15
「畜生!」
無性に腹が立った。ソファのクッションを掴み思い切り壁に向かって投げつける。ボスッと音をたて落ちた先にあったラックを倒し、大きな音が上がる。
その落ち方が何故か気に入らず、転がったクッションを拾いに行き、今度は廊下に向かって投げた。開いているドアの向こうに飛んで行き、見えなくなる。
次のターゲットはラックから零れた新聞紙。
丸めて掴み壁や床に叩きつける。それに息が上がると、座り込みビリビリと破る。
大きな紙が音を立てて裂けていく…。
――わかっている。
自分がする奇行を何処かで冷静な自分が見ている。冷めた眼差しで、何も言わずじっと俺を見ている。
なのに、止められない。何かに操られているかのように、自分ではもう止められない…。
こんなことをしても、ざわめく心は治まらないという事も知っているのに、…何かに当り散らさなければ自分を保てない。そうしなければ、もっと発狂してしまいそうな恐怖にかられるのだ…。苦しさを少しでも外に出したいのだ…。
「…ったく、楽しいか?」
裂いた新聞を紙ふぶきの様に放っていた俺に、後ろから声がかかった。
振り返るとドアに凭れて荻原が立っていた。その手には俺が放ったクッションが持たれている。
「…ああ、…やるか?」
「遠慮するよ」
目の端にソファにクッションを置く彼の姿を捉える。それにまたムカッとなり、丸く丸めた新聞紙を投げつける。一枚の新聞紙などあたっても痛くも何ともないのだから大人しくあたってくれればいいのに、荻原はひょいと避けた。ソファの向こうに転がったそれを態々拾いに行き、傍にあったゴミ箱に放り込む。
「……」
「ほら、いい加減にしとけよ」
近寄って来て俺を見下ろしそう言う荻原にまた腹が立ったが、頭をくしゃくしゃと撫でられるとそれは治まった。
最近、荻原は俺の体に触れることが多くなった。
いや、以前から少し過剰と思えるスキンシップをしてきていたので、今更これを言うのは可笑しいのかも知れない。俺の捕らえ方が違ってきただけなのだろうか。
前はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。大したものではなく、俺が意識しすぎだといわれればそれまでのようなものでしかなかったが、荻原の手が俺の体に触れること事態が嫌だった。怖かった。
人と接することに慣れていない俺は、それにたじろいていたのだ。
だが、最近それを当たり前のように受ける自分がいるということに気付いた。
少し考えれば、荻原は情緒不安定な俺を子供のように扱っているのだろう事は容易に想像ができる。だが、それでもいい、そう思うのだ。そんなことは関係ないと。
何故だかわからないが、荻原の手は、時にはまだ怖くて仕方が無い時もあるが、多くの場合は俺に安心感と言うか何と言うか、ただその温もりだけを素直に感じられるものだった。手が触れている一瞬は、他の事を忘れそうになるくらい、心が静かになる、そんな力を持ったものだった。
だから、最近はこうして触られても、邪険に振り払うことが出来なくなった。逆に、このままでいたいと思う時もある。
そんな変化は、俺にとっては驚くばかりで自分でも戸惑うが、事実こうなのだからもうどうでもいいと理由を追求する気にもならない。そうなのだと受け入れる方が楽だと、考え込まないようにする。
だが、荻原にとっては首を捻る物だろう。いや、更に不安にさせているのかもしれない。俺の変化をどう彼は処理しているのだろうか。やはり、精神が可笑しいとでも思っているのだろうか…。
「…ああ、悪い。片付ける」
一気に心が静まると、今度は逆に自分の失態に気付き狼狽しそうになる。だが、それを隠しこみ俺は平然な振りをする。
ゴミ箱を片手に、散らばった紙くずを拾う俺を手伝いながら、
「何なんだかな、一体」
そう言って荻原は肩を竦めた。
「気にするな、単なるストレス発散だ」
「ストレスってな〜。もっと普通に晴らせよ」
「普通って?」
「例えば、そうだな。飲んで騒ぐとか、遊びまくるとか。
ストレスってより、苛立っているだぞ」
「どう違う?」
「さあ、何となくそんな感じだ。気が狂ったみたいだな」
「なんだよ、それ」
俺は口の端で笑いながら、倒れたラックを起こし散らばった新聞を放り込んだ。
「じゃ、今度からは酒で晴らす」
その言葉に荻原は、「いや、お前の場合酒も駄目だな」と、首を振る。
「煙草も最近吸いすぎだろう」
「…そんなことはないさ」
「そんなことあるな」
ソファにドカリと腰を降ろした俺の頭をもう一度撫で、「残念だが、仕事だ」と荻原は出て行った。
カチャリと玄関からドアの閉まる音を聞き取ると、また急に心が騒ぎ始める。
それをどうにかやり過ごそうと、今言われたばかりだというのに、煙草に手を伸ばす。
精神的に安心出来るのだと体には悪いのを知りつつ飲む。正確には酸素が不十分になり脳が鈍くなるので、この現実から少しでも逃げ出せることが出来ると錯覚し、半ば中毒者のようになってきているのかもしれない。だが、それももう、最近は辛くなった。
体が煙草を受け付けない。それでも手を伸ばすのは、他に頼るものがないからで…。軽く咳き込みながら苦笑し、再び毒でしかない煙を吸い込み、そして吐き出す。
荻原の言葉ではないが、吸い過ぎと言えば吸いすぎなのかもしれない。だが、それを気にするような体ではない。いや、逆に自分は自分を痛めつけたくて止められないのかもしれない。自虐的なその行為には、彼の言葉は何の意味も持たない。
しかし、それは俺自身のことで荻原には関係のないことだろう。
そう思うからこそ、荻原の前では煙草を吸わないようにしている。その煙を嫌うので、部屋でも匂いが残るだろうと吸わないようにしている。だが、それはあまりにも脆い誓いだ。
新たな煙草に火をつけながら溜息を吐き、窓を開ける。
晴れていると言うのか、曇っているというのか、微妙な天気。開けた窓から、少し湿った風が入り込む。昼過ぎから雨になるだろうという予報は当たるのだろうか…。厚い灰色の雲の切れ間から、強い日差しが降り注ぐ。
ふと気付くと手に持つ煙草の灰が長くなっていた。微かに腕を動かすと、それはポロリと切れ窓の外に落ちていった。視線で追いかけたが直ぐに見えなくなる。
軽い溜息をつき、窓を開けたままにして俺はソファに戻り座り込んだ。残りの煙草を灰皿代わりの小さな器に押し付けて消す。
この数日病院に通い続けていた。
そろそろ本格的に体がやばくなってきたらしい。今までの薬ではもう症状を押える事は出来なくなっていた。
きつい薬なので慣れるまでの数日は、吐き気に襲われたり意識が朦朧としたりするが痛みは和らぐからと受けだした薬は、皮肉なことに医療以外では禁止されているドラッグだった。あまりにも有名なそれに、とうとうここまで来たのかと苦い笑しか出てこなかった。
薬を飲み夕方までそのまま病院で過ごすという一日を数日繰り返した。
俺の場合は体にあっていたのか大した吐き気や何もなく数日間でその薬に慣れたのだが、人によっては全く合わずに、痛みをとる前に薬による苦痛が嫌になり途中で投げ出す者もいるそうだ。その点で言えば、俺にとっては最高の薬なのだろう。
身体的な面での苦痛が取れると、心も以前よりは楽になった。
だが、全てが落ち着いたわけでもなく、相変わらず時々狂ったように苛立ちが俺を襲うのも事実だった。
多分これは、どんな薬でも治らないだろう。
俺自身の中の問題なのだ…。
ズルリと滑るように体を倒し、ソファに寝転がった俺はそのまま目を閉じる。
このまま全てが終わればいい、まだ何処かでそう望んでいる俺がいる。
「飯田くん、大丈夫?」
笑いながらも馬鹿騒ぎには加わらず大人しく座っていた女の子が、そう言いながらやってきて俺の隣の席に腰掛けた。見覚えのない彼女に、この集まりは何なのかと首を傾げる。
講義中に飲み会に誘われてやってきたのだが、気分転換にもならず、騒ぐ仲間を適当にあしらいながら俺は黙々と飲んでいた。
久し振りに顔を出した学校だったが、4年ともなるとそれが当たり前で顔を合わせた機会にこうして飲んでいるのだろう。殆どが顔見知りだった。彼らが集まればどうなるのかわかっていながら、その喧騒の中に飛び込んだのは俺なので後悔はないが、いい加減煩さに苛立ちを覚えてもいた。
「気分悪そうだよ」
言われてそう見えるのかと驚く。だが、それに気付いたのは彼女一人だろう。他の者はテンションがすっかり上がっており、他人のことなど全く見えてはいない。
声をかけたはいいが返事のない俺に戸惑ったのか、烏龍茶の入ったコップに口をつけながら「…ごめん。お節介だね」と俯いた。そんな彼女に俺は断りをいれ煙草に火をつけながら、当り障りの無い会話を口にする。
「…飲まないの?」
「あ、うん。私、お酒は全然駄目なの」
なら、何故こんなところに来ているのだろうか、そう思っても口にはしない。聞く必要は特に無いし、知りたいとも思わないのだから。
「飯田くんは、…飲みすぎじゃない? 顔色悪いよ」
「…疲れているだけだろう…。
それより、俺よりもあいつらの方が危ないな」
何をしているのか知らないが、異様なほど盛り上がっている連中に視線を向ける。一人はもう机に突っ伏し、完全に夢の中だ。酔っているとは言え、この騒ぎの中でよく寝られるものだ。
「…店の人に追い出されるわね」
「好都合だな、それは」
そんな会話が終わって間もないうちに、店員が「申し訳ありませんが…」とやって来た。
店を出てからも、出来上がってしまった連中の高揚感はおさまることはない。大きな声で騒ぎあいながら覚束ない足どりで歩いてる。その後ろを西中だと名乗った先程の彼女と並んでゆっくりとついて行った。何度か誰かが振り返り俺達をからかったが、はやし立てた次にはもうそのことを忘れるのか、ヤジが続くことはない。
「…大丈夫なのかな」
もうすでに大丈夫ではないと思うのだが。出来ることならこのまま馬鹿な連中を放っていきたいところだが、そういうわけにもいかない。この中で正気を保っているものなんてどれくらいいるのであろうか。
もしかしたら、彼らにも何かああいう風に酒に溺れて忘れてしまいたい現実があるのかもしれない。単に騒いでいるだけではなく、この現実を少しの間でも忘れるために、逃げるように飲み騒いでいるのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。実際は、本当に馬鹿なだけなのかもしれないが。自分も彼らのように苦しみを忘れられるような酒を飲むことが出来ればいいのに…、騒ぐことが出来たらいいのに…。だが、融通の利かないこの頭はそんなことを許しはしない。
酒は、己を陥れるだけでしかない。酔いが回るにつれ、どんなに楽しそうに騒ぐ彼らの近くにいても、一人で孤独に沈み込んで行くだけなのだ。
(…闇に落ちるしかない、か…)
そんな自分を情けなく思う。酒を飲んでも、俺はこんな現実に執着しているのか、と…。
「あれ? どうしたのかな?」
隣を歩く彼女の言葉に視線を前方に向けると、駅に向かって歩いていた彼らの足が止まっていた。どうせ誰かがくたばっているんだろうと思ったが、その予想は残念ながら外れてしまった。
何人かの女子が、恐怖を顔に張り付かせ後ろにいた俺達のところにやってきた。
「どうしたの?」
西中さんのその問いに、彼女達はしどろもどろに答える。酔いは醒めたのか正気に戻っているようだが、言葉はあやふやだ。だが、誰かにぶつかりもめ始めたのだと、前方の人の塊の中から上がる声でそれを覗うことが出来た。
あれだけ騒いでいればこうなることは目に言えている。しかし、そうは言っていられない状況でもあるようだ。
全面的にこちらが悪いのだろうに、酔っ払いにはそんなことは通用しない。逆切れよろしく掴みかからんばかりの勢いで数人の者がぶつかった相手達に喚きかけていた。周りにいる者の間からは止めろよと言う言葉も上がってはいたが、はやし立てる声の方がまだ大きい。
喧嘩をするのなら相手を見るべきだ。普段なら常識のない馬鹿学生でもそんなことはわかっているだろう。だが、今はそうではない。酒の勢いを借りて強気になった者達に、何を言ってもはじまらない。
正気なら絶対に関わり合いにはならないだろう。彼らの前には、この夜の街では絶対に逆らいたくない相手がいた。俺達と変わらないぐらいの男とそれより少し上の男が数人。彼らを取り巻く雰囲気は普通ではなかった。怯えて素面に戻った彼女達が頷ける。しかし未だにわからない者達は、ご丁寧にも確認をした。
「あんたら、ヤクザなんだろ。凄いね〜」
何が楽しいのかはしゃいでいる彼らの顔には、嫌な笑いが張り付いている。相手を馬鹿にしたその表情に、強気になった餓鬼の愚かさが見える。きっと高揚感を自信と間違えているのだろう。
半ば意味が通じないような言葉で騒いだが、社会のゴミだの落ちこぼれだのという言葉が聞き取れれば、相手にとってはそれで充分だろう。もう酔っ払いの学生ではすまされない。
はやし立てていた者達もさすがにまずいと思ったのか黙り込む。酔いが醒めた数人の者達がゆっくりと後ろに下がった。通行人は足早に過ぎたり、見学したり。さっさと警察に通報してくれればありがたいのだが、そんな行動に出る者はいない。知っているのだ、通報しても無駄だと言うことを。それに、すれば自分にも火の粉が飛ぶかもしれないということも。
近づこうとして足を踏み出しかけたが、周りにいた者に止められた。
「あ、危ないわよ」
「駄目だよ、飯田くん…」
「…なら、放っておく?」
「…だって…」
「自業自得よ」
店にいる時から同じように騒いでいた彼女がそう言ったのを聞き、「そうだな」と頷いた。何処から見てもこちらが悪いし、喧嘩を売ったのも馬鹿な彼らだ。その言葉は最適なのだろう。
「…だが、このままやられたら面倒だ。俺は早く帰りたい。怪我人の世話なんて真っ平なんだ」
そう言うと取り巻くように立っている連中に足を向けた。はやし立てていた一人のゼミ仲間の倉本がなおも止めろと言ってきたので、お前も来いよと逆に腕を引っ張った。
「ちょっと、飯田…」
怯えた声で手を振り切ろうとする倉本を連れて前に出る。タイミングよく、一番騒いでいた男が、殴られるところだった。それを目にし怯えるのならともかく、何人かの者達は余計にやる気が出たようだ。ヤクザ達も馬鹿なもの達を痛めつけることにしたらしい。このままでは直ぐに何処かに引き込まれてやられるのだろう。
そんな戦闘体勢になった中に、俺は倉本を放り込み自分も足を踏み入れた。
「竹本、起こしてやれよ」
倉本に殴られ地面に座り込んだままの男を見てやれと言うと、俺は携帯を取り出し警察に通報をかける振りをした。ヤクザに対してこんな脅しは通用しないだろう事はわかっている。なので、彼らに対してではなく、馬鹿学生と野次馬に対して状況を教えるためにだ。実際にかけてもいいのだろうが、自分がいる間に警察なんて来られたら面倒だ。それでなくとも殴ったことにより、誰かが通報しているかもしれない。
俺の警察への嘘の連絡で少しは状況がわかったのか、酔っ払い連中の顔には困惑が広がりだした。だが、逆にヤクザ達の間には飛び出してきた俺への怒りが浮かんできたようだ。
電話を取り上げられ直ぐに拳が振り下ろされた。後ろに引いたので掠めた程度だったが、それでも熱い痛みが頬に走った。
「舐めた真似してくれるなぁ、兄ちゃんよ」
さっさと次の攻撃をすれば良いのに、「綺麗な顔が見れなくなるぞ」とか何だとか喋り仲間と笑いあった。
「状況判断に疎いな」
倉本が止めろよと俺の腕を引いて下がらせようとしたがそれを振り払った。
「あんたらが怖くなくとも警察は来るんだ。話して笑っている時間なんてよくあるな。さっさと何処かに連れ去ってやった方が良いんじゃ…」
怒りで顔を歪ませた男が動いた。肩を掴まれた直後に、俺の腹に重い拳が飛び込んできた。体を折り曲げたところに男の足が飛んできて、気付いた時には勢いよく歩道に倒れこむところだった。痺れた体では反応できず、受け身をとることなくそのまま歩道に叩きつけられる。耳に肩が鈍い音を上げたのが聞こえた。呼吸をするのを忘れていたように酸素を貪ろうとするが、上手く息が吸えなかった。
悲鳴が微かに聞こえたが、自分がその中心にいるとは思えないくらい遠い声だった。誰かが呼んでいる気がするが、耳には入らない。
苦痛に顔を顰めながら、上手く出来ない息を肩でつき、どうにか体を起こす。目だけを上に向けると、俺を殴った男が楽しそうに見下ろしていた。
「状況を掴めていないのはお前だろう」
にやりと口角を上げる男は、腕を伸ばし俺の襟首を掴み立ちあがらせた。殴られた腹が伸ばされ、悲鳴を上げる。
「これからどうなるか覚悟は出来てるんだろうな」
「……」
「どうした? あぁ?
殴られてビビッちまったのか?」
何故そうなるのか理解できないが男は無言の俺をそう解釈して笑った。苦痛に顔を歪めてはいるが恐怖なんて表情はしていないはずだ。泣いてなんかいない。なのにそれを言うのは、お決まりの台詞を言わなければ気がすまないのだろう。…要するに馬鹿だ。
そして、その相手をしている俺もそうなのだ。馬鹿すぎる。
痛みが体を走るが、心は何も感じない。
俺はきっとこうされたかったのだ。体を痛めつけてくれる者を待っていたのかもしれない。役に立たない心と頭同様に体も使い物にならなくなれば、ゴミのように簡単にこの世から捨てられるのだと何処かで思っていたのかもしれない。
望んでいた痛み。だが、何も感じない。もっと殴られれば痛みは感じるだろうか。余計なことを考えず、ただ痛みだけに身を委ねられるだろうか。
痛みが支配する間は、何もかもを忘れることが出来る。だが、その痛みはもっと強力なものでなければ駄目だ。これでは足りない…。
まるでリストカットのようだ。死なない程度に、痛みで嫌なことを忘れたくて手首を切る行為を繰り返す。そのうちに心臓が弱くなり死に至ることもあると知りながら、何度も自ら傷をつける。だが、彼らと俺の違いは、自分で手を下すのではなく他人を利用しようとしているのだから、余計に性質が悪いというものだろう。
わかっていながらも、止められない。馬鹿なことをしている自覚も、何も変わらないことも知っている。だが、止まらないのだ。
単なる八つ当たりと変わらないのかもしれない。このまま殴り殺されることを願っているのかもしれない。それとも、今以上のどん底に落ちたいのかもしれない。この苦しみを救えるのはそれ以上の苦しみでしかないのだと…。
上手く息が出来ていないのに、よく自分でも口を開けるなと思いつつ目の前の男に言葉を吐きつける。
「なるほど…こうして観客に見せ付けたいのか、自分達の怖さを。パフォーマンスだな。
だが、生憎こんなことで恐怖なんて沸かないな。あんたらの無能さが示されるだけだ。
粋がっている餓鬼と同じだな。自分に力があると勘違いして……」
シャツで首を絞められ息が出来なくなり言葉がとぎれた。だが、俺は男から視線を外さなかった。そのまま続けてみろよと笑うように、酸素を求め開こうとする口を閉じ口角を上げる。
勢いよく突き飛ばされヤクザ達の足元に転がされた。胸がふいごのように酸素を貪り、喉が焼け付くような痛みを訴える。体は酸素を欲しているのに、直ぐに咳き込んでしまい、今度は肺が痛み出す。
「…ご同行願おうか」
側にいた若い男が、俺を殴った男のその言葉に直ぐに反応し、俺を引っ張り上げた。逆側にいた男も同じようにし、挟まれ吊るされるような格好で俺は立った。
別の男が俺の前に立ち視界を覆った。顔を近づけじっと俺を見て、「…ケツでも売らせるか?」と周りの男達と笑いあった。調教の遣り甲斐がありそうだなと。
その時、少ししゃがれた声が落ちてきた。
「お前ら、何をしてるんだ」
男達に囲まれた状態なので声の主を見ることは出来なかった。だが、空気が状況の変化を伝えた。それが警察ではないことは明らかだ。視界の隅にいた野次馬が一歩後ろに下がったのが見えた。
車の扉の開閉の音がし、その人物が降りてきたことが覗えた。
「こんなところで、何をしている」
「…横田さん……」
俺を殴った、ヤクザ達の中で一番上のようだった男が声を微かに震わせそう言った。
「…こんなところでは、周りに迷惑だな。
事務所に戻れ、清水。事情はその後で聞こう。さっさとしろ」
「…ちょ、ちょっと待って下さい。俺らは別に…」
俺の前に立っていた男がそう言い、動いた。その男の言葉に横田という男は、「話は後だ」と言い捨てる。横田は恰幅のいい中年の男だった。だが、自分がその男の出現によりこれからどうなるかということよりも、横田の後ろにいた人物に目が釘付けになった。相手も俺に驚いたのか、口と目を見開いていた。
「…あ、あ…」
彼は驚きにそんな声を出しながら、片腕を上げ俺に指をさした。そして。
「な、何してんだよ! 飯田!?」
と大声を張り上げた。あまりの事で、前にいた横田が驚き体をびくりと振るわせた。
「ちょっ、お前、何? 何な訳!?」
「…井原…」
彼の出現に、俺は何ともいえない気分になる。……先が見えた。
(こいつらも、荻原のところの奴かよ…)
溜息を吐き頭を垂れる俺に井原は駆け寄ってきた。
「下田、その手離せよ。船本さんも、離してやってください」
兄貴の命令だ、出来ない、と言った男の言葉に、「…離してやれ」と横田の声が重なった。
腕は自由になっても俺の足は言うことを聞かず、無様にもそのまま地面に座り込む。これでは掴まれていた方が良かったかもしれない。腰を下ろす衝撃に、体のあちこちで悲鳴が上がった。
「だ、大丈夫かよ。おい、飯田?」
「…ああ、大丈夫だ」
「何してんだよ、お前」
「…何してんだろうな、俺は」
そう言うと、「ったく、何なんだよ…」と井原は苦笑した。
「横田さん、こいつも連れて行っていいですか。怪我してるんです」
「…お前の友達か?」
「え? …ええ、ま、そうです。そうですけど…」
「何だ?」
知らないんですか? と井原は言い、その後少し躊躇いながら「…社長の連れですよ」と言った。横田は眉を顰めてじっと俺を見、「そうか」と呟き車への乗車を承諾した。
横田と清水が話をしているのを確認しながら、側にいた男達が訊いてきた。
「…社長の連れって…井原、本当か?」
井原は俺に手を貸しながら、小声でそう返した。
「ええ、本当ですよ。何なら、確認してくださいよ」
「…じゃあ、あの噂は本当だったのか…。こいつなのかよ…」
「どんな噂か知りませんし、聞く気もないです。口にしないでください」
普段の彼らしからぬ口調できっぱりとそう言う。
「なんだよ、お前その口の聞き方は」
「すみません。でも、社長のプライベートに俺達が口を挟むことではないです」
「…意見しようってのか?」
「そうじゃないです。ただ、社長の友人の耳にいれる内容ではないと思うので」
「…はっ、友人ね〜」
「…それよりも。その彼が今こんな目あっているということの方が重大だと思いますよ。単なる噂話じゃなく、実際にこうなっているんですから…」
「……」
「…失礼します」
話していた男に首を少し動かす程度に頭を下げ、俺に肩を貸し立たせた井原は見慣れた黒塗りの車に向かった。だが…。
「…井原、俺は乗れない…」
この状況で帰るわけには行かないと俺は足に力をいれ、自分で立ち上がり肩から手を外そうとした。しかし、井原は手を放さない。
「友達か? だが、このまま放っていったら、それこそ社長に殺されるよ、俺が」
「……」
「どうせ、もうあいつらにももう飲みに行く気力なんてないだろう。直ぐに帰るさ」
そう言いながらも、井原は近くで俺を見てどうすることも出来ず立ち尽くしていた倉本を、ちょいちょいと指を曲げてよんだ。だが、倉本はゆっくりと頭を振り後ろに下がった。
「……」
それはわかっていたことだったが、心に刺さる何かがあった。当然のことだというのに…。
「…駄目だな」
井原はそう言い軽く肩を竦めたのが、支えられた体に伝わってきた。
…ヤクザの仲間には近づきたくないだろう。彼らから見れば、井原もあの男達と大して変わらない。だが、俺には彼らは俺自身に近づきたくないのではないかと思えてならなかった。ヤクザ相手に酒の勢いでもなく、素面で喧嘩を売りに行くような奴には…。
もういい、と好奇の視線に背を向け俺は示された車の助手席に乗り込んだ。少しして井原が運転席につき車を出発させた。横田と呼ばれた男は別の車に乗ったようだ。男のことは少しは気になったが、外の様子を観察する気にはなれず、井原に口に出して訊く事もしなかった。
結局は、俺が迷惑をかけたということには変わりないのだ。
「何やってんだよ、ホント」
先程と同じ井原の言葉に、何をやっているんだろうと心の中で同じ問いを繰り返す。本当に俺は何をしているのだろうか。何をしたいのか…。
「喧嘩なんてするなよ、折角の顔に痣なんてつけて。社長に怒られても知らないぞ」
「…何故そうなる」
溜息と苦笑交じりに井原はそう言い、右折をするため交差点に入り車を止めた。
夜だといってもまだ一応は今日と呼べる時間だ。車の波は途切れることはなく、信号が変わるまで曲がる事は出来ないだろう。殆どがタクシーといった感じで、普通の車よりも明るいその姿に目がちらつく。そんな対向車線から視線を離さずに、井原はハンドル凭れ、首を曲げてこきりと鳴らした。
「そりゃあ、だって、普通はそうだろう。
俺だってお前を殴ったのが清水さんだとしても、その場にいたら絶対止めに入る。当たり前だろう」
「…突っかかっていったのは、俺だ。殴られて当然だ」
「…だとしてもだよ。
大体、学生相手にあんなことになっている方が可笑しいんだ。ヤクザじゃないんだぞ」
「…ヤクザだろう。…彼らも、お前も」
「違う。あいつらと俺は全然違う」
彼らのことが心底嫌なのだろう、子供のように少しムキになって井原は否定した。
「…社長もどうかしている。ヤクザを嫌うくせに、あいつらのことは容認だ。あいつらも、社長に認められているのをいいことにやりたい放題だ」
「……」
「綺麗な世の中じゃないんだからああゆう奴らも必要だと言う社長の言い分はわかるが、勝手にやらせすぎだ…」
ちょうど信号で車が途切れ、井原は体を起こしてアクセルを踏みハンドルを切った。
何か思うことがあるのだろうがそのまま井原は口を噤み、暫くして、「関係ないよな、お前には。悪かった」と謝った。
「いや…。俺も、悪い」
「…でもな、飯田。ホント、喧嘩は止めろよ。樋口みたいに、自分は絶対やられないってくらいに強いのならいいが…。痛いだけだぞ、殴られたって」
井原は苦笑しながらそう言った。
何だかんだと言ってもヤクザまがいの彼がそんな事を言うのはおかしな気がしたが、反論はしなかった。そう、井原の言う事は的を得ている。喧嘩をして何も変わらない…。
落ちた沈黙を破ったのは、車内に響いた電子音だった。俺の携帯電話がピピピと耳につく音を上げる。暫くその音を聞いていた井原だったが、「出ないのか?」と声を出す。
「出ろよ。さっきの友達だろう」
気が重かったが、鳴り止みそうにもない携帯に手を伸ばす。どうしてわかったのか、井原の言うように電話は彼らからのものだった。
「…飯田? 大丈夫か?」
「…あぁ…」
電話の向こうで倉本が「良かった」と安堵の声を出した。
「……おい、本当に大丈夫なのか?」
何か音がしたと思ったら、どうやら電話を取り上げたようで、次に聞こえてきたのは少しくぐもった感じの声だった。
「…竹本か?」
「ん? あぁ。それより、本当に大丈夫なのかよ。どっかに連れていかれてんじゃ…」
「いや、彼は知り合いだ。俺は大丈夫だ、送ってもらっているだけだ」
「……そうか、それは、良かった」
言葉を詰まらせながも、竹本はそう言った。確かに、ヤクザの知り合いなど言ったら戸惑うものだろう。だが、それには驚きばかりではない安堵の思いも交じっているように感じた。
「…お前は?」
「ああ、大丈夫だ。
大方の奴らはさっきので素面に戻ったが、仁科は駄目だな。まだどっかにいっちまっているよ。さっきタクシーに乗っけたが、明日は一日死んでるんだろうな。あいつ、酒に弱すぎだからな」
軽く笑い声を漏らしたが、口を切っているのだろう、やはり少し変な声だった。
「悪いな、先に抜けて」
「ん、いいって。ちゃんと手当てしておけよ。いや、医者に行け」
「大袈裟だ」
じゃあな。そう言い通話を切った後、井原がぽつりと言った。
「…友達か、いいな…」
「そんなものじゃないさ」
「そうか? だが、俺にはもう得られないものだな」
真面目に学校に行っていなかったからな、そこでダチなんか作れなかったよ。そう言い、軽く笑う。
「でも、今はこうして仕事でその関係以上に連れられる奴が出来たけどな。俺も少しは大人になっていっているって事かな。実感はないけど」
「…樋口か…」
「そうだな。あいつともそうだが、お前とも、だろう?」
「俺…?」
「何言ってんだよ、当たり前だろう」
少し怒ったような口調で井原は言い切った。
「…そうか…、そうなんだな…」
今気付いた事のように、俺の中に衝撃が走る。だが、それは甘く痺れるような温かなものだった。そんな俺に「おかしな奴だな」と彼は肩を竦めた。
井原とは顔を会わせる度何らかの話をし、気付けば仲がいいと言えるような関係になっていた。いつの間にかはじめは徹底していた敬語もどちらからともなく止め、普通に話す。
井原と連れている関係と仕事柄、何かと同じように話しをする樋口は相変わらず固い言葉で接してくるが、はじめの頃に比べればそれでもかなりの変化がみられる。
変わったなと思う。自分自身もそうだが、このいいように動いた関係。それが、とても大切なものなのだとふと気付く。
大学の知人達もそうなのだろう。普段は馬鹿な者だといつでも切るように付き合ってしまっているが、それでも皆その中での絆とは呼べない弱いものでも繋がりを持っている。そう、だからこそ、誰もがあの場から逃げなかったのだろう。本来なら野次馬達と同じように関係ないと逃げたい所だろうに。
馬鹿なのだ、基本的に。そして不器用なのだ。彼らも、俺自身も。
突如それを笑うかのように、荒れ狂う心が一気に引いていく。先程までの自分が嘘のように、今は落ち着きを見せる。
友達と純粋に言葉に出来るほど幼くはなく躊躇ってしまうが、それでもやはり、そう言う関係にあるのだ。それを見てこなかったり、否定したりしていたが、俺の周りにはそれがある。それを俺は築けている…。
他人が見れば、たったそれだけのことと言えるものなのかもしれない、当たり前のことなのかもしれない。だが、それにやっと気付いた俺には、少し戸惑うもので、当然だと身を任せられるものではない。でも、それでも純粋に、嬉しいと、ありがたいと思う。
なんだか、この狂う心の先が見えてしまった、そんな感じがする。欲しいものを得た満足感と、その望みが叶い欲しがるという願いが消えたことの喪失感がない交ぜになって俺の心を変えて行く。
どう暴れようと、何も変わらないのだ。
頬の痛みが俺に現実を教える。
自分を取り巻く現状が他人事のようにも思え、けれども、何かを悟った気にもなる。それが何なのかはわからないが、今以上に前を見ることが出来そうな気がする。
マンションに着くと、井原は腕を貸し鈍い体を支えてくれた。エレベーターで最上階に向かう。
井原はこのマンションではなく別の所に詰めているようで、仕事の関係で時々出入りしているに過ぎない。逆に樋口は堂本さんの下についているので、大抵3Fの事務所にいた。荻原との行動が多いのもそのためだろう。
なので、3Fでエレベーターが止まり、そこに樋口が居たのは、井原がこうしてここにいる偶然を考えれば当たり前のような日常だ。そして、その向こうに荻原の姿がある事も。
「…何やっているんだ?」
半身を壁に凭れ、井原の肩を貸りて立っている俺に荻原はそう言った。
「…何でもない」
「何でもなさいようには、どう見ても見えないけどな」
やれやれと言うように荻原は肩を竦めエレベーターに乗り込んできた。そして、井原を退かせ俺の体に手を添える。
「大丈夫だ、自分で立てる」
「つれないな」
おどけたようにそう言い、顎で井原に外に出るように示す。
「樋口、堂本が着たらさっきの事を伝えておいてくれ。井原、ご苦労だったな」
「え? あ、いえ、とんでもないです」
答えない俺の変わりに事情を訊かれるのだと思っていたのだろう、井原は一瞬おかしな声を上げ目を見開いた。だが、直ぐに頭を下げる。
エレベーターの扉が閉まる前に、俺は井原に礼を言った。だが、その後部屋に戻りリビングのソファに座るまで、荻原も俺は言葉を交わしはしなかった。
診てやると言われたのに対し別にいいと首を振ったが、荻原はその俺の言葉を無視し、俺を無理やり座らせ頬に触れた。腫れているのだろう、荻原の手が冷たく気持ちよかった。
俺の手当てをした荻原は、その後も事情は何も訊かなかった。だだ、「無茶はするなよ」と、苦笑を落としただけだった。
2002/06/05