10

「早いものだね。もう、冴子が亡くなって二年になるのか…」
 側に立つ田島さんがそう呟いた。
 最愛の人が眠る墓。水を掛けられた御影石に映えるように、今生けたばかりの淡紅色と白色のササユリが風に揺れている。
 高台にあるこの墓地からは、綺麗とは言い難い東京湾が見えた。海が見える場所に眠りたいと言っていた彼女がこんな灰色の海で納得しているのか、ここから見える景色にいつもそんな疑問をもつ。彼女ならきっと、自分が行ったことのない場所であろうと何処だろうと、もっと綺麗な海を望んだのだろう。そうわかりながらも墓をこの場所に決めたのは、俺の我が儘でしかない。
 あの頃の俺は縋れるものを失うわけにはいかなかった…。
 冴子さんは元々家族との繋がりが薄く、俺を引き取ったことにより余計に親戚から孤立することとなった。それを承知で何故俺を引き取ったのかは知らない。
 彼女の遺言には全てを俺に与えると記されていた。葬式も何もしなくていいとも書かれていてが、俺が喪主を努めて行った。その後は、彼女の言葉通り何もしていない。生前言っていたように、海が見える墓地に墓を立てたぐらいだ。
 ここに墓を決めたのは、単に参りやすいからというだけだ。
 墓なんて単なる残された者の支えとなる象徴でしかないとわかっている。魂がそこにあるだなんて思ってはいない。だが、俺はそんなものですら、側に置きたかった。まるで本当に彼女が存在するのかというように、何度もこの場所に足を運んだ。今でこそその回数は少なくなったとはいえ、彼女が亡くなり、目の前にいない事実を受け入れた時は、毎日のように通った。暑い夏の太陽の下、この墓の前で立ち続けたのは遠くない過去だ。
 何を考えるわけでもするでもなく、ただ立ち尽くすだけの俺の姿はきっとおかしなものだっただろう。だが、周りの目など気にならないほど、俺は自分の中に落ち込んでしまっていた。初めて大切なものを無くし、その痛みには気付けないほどに心が壊れていた。
 何もしなくても良いと言ったのは、俺を守るためだったのだろう。葬式にきた彼女の親族は遺産について不服を訴えた。俺や冴子さんのことを罵倒し、金を手に入れようとする醜い者達を押さえてくれたのは、冴子さんの友人である田島さんだった。
 自分も辛いはずなのに、田島さんは何かと面倒を見てくれた。友人と言う関係を保ってはいたがそれ以上の感情が二人にあったことを考えれば、彼にとっても俺は邪魔者でしかなかったのだろう。冴子さんと二人で生活している時は、何度か顔を合わせても深い付き合いはあまりしていなかった。
 だが、冴子さんが入院し始めた頃から、彼女に言われたのかどうなのか俺のことを気にかけてくれるようになった。
 こうして三回忌の今日も、俺は田島さんと一緒に墓参りにやってきた。彼とこうして墓の前に立つのはもう何度目のことだろうか。
「行こうか…?」
「…えぇ…」
 また来るよ。冴子さんに向けてそう言う田島さんの声が風のように俺の耳を通り過ぎた。彼と同じように俺もここを離れる時は、いつもそう心の中で呟いていた。だが、もうそれも出来ない。…ここにはもう二度と来ないだろう。
 今日ここに立って俺は、彼女に縋りつくことは出来ないのだと気付いた。以前のように、墓の前に立ってやり過ごせる事は出来ないのだと。それでおさまるものではないのだと…。
 彼女にこんな俺の姿を見せたくない。そんな思いも確かにあるが…、彼女では癒せられはしないのだ。その事の方が俺には辛かった。その現実が、痛かった。だが、それは仕方がないことなのだろう。
 死んだ彼女に、俺は何も求められない。何も願えない。彼女と同じように死に逝く俺を支えられるのは、死ではなく、生だから。
 しかし、それに気付きながらも生は苦でしかないのだ。
 …いや、その苦しみこそが、俺が生きている証拠なのか…。
 目の前に広がる霞がかかった空と海。薄灰色の景色は色をなくした写真のように何も感じない。だが、吸い込まれそうな感覚…。
 俺はこの力に、あとどれくらい抵抗することができるのだろうか…。


 田島さんの後に続き、ランチタイムが終わり空いた喫茶店の扉を潜る。微かに流れるBGM代わりのラジオから、耳につく時報音が聞こえた。
 コーヒーを注文し、どちらからともなく煙草に火を点ける。ゆらりと上っていく紫煙とは逆に、二人の間には沈黙が落ちた。
「…どう、真幸くん、学校は。あそこは就職率そんなに悪くはないんだろう?」
 運ばれてきたコーヒーに砂糖を少し入れながら、田島さんはそう切り出した。
「そうですね。でも、俺は出来るかどうか怪しいですよ」
「どこを受けているの?」
「いえ、まだ始めていません」
 遅いとはわかっているんですが、と肩を竦める。
「ま、どこも駄目だったら、私の事務所で働けばいいさ」
 そう言って笑う田島さんに、俺は曖昧に笑みを返す。…本気で言っているのか冗談なのか量れない。
 弁護士をしている彼にとって俺のような学生は役にはたたないだろう。なので、冗談だとは思うのだが、そんな冗談を言う性格ではないとも思う。真面目すぎるというわけではないが、少なくとも俺をからかう人物ではない。40半ばの年齢と職業に相応しく落ち着いた大人である彼は、いつも俺を一人の人間として扱ってくれる。
 だが、それ以上に大事にされていると感じるのも事実だ。
「就職のことでも他のことでも、何かあったら相談してくれていいんだよ」
 役に立つかどうかは怪しいけどね、と微笑み田島さんはカップに口をつける。
「…ありがとうございます」
「冴子のように私は気がきく男じゃないから、言ってくれなければわからないからね。
 …何か、悩みでもあるのかい?」
「いえ…。何故です?」
「ん? いや、何となくね」
 気にしないでと彼は目を細めて笑った。そうすると目尻に皺が出来、少年のような雰囲気が生まれ、自分の父親ほどの年齢の彼を子供のようだと思ってしまう時がある。そんな時、俺を何とも言えない気分になる。
 田島さんのそんな笑顔を見ると、父親の事をふと思い出す。彼に父親像を重ねているつもりはないが、時々そう思ってしまう。
 冴子さんと暮らしている時は、両親の事を思い出すことはあったが、誰かにその姿を求めることはなかった。だが、彼女が亡くなり、俺は弱くなったのかもしれない。死というものを少しは知り、敏感になったのかもしれない。
 田島さんだけではない。他のことでも、日常の些細なことでも、時々両親の事を思い出す。自分の病気を知ってからは、特に…。
 それは俺を苦しめる材料の一つでもあるが、もっと…、もっと、違う何かのような気がする。それが何なのかわからないが、きっと死を前にした俺が気付かなければならない何かなのだろう。だから彼らの事を思い出すのだろう。
 そう、心の不安や恐怖、絶望や憎しみ。そんな感情の表れだとは思いたくない。何かの答えを、俺はそこに求めている。…求めてしまっている。
 これは、俺自身が乗り切らなくてはならないことだ。誰にも救いを求められないことなのだ。だから…。
「真幸くん、少し痩せた?」
 田島さんのその問いに、苦笑しながら「あまり変わっていないですよ」と俺は答える。テーブルに置いたままのケースから煙草を一本取り出し火を点ける。そういえば…。煙草を教えて貰ったのは田島さんにだ。
 俺の18歳の誕生日にたまたま家にきていた彼が、知らなかったとはいえ何もあげないのも悪いだろうと、自分が使っていた煙草のケースとライターをそのままくれたのだ。
 冴子さんはそれを見、苦笑いしていた。「まだ18よ」。そう窘める彼女を、「大学生になるんだからいいだろう」と田島さんは宥め、その後三人で酒を飲んだ。
 考えればたった三年前のことだというのに、…とても遠い出来事のような気がする。
「顔色、良くない気がするよ。気をつけて」
「…あぁ、最近遊び回っていて、あまり寝ていないんです。そう見えるのはその所為ですよ」
「そう…。ま、学生の間だけだからね、そんなことが出来るのは。私なんかもう、寝ないと体が言う事を聞かないよ」
「かまいに来る奴がいて振り回されているだけですよ。俺も疲れます」
 そう言って笑うと少しホットしたような顔を田島さんは見せた。
 彼に心配させない為なら俺は嘘だって平気で付く。それは今にはじまったことではないが、見破られたくないと思ったのは今回が初めてかもしれない。
 最愛の人を見守ってくれたと言う点で俺は彼を尊敬している。だが、それと同時に嫉妬もしているのだろう。彼のように俺にも力があったら、もっと彼女を幸せに出来ただろう…。何度も考えては馬鹿なことだと一笑しようとし、出来ないでいる。
 だからこそ、俺のことで心配をかけたたくはないというのも確かにあるが、弱さを見せたくないという思いの方が強いのかもしれない。敵対しているわけではないが、それに近い負けん気があるのかもしれない。対等になれないとわかりながらも、そうなりたいと願っているのだろう。…なんて子供なのだろうか…。だが、そんな苦笑も心地よかったりする。
 散々な自分を見せたこともあるが、今度のことでは迷惑をかけたくはないと思っている。バカな餓鬼のプライドで、俺の弱さをどれだけ隠せるだろうか。だが、彼に対する感謝もあるからこそ、何処までそれを胸に頑張れるのか全くわからないが、頼る事は絶対にしたくない。迷惑はかけないのだ。
 そう決めているから、俺は、田島さんには何も話す気はない。
 死んだら一番迷惑をかけるのは彼だろう。それは十分承知している。だが、この我が儘は通すつもりだ。
 冴子さんを看取った彼なら、俺のことも苦笑して納得してくれるだろうから…。


「…あ」
 ふと向けた窓の外に、駐車禁止標識を無視して停められた、歩道脇の黒塗りの車に乗り込もうとしている荻原を見つけた。車のドアを開けているのは樋口だった。その向こうに山下もいる。好奇の視線を歩道を歩く人達が向けているが、彼らは一向に気にはしていないようだ。
 神出鬼没な荻原によく捕まる俺だが、こうして反対に俺が彼を見つけるのは初めてだなと思わず口の端を上げてしまう。覗き趣味はないので、いつもやられていることをやり返すというのは、何ともおかしな気分なのだが。
 そんな俺の感情に気付いたかのように、荻原が動きを止め振り返りこちらを見た。あちらからは植え込みのせいで見えないはずなのに…。そう思いながらも一瞬驚いたのだが、どうやら誰かに呼び止められたかのようで、そこに駆けてきた男とそのまま開いたドアに凭れ話しを始めた。やってきた男は荻原より年上のサラリーマン風の男だったが、遠目からでもわかるほどに下手に出ていた。
「…どうかしたの?」
 田島さんの声に慌てて視線を向けると、彼も俺が見ていた窓の外に視線を向けるところだった。
「…いえ、知り合いがいただけですよ」
 その言葉に数拍沈黙をおき、外に視線を向けたまま、
「――まさか、あの男じゃないだろうね」
 と、そう言った。彼のその声には、俺を心配する時には含まれない感情が交じっているように感じられた。
 俺は田島さんの視線を追うように歩道を行き交う人を通り越し、もう一度荻原がいる方に目を向けた。相変わらず、開けたままのドアに腕をかけて凭れて話をしている荻原がそこにいたのだが、
「…いえ、もう通り過ぎましたよ…」
 何故だかとっさにその言葉が出た。
 いや、何故だかと言うわけでもないだろう。絶対に隠しておきたい事ではないが、ヤクザもどきのあの男との関わりを態々田島さんの耳に入れる必要は無い。そう思ったからに過ぎない。
「単なる学校の知りあいです」
「そう…」
 話が終わったのか、荻原が車に乗り込み樋口がドアを閉める。頭を下げる男を残し、直ぐに車は走り去った。
 顔を戻した田島さんのその表情は、何とも言えないものだった。
 眉を寄せている姿は、何か考えているようでもあるが、嫌悪を表しているかのようでもある。
「どうかしましたか…?」
「…ん? …ああ、すまない。何でもないよ」
 そう言いながらも、空になったカップを手にし、口元まで運んでそのことに気付く。
 俺としてはこのまま何もない方がいいのだろうが、彼のこの態度と、そして先程の言葉がとても引っ掛かった。
「あの男って…」
「――いや、何でもないんだよ」
 失言だ、気にしないでくれ。そう言い、近くにいたウェイターにコーヒーの追加を頼む。直ぐに運ばれてきたコーヒーに口をつけた彼の名を、俺はもう一度呼んだ。
 田島さんがさしていたのは荻原である事に間違いない。いや、その周りにいた者達である可能性もない事はない。だが、俺は何故かそう確信している…。
「…田島さん」
「……」
「俺に何か関係があるんですか?」
 そう思ったのは直感もあるだろうが、この数年付き合ってきた彼の人柄を考えるとそうとらえてしまうのは自然なことなのだ。
 仕事柄か、口にするべき事としてはいけないと言う事を田島さんはきちんとわけている。仕事のことで他人の耳に入れてはいけないことをうっかりと漏らすなど絶対にしない。頭で考えるよりも体がそれを習慣にしている、覚えているといった具合にだ。
 なので、今のこの状況はおかしいのだ。口を滑らせた事もおかしければ、その対応も。仕事のことではないのは明確で、はっきりと口にせずに誤魔化しかけるのは、躊躇っているからだ。なら、何故躊躇う。…答えは俺に関係しているからだ。それしかない。でなければ、彼はきっぱりと俺には関係のない事だと言うのだから。
「あの男とは?」
「……」
 それには答えず、田島さんは軽く頭を振りながらカップから指を離し、煙草を取り出し火を点けた。
 だが、一口吸っただけでそれを灰皿に押し付け深い溜息をつく。
「……真幸くんも、もう21歳になったんだよね。
 ――なら、…秘密にすることもないのかもしれないね」
「…秘密って、何ですか?」
 田島さんがどうして彼を知っているか、そんなことだけではない。予想外の事態に不安が募る。
 言葉を濁す彼に俺はそう問いながらも、聞きたくはないような気がした。自分にとっていいことならば、彼がこんな態度をするわけがない。…まるで、病の告知をされる時の感じに似ている。ふと、あの担当医の顔が頭に思い浮かんだ。
 だが、あの男というのが荻原だろうと誰だろうと、俺に衝撃を与えるような関わりがあるとは到底思えない。そう、死の告知以上にすごいことなんてないだろう…?
 見えない不安で高鳴りそうになる胸を、そんな思いで押さえつける。怖がる必要なんてないのだ。第一、まだ、誰だとは決まっていない……。
 そう戸惑う俺と同じように、田島さんは決心しきれないような迷った表情で話し始めた。
「…そうだね。
 真幸くんは、御両親がどうして亡くなったのかは、知っているんだよね」
 何を今ごろ言うのだろうか。…それが関係あるのか?
 そう訝りながらも頷くと、彼も同じように頷いた。
 両親は大型トラックと接触事故をおこして死んだ。
 当初は、トラックの運転手の証言と彼らの借金から自殺とも思われ捜査が行われたが、遺書も何もなく、トラック自体がかなりのスピードを出していたこともあったので、結局事故として処理された。
 だが、俺はそうだとは思っていないし、関係者達もそう思っていなかっただろう。葬式にきた親戚は、自分達の保険金で大方の借金を返してくれるのは助かるが、いっそのことなら全額返金できるほど保険をかけているべきだったなどと話した。葬儀の席で人目を憚りながらとは言えそんな会話をしていた彼らの声が耳につき、怒りは無かったが未だ鮮明に耳の奥に残っている。
「…会社が失敗して借金を苦に、でしょう。
 それがどうしたというんですか…」
 特に感情もなくそう言ったつもりだったが、
「…君はまだ、両親を許せないのかい…?」
 知らないうちに不快感を表していたのだろうか、田島さんが悲しそうにそう言った。
「……いえ、そんなことはありません。許すも、許さないも、…彼らのことはそんなものではありませんから…」
「君が両親とどんな風に暮らしていたのか、詳しくは知らないから言える資格はないのだが…。
 君はもっと御両親のことを考えるべきじゃないのかい?」
「……」
「もう君も大人になったんだ。あの頃は見れなかったものが見れるようになっているはずだよ」
 初めてだ…。田島さんが俺に両親の事を言うのもそうなら、こうして説教のように強い口調で言うことも。
 怒られた子供のような気分だ。だが、怒られる理由が俺にはわからず、…憤りが募る。 「…何を言いたいんですか」
「傷ついていたのは君だけじゃないだろう」
「何を……」
 言っているのか。そう言い返そうとしたが、言葉は続かなかった。息を飲み込み俺はテーブルの上で掌を固く握り締めた。
 別に怒ることではない。腹を立てる理由なんてないだろう。
 そう思うのに、何故か心が騒ぐ。
「…真幸くん。君も本当はそうわかっているんだろう? 気付いているんだろう?」
「……一体、何を…」
 両親も苦しんでいたと俺に教えたいのか? それをして何になるというのだ。許してやれというのか? そう言えば納得するのか?
 田島さんの意図が俺には全く見えなかった。
 確かに、気にしても仕方がないと思いながらも、一番拘っているのは俺だろう。だが、そんな事は当たり前だろう。彼らが俺の親である事は事実なのだから。
 どうしてもっと愛してくれなかったのかと、自分では気付かずに思っているのかもしれない。俺は不幸だと心では泣いているのかもしれない。本気で両親を憎んでいるのかもしれない。だが、だからと言ってどうだというのだ。
 何故、今ここでそんな事を言われなければならない。人伝に聞いただけの彼に、何故…?
 関節が白くなるほど握っていた手の力を緩めると、逆に薄く指の型に赤みが差した。俺は小さな溜息を吐きながら、髪をかきあげる。店は空調のせいで涼しいくらいだというのに、その手は少し汗ばんでいた。
「…さっきも言ったように、俺は、両親を憎んでなんかいません。
 あなたが、どう家族の事を聞いているのかは知らないが、俺は別に自分を不幸だなんて思っていませんよ」
 目を閉じ小さな深呼吸をし、感情を押さえ込みながら俺はそう言った。
 …他に何て言えるというのだ…。今ここで、彼らの事を詰れば気がすむものではないだろうし、したいとも思わない。何より、俺にこんな話を始める田島さんの考えの方が気になる。…気に触る、だが、その感情を見せるほどの強さは俺にはない。
「…誉められた最期ではなかったでしょうが、俺は彼らを今でも両親だと思っていますよ」
 確かにそれは事実だが、言葉にすると何とも嘘臭いものだった。そんな自分の発言に苦笑が漏れそうにもなる。
 俺は冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。少しきつい苦味が口に広がる。

「…さっき歩道脇に黒い車が止まっていた。それに乗り込んだ若い男を、君は見たかな…」
 やはり田島さんが見ていたのは荻原だったのだ。確信していたとはいえその事実にドクリと鼓動が大きく脈打った。
「君より少し上の年齢で、黒のスーツを着ていた男なんだがね」
 それには答えず、俺は田島さんに視線を向け、「……誰ですか」と訊いた。
 その問いに今まで渋っていたはずの彼は、何かを決心したのか、あっさりと答えを口にした。俺の思いもよらぬ言葉で。
「君の両親を自殺に追いやった奴だよ」
「……」
「彼の名は荻原だ。確か下は…仁一郎、だったかな。今は青年実業家といった肩書きだろうが、…全然変わっていないようだね…」
「……何が、です…」
「彼はね、ヤクザだなんだよ」
 耳の奥が軋んだような音を響かせた。だが、その耳鳴り以外は何も変わらない。驚く自分よりも、そんなことかと思う自分の方が強かった。
(こんな…、…冗談じゃない…)
 これでは病を告知された時と何ら変わらないではないか。その事の方が、俺を驚愕させる。なら、俺はあの時のようにあまりの驚きで理解していないだけだというのか? 怒りで感情に気付かないのか?
 …そんなわけはない。そんなものは、どこにもない…。
 驚いたが、それだけだ。怒りなんて湧いてはこない。そう、現に俺の頭に、両親の事は浮かんでこないのだ。悲しみも、ない…。
 両親を自殺に追いやった。その言葉と荻原はどうしても俺の中で結びつかない。
 確かに何でもしていそうな奴だ、その可能性は十分にあるし、田島さんが嘘を言っているとは思えない。頭では、そうなのかと事実として俺はもう認めている。そんな関係があったということへの驚きと、大したことではないなという苦笑が湧き上がる。
 だが、感情は繋がらない…。
 荻原への怒りも湧かなければ、ああいう最後をとった両親への感情も湧かない。
 田島さんが再び煙草を取り出し火を点けるのに合わせ、俺も新しい物を手にし火を貰った。カチッと金属音を響かせライターの蓋が閉まる。
「…君を引き取るにあたって冴子に手を貸したのは私だ。それは知っているね。
 正直、私は君を引き取ることには反対だった。血縁者ならともかく、親戚とも呼べない子供だ。あの時冴子はまだ30にもなっていなかったんだから、当たり前だろう。なのに、彼女は全く周りの言う事を聞かなかった。頑固だったからね、とても。
 だから、君には悪いが、私は仕方なく手を貸したんだよ。その時、事務的なものだけでなく色々詳しく君の家族のことを調べたんだ」
 そこで言葉を切り、彼は窓の外に視線を向け紫煙をふっと吐き出した。店内の冷房の風に流され、その煙はゆっくりと姿を溶かしていく。
「あの時、ある事業企画が君のお父さんの会社にあったようだ。それが成功すれば会社は必ず大きくなる、そんな企画だ。だが、残念なことにそれは失敗に終わった。
 その後は君の知っているように、ああいう形になってしまった」
「……その失敗で、多額の借金が出来たんですね」
「ああ、そうだね。
 だが、企画は順調に進んでいたんだよ。関わった者には成功が目の前まで見えていただろう。なのに、それが突然ああなってしまった。
 理由は細々と上げれば色々あるんだろうが、一番は、協力していた会社が急に手を引いたからだよ」
「…それが、どうしたんです。…その会社が、先程の男の会社だと? だがそんなことはどこにでも有り得ることでしょう」
「……君のお父さんはその企画の資金としてお金を色々な所から借りていた。あの時の彼はその内の一つ、町金融に関係しているヤクザの単なる息子だったよ」
 質問にそう答えた田島さんの言葉に、俺は確信しながらも確認する。
「もしかして…冴子さんが返済してくれたところの、ですか…?」
「ああ、覚えているのかい」
「えぇ…」
 忘れるわけがない。名前も金額も冴子さんは詳しく俺に言いはしなかったが、幼いとはいえ遺族の俺が全く知らないわけがない。両親の保険金などの遺産は全て借金の返済に回された。だが、全額を返すことが出来ずに数百万の借金が残った。それを「出世払ね」との一言で笑って返済してくれたのは冴子さんだった。借金付きの俺は親戚にはお荷物以外の何でもなく、彼らは冴子さんを奇異の視線で見ながらも喜んで俺を放り出した。
 俺にとってはそれはとても幸運なことだった。本当なら親戚中を盥回しにされるはずだったのにそうはならなかったのだから。だが、子供だった俺は、どうしてこの人は俺を引き取るのだろうかといった疑問ぐらいしかもっていなかった。彼女との暮らしが幸せなものだと気付くまで、考えもしなかった。だから、借金のことも知ってはいたし感謝はしていたが、あまり興味はなかったように思う。その金額がどれほど大きなものなのか、理解しきれていなかったのだろし、冴子さん自身話はしなかったので、俺は都合よく考えないようにしていたのかもしれない。
「返済には、彼女の変わりに私が数度手続きに行った。そこで、さっきの男に会ったんだよ。…直接話したわけではないが、私はあの時の彼の顔が忘れられないよ。
 大きな暴力団の組長の息子には全く見えない。女子生徒にもてそうな幼さが残るかっこいい青年だったよ。…だが、人懐っこそうに笑っていたのに、私にはかえってそれが怖かった。何故だかその時はわからないが、二度と関わり合いたくないと思ったね」
 短くなった煙草を灰皿に入れ、彼は小さく溜息を付きながら、右手で口元を擦った。
 …それが何だというのだろう。両親を死にやったというのは、その会社の取立てが厳しかったからと言うことなのだろうが、確かに親がヤクザだったとしても、その頃の荻原が今のような仕事をしていたとは思えない。
 それに、俺は全く気付かなかったのだ。彼らが借金に苦しんでいることなど。いつも家にいたわけではヤクザが来たことなど記憶にない…。
 そう、あの頃の俺は家には居る場所がないのだと、学校が終わっても直ぐには帰らずに時間を弄びながら街をうろついていた。帰っても部屋に閉じこもるだけで、大抵家に居た母親と会話をする事も全くと言っていいほどなかった。それこそ、父親と顔を合わせるのなんて、月に何度あったことか。
 それが普通だった。寂しいともどうにかしようとも思わなかった。その場を逃げるだけで精一杯だった俺が、何故彼らの異変に気付けるというのだろう。
 親ではないと詰る俺も、彼らの子供ではなかったのかもしれない。家族らしいことと言えば、同じ家を住処にするだけだったのだから…。
 近くの席に、学校帰りの高校生の男女のグループが座る。それまで聞こえていたジャズが直ぐに彼らの騒ぎあう声に変わる。だが、俺達の間にはその喧騒は落ちてはこなかった。
 長くなった灰を灰皿に落としながら、田島さんは軽く息を吐いた。
「それからだ。しばらくしてその組が解体したんだよ。
 …彼が組長である父親を死に追いやって潰したんだと噂で聞いたが、真相は知らない。
 その後、彼は次々に会社を興した。自分の名義ではあまり作らないので正確にはわからないが、それは一介の学生ができる数ではなかった。書類では残らないところも入れるとなると、それこそ数え切れないくらいだろう。
 その中に、あの会社を見つけたんだよ。君のお父さんの企画を潰した会社の名前をね」
「……えっ?」
「はじめは私も偶然だと思ったよ。だが、違った。彼はずっと前から、組がある頃からいくつもの会社を持っていたんだ。…高校生の子供がだよ。確かに、表向きは別の者の会社だったようだがね、狭い世界だ、それなりに調べられる。
 彼の会社との企画、彼の会社からの借金。そしてあの結果だ」
「……」
「偶然なはずがないだろう?
 今も彼は法ぎりぎり、いや、法なんて関係なく好き勝手にやっているよ。この世界、力があればどんなことでもできるというのを実践している。
 やり方がとても上手い。証拠は残さない。いや、残したとしてもそれをカバーできるだけのものをもっている。
 …恐ろしい男だよ」
「…だから、彼が父を…」
 そう言うからくりで、田島さんは荻原の事をあんな風に表現したのだ。両親を死に追いやった男だと…。
「私はそう思っているが、証明する方法は残念ながらないんだよ。…真相はそれこそあの男しか知らないのだろう。…いや、彼ならもう忘れているのかもしれないな…。
 冴子にはこのことは話したよ。だが、彼女は君には言わないでくれと言った。私もそう思うからこそ、今まで言わなかった。…済まない」
「……謝ることでは、ないです…」
「…事実はどうあれ、結果は残念なことにああなった」
 それが答えだという風に彼はきっぱりと言った。
「君の御両親が何を考えたのか私にはわからない。だが、人の親でもない私が言うのはおかしいのかもしれないが、彼らは君に未来を残したかったんじゃないだろうか…。あの状況で君を残すことはとても辛いことだっただろう。君の事を考えなかった事は絶対にない。考えたからこそ、一人にするとわかっていても君を一緒に連れては行かなかったんだよ。
 親ではないが、同じ年代の私や冴子には痛いほどその思いがわかったからこそ、君には言わなかったんだよ。いや、君に伝える覚悟があの頃の自分達にはなかったんだ…。
 だが、私は今の君には知って欲しいと思った。以前なら、この話を聞けばあの男への怒りが溢れるかもしれなかっただろうし、逆にどうでもいいと過去のことだと思ったのかもしれない。だが、今の君なら御両親の事を考えてくれると、そう思っているよ。」
 勝手に話して彼女に怒られるだろうか。田島さんは苦笑しながらそう呟いた。
 何を思い田島さんがそう言ったのかはわからないが、俺にはわからない変化を彼は感じたのだろう。それとも、それなりの歳になった俺への試練のつもりなのか…?
 だが、俺は……。俺は田島さんの言葉を受けてもなお、死んだ両親のことよりも、現に自分の前に存在する男の事の方が気になっていた。

「……冴子は君のことを優しすぎる子だと言っていた。だからこそ、彼女は大事な事は君自信が気付くまでは言わないようにしていた。近くまで導いても最後の一歩は君に選ばせる。そうやって君と付き合ってきた。だが、もう君は子供じゃない。そうしてくれる冴子もいない。
 君はもっと周りを見た方がいいと私は思う。御両親のこともそうだし、今君が生活して行く上でもそうだ。もっと、他人を見るべきだよ」
「……」
「君は人と一線を引いてでしか付き合わない。それが悪いとは言わない、確かに必要なことだ。だが、君の場合線を引いたらそこまでだ。線を引いた状態でもなお、相手の事を見なければ、知ろうとしなければ、何も変わらないんだよ。
 真幸くんならできるよ。あの冴子と上手くやっていたんだから」
「…冴子さんは、俺にとっては特別です」
「彼女もそうだったんだろうね。だから私は君に嫉妬していたよ」
 少し照れたように田島さんは笑い、「今だから言えることだけどね。子供に嫉妬するなんて、大人気ないだろう」と肩を竦めた。
「だが、君を知って、私は君を大切だと思うようになった。冴子の意思を受け継いだだけではなく、君自身を好きになったんだよ。
 人は変わるよ、真幸くん。
 過去を持って歩くのを悪いとは言わない。だが、君の場合は要らないのに持ってしまっているといった感じだ。引き摺っている。持つのならきちんと両手で持ちなさい。そうすれば、もっと上手く歩けるよ」
 結局、田島さんは俺を心配し、励ましてくれているのだろうか。自分の感情で走っているだけではないかと彼を詰る事は簡単に出来るが、俺はそうは思わなかった。今はまだ、思いもかけない話で驚き頭がついていかない感じだが、それでも、聞いた話の内容よりも、田島さんの俺を思う感情の方を嬉しく思った。
 両親の死に荻原が関わっていたのは確かに驚いた。正確な事実とは限らないが、父と彼の間に何かあったのも、田島さんの単なる妄想ではないのだろう。
 ショックというものは全くない。だが、心に空洞が出来てしまったような感覚。
 田島さんと別れてから俺を襲ったのはそんな脱力感に似たものだった。
 何がなんだかわからない。そんな想いが頭を回る。
 別に真実を知りたいわけではない。
 過去のことだ。それがどうであれ今は変わりはしない。そう、何をしようと、両親の心を知れるわけでも、生き返るわけでもないのだ。だが…。
 ただ、何故か無性に声が聴きたくなった。着信履歴から番号を探し、俺は初めて荻原に電話を掛けた。
「……どうした?」
 数コールの後、いつもの元気な声に驚きの色を混じえて荻原が通話に出た。
「マサキ?」
「…ああ」
「今、何処だ?」
 場所を告げると自分も先程までそこに居たのだと苦笑した。おしかったな、と。
「っで、どうしたんだよ」
「…何故?」
「お前から電話を掛けてくるなんて、おかしいだろう」
「そうかな…」
「ああ。まさか、昼間から酒飲んでいるんじゃないだろうな?」
「いや、酔ってはいない」
 歩道の柵に持たれ俺は視線を下げた。どこかの店のチラシが行き交う人の間で転がっていた。何度も靴に踏まれながらも、地面に張り付くことは無くその身を躍らせる。
「……なあ。
 …おかしいついでに、もう一ついいか?」
「ん?」
「…会いたい」
「……」
「会いたいんだ…。
 仕事は、いつ終わる?」
 俺の申し出に荻原は一瞬息を飲んだが、直ぐにいつものように笑いを含んだ声を返した。 「わからないな。だが、夜までには片付ける。何処にいる…?」
「あんたの部屋で待っていてもいいか」
「ああ…」
 下の者に言っておくと答えた後、荻原は俺の名を呟いた。その声は彼らしくなく、俺は苦笑をもらした。
「何だよ」
「お前、…大丈夫か?」
「何が」
「いや…」
「気にするな。…ちょっとおかしいだけだ」
 じゃあな、と俺は荻原の返事を待たずに通話を切った。
 足元にはいつの間にか先程のチラシが運ばれてきていた。それを俺は踏みつけ立ち上がり駅に向かう。
 歩き出して直ぐに荻原からの着信が音を響かせた。だが、俺はそれをとることなく、電源を落とした。

2002/05/04