17

「…ですから、何があっても俺が生きている間は、病気のことは秘密にして下さい」
 薄い水色の壁を見つめながら俺はそう口にした。前かがみに座り膝に肘をつき俯く俺の隣で、壁に凭れて座っていた菊地さんは黙って俺の言葉に耳を傾けている。その彼の手の中には、一通の封筒がある。それは俺が今渡したものだ。
「こんなことを頼むのは迷惑だとわかっています。だが、…他に頼める人が思いつかないんです…」
 外来の診察が始まった少々賑やかな玄関ホールから近い、診断室やリハビリ室といった方とは逆の、患者達には用のない医師達の個人の部屋や職員達の事務室などといったところへと続く廊下の椅子に、俺は菊地さんと並んで腰掛けていた。
 ホールの喧騒は聞こえるが、あちらからの目隠しのために置かれたのだろう観葉植物のせいで、かろうじて受付が少し見える程度しか確認は出来ない。逆を向けば、少し奥の曲がり角に、関係者以外立ち入り禁止と書かれたプレートが立てられている。そこからは物音一つ聞こえてきそうにない気配。
 右手からは人の気配、左手からは無。その間を繋ぐこの廊下は、不思議な感覚が漂っていた。夢と現実の狭間のよう…。
「…お願いします」
 自分の声は、口から出た瞬間に消えてしまいそうでいて、逆にいつまでもこの場に漂っていそうでもある。本当におかしな空間。その雰囲気に飲まれそうになり、俺は軽く頭を振る。
 コキリと鳴った首の筋の音が耳の奥にやけに響いた。
 菊地さんとは先日からメールのやりとりをしている。
 病院にあまり来たがらない俺の無事を確認するにはメールが手っ取り早いと、菊地さんは俺の携帯を取り上げ自分の番号を打ち込んだのがはじまりだ。
 病院内なので電源を切っていた俺の携帯を手にし、「真面目だね、エライね〜」と子供に向けるような顔で彼は笑った。そして、朝起きたらメールを送るようにという約束を半ば無理やりさせられ、彼は満足そうに「飯田くんから、おはようメールを貰えるだなんていいね。柿本悔しがるよ〜、絶対に」とはしゃいだ。
 からかわれているというか、一杯食わされた気がしないでもないが、俺は翌日から、「おはようございます」という短いメールを送っている。一度忘れた時は仕事中だろうに昼前に電話が掛かってきた。通話に出た俺に、眠っていたのだと勘違いした彼は開口一番「ごめん! …まだ、寝ていたのか…」と謝った。俺が出たことにほっとしたのが電話の向こうから伝わってきて、なんとも言えない気分になった。その後、単に忘れていたのだと伝えると、拗ねたように彼は怒ったのだが。
 だから、菊地さんに頼むのが一番だと思った。よくして貰っているからといって、友達でもなければ、主治医でもないのだが…。これは俺の病気を知っている人でなければ頼めないことだから、と身勝手な願いを押し付けたのだ。
 俺はまだ、死ぬというのを考えると怖くてたまらない。それと同時に、周りの者達に病を知られると言うのも、やはり怖い。少しずつ受け入れていっている事を自覚しつつも、この現状に足掻いている方がはるかに多いのだ。
 その中で見つけたのは、忘れることは決して出来ないが、死を前にした者ではなく、俺は俺自身でいたいという、単純なもの。
 だから、考えたくなくとも、そのために準備をしなければならない。手を打たなければならない。
 そうして考え付いたのが、手紙と言う方法だ。
 俺は最期まで俺のままでいたいんです。それは周りを騙している事になっているのかもしれませんが、我が儘だと自覚してもこの思いは変わらない。だから、俺は全てとまではいえないが、自分の面倒は自分で持っていたい。
 そんな話を始めた俺に、菊地さんは俺が考えて選んだ事なら出来るだけの協力はするよと頷いてくれた。言いたい事は沢山あるだろう、なのに、俺の甘いと言えるこんな考えを否定はしなかった。
 俺はそんな彼に甘えている…。
「…いいんだよ、そんなことは気にしなくて」
 菊地さんはそう言い、俯いた俺の頭にトンッと手を乗せ数度軽く叩いた。
「…ありがとうございます…」
 心にある感情の半分も伝えられない歯痒さ。だが、簡単なこの挨拶に多くの思いが含まれているのだということに、この人なら気付いてくれるのではにか。そんな風に思う。
 菊地さんに渡した封筒の中には二通の手紙が入っている。
 一通は菊地さん本人に。世話をかけたことについての謝罪と礼を書き、それを柿本医師にも伝えてくれるようにという旨を書いた。そして田島さんの連絡先も記し、同封している手紙を彼に渡して欲しいのだと。その二通目の田島さんへの手紙には、今後のことを頼んだ。
 手数をかけるが俺のものは全て処分して欲しい、葬儀なんてしなくていい、墓も必要ない。ただ、冴子さんには今までのように会いに行って下さい。…それは俺が頼みますと言うことではないのだが、書かずにはいられなかった。彼女が俺に残した財産を受け取ってくれるようにとも書いた。そして、預かってもらっている手紙についても記した。

 先日俺は田島さんの事務所を尋ねて、今菊地さんに頼んだように手紙を持っていてもらえるように頼み込んだ。ただし、田島さんに頼んだのはそれだけではない。
 新しい手紙を書くたびこちらに郵送するので、古い手紙を捨て、送られてきた手紙を保管して欲しいという注文をつけた。一通だけ預かって欲しいのだと頼んだのだ。
 彼は少し考え込んだが、話せるようになったら必ず話すと言う俺に、田島さんは黙って小さく頷づき了解をしてくれた。
 何通も書くかもしれないし、この一通で終わるかもしれない。自分でもういいと受け取りに来るかもしれないし、新たな頼み事をするかもしれない。
 子供のような事をしていると自分でもわかっているが、気持ちに整理をつけるにはこれが一番だと思う。何についての整理なのかはまだ言えないが、お願いします。
 そう言って頭を下げた俺に、田島さんは軽く笑った。
 君の頼みを断ったら冴子に怒られるよ、と。
 彼を裏切っているような気がしたが、俺は本当の事を言う事など出来ず、曖昧に笑うことしか出来なかった。
 そうやって田島さんに頼んだ手紙は、荻原への手紙だ。
 そして、菊地さんに渡した手紙の中で俺は、荻原に俺の手紙が必要だと感じたら渡して欲しいと頼んだ。ただし、俺と荻原が付き合った期間と同じ月日がたった後でと。
 時は人を癒すことが出来ると思う。だから、死んだ者が残した物など見せずに彼が生きていけると信じている。俺の死で彼がどうかなるだなんて思っていない。
 だがもし、俺のせいで彼が癒されない傷を持ってしまったら…。そう思うと何かをせずにはいられなかった。だから手紙を書いた。そう、自己満足のものでしかないのだ、これは。
 田島さんが彼を見て俺の手紙を渡した方がいいと感じたのなら、荻原に手紙を渡して欲しい。たった一通の手紙だが、俺を過去のものにするには適したものだと思う。もうこの世にはいないという事実を俺が一番彼に教えられるのではないかと思う。それは彼にとっては残酷なことなのかもしれないが必要なことなのだ。そんな屁理屈のような馬鹿な言葉を書いた。彼から見たら自分勝手な餓鬼の言葉だと笑えるものなのかもしれない。そうわかりつつ、他に言葉は見つからなかった。
 田島さんに荻原のことを頼むのは気が引ける気がしたが、俺に荻原の事を教えてくれた彼だからこそ頼めることだ。俺と言う人間がどんなものなのか、それを一番知っているのもきっと田島さんなのだ。親子のようなとはいえないが、それに似た感情をお互い持っているのかもしれない。少なくとも、俺には気にかけてくれている思いは以前から感じていたことだ。それが申し訳なくて、気付かない振りをしていたが、確かに俺を思ってくれているのだ。そして、俺も…。もし田島さんがいなかったなら、手紙を残そうだなんて考えもしなかっただろう。
 荻原と出会って、他人との関わりが増えたからか、純粋に深く付き合えるものが出来たなのからか、自分や周りの者達のことを以前よりはわかってきたような気がする。切ってきた感情が見え始めた気がする。
 鬱陶しいと思っていた他人の視線も、実は見るのが怖かっただけなのかもしれない。他人に触れるのが怖かっただけなのかもしれない。優しさに触れれば、無くす怖さに怯えなければならないと。張り詰めてきた自分が壊されそうだと思い込んでいただけに過ぎなかったのだ。
 実際に今は、こうして無理な頼みを聞いてくれる人達がいることで、俺は救われているのだと思う。頑張っているとはまだまだ言えないのかもしれないが、自分なりに生きていこうとしているつもりだ。
 手紙もそうだ。死への準備には変わらないが、今までのように後ろ向きなものばかりではないと思う。少なくとも、以前の俺なら、こうして残すものを書きはしなかっただろう。
 俺の死は、俺一人だけのものではないのだ。
 素直にそう思える。


「…開ける日が来ないことを願うよ」
 俺が死んだら開けて欲しい。そこに後のことを頼める人の連絡先を書いているので、連絡して下さい。そう頼んだ俺の言葉をとり、菊地さんは軽く笑った。
「ありがとうございます」
 返事の代わりにもう一度礼を口にした。その時、
「――菊地さん、どこでそんな子捕まえたんですか?」
 突然上から良く通る声が降って来た。その声に俺は驚き顔を上げる。
 視線の先には俺とそう変わらない歳だと思える綺麗な青年が立っていた。俺と目が合うと、優しげな笑顔を浮かべる。
「菊地さんもなかなかやりますね〜」
「あはは、君ほどではないよ」
「そんなことないですよ。
 綺麗な子ですね〜、僕にくださいよ」
「何言ってるんですか、駄目ですよ」
 菊地さんが笑いながらそう言うと、青年は「残念だな」と肩を竦めた。
「あぁ、昼からでもお時間があれば、すみませんが悠太のご機嫌とってやってください」
「ええ、いいですよ。わかりました。また喧嘩ですか?」
「美樹をからかって苛めたんです。それで婦長に雷を落とされてベッドの中から出てこないんですよ」
 苦笑する青年が長めの前髪を掻きあげる時、手の甲に三本の赤い線がはしっているのが微かに見えた。それに気付いたのは俺だけではなく、菊地さんがどうしたのかと尋ねる。
「あぁ…、公平に点滴をしようとして引っかかれたんですよ。ここもね」
 そう言って見せた二の腕にも爪痕がくっきりついていた。
「じゃ、すみませんが悠太のことお願いします。お先に、お疲れ様です」
「お疲れ様」
 俺にも軽く笑いかけ、「お大事に」と言い残し去っていく青年の後ろ姿を無意識のうちに眺めていた俺に、
「小児科の神崎医師だよ」
 と、菊地さんが教えてくれる。
「医者ですか…」
「見えないよね。ま、白衣を着ていればそれなりに見えるんだけど。今は夜勤あけで帰るところだからね。あ、いや、こっちに来たと言う事は診察室に顔を出してからかな」
「…凄く、若い方ですね」
「いや、僕と同じでそう見えるだけ。28だよ、あれで。
 小児科医としては素晴らしい人だよ、子供を愛しているからね」
 そう言った菊地さんは、少しの沈黙後、「…だが、医者としても、人間としても儚すぎるね」と言った。
「弱いとかじゃなく、儚いんだよ、彼は。
 何もこの世に求めない。欲しいものはあっても手に入れようとしない。自分を押さえて生きている。そんな奴なんだ。
 …少し、以前の君に似ているかもしれないな……」
 菊地さんの言葉に、俺はもう一度青年が去っていって方を見たが、そこにはもう彼の姿はなかった。
 一見普通に見えた彼だが、菊地さんの言うように何か心に闇を抱えているのかもしれない…。
 人は見た目以上に傷を負っている。
 いつだったかそう言っていた荻原の言葉が、頭で響いた。

 俺の傷は、最近癒えてきたのかもしれないと、何の根拠もないがそう思えるようになった。
 どの傷がとは言えないし、今も新たな傷が出来ているのだろう。だが、少しは癒されていっているのだと感じるようになったのだ。
 他人との関わりが増えたからだろうか。自分を以前よりは見られるようになったのは。
 見つめた自分はまだまだ出来た人間ではなく、その小ささに苦笑すら漏らせられないほどだが、それでもこれが自分だと思えるようになった。
 変えようと思って自分を変えるのは難しいだろう。だから、俺は少しずつ変わっていく自分を感じられればそれでいいと思う。確かにもっとこんな人間にと理想はなくはないが、そう大きな望をもつには、自分は足りないものが多すぎる。
 だから、今はこの自分を少しでも見ていけるだけでいい。
 以前は他人の視線はおろか、自身からすら目を背けていたのだろう俺がこんな感情を持てたというその事実で、心が少し癒される気がする。


 菊地さんと別れ、病院を後にする。
 玄関を出たところで、今退院してきたのだろう、花束を持った車椅子の初老の紳士とそれを押す中年の男、そして二人の後を付いて行く俺とそう変わらない歳の青年に中年の女性の家族にしか見えない者達が駐車場へと向かって行く後ろへとついた。ゆっくり歩く彼らを抜かそうとはせずに歩調を合わせ一定の距離を置く。
 楽しげに笑い合う様子に、胸が切なく痛む。だが、その後甘い痺れが湧き上がる。
 車に向かったその家族を追い越し、街の喧騒へと紛れ込む。だが、耳に彼らの笑いが残っていた。それに小さく口を上げる。
 妬ましい気分にはならないが、それでも少し感傷的になるのは仕方がないのだろう。
 この感覚を何度も味わったのはそう遠い昔ではない。
 冴子さんが入院したのは俺が大学二年になる春休み中だった。検査だと入院したのがそのままで、彼女は病院のベッドの上でこの世を去った。
 俺は彼女の病名も何も知らず、知っていたのは田島さんと、そして本人である冴子さんだ。それでも、彼女の姿を見ていたの俺は、薄々ながらにもよくはない病なのだと気付いていた。だが、訊きはしなかった。
 騙されようと思ったわけではない。ただ、訊く勇気がなかった。怖かったのだ。
 彼女の死後田島さんから、自分は長くはないのだと冴子さん自身が知っていたのだと聞かされたとき、自分が情けなくて仕方がなかった。あまりにも、非力な自分が。
 昔死ぬのなら住み慣れたところでの方がいいと、歳に似合わずそんな事を言っていた冴子さんが入院したのは、俺のせいなのだとその時になってわかった。俺に迷惑をかけないためだったのだと。
 そんな俺に田島さんは、それは違う、と首を振った。あれは彼女の強がりだと。自分はまだ死なない。こんなところで死んでたまるか、という思いを持っていたのだと。彼女は頑張っていたんだと。
 だが、現に冴子さんは死後の事を全て決めていたのだ。
 毎日のように、大学の帰りに病院に寄っていた。そんな俺に、「忙しいでしょう。そう来なくともいいのよ」と笑っていた彼女だが、いつの間にかそんな言葉も話せなくなった。
 亡くなる前の数日間は特に、薬のせいか病気のせいか、彼女は寝たきり状態で意識も薄かった。だが、あの日、訪れて直ぐに目を醒ましベッド脇の椅子に座る俺を見止めて、冴子さんはとても優しく微笑んだ。
 起き上がれる状態ではなかったが、それでも驚くほどの回復力をみせ、彼女はもう長く聞いていなかったような、小さいながらもはっきりとした声で話をしてきた。
 学校はどう。頑張りなさいよ。まだ2年だと思っていたらあっと言う間なんだから。
 彼女らしい軽口、そして、一緒に暮らせてよかった、と…。
 それは夢の中にいるような時間だった。このまま元気になるのではないかと、そう思うほどに。
 だが、「少し疲れたわね」と微笑み、眠りについた彼女の目は二度と開く事は無かった。
 夕日が沈んだ薄暗い病室で、目を閉じた彼女を俺は見つめ続けた。もうこの体は脱け殻なのだと気付いても、俺は動くことが出来なかった。時間がこのまま止まればいいと、本気でそう思った。
 まだ少し太陽の光が残る東の空に昇った月は、死神が持つ鎌のように細い三日月だったのをよく覚えている。薄紫の空に輝く細い月は絵のように綺麗で、そして、とても冷たい表情をしていた。
 彼女はどんな思いで逝ったのだろうか。後悔はあっただろう、怖かっただろう。なのに、決して俺の前では弱気な所は見せなかった。
 とても強くて、とても綺麗な人だった。
 どうしたら、あんな風に逝く事が出来るのだろうか。
 真っ直ぐ前を見詰め続けたまま……。
 だが、多分彼女も苦しんでいたのだろう。俺が気付かなかっただけで…。



「お久し振りですね」
 そう言って笑った青年の口元は紫色に腫れ上がっていた。唇も切っており、その傷が痛々しい。
「お。男前になったな、瀬戸くん」
 荻原がそうからかうと、「あはは、そうでしょう」と青年が笑った。だが、そのせいで傷が痛んだのか顔を少し顰める。
 そう多くは来てはいないのに、狭い店だからかこの雰囲気だからか、すっかり馴染んでしまった空気を俺は吸い込む。少し古い木の香りがする事に気付いたのは何度目に此処に来た時だろうか。
 付き合えよと誘われたのがこの店でなければ、俺は荻原の誘いを断っていただろうか。そんな俺を見越して、荻原は此処を選んだのだろうか。
 そんな小さな疑問を口にはせずに、荻原に促されるままやってきた店で、いつもとは少し雰囲気の違う顔なじみになったバーテンに迎えられる。
 口元の傷以外に何処が違うのだろうかと首を傾げ、直ぐに眼鏡をかけていないのだと気付く。いつもかけている細い銀のフレームがないだけで、青年は少し幼く感じられた。
 カウンター席に腰掛けながら、「どうしたんだ?」と荻原が尋ねると、彼は軽く肩を竦めた。
「ちょっと生徒にやられました。目立つだけで、そう大したものではないんですが」
「中学だったよな、勤めているのは」
「えぇ」
「ったく、最近の餓鬼はなっちゃいないな」
「……あんたが言うのはおかしくないか」
 溜息を吐きながら言った荻原の言葉に、俺はそう言い同じように軽く息を吐いた。俺の言葉に荻原は器用に片眉を上げた。
「何を言う、俺はいい生徒だったぞ」
「…どうだか」
 それを受けて青年も「荻原さんが言うのは、あまり説得力はないですよね」と、相槌を打つ。
「おいおい、俺を何だと思っているんだ」
 ヤクザもどきがそんな事を言うのはおかしすぎる。だが、心底心外だと言う風に荻原は頭を振った。
「今の餓鬼は必要のない知識ばかりで、中身は子供だろう。俺の頃は、そりゃ大人の真似して粋がっていた面もあるが、可愛いもんだったぞ」
「今の子もそう変わらないですよ」
「そうか? 俺らも確かに馬鹿だったし色々言われたが、人間としては最低じゃなかったつもりだ。悪い事は悪いとわかっていたさ。だが、今の餓鬼は違うだろう。学級崩壊だ何だって騒いでいるが、結局それだけ駄目な奴らだってことだ。親や教師に問題があるって言うよりも、社会がそうなんだろうけど。俺はなんか納得いかないね、同じにされるのは」
 そう言う荻原に軽く微笑み、青年は「そうですね」と言葉を続けた。
「個人的に話すと、凄く幼いというのがわかるんですよ。可愛いものです。だが、実年齢を考えるとそれではいけないんですよね。荻原さんの言うとおり、可愛いじゃ済まされない年齢です。
 だが、今までの話を聞くとそれも仕方がないんだとわかるんですよ。何だかんだと綺麗事を並べて、弱い子供を作っているんですよ。家庭だけではなく、学校も。出来ないものは全て周りがやり、本人は自分にその能力がないと気付かない。子供に合わせた事をするのも確かに大切でしょうが、自分が劣っていると知るのも必要です。なのに、それに気付かせないんですよ、今は。それが当たり前のことなんです。
 だから、自分勝手に色々するんですが、それがどんなものかとは判断出来ない。悪い事だと知っていると言うよりも、ただ怒られるからやらない。じゃあ、怒られても気にしない者は、平気でそれをするんです。何も考えずに。
 今の子供は、なんていつの時代でも言われるものですが、今は大人も子供ですからね。まともな親の方が多いでしょうが、そうでない者も結構いる。
 殴った生徒の親、何て言ったと思います?」
 青年は苦笑しながら自分の口元を指さした。
「謝らなかったんだろう。家ではこんな子ではありません、とか言ってさ」
「そうですね、近いですね。
 平気で学校に責任を押し付けるんですよね。学校を躾の場だと誤解している。それをおかしいと思わずに学校を詰るんですからね、言える言葉はありませんよ。親の面倒までみれないって言うものです」
「っで、何て言われたの?」
「うちの子供に殴らせるような事をあんたがしたんでしょう、みたいなことです。言葉はもっと聞くに堪えないものでしたが。さすがに、他の教師も助け舟を出そうとしてくれましたが、無駄でした」
 肩を竦める青年に「真相は?」と荻原が問う。
「些細な事ですよ。授業中にピアノの上に飛び乗ったのを注意したら怒ったんですよ。
 ピアノの上に乗るのもどうかと思うものですが、ただ注意しただけでキレるんですからね。ま、新人のしかも講師の若い男と言うのが更に原因なんでしょうが。普段はからかう相手に、クラス全員の前で怒られるというのにカッとなったんでしょう」
「だろうな。だが、それはそいつの悪いところだろう」
「えぇ。それでも、その後親は子供を叱るどころか同じように食って掛かってきますからね。結局、校長に説得され、こちらが謝ることに。管理職からしてそうですからね、もう駄目ですね、学校と言う場は。
 何処で誰が悪かったかなんてわかりませんが、あんな現場を見ると、子供達を可哀相と思ってしまいますね」
「…嫌になったか?」
「そうかもしれません。いや、仕事自体は別に夢をもって始めたものではないので挫折を味わったわけではなく、多分これからも続けて行くのでしょうが…。…ただ、この現実が少し哀しすぎるんですよね、なんだか」
「そうだな。でも、そいつらも気づく時がくる、少しずつ賢くなっていくさ。その機会を無駄にしてしまう奴もいるだろうが、人間そう捨てたもんじゃないからな。
 この俺でも大人って奴をやっているんだぜ、どうにかなるさ」
「それは説得力がありますね」
「どういう意味だか」
 荻原が喉を鳴らす。
「…そうですね。荻原さんのように仕事だと割り切って出来ればいいんですが、僕もまだまだ他人にどうだこうだと言えるほど大人じゃない、子供なんですよね…」
「いいじゃないか、子供でも。大人が偉いわけじゃないんだからな、別に。
 瀬戸くんはそのままでいいよ。十分人間できているよ、俺なんかより」
 青年はその荻原の言葉に礼を言い、愚痴を聞かせてしまい失礼しましたと軽く頭を下げた。
「マスターに叱られますよ」
「あはは、そうだな。話を聞くのは別にいいが、先に一杯貰ってからの方が良かったかな」
「済みません。荻原さんに聞いてもらえると、スッキリするのでつい」
「何だ、惚れているのか、俺に」
「もちろん、惚れていますよ」
「困ったな、なぁ、マサキ」
「……知るか」
 俺の応えに「つれないな」と荻原は肩を竦めた。そんな彼に、青年は軽く苦笑を漏らしながら、「何にしましょうか?」と訊く。
「俺はいつものでいいよ。
 こいつのは何でもいいから薄いのを」
「…何だよ、それ」
「そう度々眠りこけられてもな」
「……」
 荻原の言葉に青年が軽い笑みをもらした。
 そう言えば、初めてこの店に来た時は酔いつぶれたのだった。その後何度か来た時も同じように、眠りこけはしないがその一歩手前といった感じにまでなっていた。この青年にもその醜態を見られているのだと思うと、荻原の言葉を蹴る事が出来ない。

 水色の液体をグラスの半分ほどまで入れ、青年はその後ゆっくりと琥珀色の液体をその上に注いだ。混ざり合うことなくグラスを二色に分ける。そして、厚く切った銀杏切りのレモンをその中に落とすと、それはゆっくりと沈んでいき、水色の液体に少し浸かったところで動きをとめた。
 グラスを俺の前に出し、その横にグラスの半分ほどの大きさの砂時計を置く。
「この砂が落ちきってから飲んでください」
「何故?」
 俺ではなく横に座る荻原がそう尋ねる。
「砂が落ちきる間にレモンが効いてくるんですよ」
 ほんの少しですけれどね、そのほうが美味しいんです。そう答える青年に、「これ、何分?」と、砂時計を指さす。
「5分です」
「たった5分でいいの?」
「えぇ。たった5分、けれども、結構長いものですよ、5分って。
 荻原さんにも同じもの作りましょうか?」
「いや、また今度お願いするよ。
 向こう、呼んでるよ」
 他の客に視線を向け荻原がそう言うと、失礼しますと軽く頭を下げ彼はカウンターを離れた。
 前に置かれたグラスの中身も目のいくものだが、その横の砂時計に俺は視線を注ぐ。さらさらと、落ちて行く砂の音が聞こえてきそうな気がする。
「砂時計って面白いよな。
 これが未来だろう。そして、この落ちているところが今、現在」
 荻原が丸く膨れたガラスを指さし、下に動かしながら言葉を紡いだ。
「っで、この溜まったものが過去だ。単純だが、なんかすごいよな。
 いつもは当たり前すぎて感じない時間も、これを見るとさ、その流れを漠然とながらも感じずにはいられない。時を刻むって言うより、それを教えるものだよな、砂時計って。
 過去、現在、未来、それがこうして見えるんだ。ホント面白いよな」
 特に意味など考えることなく、ただ流れる砂を目で楽しむだけのものだと思っていた俺は、荻原の言った言葉に驚く。確かに考えるほどのことではない、未来に現在に過去と言った時の流れを現しているのだが、当たり前すぎてだろうかそんな考えなど思いつかなかった。
 そんな事を考える荻原の方が面白いと思った。いや、面白いと言うか、単純に凄いなと。
 何となく、それこそ漠然に、この世できちんと生きているからこそ、そんな事が考え付くのだろうか、とそんな思いが浮かぶ。
「そして、さ…」
 スルリと最後の砂が落ちきると、何故かあたりが静かになったような気がした。幻の砂の音が耳から消える。
 荻原は砂が落ち切ったそれをくるりとひっくり返し、またカウンターに置いた。
「こうすると、過去は確かに未来の糧となっているんだと、そう思えるよな…」
 単純すぎるけど、と自分の発言に小さく喉を鳴らす。
「……あんただから、そう思うんだろう。
 俺には、過去は繰り返すものだと言っているようなものだな、これは」
 反抗するようにそんな言葉が出てくる。まるで餓鬼のようだ。そんな自分がおかしい…。
「それは、ないだろう」
「…ん?」
「この砂を自分だと考えてみろよ。一粒一粒に、色んな自分が詰まっている。単純な発想や、強い感情。行動力や、精神力。相手への気持ちや、自分自身への思い。自分と言うものを形成する細胞や何やらの一つ一つだと。
 砂は決して同じ落ち方はしない。一番先に落ちた砂が、次にまた最初に落ちる事はない。それと同じで、俺達は同じ行為を繰り返すことは出来ない。
 自分という使う道具が同じでも、絶対に同じ結果にはならない。だってそうだろう?  同じような事をしても、以前もやったなというだけで感情は違ってくる。何度繰り返しても、同じ感情にはならない。確かに似ていても、それは違うものだ」
 まだ半分も終わっていない砂時計を、荻原が再びひっくり返す。その時、ちらりと藍い砂の中に紅い砂が混じっているのに気付く。それはほんの極僅かな量なのだろうが、気付くと目立つ。上の砂の中で、ガラスの側面にくっついたその砂粒が、下へと流れる順番を待っている。
「これは砂でしかない。ただの藍い砂。そして、俺達はただの人間。
 だけど、そのただの人間でも、同じ者など決していない。それは一人の人間でも同じこと。一瞬前は別人さ。一つの時を刻むごとに変わっていく。
 ほら、今だって、お前はこんな馬鹿な俺の話を仕入れただろう。俺の考えを少しは知った。知らなかったさっきとは違う」
「…屁理屈みたいだな」
「そうかもな」
 グラスを取った俺に、「待てよ」と自分もグラスを持ち、荻原はそれをカチリと俺のグラスに当てた。コクリと飲んだ中身は、甘かったが美味しいものだった。香るレモンが鼻を通り抜ける。
 先程の客が頼んだのだろうか、店内にピアノの音が流れ出した。
「おっ、懐かしいな」
 そう言った荻原とは違い、俺には知っている程度でしかない曲。
「ビートルズ。昔よく真似したんだよ。
 …ギターなんて、もう何年も触ってないな」
 グラスに添えた彼の指がリズムを刻んでいた。
 テレビや街中で耳にするヒットナンバーのメドレー。演奏する青年に視線を向けると、目を瞑って音を紡ぎだしていた。それに耳を傾け同じように目を瞑る。
 初めて会った時、自分をきちんと持った大人だと感じた青年。だが、彼もまた色んな面を持っているのだ。上手くいかない職場、自分の感情と合わない世の中。小さな社会の中で荒れる子供をどうにも出来ない自分への憤り、そんなものだと諦めるにも力は必要なのだ。それが思うようにいかない不甲斐なさ。
 色んな思いを持っているのだろう。そして、それを処理し彼は前へと進んでいこうとしているのだ。荻原に愚痴ると楽になる、そう言ったのは本心からだろう。多分、少しだけ自分を甘やかせたのだ、進んで行くために。
 仕事をきちんとこなす彼が、ふと漏らす弱音。だが、それは未来へと繋がるもの。だからこそ、客である荻原もそれを途中で止めようとはせず話しを促した。青年もそんな荻原の気遣いを知っていた。
 …単なる俺の予想でしかないが間違っていないだろう。
 目をあけ隣を見ると、荻原と視線があった。
 静かな、けれども力強いメロディが店に流れる。
「…どうした?」
「……なんでもない」
 そう答えると、クスリと笑う。
 煩い奴だ、子供のようだ、おかしな奴だ。そう思っていた男の中にある力強さと、温かさが見えた気がした。他人に力を与える事が出来るのだ、この男は。
 荻原と言う人間が目の前にいるのだと、そんな当たり前な事をふと自覚する。そう、こんな男が、俺の傍にいるのだと…。
 荻原が傾けたグラスの中で、カキンと氷が爆ぜた。

2002/06/26