12

 菊地さんは少しおかしな人だ。
 とてもいい人で俺を気にかけてくれるし、他の人達にも優しく人望がある。外見は30ほどの優しい青年といったところで、あの笑みは患者にとっては何よりの薬なのかもしれない。だが、実際の年齢はもっと上で38歳だと言うのだから驚きだ。
 そして、もっと外見を裏切っているのが、あの性格だろう。
 元々彼は精神科医だったらしい。だが、性格上思った事は直ぐ口に出してしまったりするため、患者と揉め事を度々おこし、それが原因で辞めたそうだ。柿木医師の言葉を借りれば、辞めたではなく辞めさせられた、クビを切られたとのことだが、どちらが本当なのかはわからない。菊地さんの性格を考えると、進んで自分から辞めそうでもある。
 そして、彼はその後、普通にサラリーマンをしていたのだが、そこでも上司と揉め事をおこし、何度も職を変わったのだそうだ。
 そんな時、知り合いに病院に戻るように進められ、再び医者として仕事をはじめたがまたもやそれも長くは続かなかった。だが、やはり自分はこうして人と関わっていたいということに気付き、ケースワーカーになったのだと、彼は自ら笑ってそう話をした。
「僕はこんな性格だからね、患者を怒らせることもしばしばだ、同僚と遣り合うこともね。自分はそれを特に気にしていなかったが、患者にとってはこんな主治医はお断りだ。そう気付いた時、僕にはこの立場は邪魔だなと思ったんだ」
 他人事のように、そのおかしな経歴を菊地さんは楽しそうに話す。
「復帰して直ぐにそれに気付いた時は、もうサラリーマンのままでいようかと思ったよ。その方が人に迷惑をかけることは少ないからね。だけど、僕はこうして人と関わっていたかったんだよ。型破りな僕でも、そこを気に入ってくれる人もいたからね。「ありがとう」と言われるのが好きだったしね。
 っで、この仕事についたんだ。医者よりもっと患者に近い立場に立ちたいってね。残念ながら、医者と患者はまだまだ上下関係の立場にいるからね…」
 何だかんだ言っても、結局は僕の我が儘だね。
 自分は好き勝手にやっているだけなんだよ、と肩を竦めながら苦笑する。
「実はね、この病院にはコネで入ったんだよ。真面目にいくつかの病院を受けたんだが、全滅。当たり前だよね、問題を起した元医者で、その後も仕事を転々とする奴に患者をまかせられないってね」
 そう話した彼は、自分のことばかりでは面白くないと思ったのか、柿本医師についても話し始めた。
「彼は見た目は中年オヤジだが、歳はまだ35歳なんだよ」
 自分とは同じ大学だったがあの頃から老けていたんだよね、と笑う。
 そして、ふと真面目な声で、「彼は患者の事を考えすぎるんだよ」と零した。
「それが悪いわけじゃない。いや、いいことなんだろうね、人としては。
 だが、その思いが患者本人達に伝えられるほど、あいつは器用じゃないんだよ。そして、自分でもその考えを処理出来ないぐらいに不器用だ」
 君との事もそうだな、と菊地さんは俺を見つめて言った。
 入院しないという申し出を強引に納得させた俺が病院を出た後、普段は温厚な柿本医師が菊地さんに突っかかり、かなり遣り合ったらしい。
「飯田くんの事は今でも彼は告知したことが良かったのかどうなのか悩んで知るよ。それまでも悩んでそう決めたことなのだから、納得するしかないのに、彼は自分を責めるんだ。ま、君だけの事ではなく、あいつの場合は全てにおいて何らかの後悔を持っているんだけどね。
 はっきり言って、患者にとっては迷惑な医者だよ。親身になってくれるところはいいが、なりすぎる。医者と患者は対等な立場にいなきゃいけないだろうが、医者と言う立場を降りてはいけない。なのに、彼はしばしば単なる患者の知り合いのように、痛みを共感するだけの者になってしまう。
 人としてはそれは悪いことではないが、医者としては未熟だと言うことだ。弱すぎる」
 そう厳しい事を言いつつも、菊地さんは、「困った奴だよ」と眼鏡の奥の目を細め軽く苦笑するだけだった。
 相手のマイナスの面を納得しているからそう言うことが出来るのだろう。否定するだけではなく受け入れているのだ。菊地さんは弱いといったが、柿本医師のそんな部分を認めている。柿本医師もまた、菊地さんの型破りな行為も、その裏にある理由をわかっている、信じているのだろう。
 お互いに患者を思ってのそれらの行為。決して同じではなく、方法は違うが、それでも理解しあっているのだ。

 そんな風に、二人は俺の事を気にかけ、よく他愛ない話をしてくれる。尤も、どちらも忙しいので長々と話すわけではなく、俺が何となく聞き手に回っているだけの短い会話ばかりなのだが。それでも、彼らの人柄がわかる程度には、俺も話に耳を傾けている。
 正直、少し鬱陶しいと思う時もある。必要以上に病院には来たくないという思いからだろう。だが、そうして治療だけではない別の会話が出来ることで救われている面もあった。薬だけを貰いにいくのなら、俺の足は病院に向かうことはもっと少ないのだろう。
 人の優しさに触れるという事は怖いことだが、それでも少しの幸福感が俺を包んでいた。 自分には得ることは出来ない信頼関係を築く二人に、嫉妬に似た思いを感じる事もあったが、それをカバー出来るくらいに、俺は彼らに支えられているように感じた。医者とはいえ、自分の病を知ったうえで付き合ってくれる、広がる関係が、なんともいえずに俺の中での存在を大きくしようとしていた。


 だが、病院から一歩出れば、甘いことは言えなくなる。一人と言う現実が、俺の心を固く閉ざさせる。


「…何だ、それ?」
 数種類の薬を手に出した時、よく通る少し低い声が部屋の中に響いた。
 いつの間に来たのか、荻原がキッチンの入り口に立っていた。
 気をつけてはいたのだが、見られてしまったのなら仕方がない。慌てて隠すのはかえっておかしい。そう思いつつも、少し緊張感を含みながら、何でもない事のように俺は返事をする。
「胃と肝臓の薬」
「はぁ?」
「健康診断でひっかかったんだよ」
 小さな薬を口に入れ、コクリと少量の水と一緒に飲み込む。コップに残ったミネラルウォーターを流しにあける俺に、荻原は質問を重ねてきた。
「大学の健康診断でわかるものがあるのか?」
 正直、歓迎するものじゃない…。詮索と言うわけではないのだろうが、後ろめたいと言うかなんというか、隠すものがある俺には話題にしたくなく、言葉が詰まりそうになる。
「…いや、大学じゃない。普通の病院だ。
 うちの大学の保健センターは厳しくて、一度でも検査をサボると次からは受けさせてくれない。だから、外の病院で受けた診断書を提出しなければならないんだ」
 壁に凭れて立つ荻原の横を通りリビングに足を向ける。その俺の後をついて来ながら、「酷いな。ちゃんと金を払っているんだろう」と荻原はぼやいた。
 確かに横暴だと思わないこともないが、仕方ないだろう。何千人の生徒を一人一人相手になんかしていられないのだ、厳しくしなければやっていけない。それに、きちんとしていれば何ら問題はないことなのだ。サボる方が悪い。
「仕方ないさ。2回の時からだから今年で3度目。もう慣れた」
 ソファに座り、軽く笑いながら言う。
「何でサボったんだ? お前ってそういうのきちんとやっていそうなタイプなのに」
「…2回の検査は5月の中旬の3日間。GW明けの中途半端な時期で忘れたんだよ」
 いや、本当はそうではない。覚えてはいたがどうでもいいと行かなかったのだ。あれは、冴子さんが亡くなってまだそんなに日が経ってない時のことだったから…。
 髪をかきあげながら、窓の外に目をやると、すっかり見慣れてしまった景色がそこに広がる。部屋の中の模様も、それと同様に、いつの間にか暗記してしまっている。
 いつの間にか俺がいる場所となった荻原の部屋。
「っで、何にひっかかったんだ?」
「関係ないだろう…」
「あるさ。いきなり倒れられたら困るだろう」
 そう言って荻原は笑ったが、俺は一瞬ドキリとし顔を強張らせた。顔を背けていなければ、おかしいと気付かれただろう。冗談で言ったとわかっているのに、あっさりと流すことが出来ない。小さな溜息が口から零れる。
 知られたくない。その思いは変わらない。なのに、何故、こんな危ない所に俺は居るのだろうか。これでは、いつバレてもおかしくないというのに…。
「……大したものじゃない。
 酒の飲みすぎと、軽い胃潰瘍。この程度ならその辺にゴロゴロいる。ちょっとした用心だ」
「弱いくせに、寝るほど飲むからな」
 いつものように喉で笑いながら、荻原は携帯を取り出し操作をはじめた。
「潰瘍って?」
 メールを打っているのだろう。画面から視線を外さずにそう訊く。
「さあ。自覚はないがストレスだろうと医者は言っていたな」
「ストレスね〜。確かに細かい事を気にしそうだもんな、お前」
「…煩い」
「それより、まともに食べず、酒ばかりの生活をしているのが原因だろう」
「そうかもな」
「もっと大事にしろよ。今からそんなんじゃ、オヤジになった時に大変だぜ。大丈夫なのかよ」
 パチリとたたんだ携帯をポケットに入れながら、荻原が肩を竦めて軽く笑った。
「……心配する必要はないさ…」
 思わず本音が俺の口から零れる。
 そう、そんな未来は来ないのだ、俺には。だから、心配する必要はない。
「…その頃に、あんたとつるんでいる保障はないだろう。だから、あんたが気にしても仕方がない、関係ない」
 誤魔化しそう言うと、「冷たいな」と荻原は肩を竦めた。
 そして、会話の終わりを待っていたかのように鳴った携帯で呼ばれ、慌しく荻原は出ていった。
 その後ろ姿を見送り、一人になった静かな広い部屋で俺は考える。
 この先、俺はいくつ嘘をつくのだろうか、と…。
 そんな考えに不安がよぎる。
 だが、どんな嘘をつこうとも後悔はしないだろう。  罪悪感はあっても、決して止めはしない。止められない。これは俺が生きていく上では必要なものなのだとわかっている。そして、相手にとってもこの方がいい。  そうわかりながらも、淋しさが俺の心に少しあった。  嘘をつく度、自分は汚れていっているような、逆に消えていっているような、そんな感じがする。そう、この世の中から俺は遠ざかっていっているのかもしれない…。  …自分を騙すには、どうすればいいのだろうか…?  その方法が知りたい。  人を騙す事はとても難しい。いや、騙すと言うよりも、秘密を抱えるというのは予想以上に大変なことなのだ。  なら、他人と関わらなければいいのだ。そう思うが、それは出来ない。
 俺は何故ここにいるのか。何度も自分自身問うたが、いつまで経っても答えなんて出ない。多分、心の奥底で願ったのだろう、何らかの理由で。
 人が恋しいのか、それとも自分を保たせるために、他人の目を傍に置き利用しているのか。そこに都合よくいたのが荻原だったと言うだけなのか。
 わからなさすぎる自分という存在が、嫌になる。
 役に立たない自分が、どうでも良くなる。
 だが、その中でもなお、俺は生きようと必死にしがみ付いている醜い奴なのだ。
 自分自身わからない感情で他人を巻き込み、足掻いている。
 …もう、何が一番こんなに俺を苦しませるのかすらわからない。
 俺自身なのか、病なのか、世の中なのか、そして、荻原なのか――。どこに答えがあるのか、答えなど本当にあるのか。何もかもがわからない。
 ただ、しがみ付けるのはこの現実だけ。
 なら俺は、今を保とうと努力しているのだろうか…。
 いや、それすらも、わからない……。



「マサちゃん!」
 後ろからの呼びかけだったが、直ぐに声の主に思い当たる。この世の中で俺をこう呼ぶのは彼女しかいない。
 振り返ると買い物に行ってきたのか、大きな袋を下げた瞳さんが駆け足で近づいてきていた。
「お久し振り。暑くなってきたわね〜。…って、マサちゃんまだ長袖なの、暑くない?」
「…いえ。大丈夫です」
 そう言う彼女はノースリーブの白いシャツに、脛まで織り上げた黒のジーンズ姿だ。足は素足で、学生のような底の厚いサンダルを履いている。
「それ…、下も長袖? うひゃ〜。もしかして、冷え性?」
 見るだけで自分も暑くなるといったように、長袖の黒のTシャツの上に薄い水色のシャツを着ていた俺に眉を顰めながら、「か弱いのね、マサちゃん」と腕を絡ませてきた。
「暑いんでしょう、くっつかないで下さいよ」
 俺は軽く眉を寄せながらそう言う。だが、内心は焦りの方が大きかった。突然現れた彼女を歓迎することは出来ない。まして、体調が万全と言えず気分的にも参っているこの時に知り合いに合うなど最低だ。
「放してください」
 そう言い腕を引きかけたが、余計に力を加えられ、
「マサちゃんが貧血で倒れかけた時の支えよ」
 と、当然のことだと一人で納得した様に頷きながら彼女はそう言った。
「……何ですか、それ」
 掠れそうになる声を、不機嫌のように低いものに変え、何とかそう返事を返す。
「顔色悪いわよ」
「……」
 その言葉に眉を寄せた俺とは逆に、彼女は笑う。
「…っていうのは冗談よ。睨まないでよ。
 いいじゃない、腕を組むくらい。ほら、マサちゃんと歩くと皆が振り返るじゃない。嘘でもちょっと優越感に浸りたいのよ。私はこんな綺麗な男の子と腕が組めるのよ、羨ましいでしょう、ってね」
「……」
「わかるでしょ、そういうの」
「……全く理解できません」
「あら、そう? なら、大人しくこのままでいなさい」
 何故そうなるのか。反論したい気はしたが、冗談だと彼女が言った言葉が本気のようでそれ以上は何も言えなかった。
 実際顔色が悪いだろう事は自分でもわかっていた。
 この数日頭痛と軽い吐き気に悩まされていた。だがそれは、体調が悪いのだとやり過ごせる程度のものでもあった。俺の心を捕えたのは、段々と霞んできた視界だった。体への直接的な痛みはないが、予想以上に心へのダメージは大きかった。
 恐怖が襲ってきた。ゆっくりとだが確実に蝕われていく自分の体をありありと感じ、どうしたらいいのかわからなくなった。
 知らずうちに向かった病院で、今までとは違う薬を出されて飲み、栄養剤の点滴を受けた。躊躇いがちにも入院を勧める柿本医師の言葉に首を振り、礼を言って病院を後にしたが、その間の事は何故か幻のようにしか記憶に残っていない。
 体は少し楽になったが、心は同じようにはいかないのだ。
 そろそろ限界なのかもしれないと思いながらも、まだだと自分に言い聞かせる。
 そう。だから…。
 だから、こんな状態で瞳さんに会った事は歓迎するものではないが、少しは強がれる程度に回復した時で良かったと思おう。彼女のこの腕の温もりがある限り自分は倒れられないのだと、逆にそれを支えにすればいい。
 怖がってはいけないのだ、と知られてしまう恐怖を頭から追い出す。
「……持ちますよ」
 Tシャツの首元にひっかけていたサングラスをかけ、俺は瞳さんの前に手を出した。
「あら、いいわよ。軽いから」
「なら、安心して持たせて頂きます」
 そう言って彼女の肩から大きな袋を取り、空いた右腕にかける。言ったように、大きさの割にはその袋は軽かった。多分服か何かなのだろう。
「ありがとう、悪いわね」
「いえ…。それより、やはり…俺が荻原に怒られますよ」
「ん?」
「腕」
 彼女が言ったからか、人の視線がなんだか気になり始める。だが、
「どうして?」
「どうしてって、…付き合っているんでしょう?」
 そう言うと、瞳さんは大きな溜息を付いた。
 恋人がいるから他の男と腕を組んじゃいけないというのはおかしい。考え方が古い。そう言われそうにも思えたが、彼女は全く別のことを口にした。
「仁ちゃんと私は恋人じゃないわよ。だから、彼を気にすることはないわ。疚しいことじゃない。
 それより、マサちゃんにも噂が入ってるんだ…」
「…それは、すみません」
「いえいえ。マサちゃんだけじゃなくて、他の人もそう。皆、男の癖に噂を信じすぎなのよ。
 第一、仁ちゃんと私じゃ、恋人同士には見えないでしょう」
「……」
「ホント、困るわ〜」
 そう言いながらも、諦めているかのように彼女は苦笑した。

 黄昏の街。ビルの陰から、沈み始めた太陽が時折顔を覗かせる。紅く焼ける景色は、昼中のゴミゴミとした街とは違うようでいて、なんとも言えない気分になる。
「…私ね、昔付き合っていた男に騙されたの」
 彼女が俺にそんな事を話し始めたのも、この雰囲気のせいかもしれない。昼から夜へと移り変わる不思議な空間…。この街でも綺麗だと感じる夕焼け。だが、それは少しの喪失感をも生み出す。淋しい。そう言う言葉が似合う一時。
「凄く好きで、あの時は彼しか見えていなかった。だから気付かなかったのよね。気付いた時には猫と借金だけが残されていて、最低男はどこかに行ってしまっていたの。馬鹿みたいでしょう…」
 切なそうにそう言いながらも、彼女は楽しいことでもあるかのように小さく笑う。昔のことだと割り切っているのだろうか。ただ、その思い出に胸が熱くなっただけなのだろうか…。
「…借金をしていたのが仁ちゃんのところじゃなかったら、私はどうなっていたのかわからないわ。たまたま仁ちゃんが気に入ってくれて、あのお店で働けるようにしてくれたんだから。  ま、そんなわけだから、周りは私を仁ちゃんの女だと思っているのも仕方がないといえば仕方がないのよね。でも実際はそんなロマンチックなものじゃないのよ」
 俺の腕に寄りかかる彼女の表情は、俺からは見えない。だが、俺をからかう声と変わりないように聞こえても、瞳さんには色々と思うことがあるのだろう。少し先の地面を見るように、俯き加減で歩く彼女の姿は、どこか儚げに感じた。支えてあげると言った言葉は、逆に支えて欲しいと言っていたのかと思えるくらいに…。
「こんな性格だから、私、誰にでも気後れしないのよね。そんなところが面白いって、仁ちゃんは気に入ってくれたんだけど、ホントはこうして言い合える相手が欲しかったのかもしれない。…最近そう気付いたの。
 仁ちゃんって、結構寂しがり屋なのよ。だからといって甘えるでもなく、時々思い出したようにからかいにやってくるだけなんだけど…、それでも少しは彼の役に立てているようだから、嬉しいんだけど…」
 一呼吸をおき、彼女は小さく息を吐き出した。そして、
「だけど、やっぱり、恋人って言われるのはね〜。
 仁ちゃんはいいのよ、私を色々利用しているから。別の人といても浮気は男の甲斐性ですんじゃうし、逆に嫌な相手を遠ざけられるでしょう?
 でも、私はいいことはなし! 店に来る皆が、仁ちゃんの女として見るのよ。憧れられるのも珍しがられるのも怖がられるのも、正直嫌なのよね。だから、頑張って私を見てもらおうと必要以上に話し掛けて、普通の女をアピールしたら、今度は逆に引かれるのよ。
 なにが、「社長を裏切れない」だ、「荻原に言いつけるぞ」だ!
 確かに仁ちゃんには凄くお世話になっているけど、私は彼の付属品じゃないって言うのよ!」
 普段のように元気にそう言い切った彼女の変化に、俺は見つからないように溜息を落とした。…嫌な予感がする……。
「だから、マサちゃん!」
 グイッと絡めた腕を引っ張られ、情けなくも少しよろけてしまった。そんなことには構いもせず、彼女は俺と向き合うと指を立てて言った。
「頑張ってね」
「……何をです…」
 突然方向を変えて立ち止まった俺達に、前方からやって来た通行人が瞳さんの背中にぶつかりそうになる。俺はそっと肩を押し、その人物とは反対に彼女を横に避けさせる。だが、それすらも気付かないのか、気にしないのか、そのままの勢いでニコリと微笑み俺に命令を与える。
「仁ちゃんと仲良くなってね」
「…また、それですか。絶対にありえませんよ」
「あら、一緒に住んでいるんでしょう」
「……」
「別に恋人になれとは言っていないわよ」
「…当たり前です」
「彼を繋ぎとめておいて」
「嫌です」
 何を言っているのかときっぱりと言った俺に、彼女は少し声を落としてポツリと言った。
「心配なのよ、私…」
「……」
「…仁ちゃんにすればお節介なんだろうけど…、それでも心配なのよ」
「……あいつのこと、好きなんですか…?」
 躊躇いながらもそう訊いてしまう。俺にそれを訊く権利があるのかどうか疑問だが、何故か尋ねずにはいられなかった。夕日に照らし出された彼女の表情が、とても切なげだったのだ。
「好きよ。恋じゃなく、愛かな。家族愛みたいなものね。手のかかる弟」
 俺の腕を再び引き歩みを促しながら彼女はそう言った。
「弟なんて言ったら怒られそうだけどね。でも、私にとってはそうなのよ。可愛くて仕方がない弟。
 …だからわかるでしょう、お願い」
「……俺は無理です」
「そう言わないで。一番の有力候補なんだから」
「…そんなものにしないで下さいよ」
 俺の言葉に、「だって、実際にそうなんだから、仕方が無いでしょう」と瞳さんは笑った。


 彼女の店の前に来ると、以前と同じようにあの黒猫が座っていた。
 中に入る事を進められたが俺は断り、じゃれついてきた猫を屈みこんで撫でる。
「いいから、入って。コーヒーくらい出すわよ。でないと、私が仁ちゃんに怒られるわ。
 あ、そいつも連れて入って、エサあげないと」
 鍵を開け中に入る彼女に続き、猫を抱き上げその後を追う。暴れるかと思ったが、黒猫は大人しく腕の中に収まった。布越しに別の生き物の体温が伝わってくる。
「…そう言えば。こいつの名前…」
「ジンよ。教えていなかったっけ?」
「いえそうじゃなく…」
「ん? …あぁ、仁ちゃんのことじゃないわよ、もちろん」
 言ったでしょう、恋人じゃないって。瞳さんはそう笑いながら、俺から大きな黒猫を受け取りカウンターの上に乗せた。彼女が背中を撫でると猫は気持ちよさそうに尻尾を揺らす。…やはり飼い主に対してはそれなりに愛想はあるようだ。
「…残ったのは猫と借金。…この子のことよ。
 彼、動物が好きだったからね。雨の日に捨てられていたこの子を拾ってきたの。今はふてぶてしいけど、その時はまだ子猫でとても弱っていてね。あいつ、何を思ったのかミルクじゃなくお酒を飲ませようとしたの。それがジンのストレート。誰が飲むか、余計に悪くなる!ってものよね、普通。それなのにこの子、ひもじかったのかボケてるのか、ひと舐めしたのよ。ま、それ以上は飲まなかったけどね。
 だから、そんなわけで、ジンって名前になったわけ」
 ね〜、と一見無茶苦茶に扱っているかのようにその体を撫で回しながら、彼女はジンに同意を求めた。



 猫の食事風景を見て暫く過ごし店を後にすると、外は闇を作り出していた。
 以前荻原と歩いた少しくらい路地を一人で歩く。ただそれだけのことなのに、心が騒いだ。
 俺は今、何を思い、何を願っているのだろうか…。それすらわからない。
 荻原のことが心配だと言った彼女。瞳さんは俺と彼をどうしたいのだろうか。何も出来ないこの俺に、何を望んでいるのだろうか。いや、それはもう、夢と言ってもいいくらい現実味の無いものだ。なのに、何故願えるのだろうか…。
 俺は出来る事もなければ、何かをする気も無い。
 ただ、そう思うのに、どうでもいいと頭では決断を下しているのに、…心が騒ぐ。
 …何故。何故彼女は思いを簡単に口にすることが出来るのだろうか、…こんな俺に…。意味などないというのに……。

 医師の言葉が頭をよぎる。
 ストレスは駄目だよ。食事をきちんと摂って、睡眠も。煙草と酒はあまり感心しないね…。
 当たり前の言葉。人間として生きて行く上では当然の事。なのに、それを出来ない自分。そうですね、気をつけます。そう頷くことは出来ない。注意でも何でもなく、俺自身を否定されているように感じてしまう。
 いや、周りの者だけではなく、俺自身からも否定されている…。
 この世に存在することすら気付かれていないような薄い「生」。自信さえもそれを見失いそうなっている。
 周りはこんな俺を気にしない。それが当たり前。人は自分が生きるだけで精一杯。
 なのに…。
 ――荻原は違う。
 俺とは全く違う生き物で、比べるには差がありすぎて対象にすらならない。
 荻原を見ると、いかに自分が生きていないのかがわかる。誰にも、自分にも必要とされていない自身を思い知らされる。
 見たくはなかった、気付きたくなかった。だが、もうそれに気付いてしまっては目を逸らしても頭から離れない…。
 その憤りが、荻原に向く。比べても無駄だというのに、意識を逸らせられない。
 だが、わかっている。彼が悪いわけではないのだと。これは単なる嫉妬となのだと。
 なのに、そんな感情さえも消してしまうほど、心の中に嵐が吹き荒れる。
 どうして俺は、こんな生き方をしているのだろうか。
 多くを望んだつもりはない。
 ただ、静かに、幸せと気付かないほどの穏やかな生活をしたかっただけなのに…。
 …いやそれこそが高すぎる望だったのだろうか。

 俺はどんどん嫌な奴になっていく。
 周りの全ての者に苛立ち、妬ましく思う。
 自分だけのことしか考えられなくなる。
 俺よりもっと不運な奴もいるだろうに、自分が最大の被害者のように哀れに思い泣きそうになる。
 全てがもうどうでもいいのだと思う反面、執拗に執着してしまう。
 どうして、俺なんだろうか。
 何故、俺がこんな目に合っているのだろうか。
 悲しい、苦しい、寂しい、辛い…。
 その思いが溢れ出るが、感情を受けきれない麻痺してしまった心では、それらがどれほどのものかも量れない。
 唯一つ感じるのは、何処にも行けない怒りだけだ。
 許容範囲を越えてもなお俺の中で留まる怒り。
 それを押える事はいつまで出来るだろうか。
 出口を探して、俺の中を駆け巡るそれを消す方法は、何もない。

2002/05/12