7

 先日ここに座って聞いた話は、人の人生の終わりを告げるには少々場違いな気がする、そんな場所だった。
 狭い部屋。窓の無い部屋には微かに時計の秒針の音が響いていた。それがやけに耳につき気になった。カチカチという音がまるで催眠術にかけられているかのように感じたのは、聞いた話の内容のせいだろうか。その音がふと止まるのでは無いかという思いに駆られ音を追い続けたが、それは部屋を出るまできちんと鳴り続けていた。
 今にして思えば、どうして秒針が聞こえたのか不思議で仕方がない。もしかしたら、ただ俺の頭の中で鳴っていただけに過ぎないのかもしれない。なぜなら俺はその微かな音以外にも、色んな音を聞いていたのだから。
 廊下からは病院といってもそれなりに人の声や行き交う足音が絶えず流れていた。部屋の中に響く医師の声。見た目よりは若い声が何故だか滑稽だった。その声を現実感は全くなかったが俺はきちんと理解し、頷きながら聞いていた。時には質問などまでして。
 あの時は自分がどんな声を出しているのかどうかなんて気にもしなかった。…そう、周りの音は記憶に残るほど聞こえていたというのに、どうしてだろうか自分の声は全く覚えていなかった。
 こんな状態に陥ったら人はもっと驚くものじゃないのか。医師によって説明されてもあまりわからないレントゲン写真を見ながら、他人事のようにそんなことを思っていた。普通は一瞬にして目の前が暗くなり、どうして自分がと嘆くものじゃないのか。
 だが、俺はいつも通りだった。ただ、時計の針の音に気がいっていた。今後の自分のことなんて考えなかった。そうなのか、そんな感想ぐらいしかなかった。
 ……後になって耳が異様に冴えていたのだと気付いた。そして…。
 どうして俺は自分の心臓の音を聞かなかったのだろうか。
 呼吸を聞かなかったのだろうか…。
 何故、自分の声を覚えていないのか――

 自分の死を告げられるというのはこんなものなのか、大したことではないのだと思った。大丈夫かと訊く医師に頷いた時も、そうなんだというぐらいにしか思わなかった。
 ショックというものは感じなかった。
 だが、最低でも週明けには来るようにという医師の言葉に返事をしてからの記憶はあやふやだ。薬を受け取ったのも、人込みに紛れて駅に向かったのも、ふらりと公園のベンチに座ったのも夢のようだった。きちんと覚えてはいるが自分の行動ではない、そんな感覚…。
 俺は何を言われたのか。それを思い出し、やっと少しずつ恐怖に囚われていった。そう、きちんと聞いていたのに、あまりのことで理解も何も出来ていなかっただけなのだ。
 襲ってきた恐怖にどうする術も俺は持っていなかった。…一人で居れば、俺はどうなっていたのだろうか。
 だから、強引で迷惑だと思いつつも、あの男を避け切らなかったのは、きっとこの世界に俺がいるということを確かめたかったからなのだろう。呆れたり、怒ったりしながら過ごしたこの数日間。感情を出す間、俺は恐怖を忘れられた。そして、それが今は意味をなさない思いに、願いに変わってしまっていた。
 俺はこうして生きている。今までと何ら変わることはない。そう、変わらないんだ。だから、だから俺は、大丈夫なんじゃないか、と。
 だが、その思いは、思い込みでしかない。
 …わかっていながらもそんな期待が胸にあった。
 俺はそれに縋っていただけなのだ。でも、だからこそ、俺はこの場に来ることが出来たのだ…。だけど……。

「……そう、ですか。…そう、ですよね――」
「飯田くん…」
 中年医師が名前を呼んだきり言葉を濁す。
 疑問だったものが、受け入れろと俺に襲いかかってきた。
 あの日耳が冴えていたのは、何気ない物に縋りつきたかったからなのかもしれない。そして、自分の音を聞かなかったのは、…生きている自分が怖い、と本能で感じたからなのかもしれない。
 そう、生きている自分には必ず死がやってくる。それが目の前にきているということに耳を塞ぎたかっただけだ。そんな未来を見たくなかったからだ。
 荻原に振り回されたのも、その現実から逃げられる術を与えてくれる奴に俺は縋ったのだ。恐怖に慣れたと、受け入れられてきたのだと思ったのは、単なる俺の傷つきたくないという望みからのものであって、本当は何もわかっていなかったのだ。
 ――だから、大丈夫じゃないのかなんて思ってしまったのだ。そんな訳はないのに、なのに、俺は……。
(……なんて愚かなのだろうか…)
 ドクンドクンと耳の横で響く音はなんだ?
 何か引っ掛かったかのような風の音は…?
 冷たい手は誰のものだ? 痺れた体は? …その中に流れる熱いものは?
 ……俺は――
 真っ暗な闇が目の前に迫っている。一歩踏み出せば、直ぐにその中に入ることが出来る。なのに、動けない。だが、ここにも居たくない…。ここでは、暗闇しか見えない…。
 あの日から感じていたものが死に対する恐怖なら、今俺を怖がらせているのは、生きていることに対するものなのかもしれない…。

「…大丈夫です。大丈夫……」
 何が一体大丈夫なのだろうか。そう思いながらも、気付けば俺は震える声でそう言っていた。自分を誤魔化すためでも何でもない。ただ、他に言うべきことが思いつかなかった。
 自分で見なくともわかる血の気の引いた顔を、俺は医師の視線から隠すかのように片手で覆う。だが、その手が震えているのに気付き、直ぐに離す…。
 視線を泳がすと壁に掛かった時計が目に入った。だが、今日は秒針の音は聞こえない…。廊下からの音も、何もかも聞こえない。…自分の音だけが鳴り響く…。
 …本当だったのだ。
 そうしてまた、恐怖と怒りがやってくる…。
 棺に入った両親の顔が目の前に浮かんだ。
 ベッドで綺麗に化粧をされ横たわる冴子さんの白い顔が浮かんだ。
 そして、彼らの顔が、俺のものになっていく……。
 遠くはない未来。
 ……嫌だ。
 俺は、…嫌だ――
 理屈ではない感情が考える事を拒もうとする。
 彼らの顔を振り払うように頭を振ったが、そんなことでは消えはしない。頭を握りつぶすかのように両手で押える、だが離れない。
 …どうして、など愚かな問いでしかないことはわかっている。それでも、言わずにはいられない。叫ばずにはいられない。静かに受け入れる方法など、俺は知らない…。
「…なんで、俺がっ!」
 吐き出された言葉。堰を切ったように俺の口からは獣のような唸り声と共に尽きることなく同じ問いが繰り返される。
 …俺が何をしたというのだろうか…。
 こんな苦しみを与えられなければならない罪を俺が犯したとでもいうのか。
 理由が欲しい。それがあるのなら、きっと受け入れられるだろう。どんな理不尽なものでもいい。それで仕方がないと諦める。…だから、こんな最期を迎えなければならない俺に、理由が欲しい。
 …耐えられない…。押しつぶされそうだ――
「…なっ、何故! …なんで、なんで俺なんだ!!」
「飯田くん! 落ち着いて!!」
「…!!」
 俺の叫び声ほど悲痛なその声にハッと我に返り視線を上げる。いつの間にか、辛そうに眉を寄せた医師が俺の手を押えていた。
 どうして彼がこんな顔をするのだろうか。まるで自分の事のように苦しげなその表情…。先日知り合ったばかりの他人じゃないか…。
 医師の顔に、自分の心が急激に冷めていくのがわかった。
 振り払うようにして手を離させた。自由になった俺の両手は、所々血が滲んでいた。無意識のうちに握り締め爪を立てたのだろう。
 痛みも何もない。大した傷ではない。だが、目が釘付けになった。
 …紅い血。
 それが何故か異様なもののようで、怖くなった…。…体が振るえる。
 再び苦しい心の中に落ち込みそうになるのを、「大丈夫だから、落ち着いて」と静かに言う男の言葉で現実に留まる。
 何が大丈夫なのだ、この状況に落ち着く術なんて何処にあるというのだろうか。
 八つ当たりだとわかっていても怒鳴りつけたかった。あんたにとっては単なる一人の患者で、今までも死を何度も告げてきたのだろう。こんなことは大して珍しくともなんとも思わないことなんだろう。だが、俺にとってはそうではない。自分の死期を告げられる者の気持ちがわかるのか。そう叫びたかった。
 それでも、一人ではないのだということが、俺に冷静さを取り戻させる。
 こんな時でも、他人の目を気にするというのか。それともこんな時だからこそ、自分を発散させずに押さえ込むのか…、わからない。…感情に追いつくことが出来ないのだろうか…。
 訊いたのは俺だった。
 初診時と検査後に病状を告げて欲しいかどうか聞かれ、どんなものでも本当のことを教えて欲しいと言ったのは俺だ。それでも言葉を濁す彼を促しながら、後どのくらい生きていられるのか淡々ときいたのは俺だ。
 それを後悔は、していない。今やりきれない思いと同じように、検査を始めた時から不安で仕方がなかった。だから、もし、何でもない結果だったとしても、それが真実かどうか疑っただろう。あの時は不安で仕方がなく、聞くしかなかったのだ。だから、訊かなければよかったとは思わない。
 自分が聞かなければ、何の関係もないこの医師だけが、自分の人生を知ることになる。それは嫌だった。自分の事なのだから、自分で知っていたい。
 そう思ったのは、本当だ。今もそう思っている。
 だが、それを受け入れられるほど、俺は自分で思ったよりも弱すぎる人間だったのだろう。…辛くて、苦しくて仕方がない。
 処理が出来ずに暴れる感情が、俺を狂わす。
 しかし、それに身を乗せていられる情況ではないことは、よくわかっている。
(なんて不便な生き物だろう…)
 もっと狂えれば、楽になれるのかもしれない。吐き出せ切れれば、前向きに先を見つめることが出来るのかもしれない。
 だが、俺はそんな事が出来るほど器用ではない…。
 誰かが悪いわけではない。
 受け入れきれない自分が悪いのだ。…そう納得しなければ、やっていけない。
(…考えるな)
 深く考えるな、と頭が思考を制御する。理屈や感情などどうでもいい。結局は目の前にこの現実はあるのだから…。
 そう、それを前にして、俺が取れる行動をするしかないのだ…。
(彼は、悪くはないのだ…)
「…すみません……」
 口から落ちたその言葉は、とても静かなものだった。
「…君が、謝ることじゃない」
 ゆっくりと頭を振る医師の目は、寂しい色をしていたがとても優しいもののように感じた。


 俺の周りからはいつも人がいなくなる。
 両親が突然消えた。親戚は俺を嫌がった。引き取ってくれた冴子さんも、もういない。一人になった。
(…だから次は俺なのか……)
 そう、ただそれだけのことなのかもしれない。
 幸せの定義なんて俺は知らない。一体どれだけ恵まれていれば幸福で、どれだけ恵まれていなければ不幸だといえるのだろうか。
 自分はどうか、なんてそれこそ曖昧すぎてわからない。第一、幸せだろうと不幸だろうと、俺はこうでしか生きてこれなかったのだから、それは全く関係ないことだ。幸せだと満足しても意味がなければ、不幸だと嘆いてもどうにもならない。人は生きるようにしか生きられない。
 人間皆平等だと思わないが、百年にも満たない一生なんて、不幸であろうと幸せであろうと大して変わらないのかもしれない。一人の命が消えても世界が止まるわけではない。誰が死んでも地球は回わっている。何も変わらない。
 だから別に俺は特別ではないのだ。
 自分を不幸だとは思わない。
 そう思ってしまったら、俺は自分を支えられなくなってしまうだろう。今までの出来事も経験も、何もかもが今の俺を作っているのだ。それを認めなければ、それこそ自分の人生が無意味になってしまう。
 そう、俺はこうして生きてきたことに満足している。不満や後悔は沢山ある。だが、それも生きているからこその、俺の一部だ。
 …それを失うのが怖い。
 この自分と言う者が消えてしまうということが、怖い。怖くて仕方がない。
 だがもう、それ以上に…考えたくない…。
 辿り着くべき場所が見えてしまった今、俺の進むべき道はもう決まっているのだ。これが俺の人生なのだ…。
 体の力が一気に抜ける、そんな気がした。脱力感と言うのとは違い、楽になった気さえする。
 ふと、幼い頃の自分を思い出した。母の罵り声にいつも耐えていた。父の姿を探していた。だが、いつの間にか母の言葉を聞き流す術を覚え、父親の存在は無いものとなった。生きる知恵とまではいかないまでも、人はどんな場所でも順応していくように出来ているのだ。
(そう、そのうちこのことにも慣れるのだろう。…それとも終わりの方が早いだろうか…?)
 こうして自分の死を考えた時思い出すのが彼らとは。死を持って俺に存在を示した彼らは一体何を考えていたのだろう。無駄だとわかりつつ思いを馳せる。
 何より、こうしてでしか自分達を見せられなかったなんて、親ではなかったということだろうか…。
 彼らもそうだろうが、なんて淋しい家族だったのだろうか…、そう自分で嘆こうとしても、…もう苦笑すら出てこない。
 今更家族の愛情を欲しいとは思わない。俺はそれ以上に大切なものを知った。今はそれももうないけれど、あれ以上のものはないと思える愛情を貰った。それで満足だ。だから、両親を求めはしない。そして、その大切な彼女の死も、受け入れてしまっていて、求めるものではなくなってしまった。
 そう、いつの間にか全てを受け入れていくのだ。自分は気付かずとも、心は変わって行くのだ。適応していくからこそ生きていられるのだ。それがいいことか悪いことかはわからなくとも、そうやって生きていくしかない。
 結局何処にいようと、その場に埋もれる人生。なら、その場所を自分で選ぶのも悪くはない。全てを流されている必要はない。
 何処に転ぼうと先は見えている。なら、我が儘だろうと最低だろうと、自分の気分に乗ってもいいじゃないか……。

「…入院は、しません」
 気が付くと俺の口からはその言葉が出ていた。
「治療も、必要ありません」
 意外としっかりした声が零れるのに自分でも少し驚く。そして、言葉にしてその考えが強い意思に変わっていく。
 顔を上げ真っ直ぐと目の前の医師を見る。
「ここにはもう来ません」
「……な、…何を言っているんだ。治療を拒否すればどうなるか…」
「治療って何をするんですか」
「……」
「治療の出来難い場所なんでしょう? なら、一体何をするというんですか」
「…確かに、今の技術では難しい。だが、全く手がないわけではない。レーザー療法は難しくとも、入院していれば何らかの時に直ぐに対処できる…」
「倒れるのを待てと? で、有無も無く俺の頭を開くとでも?」
「飯田くん…」
「すみません。でも、入院しても意味がない。
 俺は可能生の低い手術は受けたくはない。頭を開き中を診て、何も出来なかったと蓋をする。そんな見世物になる気はないですよ」
「それはわかっている。絶対にそんな事はしない。確かにこれといった治療法は残念ながらない。だが、全てが無駄とは言い切れないよ。
 飯田くん。今は少しの痛みでも、直ぐに耐えられないものとなる可能性が高い。手術はしなくとも、入院をしなければ生活なんて出来ない。薬は絶対に必要だ」
 彼の言い分は尤もだ。だが、治療を疑っているのではなく、俺は入院をして残りの時間を終わらせたくないだけだ。
 出来る出来ないは関係ない。俺がそうしたいのだ。
「なら、薬だけ頂きに来ます」
「…今病院への入院治療に疑問の声が高くなっている。外国ほどじゃないが、ホスピスや在宅の治療が大きくなっている。だからね、そういう気持ちもわかる。
 僕は、君が若いからと馬鹿にしているわけじゃないよ」
「ええ。わかっています」
「君は一人なんだろう? 介護者がいなくてそのまま一人でいるのは本当に危険なんだ。
 今は軽い頭痛でも、失神や痙攣が起こるようになったらどうするつもりだい。それこそ自殺行為だよ…。
 薬もこれからは強い物を使っていかなくてはいけないだろう。入院をすれば薬による副作用もちゃんとケアできる。何より君も安心だろう。何が起きるか本当にわからないんだから」
 理解できるが、感情はついていかない。落ち着いた心に再び火が点く。
 本人がそう望んでいるんだ。もういいではないか…。
「…だが、入院して死を待ってどうするというんです。
 そう、ここはホスピスじゃない。治療拒否をするのなら、もう俺は患者ではないでしょうね。
 …もう、放っておいてください!」
 聞きたくない…。もう何も聞きたくはない…。
 ただこのまま一人になりたかった。そうすればきっと恐怖に捕らわれるだろう。狂ってしまうだろう。だが一人になりたかった。
 人の視線が怖い。俺を見る他人の目が、今まで以上に嫌でならなかった。
 俯いているので目の前に座る医師の表情はわからない。だが、きっとそこには哀れみが浮かんでいるのだろう。
 見てしまうと殴ってしまいそうで、俺は硬く目を瞑った。なのに、瞼の裏には色んな映像がちらつく…。
 ここにいるのは苦痛でしかない。嫌な場所。早く一人になりたい…。
 人が怖い。他人の視線や存在が怖い。…俺との違いを見せ付けられそうで、関わりたくない。
 だが、そう思う反面、他人がいるからこそ自分を保っていられるのだということを俺は知っている。わかっている…。
(…一体、俺はどうしたいんだ…)
 口から大きな溜息が自然に零れた。
 わからない。矛盾した考えばかりが頭をかすめ、もう、どれが本当のことなのかわからない。俺は何をしたいんだろうか…。…自分の存在すら見えなくなりそうだ……。
 時計の秒針の音がふいに耳に入ってきた。
 カチカチと時を刻む。
 静かすぎる空間。それでもこの部屋にも他と同じように時は落ちている。…止まる事は絶対にない――


 張り詰めた空気が一瞬にして緩んだ。
「柿本センセ〜」
 ノックもなく突然開いたドアから、呑気な男の声が入ってきた。
 前に座る医師が反応したのにつられ、俺も体勢を整える。
「あ、まだ、診察中でしたか。すみません」
 俺が居たことに気付いた男は慌ててそう言った。
「何かありましたか?」
「いえ、畑山さんのご家族がお見えになったので部屋で待っていただいているんですが……、後日にしていただきましょうか」
 では、と出て行こうとする男を医者が呼び止める。
「いや、…菊地さん、ちょっと」
「はい?」
「次はいつ来るからわからないですしね、今から行きます。
 その間、こちらをお願い出来ませんかね」
「お願いって…、何なんですか、それは」
 呼び止められた男が呆れた声でそう答えた。
 男同様、展開がわからない俺は思わず眉を寄せながら医師を見ると、悪いが少し待っていてくれないか、と声をかけてきた。
 立ちあっがた医師の隣に男が軽口を叩きながら並んできた。声の主は眼鏡をかけた優しそうな青年だった。俺と視線を合わしニコリと笑う。
「こちら、ケースワーカーの菊地さんです」
 医師が今まで自分が座っていた椅子を進めながら青年の紹介をした。そして、
「飯田くん、僕では君の話を上手く聞けないようだ。だから、変わりに彼に話をするといい。その後でこれからどうするか一緒に考えよう。
 だが、一つだけ。これは覚えておいて欲しい。
 僕たち医者は病を治すということもあるが、それより大事なのは患者一人一人を癒すということだと僕は思っている。実際は僕は医者としてはまだまだだし、人間としても未熟だから、綺麗事の粋を脱していないのだろう。だが、病に苦しむ人の力になりたいと思っているのは本当だよ。
 人間同士だから上手く行かないこともあるが、人間同士だからこそ、苦しみを分かち合えたり、一緒にいい方法も探せられたりする。
 君も一人ではない。そのことに気付けばもっといい道を探せられると僕は思うよ」
 寂しそうな目をしてそう言った彼は、薄くなった頭を軽く叩きながら部屋を出ていった。
 担当患者を専門医でも何でもない男に頼むだなんて……。死に直面した者への対応としてはおかしくないだろうか。だが、腹立たしい感情は浮かんでは来ない。
 何だかんだと言っていたが、彼の言葉は本当に綺麗事ではないか。結局、医者も仕事にすぎないのだ。
 諦めに似た気分。だが、それはなじみの感情だ。他人に求めれるものなんてありはし無い。そんなことは無駄だ。結局は俺の人生は俺のものでしかないのだから…。
 落ち着くというよりは、冷めてきた感情に俺は安心しはじめる。
「さて。まずは、はじめまして、かな。菊地圭吾です」
 椅子に腰掛け、青年は優しく微笑んだ。
 線が細いといった感じの顔立ちだが、それに反してレンズの奥の目は野生動物かのように鋭い感じがした。
「柿本センセイはああ言ったけど、別に君が話したくなかったら無理して話す必要はない。だが、彼が戻ってくるまでは居なきゃいけないので、暇つぶし程度に話でもしていようか。
 もちろん答えたくない事は言わなくていいよ。僕は別に医者じゃないからね」
 目を細めて笑う男。30前といったぐらいの年齢だろうが、こんな仕事をしているからか、歳の割には落ち着いた雰囲気があった。だが、口の端を軽く上げ笑顔を崩さないその表情は、何かを隠しているような感じもする。作り物めいているわけではないのに胡散臭いと感じてしまうのは、俺の性格なのせいだろうか。だがそれを差し引いても、何かおかしな気がした。
 ふと、顔立ちは全く似ていないのに、青年の顔を見ていると荻原の顔が浮かんだ。どうしてだろうか、雰囲気も違うというのに…。
 名前は? という質問から始まり、学校のことや生活のことなどを彼は訊いてきた。愛想がいいとはとてもいえないが、当り障りのない程度に短い返答を返していく。
 そのうちに、話は病気のこととなった。気を使っているのか、嫌なら答えなくて言いと何度か青年が言ったが、どうせ俺が話さなくとも後であの担当医師に聞くだろう。なら、自分で話すのも変わらないと俺は知っている事は全て口にした。
 今まで何も起こらず気付かなかったのが不思議なくらいで、かなり進行していて良くない状態だと、いつ危なくなってもおかしく無いのだと。視界も悪くなるだろうし、頭痛だけではなくこのままだと意識障害にもなったりするだろうから入院は絶対だと。そして、どれくらい生きられるかなんて全くわからないのだということも。
 先程医師から聞いた話を自分に言い聞かせるかのように俺は言葉にした。そして…。
「柿本医師(センセイ)の言うことはわかります。自分でも理解しているつもりです。…危ないと言う事はわかっています。だが、俺は入院はしません。治療も痛みをとるものだけでいい、延命治療はしない。
 それが無理なら、もういいんです。――ここはホスピスではないですからね…」
「なら、どこかのホスピスや緩和ケアを紹介しようか」
「それも必要はありません。俺はこのまま生活していきたい」
 そう言った俺を暫く彼は眺め、軽く苦笑した。そして幾分おどけた感じで肩を竦めて言った。
「…柿本が困るのもわかるね」
「……そうですね。もう、ここには来ません。迷惑をおかけしたと伝えてください」
 席を立とうとした俺だが、直ぐに彼に止められる。
「遠慮するよ。僕は君の担当医師じゃないんだ、君が直接口から伝えなさい」
「……」
「彼がくるまでまっているべきだ。違うかい?」
 仕方なく座りなおした俺に、「さて、どうしたものかな…」と青年は呟いた。そして机の上にあった俺のカルテを見ながら、世間話かのように話し出す。
「確かにここはホスピスじゃない。今はホスピスが盛んになり、普通の病院は治療にかけて患者を人として見ないと思われているようだし、実際そんなところもあるが、全ての者がそうではないよ。僕は君の担当の柿本医師は立派な人を見る医者だと思っています」
 眉を寄せる俺に視線を合わせ、青年は口角を上げる。
「それよりも、君のことだ。
 君がこの後どうしたいのかは聞いたけど、僕には、正直それが本心なのかどうなのかわからないよ」
「…どういう意味ですか」
「君はまだ若い。いきなり自分の病状を告げられて冷静に判断できる者も確かにいるが、そうでない者もいる。君はどうだろう?
 今まで死を目の前のものとして考えたことがあった? それとも告げられて初めてそれを考えた?」
「…それが何か関係があるんですか。俺が治療を拒否するのは嘘だと?」
「そうは言っていない。何と言っても僕は君じゃないから。自分の死を告げられた者の気持ちに共感出来たとしても、実際に知る事は出来ない。客観的なものでしかない。
 だから、治療を拒否すること自体は別に気にならないよ。そう言う人は意外と多いからね」
「なら、何を…」
「君には怒られるかもしれないだろうがね、僕は君の話は諦めにしか聞こえなかった。そういうことだ。
 例え本心だろうと、そう僕には聞こえたんだから仕方がない」
「……」
「駄目だとわかればそれ以上の努力はしない。今時の若者はそんなものだと聞くが、生死については違うだろう。なのに、君はそうだ。自分の死を淡々と喋る。そう、諦めと言うより関心がない、そんな感じだね。
 君みたいな者を診るとは、彼も大変だな」
 そう言い青年は軽く口元をゆがめて笑った。
 他人を全ていい人だとは思わない。俺は一線引くタイプなので、はじめから無条件に信用したりはしない方だと思う。
 だが、優しい笑顔で笑う青年がこんなことを言うとは信じられなかった。いい人だと信じていたわけではないが、自分を傷つける者には見えなかったので、どこか心を許していたのかもしれない。だから、話さなくても済むことを俺は話したのだろう。なのに…。
 目の前の視界が怒りで揺らいだ。
「…あんたに、何がわかる」
「だから、わからないといっているだろう」
「自分が死ぬと宣告されたんだ。いつ死ぬかわからない恐怖に堪えなきゃならない者の気持ちはあんたにはわからないだろう!」
「それは君だけじゃない。生きている者全てには死が来るのだから」
「煩い! なら、あんたは死を目の前に怯えているのか? 違うだろう。遠い未来のものなんだろう。
 俺にはそんな不確かなものではなく、目の前にあるものなんだよ! その恐怖に怯えて何が悪い!」
「怖いのかい?」
「…当たり前だ。…逃げ出せるのなら逃げたい。先が長くないのなら、こんな気持ちを持ち続けるよりも…直ぐに楽な道を選びたい。
 そう思うが…俺はそれでも、死にたくない…。死にたくないんだ……」
 別離が悲しくなる特定の者がいるわけではない。死の恐怖だけを考えたのなら、先に逝った大切な者と同じ場所に行くと考えれば、安心さえする部分がある。この世の中を離れることへの未練はあまりない。
 ただ、漠然とした不安がやってくる。変化に対する恐怖だ。生きている俺が死ぬという変化が怖い。
 自分が生きていた事を忘れられようとも、存在が消え去ろうともどうでもいい。問題は俺自身のことだ。俺は俺が消えていくのに耐えられない。今まで自分だけを見てきた。だからこそ生きてこれたのだ。それなのに…。これからどうしたらいいのだろうか。何を見て生きていく。死に向かう自分を見て――?
 …俺は強くはない。そんな自分に耐えられない。
 だが、自ら死ぬ事も出来ない。今まで縋ってきた自分を否定したら、それこそ俺の人生は何だったのだろうか…。
 …どうしたらいいのか、わからない。…自分の事なのに、全くわからない。……答えなんて本当にあるのだろうか――
「…直る病気だったのなら、どんな治療でも耐えようと思ったでしょう。だが、そうではい…。…なら俺は、このまま、今までの生活を続けたいんです。
 ……それが、無理だろうと、できる限りそうしていたいんです。
 俺は入院をして、死と向き合うのが怖いだけなのかもしれない。…逃げているだけなのかもしれない。だけど、……明日倒れるとわかっていても、それまで俺は普通にしていたい。ここでは俺は俺ではいられない……」
 そう、時に流され、最期を迎えたい。
 逃げだといわれようと、敵わないものと向き合いたくない。…そんな時間はない。
 自分を騙しているのだろう。それでも、このまま今までのように過ごしたい。それが何の意味のないことでも、俺は救われる気がする。
 受け入れられるのなら受け入れたい。向き合えられるのなら向き合いたい。だが、俺にはそんな強さはない。
 例え本当は一人で闇の中にいようと、人前では平然としていたい。それが俺を支えてくれる。そう、入院をすれば、自分の殻に閉じ込むしか出来ないだろう…。
「…正直、何が本当の考えなのか、単なる理想なのか…わからない。自分がどうしたいのかはっきりとはわからない…。
 だけど、今までのように生活していきたいと願っているのは本心だと思う。
 …別に何があるわけじゃない。だが、その平凡な日々の中にいたい」
 まとまらない思いをそのまま口に出す。意味が通っているかも怪しいのに、彼は黙って耳を傾けていた。
 声が震えるのを止められず、口元を覆うと自然に嗚咽が零れた。視線の先の薄い灰色の床が涙で歪む。それでも俺は言葉を繋いだ。
「…このまま入院したら、後悔する…。
 ……これまで、上手く生きてきたわけじゃない。楽しかったわけじゃないが、まだまだこの世にいたいと、今になって思う…。…やりたいことも、知りたいこともある。…入院して、病に残りの時間を使いたくない…」
 こんな俺は、最低なのか? …逃げてばかりで何もしないのは、悪いことなのか?
 例えそうだとして、どうだというのだ。
「自分の感情で動くのは、そんなに悪いことなんですか? もう、放っといてください…。
 誰かに、俺の生き方を認めてもらいたいわけじゃない……、ただ、俺は、こうして生きていたいだけなのに…。なんで……」
「…もういいよ、わかったから」
 彼はそう言うと優しく俺の頭に手を置いた。
「…飯田くん。確かに君の目の前には生まれてきた以上必然的な死がある。だからと言って何も死を大人しく待つ必要は無い。死を感じる場所にいたとしても、その時を迎えるまで君は生きているんだよ。生きていていいんだよ。
 自分のために生きるべきなんだよ」
「……」
「キツイことを言ったのは謝る。だけどね、君のように淡々と自分の死を見て語られるほど僕たちに辛いことは無い。
 治療を望まない君を逃げているとも弱いとも僕は思わない。君がそれを心から望んでいるのならそうするべきだ。自然に死を迎える事は悪いことでは無いし、逆に機械に繋がれながら生きるのも悪くは無い。だってこれは一人一人の価値観みたいな物であって、誰かに非難されたりするもじゃないからね。そう、誰も答えなんて出せないものだよ。だから、自分の答えに迷うことはないよ。
 僕が気になったのは、生きているのにもう死んだかのように語る君の姿だよ。君の目にだけ見える結果を語られては、僕たちは何も出来ない。いや、僕たちは必要の無い物となってしまうね。それが悲しかったんだよ」
「……我が儘ですね」
 そう言うと、彼は「参ったな」と苦笑した。
「そうだね、思い上がった自己満足なだけなんだろうね。酷いことを言って君を傷つけ、悲しいんだって言葉を聞かせて。ホント自己中だね、僕は。
 でも、この世の中結構何でもありだよ。
 硬く考えることは無い。君のしたいように生きればいいんだよ」
 顔を上げると、彼はゆっくりと頷いた。
 なんて人なのだろうか。雑な言葉や態度とは逆に、全身で応援しているかのような、それでいて無理せず生きろよとからかっているかのような、そんなおかしな空気を持っていた。言葉には出来ないがそれは何故か安心するものだった。必要以上に入った力を取ってくれるような、そんな感覚。
 ゆっくりと深呼吸をし、俺は再び願いを口にした。
「…入院はしません。
 虫がいいが痛みなどの症状を抑える薬は欲しい。こちらで出せないのなら、別の病院に行きます」
「大丈夫だよ、言っただろう。柿木センセイはね、僕なんかよりずっと患者思いのいい奴なんだよ。それに何より、この僕がいれば絶対オッケイする」
 そう言って笑った彼の言うとおり、その後戻ってきた柿本医師の説得に俺の意思が変わることはなく、直ぐに望む治療法を承諾してくれた。
 最低でも週に一回は来る、少しでも症状に変化が出たり何かあったりしたら必ず言う。そんな約束をして病院を後にした。


 駅に向かう途中切っていた携帯電話の電源を入れると、ポケットに戻す前にそれは電子音を響かせた。
 なんてタイミングでかけてくるのだろうか…。電話からは聞きなれてしまった荻原の声が流れてきた。
 俺は現実逃避の道具として、彼を利用していたのだ。
 こうしてもう逃げられなくなった今、俺にはその存在は必要ない。
 自分はもうすぐ居なくなるのだ。この世から消え去るのだ。…今更新たな関係を築いてどうする。態々生きる者に己の死を触れさせてどうする…。
 …先日彼を非難した俺がその行為をとってどうするというのだ……。
 今ならまだ終われる。
 そう思うのに、俺は電話を切ることが出来なかった。
 黙ったままの俺をからかう荻原の声が、体の中を通り過ぎていくのをただ静かに感じていた。

2002/03/04