目、厚い唇。後ろに撫で付けた髪。何てことはない、目があり口もあるのだから、人間だ。見た目がおかしかろうが宇宙人ではないのだ、何の問題もない。…なんて、そういう訳にはいかないのが今の状況だ。
 どこからどう見ても、彼はまともな職業についている様には見えない。優しい笑顔で道徳を教えながら、その影で奇行をする聖職者もいれば、権限を振りかざしバカな行為をする警察官など、異様な出来事が当たり前のように飛び交うこの国。隣に住む人ですら、壁一枚隔てた所で何をしているのかわかったものではない世界。こんな何が本当なのかなんてわからない世の中で、俺が思う彼の職業が当たっているならば……、この男はなんて見た目そのままのわかりやすい奴なんだろうかと、誉めるべき貴重な人物なのかもしれない。
(…いや、それ以前に、ヤクザというのは職業なのか?)
 イカニモな中年オヤジを見ながら俺は思わず首を傾げてしまった。
「なんや、兄ちゃん」
 むやみやたらに顎を突き出し、見下ろすかのように俺を見る。しかし、どちらかと言えば俺より低い身長なので、それをやられても全く何の効果もない。お決まりのポーズなのかもしれないが、馬鹿にしか見えない。
「あ、いや。…すみませんでした」
 頭を軽く下げ俺はそのまま立ち去ろうとした。が、男はそれを許さなかった。
「あぁ? ちょお待てや!」
 職業がどうであれ、こんなオヤジと関わりあいたいと思う者はいないだろう。俺もそのうちの一人だ。馬鹿でかい声と、妙なアクセントの関西訛りがやけに耳につく。
「そんな謝り方があるかいっ! 何やその態度は!?」
(どっちがだ…)
 溜息混じりに胸の中で悪態をつくが、声に出すほど俺も馬鹿ではない。
 周りを歩く人たちが興味本位に見てはいるが、足を止めるものなどはいない。当たり前だ、誰が好き好んで騒ぎの中に飛び込むというのか。そんなことをするのは、それこそ目の前で口を開き悪臭を放つこの男のような者達だろう。馬鹿で単純、暴力を好み力だけでどうにかなると信じるクズ野郎達ぐらいだ。
「気に障ったのなら謝ります、すみません」
 そう、そんな最低だと思っている奴だからといって、その感情を態度で表してはいけないことぐらい俺だってわかっている。例えどんなに心が乱れ、売られた喧嘩を買い発散しようと思ったとしても、相手は選ばなければならない。彼らのような人物と関わるのはしてはならないことなのだ。
 その俺の考えが伝わってしまったのか、男は眉を寄せ低い声で吠えた。
「…その言い方が気に喰わんのや。馬鹿にしくさってんのか? あぁ〜?」
 一瞬、顔に出てしまい気づかれたのかと思ったが、そんなはずはない。この目の前の男がそんな鋭いはずがない。どちらかといえば馬鹿にされても気づかないタイプだ。
 そう、ただ単に絡みたいだけなのだ。それだけだ。他の者がこんな状況に陥ったらひたすら謝っているのだろう。彼は俺がそうしないのを気に入らないのだ。
 彼らのような者に絡まれるだなんて絶対に避けたい。怖いとうより、面倒なのだ。この場を治めて立ち去りたい。それがベストだろう。頭はそうしろと命令する。
 嫌いな人種だからといって頭から否定するほど俺は子供ではない。だが、知らない人間なら見た目で判断するしかないだろう。たとえこの男が本当は優しい者だとしても、その知識が俺に伝わるものは今はどこにもない。そう、この少しの関わりで判断できるのは、態度に問題があるのは明らかに俺よりも男の方なのだということだ。
 このまま、絡まれていいはずがない。やられるのなら、やれ。こんな場所で騒ぎだすこの男に、真面目に接する必要はないだろう。憂さ晴らしだろうと、八つ当たりだろうと、向こうから仕掛けてきたんだ、責任はないさ。
 心の隅にある思いが強くなる。いつもならこんなことでは腹はたたない。だが、今日は違う。目の前の男の視線、声、何もかもが癪に障る。そう、まるで俺の感情は壊れてしまったかのようだ…。
「そんなつもりはないんですけどね」
 小さく息を吐きながら出た声は低かった。
 無意識のうちに拳を握っていた。その手に更に力を入れる。
 しかし、それは手を出すためではない、自分の感情を抑えるために。
 確かにムカツク。だが、やはり、第一に自分の感情よりも身の安全だ。彼らに関わるのは馬鹿だ。この男だけではすまないのだ。関われば、その後が絶対についてくる。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。そうして出てきた言葉は、自分では抑えたつもりだったのだが…、彼の癇に障ってしまったようだ。
「一体どうしろというんですか? ただ少しぶつかっただけですよ。それは謝ったでしょう。あなたが気にいろうがいまいが、これ以上付き合う気はない。生憎俺も暇ではないんですよ」
 思ったより言葉が理解できるらしい。見る見る間に男の顔が赤くなる。いや赤というよりも、赤黒いか。そうして、低くうなりながら男は俺の首に手を伸ばしてきた。
 勢いよく胸倉を掴まれたせいでかけていたサングラスが外れて地面に落ちていく。カツンとぶつかる音は、周りのざわめきにかき消され耳には届かなかった。だが見なくともレンズが割れただろう事は予想が出来た。何度か同じように落として割った経験があるからだ。
 周りの通行人たちが足を止めこちらを見ていた。男が手を出したからというのもあるだろうが、そればかりではない。胸倉を掴まれた俺の顔を凝視している者たちの方が多い。
 そのうちの一人、俺のシャツを掴む目の前の男に声をかける。
「…何ですか」
 襟を締め付けるように握られてはいるが、その腕にはさほど力がはいていないし、背もあまり変わらない相手によるものなので、顔が近付いて嫌だという以外は、苦しくとも何ともない。
 男に俺の言葉は届いているのかいないのか。まじまじと顔を見続けてくる。
「…離してください」
 そう言って男の手首に手を掛け、強く握り捻り取る。
「痛っ!」
 慌てて手を抑えながら男は一歩後ろに下がった。俺を睨みつけながら、低い声でありきたりの言葉を吐く。
「なにすんねん!」
「…人の服を掴んでおいて、何をするもないでしょう。嫌だったので外しただけですよ」
「なんや、お前…」
 一気に空気が変わる。野次馬の者にしてみれば、こんな男を挑発するような俺の物言いが理解出来ないだろう。だが、これでも俺は抑えている方だ。そう、どんな人間にも我慢の限界がある。そして、俺のそれが少し近付いているというだけのことだ。
 変わった空気に周りが息を呑んだ気がした。そんなものは気にもせず、男が再び俺に向かって手を伸ばそうとした。その時。
「何をやっているんだ?」
 よく通る声が後ろから静かに響いた。低く綺麗な声だが、この張り詰めた雰囲気を壊すには十分な、少し間延びしたような声だった。
「しゃ、社長!!」
「山下、悪いな待たせて」
「あ、いや…」
 新たな人物の登場に男の気が自分から逸れたので、屈み込み落ちたサングラスを拾う。案の定、レンズが少し欠けひびが入ってしまっていた。それをかける気にはならないので、胸ポケットに仕舞う。
 また何かを言われる前に立ち去ろうと、その動きに続き足を踏み出す。が、三歩も進まないうちに手首を取られ、
「彼が何か迷惑をかけてしまいましたか?」
 そう声をかけられた。
 仕方なく振り返ると、声の主は以外にもまだ若い男だった。中年男が社長と呼んだのでもっと上の人物を想像していた俺は一瞬理解できなかった。
(こいつが、社長? しかも、この見るからにヤクザのようなこの男の?)
 ダークスーツに身を包んだ男は、二十代半ばほど。どう見ても三十を越しているようには見えない。かなり整った顔立ち。一見怖くも見えそうなほどの男前と言った感じだが、子供のような、正しく元気のいいと表現するのが一番似合っている瞳がそれを隠している。そう、こんな場所ではなく、もっとラフな格好をして公園などで見かけたなら、小学校の教師のように見える。子供のまま大人になったというよな青年だ。
 だが、俺より少し高いぐらいの背なので、見下ろされているということはないのだろうが、何故だか威圧感があった。まるで人の上に立っていることを何とも思わない、それが当たり前だという感じ、とでもいうのだろうか。子供のような感じとは全くそぐわない雰囲気。だがその二つがこの男の場合は妙にマッチしている。
 俺がそう観察するのと同様に、振り返った俺を見て男は目を大きくして驚いた。そして優しく笑う。
 注目をされることも、驚かれることにも慣れてはいるが、自分より男前の者にされるのは正直馬鹿にされているようだ。
 眉間に皺が寄る。今まで絡んできた男が引いたお陰で、心にあった気持ちも同じように消えた。だが、俺にとっては新たに登場したこの青年も何ら変わりそうにない。
「いえ、別に。自分が余所見をして彼にぶつかってしまったんです。
 スミマセンでした」
 そう言い横に立つ男に軽く頭を下げる。
「本当か? 山下」
「……はい」
 少し躊躇いながらも、山下と呼ばれた男は頷いた。これで終わりだ。そう思ったが、青年は俺の手を離そうとしなかった。
「離して下さい」
 腕に手を伸ばすと更に強く握られた。
「嘘をついているだろう? 自分の部下だ、こいつがどんな奴なのかは知っている。ぶつかられてそれで終るわけがない。いや、それともこいつから悪さをしたか?」
 そう言って男は俺の目をじっと見つめてきた。逸らすのもおかしいので、こちらも見てしまう形になる。不本意だが、周りの者からはどう見ても、俺たちは見つめ合っている、になってしまうのだろう。最悪だ。
 青年の顔は真面目そうだが……からかわれている気がした。この状況だからかそう思ってしまうのだろうか。いや、男の目は光っている。楽しんでいるのだ。まるで獲物を見つけた密猟者のように。
「いえ、違いますよ。悪かったのはこちらですよ」
 そう言ってもなお男はそのまましばらく俺を見つめた。
 一体なんだというのだろうか。暗くなったとはいえ、周りのネオンで俺たちの顔ははっきりとわかる。一人でも目立つというのにこの男と一緒なら倍以上に周りの注目を浴びる。しかも何故だかこんな場所で手をとられているのだ。疑問を通り越して怪しい以外のなにものでもない。道行く者達がひそひそと囁く内容は考えなくてもわかってしまう…。
「離して下さいよ」
 些か乱暴に腕を引く。が、外れない。
「嫌だ」
「はあ?」
「今から時間はあるか?」
「何を…。それより手を…」
「これから付き合ってくれるのなら離してやる」
 握られている腕に視線を落としていた俺は勢いよく相手を見る。
「どうだ?」
 冗談じゃない。何故俺がそんな条件を出されなければならないのか。
「お詫びの徴だ。一杯奢らせてくれ」
「…詫びられる様な事は何もない、です」
 そう言うと、「はははっ、そうか?」と軽い笑いを漏らした。
「なら、折角知り合ったんだから、お近付きに。一杯だけだ。それとも用があるのか?」
 用なんてない。だが、お近付きになる気もない。
 確かに気分はどん底で誰かの温もりが、存在が欲しいと思った。だが、やはり誰でもいいわけじゃない。少なくとも、見た目はまともでも、この得体の知れない男と関わり合おうなんてやけになる気もない。生憎、今以上に自分を陥れる趣味は俺にはない。
「…酒は、飲まないのでいいです」
「そんなの気にするな、大丈夫だ」
 何が大丈夫なのだ。俺の状況は全く大丈夫ではない。
 腕を引かれ促されたが、着いていくなんてことが出来るはずがない。
 先程治まった感情が再び沸き起こる。何だって俺はこんな目にあっているのだ。
「嫌だ」
「何故?」
 何故って当たり前だろう! そう叫びたかったがぐっと堪えた。こんな所で大声なんてあげたくはない。それでなくとも注目を浴びているのだ。
 何かこの場を逃げ切れる方法はないか? 頭で必死に考えるがいいアイディアなんて浮かんでこない。気持ちが焦るばかりだ。
「答える義務はない。俺はあんたに付き合う気はない、それで十分だろ」
「そう冷たいことを言うなよ。この広い世界で折角出会ったんだぞ。もう二度と会えないかもしれないんだから、その出会いを大切にしろよ」
 そう言い「ほら、一期一会ってな」と笑う。
 …頭がいかれているんじゃないか。本気でそう思った。
 何が広い世界、もう二度と会えないだ。俺にとっては、この広い世界で、こんなわけのわからない者に会ってしまった、二度と会いたくはない、だ。この一度の出会いも、大切になんてするものでもないだろう。
 一期一会に当てはまる相手ではないし、茶道をしているわけでもないのだ。何故こんな場面でそんな言葉が出てくるのか。理解出来ないを通り越し、怖いものがある。
「……いや、いい。あんたとそんな関係は築きたくない」
「あはは、はっきり言うなぁ」
 ここで曖昧にすればどうなるかわからない。いや、何を言っても今はもうどうなるのか予想もつかない。未だに俺の手を握って離さないこの男は、あからさまにこの状況を楽しみ俺の心を煽っている。それが余計に癇に障る。だが、のってはいけない。それこそ思う壺だ。
「もっと愛想よくしろよ。ま、それがいいのかな」
 理解不明だ。何がいいのだ? わからない。
 わかったのは、言葉も常識も何もかもこの男には通じないのだということだ。こんな時俺はどうすればいいというのだろうか…。
「…どうでもいい。早く離してくれ」
 それしか言えない。もっと他人と関わり、人との接し方を学んでいればこんな時でも上手く逃げられるのだろうか。なんて、馬鹿な考えが浮かんだ。だが、そうではないのだともわかっている。そう、俺の対応が問題なのではないだろう。この男がおかしいのだ、特殊なのだ。
 溜息が零れる。が、俺のそれは、男の更に大きな溜息により掻き消された。
「お前、話し聞いていたか? 付き合ってくれなきゃ離さないと言っただろう」
「…あんたこそ俺の言うことを聞いているのかよ? 付き合わない、離せと言っているんだ」
 いつの間にか俺の口調は変わってしまっていた。だが、それに気づいたとしても、この男相手に元に戻そうとは思わない。丁寧に接する必要はない人物だと俺の頭は判断したということだ。
「ダメだ。俺が言ったことは取り消せないんだ」
 自身たっぷりにそう言って男は口の端をあげて笑った。
 何なんだ一体。やっぱり頭がいかれているのか?
 助けを求めるかのように辺りを見る。だが、数歩離れて車の側に立つ山下は、我関せず、いや、当然といったように黙って真面目に見えなくもない顔つきで立っている。
 感じるのは楽しそうに笑い俺の癪に障る男の視線と、こちらを覗いながら歩く者達の鬱陶しい視線。口から再び溜息が零れた。
「諦めたか?」
「…何なんだよ、一体」
「何って、別に酒に誘っているだけだろう。おかしなことか?」
 おかしい、十分にこの状況はおかしすぎる。ふざけるなと笑う男の顔を殴りつけてやりたい。だが、もう、なんだか疲れてしまった。殴ればどうなるだろうか、そう考えると動く気がなくなる。
「ここで話していたら目立つだけだぞ。ま、俺は別にいいがな」
 俺は嫌だ。だからと言って着いていくのも嫌だ。だが、どちらかを選ばなければならない。人生なんて、理不尽なものでも選択していくしかないのだ。
「逃げても無駄だぞ。車にもう一人いるからな」
「…脅すのかよ」
「まさか、そんなつもりはないよ。お前が選べ」
 選べる選択肢は一つしかない。なのにあくまで俺が選んだということにさせたいのか。何て奴だ…。
「最低だ」
 思わず弱音が零れた。だが、本心だ。人生で最高のショックを与えられた日に、こんなわけのわからない男に捕まるとは。こんなに天に見放されるほど俺は何か酷いことをしたか? そんなはずはない、不公平だと青臭い餓鬼のように愚痴りたい気がする。そうすれば心は少し晴れそうだ。しかし、それと同時に惨めになりそうでもある。
 そう、俺は数時間前に味わった驚きと恐怖、絶望、やるせない気持ち、溢れる心…、普段無関心な俺にしては狂ったように襲ってくる感情に疲れきってしまっているのだ。だからこの状況も、最低だと思っていても、心はもう麻痺してしまっていて上手く動けないのだ。嫌だと思っているのに、もうどうでもいいさと諦めた部分が心にある。
 今の俺の中にあるのは、この男のことではない。これから先抱えていかなければならない絶望だ。その前ではこんな得体の知れない男なんて大したことではないのかもしれない。相手は俺と同じ、生きた人間なのだから…。
「俺が何をしたって言うんだよ…」
 そう言って今日何度目かの溜息を吐く。そう、もう俺が出来るのは諦めることしかないのだ。
 この一言で俺の今夜の予定は決まってしまった。やはりこの街でうろつこうとしたのが間違いだったのだろうか。今更悔やんでも遅いことなのに、女々しくも考え後悔してしまう。
「何したって、あいつにぶつかったんだろう?」
 男は悪戯が成功したときのように笑った。そして、まるで主人のズボンを咥えて気を引く犬のごとく、嬉しそうに俺の手を引いた。
 山下がすかさずドアを開ける。
 たかが彼に少しぶつかっただけでこの代償。本当にこの世の中何があるかわからない。
 俺は溜息と共に車に乗り込んだ。

2001/10/29