18
眠らずに夜を過ごした。白み始めた空にその事を教えられる。
ここ数日は今までの苦しみが嘘のように体調が良かった。
元気というわけではなく、疲労感などは多少あるが、それでも薬に頼らなくても大丈夫なのではないかと思えるくらい、心も体も楽になっていた。
だからだろうか。なんだか子供のように眠るのが惜しく感じてしまったのだ。特に何かを考えることもなく、時を過ごした。もしかしたらうとうとと一瞬の眠りについたのかもしれない。そう思えるくらいに、何もなく過ごした。
時計は5時前をさしている。荻原はまだ帰ってきていない。
それが珍しいことではないという事実で、彼がどれだけ忙しいのかが覗えると言うものだ。尤も、昨夜帰らなかったのが仕事かプライベートかは知らないのだが。
昨日、田島さんに頼んでいる手紙を新しく書いた。気分がいいからか、先日書いた手紙がなんだか不要なものに思え、新しく書き直した。荻原への手紙を。
一通目は詫びと俺の事など気にするなよと書いた。だが、今回は、逆に忘れるなよと書いた。それは自分の本心でもあるし、その方が荻原にもいいと思ったのだ、何故か。彼なら、ふざけるんじゃないぞとあの手紙を読んだら思ってくれるかもしれない。俺は生きているんだ、忘れるに決まっていると笑ってくれるかもしれない。そう思った。
だが、ポストに入れると、これも何か違うなと思って少し後悔したりするのだから、始末が悪い。何度書いても結局は書き直したくなるのだろう。今日も書こうか、そう思っている自分がいる。それに苦笑する。俺は一体何をやっているんだと。
すっかり長くなってしまった髪をかきあげた時、部屋にチャイムの音が響きわたった。
家主は絶対にベルは鳴らさない。一体こんな時間に誰だろうか。訝しむと同時に不安が胸をよぎる。
玄関に向かうと、チャイムの合間にドアがドンドンと叩かれていた。何かあったのかと鍵を外しドアを開けると、外には井原が立っていた。
「飯田…」
少し荒い呼吸をし、出てきた俺の顔を見て苦しそうに彼は眉を寄せた。
「…どうした?」
「…今さっき、下に連絡がきた。…社長の乗った車が事故にあった…」
「……え…?」
コクリと乾いた喉に唾を飲み込み、井原は俺を引っぱりエレベーターに向かった。
「俺も今電話を受けているのを横で聞いただけだから、詳しくはまだわかっていないんだが。…事故は居眠り運転のトラックが車線をはみ出して、対向車の社長達の車に突っ込んだらしい」
開いた扉に直ぐ乗り込み、微かに震える指で井原が地下の駐車場へのボタンを押した。
「電話は後ろを走っていた車に乗っていた白川さんからで…」
「…あいつは? 荻原は無事なのか?」
「まだ、わからないんだ。白川さんは病院には行っていないみたいだ。だが、救急車に乗る時に社長の意識はなかったと言っていた…」
「……」
「運転していた樋口は…、重体らしい…。社長とは別の病院に運ばれたようだ。そこから田端さんが連絡してきた」
井原の後に続きエレベーターを降り、黒いセダンに乗り込む。
「…重体って…」
「……運転席側にまともにぶつかったらしい…。畜生っ…!」
「……」
井原が微かに震える手でハンドルを握る姿を俺はぼんやりと眺めた。
「…どこに行くんだ?」
駐車場から飛び出し早朝の空いた道を走り出した時、俺はやっと井原に行き先を尋ねた。
頭が真っ白で何も思いつかず、ただ井原に促されるまま乗った車。周りを囲む緊迫した雰囲気は感じられるのに、自分はそれに混じっていない妙な感覚。ただ、何でもないような、そんな声で問を口に乗せる。その自分ですら、自分ではないよう……。
「社長は東病院に入った」
「…樋口のところに…」
彼の方に向かえと言いかけた俺の言葉を遮って、井原は静かに言った。
「…俺が行っても、何の役にもたたない」
それは…俺も同じこと…。
だが俺は何も言わずにいた。口を開く言葉を俺は持っていなかった。
まだ微かに震えている井原から視線を逸らし窓の外に顔を向ける。沈黙が包む車内のように、外も静かな空間だった。光が落ちる街なのに、人が殆どいないということが異様だった。この街にこんな姿があったのだと始めて気付く。
荻原のことを考え始めたのは、病院の姿を目にした時だった。事故をしたことも様態がわからないことも、同じように車に乗っていた樋口が重体だと言うことも理解していた。
なのに、急にそれが俺を襲ってきた。今気付いたとでも言うように、何が起こったんだと心臓が早鐘を打ち出した。
世界中の不安が自分の中に存在するかのようだ。
玄関に車が横付けされても、直ぐには動けなかった。
「…飯田」
「あぁ……」
降りようとし、思い出したように振り返り井原を見ると、先程よりは血の気が戻っていたが、顔には苦痛の表情が浮かんでいた。…今にも泣き出しそうな顔に、俺は「大丈夫だ…」と何に対してか自分でもわからない言葉を呟いた。
「…ここでいい。お前は、樋口のところへ…」
「いや…」
「行けよ。ここいても、…それこそ何も意味がない」
「……」
「…ありがとう、じゃあな」
バタンと閉まった扉が、何故か彼を拒絶しているような音に聞こえた。そう、彼の表情が、現実を物語っている…、だから見たくないと……。
俺が足を進めたのを確認していたのか、暫くして車は出ていった。その音に一呼吸の間をおき振り返る。
多分、俺の今の顔は、捨てられまいと縋る野良猫のようなものなのかもしれない。
一人で動く方法を忘れてしまったかのように、呆然と車が去った方向を見ながら、そんな事を思った。井原を拒絶したのは自分だが、俺は前へも進めない…。こんなところで一人にしないでくれと、俺は全身で訴えているかのように、見えなくなった車を探している…。
受け入れたくない出来事はいつでも突然やってくる。
それは人間の精神の許容を計算してだろうか…。
ここでは何も意味など持たないそんな事を頭の隅で考える。
突然のことで戸惑っている間に全てが終わる事がある。解決するか、問題自体がなくなるか。どちらにしろ、それに直ぐに対応できるだけの能力を持っている人間はそういないだろう。だが、だからこそ、乗り切れると言うものか…。
真っ直ぐと現実に向き合え切れるほど、人間は強くない。現実感を伴わないからこそ、乗り越えられる。
例えば、人の死などはそういうものだ。昨日まで生きていた人が消えた。本当に? どこにいったんだ…? そんな事を思いながら慌しく別れに終われ、その忙しさで悲しい現実をおぼろげにする。そして、落ち着いた時には、ぽっかりと空いてしまった心に気付いても、それすらすんなり受け入れる。抵抗する力など残っていないと言うもの。
自分が壊れないように、自覚無しにきちんと心は防御をしているのだろう。
そう。胸は高鳴るのに頭は何も考えず、病院を目の前にしてこうして立ち尽くすのも、心と体が壊れないバランスをとっているのだろう。どうでもいい事を考えるのも、自分を保つため。
現実逃避ではなく、ただ、前を向くために必要な時間…。
立ち尽くす俺の横を人が駆け、自動ドアをくぐって行く。
早朝のこの時間に、すでに表玄関が空いていると言うのは、おかしいものだ。まるで、慌てて駆けてくるものを受け入れるためのよう。
この場所では、何も珍しい事ではないのだろう。
こうして立ち竦む俺のような者も、先程のように慌ててかけていく者も。そして、意識もなく運ばれてくる者も…。
心は荒れているが、自分自身はその嵐の中心に入るようだった。ぽっかりと空いた空間。そこで、周りのは激しい突風を前にして、一歩も動く事は出来ない自分…。
だが、それを見止めているわけにはいかないと言う事もわかっている。
今は動かねばならない時。同じ動くのなら、前に進もう。
現実は変わらない。なら、この目で確かめよう。
踏み出した足は、意外にもしっかりしたものだった。
前へも、後ろへも駆け出して行きたい衝動を押さえへ、静かな病院の廊下を歩く。
病室に辿り付くと、個室の前には何度か見かけた事のある男が立っていた。
彼は俺に気付くと驚いた顔をし、次に困ったといった顔をした。その表情の変化に俺の振動は脈打った。静かに歩いてやってきた心がまた騒ぎ出しそうになる。
このまま逃げ出したくもあり、叫び出したくもある。
夢であればと、そう願う。
(騒がしい…)
コロコロと変わる心が鬱陶しいと、眉を寄せる。そんな自分もいる。
はたしてそんなに騒ぐ事なのか、とその声が微かに笑う。他人の事ではなく、目を向けなければならない事があるだろうと…。
以前はこの声が怖かった。
死にたいと願う自分と、生きて痛いと願う自分。自分と言う一人の人間の中に、別の人間がいる。頭で声が鳴り響く、自分と違う自分が。それがたまらなく怖かった。狂ってしまうほどに。
考えがまとまらないのではなく、全く別の者が自分の中に存在すると言うのは恐怖でしかない。その声と、本来の自分との間で葛藤する。一体何が自分なのかと。
今も確かにその声は怖い。だが、耳を塞ぎ、自分を見られるようになったのだとも思う。
自身について考えなければならない事も沢山あるだろう。だが、俺は今、この現実からは逃げられない。この目で確かめなければ、どうにもならない。
笑う自分にそういい、そこでやっと荻原の顔を浮かべた。
男を無視し、中に入ろうと伸ばした手。だがその行動を阻まれる。
「…どいてくれ」
出てきた声は、震えていた。
なんだ、この声は。そう自身で驚くが、表に出るほどのものではない。自分の状態など今はどうでもいいというもの。
「…いえ、……入れるわけにはいきません」
「なぜ?」
何を言っているんだと男を見上げると彼は眉を顰めた。何て顔をするのだろうか…。
「社長は大丈夫です。心配しないでください。
……誰も入れるなと言われているだけです…」
その男の言葉に首を傾げた俺の耳に、
「違うだろう、柴田」
と、後から聞き慣れた声が聞こえてきた。堂本さんだった。
「柴田、飯田さんを中へ」
スタスタとやって来る堂本さんに目をむける。上着を手にかけてはいるが、ネクタイを少しも緩めていないその姿は、病院には似合わない。健康的に焼けた肌に白いシャツは眩しく、一見営業マンのようだが、滲み出す雰囲気はそんな穏やかなものではない。
どうでもいいことなのに、そのミスマッチが何故か気になる。
「ですが…」
「二度も言わせるな。お前はもういい、戻っていろ」
男はそう言われると、俺を遮っていた腕を避け、軽く頭を下げて立ち去った。それを見る俺に、「さあ、飯田さん。どうぞ」と、堂本さんがドアを開け中へと促した。
10畳ほどの広さだろうか、入って直ぐの右手にドアがあった。ユニットバスだろう。目の前の部屋の隅にはテレビ。そして、視界にはベッドが半分映っていた。
ゆっくり進むにつれ見える範囲が広くなる。白いシーツが盛り上がっており、人が寝ている事がわかった。
近付くと目を閉じた荻原の顔を見ることが出来た。頭には真っ白い包帯が巻かれており、点滴を打たれている腕にも包帯がある。
大丈夫です、と言った男の言葉がやっと頭に伝わった。
大丈夫…、大丈夫…?
それは何を指しているのだろうか。俺がいなくとも問題ないという意味なのか、怪我なのか。それとも、命を指しただけ…?
ベッドの側に立ったまま、俺はじっと荻原を見つめた。
いや、動けなかった。
揺すり起こしてみたいが、彼に触れるのも怖く、何も出来ない…。
荻原の姿を見た途端、どうしようもない不安や恐怖がじわじわと押し寄せてきた。怪我は見た目ではそう大した事はなさそうだ。顔色も悪くはない。そう頭では思うのに心は納得しない。白い包帯がやけに目に付く…。
ただ、荻原が動くのを、俺はその場でひたすら待った。
そして――
ゆっくりと瞼を震わせながら目を開き、荻原は首を小さく動かした。
「…よう」
少し掠れた声は、弱々しくはなく、ただの寝起きと言った感じのもの。
「何故お前がいるんだ?」
ふてぶてしくも、片眉を器用に上げそう聞く。見下ろしているのは俺なのに、その仕草は強気なもの。
「おい、マサキ?」
「……何言ってんだよ、あんた…」
呟いた俺の声の方が、病人のようだった。
「俺はお前には連絡をするなと言っておいたんだが」
余裕綽々といった態度に腹が立つ。心の片隅では。だが、それよりも…。
「そんなこと、どうでもいいだろう…。
……大丈夫なのか?」
ピリピリと凍っていた心が溶けるように、胸が微かな痛みを訴える。
「ん? あぁ、聞いていないのか? 俺は掠り傷程度だ。
頭を打ったから今日一日は一応様子を見るために入院だがな」
「……」
「拒否してみたが、堂本に無理やり入れられたんだよ。
それより、俺の車はお陀仏だ。ったく。」
次は何を買おうか。お前は何がいい?
そう言って笑った彼の顔をまともに見る事は出来なかった。
気付けば俺は座り込み、ベッドに肘をつき頭を抱え込んでいた。
「どうした? おい」
「…良かった…」
「ん?」
「無事で…良かった…」
「……あぁ。…驚かせたな、悪かった」
相変わらず、ふてぶてしい言い方。だが、その中に荻原の心が見えた気がした。
涙が次から次へと溢れてきた。顔を上げることが出来ない俺の頭を、荻原は軽く撫でるように叩き続けた。泣いた子供をあやすように。
どれくらいそうしていただろうか。
顔を洗ってくる。少し涸れた声でどうにかそう呟き病室を後にしたのは、かなりの時間がたってからのことだった。
嗚咽をかみ殺していたせいで喉がヒリヒリと痛かった。
洗面所は部屋にあったが、単なる言い訳なのだと荻原も気付いていたのだろう。出て行く俺を止めはせず、軽く返事をしただけだった。
来た時は時間が時間だっただけに静かだった病院だが、騒がしいと言えるほどに活気づき人が行き来していた。
その間を抜けるように、俺は屋上へと向かった。
まだ面会時間が来ていないからだろう、白いシーツが沢山風に揺れているだけで、屋上には人影は無かった。
ベンチには座らず、ぐるりと張られたフェンスに持たれ地上を見下ろす。
行き交う車も、人間も、何もかもが味気ない。ただの景色でしかない。
微かに吹く風が、頬の涙の後を教える。だが、この強い日差しの下では、それもすぐに乾ききってしまうだろう。ジリジリと肌を焼く太陽はすっかり高くなっている。
見上げた空は、いつもより高く思えるほど清んでいた。
金網に額を押し付けると、その部分がじわりと熱い。
俺は自分の死ばかりを見つめ、周りにそれはやってこないのだと錯覚していたのかもしれない。
死が訪れるのは自分だけで、俺が死んでも他の者達は生きているのだと、本気で思っていたのだ。だから、妬ましかった。苦しかった。耐えられなかった。自分だけが不幸なのだと、否定しながらも結局はそう思っていた。それで納得しようとしていた。
荻原が死ぬかもしれない。
それを実感した時に沸き起こったのは、純粋な恐怖だ。驚きや、信じられないといったものではない、ただの恐怖だけだ。
人を亡くすという事は、たとえ仲がよくないものだったり、知り合いと呼べないような関係だったとしても、生きている者には受け入れがたいものだ。自分と同じくこの世に居る者が姿を消す。その奇妙な感覚を俺は今までも体験してきたのに、忘れてしまっていた。誰もが当たり前のように生きているのだと誤解していた。
確かにあった思いが薄れていき、やがて心までをも騙す。人の死とは、矛盾した感情を呼び起こす。決して忘れてはいけない、この日常に慣れてはいけないと思うのに、心はそれを見ようとしない。近くにある死には目を向けないよう、それに気付かないように自分を守って、騙して、生活を続ける。生きていこうとする。
そう、そう言う風に俺も忘れていたのだ。生きている限り誰にでも死はくるのだという事を。
確かに俺はもう長くはないのだとわかってはいるが、それが何だと言うのだろう。人間はとても簡単に死ぬのだ。病など関係ない。
先程まで笑っていた者が、一瞬後には姿を消す可能性もある。突然戦争が起こるだの、ミサイルが飛んでくるだの、そう言った非日常的なものではなく、車とぶつかるだの、海で溺れるだの、狂った人間に刺されるだの。そう言った事はこの狭い国でも連日沢山起こっているではないか。それこそ、日常と呼べるほどに。
なのに、人はそれを実感することができない。明日も明後日も自分が生きている事を信じて疑わない。それは生きているからこその自衛手段なのだろう。明日にはもう自分はいない、などと思っていては生きていけないのだから。
そんな事は当たり前だ。
だが…。だが、俺はやはり、忘れてはいけない事を見ない振りして忘れた気になっていたのだ。そこにある事実を受け止める気が無かったのではなく、気付きたくないと言う我が儘なのか、それとも、それこそ自衛手段だったのか。
…答えなど出るわけがない。
今こうして思う事は、自分は何て馬鹿なのだろうかと言うことだけだ。
荻原の死を感じた時、頭が真っ白になった。それは、自分が死ぬと言うことよりも大変なことだった。処理しきれない感情はなく、ただ、そんなことはあってはならないと言う大きな思いに囚われた。
命に別状は無かったとわかった今も、そうなる可能性はこの世の中にはゴロゴロしているのだと気付いてしまったので、素直に安心出来ない自分がいる。確かにたいした怪我もなかったと言う事は良かったと思っているのに、次に何が起こるのかと予測は絶対につかない未来を心配する。そして…。
エゴでしかないだろう、これは。
絶対に死なないでほしい。そう願う。
自分の死を見ている俺がそういうのはおかしすぎるだろう。だが、そうとしか思えない。生きていたなら死は当然だとしても、それでも死なないでくれと思う。
荻原の事を思っていっているのではなく、俺は自分のことだけしか考えていないのだ。荻原が死ぬ。現実にはその可能性が今はまだ低いものだとしても、それを考えるだけで、耐えられなくなる。心が壊れそうになる。
いつの間にか握り締めた金網が、手に赤い形をつけていた。開いた掌が微かに軋む。
大きく息を吸い、近くにあったベンチに腰を下ろした。
ふといつも打っている菊地さんへのメールを送っていない事に気付き、携帯を取り出しメールを送信する。
自分は生きている、それの事実を待っている人間がこの世にいる…。
樋口の顔が頭に浮かんだ。そして、車で見た井原の顔も。まるで彼が死を迎えた者かのように、その顔は生気を無くしていた。
昔からの友人でもあるかのように楽しげに話し掛けてくる井原。愛想がいいとは言えない俺と、俺以上にクールな樋口を相手に、めげることなく絡んでくる彼が見せたあの表情。思い出しただけでも、心が痛くなる。
彼は今ただ一心に樋口のことだけを思っているのだろう。
助かって欲しい。俺も心からそう思う。そして。
死ぬのは俺だけで充分じゃないか。そんな言葉を心で呟く。
卑屈になっているわけではない、ただ、そう思うのだ。樋口にはまだこれからの人生が必ずあると。そして、荻原にも、井原にも。彼らにはまだまだ生きる道があるはずだ。
誰も身近な者の死を望んでなどいない。だが、俺の死は直ぐそこなのだ、それは変えられない。だから、樋口には死んでもらっては困る…。
膝に肘をつき握り合わせた手で額を支ええる。味気ないコンクリートの上に、俺の影が広がっている。顔を上げても、ゴミのような街が見えるだけ。だが、それでも祈らずにはいられない。
自分の中には何もないが、樋口が助かるようにと願う心はある。
神も仏も、俺には信じる者はないが、ただこの想いだけは譲る事は出来ない。
誰でもいいから、この願いを叶えてくれ……。
多分俺は、受け入れたとか言うのではなく、他人を憎んで死にたくはないと思ったのだ。認めたわけでも何でもなく、そう死んでいく自分が虚しいと、寂しすぎると哀れんだのだ。
結局、本当に自分のことだけしか考えていない。
自分の死以上に心を紛らわせる事態に陥りたくない。恐怖を膨らませるものを目にはしたくはない。そう逃げているのだ。
だけど、それでも。逃げているのだとしても、いい。
今は、これ以上に、望むものはない。
俺の周りに、死を落とさないでほしい…。
自分がしようとしている事を考えれば、これ以上の周りを裏切る行為と言うのはないのかもしれない。
それなのに自分を棚に上げ、それ願う自分自身を罵りたくもなるが、…俺はそんな俺を許している……。
「飯田さん」
病室に戻る前に廊下で堂本さんに呼び止められた。
荻原は検査に出かけたので当分は戻ってこないと言い、
「ちょっと付き合ってくれませんか」
と笑顔を向けてきた。
人気の少ない喫茶室。自動販売機で買ったコーヒーを堂本さんから渡され礼を言い受け取る。
「先程確認したところ、樋口は命の危機は脱したようです。安心してください」
「…それは、良かったです」
思わずほっと息を吐くと、「心配を掛けたようですね、すみません」と、堂本さんが軽く頭を下げた。
「出血が酷くて一時は危ないところまでいったようですが、手術は無事成功しましたし、本当に大丈夫なようです。ただ、後遺症が残る可能性もありますし、まだ本人は意識を取り戻してはいないので安心は禁物なのかもしれませんが」
「そうですね…」
だが、俺の心には、大きな安堵が起こっていた。張り詰めていたものが、やっと緩んだ気がし、またも口から息を吐く。
「飯田さんは、事故の事を聞いていますか?」
「えぇ、少し。対向車とぶつかったと…」
「居眠り運転のトラックです。こちらとしては本当にそれだけなのかを今相手の事を調べさせていますが、多分何もないでしょう。只の事故です」
堂本さんの言葉に隠れた部分に軽く眉を寄せる。
本当にそれだけなのか…、そう故意の事故なのではないかと疑うのは、荻原の立場なら仕方が無いのか、それとも何か思い当たるふしがあるのだろうか…。
俺が聞くべき事ではないとわかりながらも、それは気になって仕方がないもの。今後もこんな事が起こる可能性があると言うのか…。
顔を顰めた俺に、堂本さんはコーヒーを一口飲み言った。
「右ハンドルの車で、荻原が助手席に乗っていたことが幸いでした」
「…どういう意味ですか?」
首を傾げる俺に、やはり何を言いたいのか理解出来ない事を言う。
「樋口に迷う判断を作る条件が少なかったということです。もし、後部座席でシートベルトもしていない状況ならこうはいかなかったでしょう」
「……」
「対向車が向かってきたら、普通どうします?
避けるため右か左にハンドルを切るでしょう。そして、運転している者なら、大抵避けようとする時は自分を中心に考えるものです」
堂本さんは煙草とライターを取り出しテーブルに置き、それを車に見立てて動かした。
「トラックは右に切っているわけです。なので、樋口も右に切って空いた対向車線に行く事も出来た。両方に後続車がいないことはわかっていたのですから、逃げる余裕は結構あったんです。そう狭い道でもありませんでしたから。
もちろん、寄られてきたので自分も左に寄ってしまうという者もいるでしょう。だが、そうすると挟まれる可能性が高いでしょう?
樋口はそんな状況を判断することが出来たでしょう。飯田さんも知っているでしょうが、肝の据わった男ですしね、彼は」
「だが、樋口は左に切ったんでしょう?」
事故が起こったのはトラックのせいだろう。だが、堂本さんはそれだけではなく、その状況を口にする。その真意が掴めず、俺は少し苛立ちを含ませそう口にした。
「ええ。そうです。咄嗟にではなく、きちんと考えて」
「…考えて…?」
「右に切っても、もしその時トラックの運転手が異変に気付いたなら左に切る。そうなると危ないのは、ほら、助手席でしょう。だから、樋口はそうしなかった」
「そのまま逃げきろうとしたんですか…?」
だかそうはいかず、トラックもハンドルを切る事はなく、運転席側にまともにぶつかった。そう言うことか?
「いえ、違います。私は事故を見たわけではないのでわかりませんが、樋口の性格を考えれば、違う答えが簡単に出る。そして状況を聞き思い描くと、彼はかなり考えて動いていることがわかります。
そうですね、極端な事を言えば、ユーターンしようとしたって言うんですかね。樋口は一度軽く右に切って、左に」
言葉と同時に、堂本さんはライターをくるりと動かした。
それは、どう考えても左側を守るためだけの行動だ。運転席側がまともにぶつかってもおかしくない動き。
「…荻原を守るため、自分が盾になったと…?」
本来なら、自身を中心に考えて考えてしまう状況で、荻原の事を考えた。そう言うのか…?
「最終的にそうなっただけで、初めからそうしようとしたのではないでしょう。ベストなのは事故を起こさないことと、少しでも荻原に危険を与えないことです。
本当は被害を後部座席で受けるぐらいに考えていたのかもしれません。だが、こうなる事も頭にはあったでしょう。でも、躊躇わなかったんですよ、彼は。
幸いにも荻原の怪我は何ともなかった。だが、ほんの少しでも違っていたら、もっと大事になっていたかもしれませんがね」
「…自分が死ぬかもしれないとわかりながら、あいつを守ったというんですか…?」
「そこまで考えていたかどうかわかりません。ですが、荻原の部下はそうした咄嗟の時には、自分よりも彼のことを考える者ばかりです。当たり前にそれができる奴らばかりです」
はじめに、荻原が助手席で良かったと、右ハンドルで良かったと言ったのはこのことだったのか…。もし左ハンドルの車だったのなら、対向車のトラックは荻原に近かった。もし、後部座席だったら、シートベルトなどせずにいただろう、急な運転操作も危ないと言うもの…。
…樋口もそう思ったのだろうか。この状況なら、荻原を守れると。良かったと思ったのだろうか…。…自分が酷い怪我までして…。
何ともいえない憤りが、それを当然という風に言う堂本さんに向かい、眉を寄せ睨んだ。だが…。
「あなたには可笑しい事でしょうがね。私もその一人です。荻原と言う人間を中心に考える。彼が一番大事なんです。
ですから、飯田さん。失礼を承知で言います。後で荻原に知られる事も覚悟して言わせて頂きます」
堂本さんが、真っ直ぐ俺を見る。とても強い視線…。そして…。
「荻原と関わらないでくれませんか、飯田さん。…いや、離れて下さい」
「……」
怒りが一気に沈み、逆に全身が瞬時に凍りついた。だが、それも一瞬の事で、静かに、心が震えだす。
「多少なりとも彼の仕事を知っているあなたならわかるでしょう? 荻原は弱みを持っては危険なんですよ」
堂本さんの言葉が俺に落ち、小さな針のように体を刺激する、ピリピリと。
その感覚がこれが現実だと、逃げる事を許さない。
…いや。逃げたいわけではなく、ただ……。
「荻原のためというのは言い訳で、本当は、私の不安をとるためなのかもしれません。
わかっています、酷いことだとは。決して、あなたを嫌いなわけではない。
だが、私は、こうしなければならない…」
その言葉は、目の前が真っ白になったように考える事を拒否したくなっている俺よりも、切実なものに聞こえた。とても痛いものに。まるで、その言葉で自身を傷つけているようだ…。
堂本さんのその姿に、俺は彼は病気に気付いているのかもしれないと感じた。いや、病自体を知っているのなら、もっとはっきりと俺を遠ざけるだろう。
多分、今言った彼の言葉は本心なのだ。そう、堂本さんは不安なのだ、俺の存在が。俺が荻原の傍にいる事が。
俺の今までの奇行が彼の耳に入っていない事はないだろう。そして、そんなところにこんなことがあり、心配になったのだろう。いや、もしかしたら荻原の近辺ではっきりとした何かがあったのかもしれない。
何にしろ、情緒不安定な俺の姿を知っているのなら、彼の言う事は当然のことだ。大事な者に近づけていい人物じゃないと判断するのが当たり前。逆に、これは遅いくらいだ。もっと早くにこう言われてもおかしくはなった。
俺はそれが理解できた。だが…、目からは涙が溢れてきた。
とうとう俺の体は涙腺まで壊れたのかもしれない。
静かな涙が頬をつたう。
「…飯田さん」
はっきりとした口調が一変し、俺の名を呼ぶ堂本さんの声は揺れていた。
「すみません、大丈夫です」
逆に俺の口からは落ち着いた声が出る。
片手で目を覆い涙を拭うが、止まる事はなく溢れ続ける。悲しくはないのに、それがおかしくて、俺は小さな笑いをもらした。
「私は……」
「わかっています」
何か言いかけた堂本さんの言葉を切り、俺は口を開いた。
「あなたは正しい。
確かに、俺はあいつの傍にいていい人物じゃない」
荻原より人を見る目がありますね、と軽く笑う。
「…俺は、誰かにそう言われたかったのかもしれない。多分、ずっと前から…」
「……」
「嫌な役を引き受けさせましたね」
相変わらず涙は溢れるが、俺は手を外し軽く笑いかけた。本当におかしくてたまらない…。
合わせた視線の先には、堂本さんの苦しそうな表情がった。それに目を瞑り、頭を下げる。
「だけど、…あと、少しだけ、待ってください…」
それは堂本さんに向かって言った言葉なのに、俺は祈っているような感覚になった。
そう、もう少しだけ時間を下さい、と……。
翌日の朝、荻原は何事もなく無事退院し仕事に戻った。
俺はその次の日に病院に行き、柿本医師と菊地さんに直ぐにでも入れるホスピスを紹介して欲しいと頼んだ。
2002/07/15