9

「終わったみたいね」
 彼女がそう口にしたように、奥から数人の足音が聞こえてきた。
 その人物達を目の端に捕らえる。一緒に来た男が先に立ちその後ろに荻原、そして中年の男二人と不良少年と言った感じの若い男が続いて姿を見せた。
 瞳さんに挨拶し、直ぐに5人とも店の外に出る。
 荻原たちはともかく、中年の男二人は見るからに関わりたくないといった感じの強面の者達だった。そんな外見を気にする風でもなく、また来てくださいねと笑顔で見送る瞳さんに感嘆する。慣れているのだろうが、どこか常識外れといった感じが否めない。
 暫くすると再びドアが開き、荻原だけが戻ってきた。
「お? ジン出かけるのか」
 彼の足元を見ると、猫が開いたドアから外に出て行くところだった。
「相変わらず愛想が良すぎるな、あいつは」
 自分の名前がついている猫だが相性はあまり良くないようだ。完全に自分を無視して出て行った黒猫に荻原はそう皮肉った。
「あら、そう? マサちゃんは気に入られていたわよ」
 あれで気に入られているのかどうかは謎だが、井原にも同じことを言われたので、そうなのかと納得しそうにもなる。だが、愛想が言い訳ではないので、正確には嫌われていないというところなのだろう。もしくは、関心を持たれていないかだ。
 そんな風に猫の態度を考える俺とは違い、荻原は彼女の別の言葉が気になったようだ。
「…マサちゃん、ね〜」
「……」
「そう、マサちゃんなのよ」
 俺と視線を合わせ「ね〜」と微笑まれても、…俺は彼女に応えることなど絶対に出来ない。ここまでの嫌がらせを受けるいわれはないと思うのだが、俺は何か彼女にしたのだろうかと考えそうにもなる。だが、そん筈はないだろう…。
「いいじゃん、ぴったりだな」
 皮肉にも荻原はそれを名付けた彼女と同じ感想を言い、もう一度その呼び名を呟き、ニヤリと笑った。
「…どこがだ」
「可愛いって」
 楽しげに笑う荻原がむかつく。原因である彼女はニコニコと俺達を見ている。…それも気に入らない。とんでもない事態に陥りかけているのではないかと、頭が危険信号を点滅し始める。だが、このまま引き下がるのも癪だ。
「…あんたも、仁ちゃん、だろう」
「そう、仁ちゃんなんだよ。この歳でなかなかこうは呼ばれないよな」
 肩を竦め「センスがないよな」と、フッと鼻で笑う。
「…嫌だろう…?」
「別に。何で? 面白いじゃん」
(…何故そうなる…)
 面白いと思えるこの男の思考は、尊敬の念に値するのかもしれない…。だが、そう思ってしまったら俺もこの馬鹿の仲間入りになるのだろう。
(前向き思考ではなく、単なる馬鹿か…)
 それは当然のごとく遠慮したいことだ。第一、俺の性格では絶対に楽天家にはなれないし、そういう奴と上手く付き合う術も持ってはいない。そう…、
(…諦めるだけが、俺に出来ることか…)
 俺のその思いを代弁するかのように、荻原はその言葉を口にした。
「ま、嫌でも諦めろ」
「…なんだよ、それ」
 自分で思うのと、人に言われるのとでは雲泥の差がある。考えていたことでも言われれば、反抗したくもなるということだ。だが、
「こいつにかかれば気に入った奴は大抵クンかチャンだ。俺やお前だけじゃない」
「……」
「こいつなりの愛情表現だ。ま、からかっているのもあるが、それも愛情ってな」
 荻原がそう言うと、瞳さんはコクリと頷いた。
 一人でも勝ち目がないのというのに、二人掛りではもうどうすることも出来ない…。
「そのうち慣れるさ」
 荻原のその一言で、話は終わりを迎える。
「瞳、俺にもコーヒーくれ」
「は〜い」
(…慣れるまで耐えろということか)
 いや。きっとこの店には、自ら進んで足を踏み入れることは二度とないだろう。慣れる必要はない。なので、今だけだと思って寒すぎるその呼び名を我慢するのが利口なのだ。
 しかし…。そう思っていてもやはり納得はいかない。俺は自分で思っていたよりもまだまだ餓鬼なのかもしれない…。


「っで、マサちゃん。何処で仁ちゃんに捕まっちゃったの?」
「人聞きが悪いな」
 カップに口をつけていた俺より先に、瞳さんの問いに荻原がそう答えた。
「拉致したみたいじゃないか」
「でも、仁ちゃんならそうなんでしょう?」
「そうなのか?」
「……」
 本人が真顔で問うことか。首を傾げる男を俺は睨みつけた。
「怒るなよ」
「…煩い」
 怒るなと注意をする前に、俺をそうさせる様な事を仕掛けてくるな。
 性格的に合わないのか何なのか。俺には荻原が怒らせるように持ってきているようにも思えてならない。そこまでする必要はないのだろうが、からかわれている。その雰囲気がいつまで経ってもこの男からは消えない。
 こう気にすることでもないのだろうが、本人が本人なので、どうしても身構えてしまうのだ。
 そんな俺を、瞳さんは荻原と同じように首を少し傾げて俺を覗き込んできた。
「マサちゃんは仁ちゃんのことが嫌いなの?」
「……」
 一体今まで俺と荻原をどういう仲だと思っていたのだろうか。友人にでも見えていたのか? 俺はここには引っ張られてきたのだと言ったはずだ。自己中心的な男に振り回されて好意的な態度をとれるほど、俺は脳天気でもなければ馬鹿でもない。
 眉を顰める俺を見て、彼女は呟いた。
「…あら、仁ちゃん。大変ね、これは」
「ああ、大変なんだ。打っても全く響かない」
「前途多難な恋なのね。頑張って」
「言われなくとも、な」
「……」
(似た物同士とはこのことなのかもしれない…)
 ふざけた会話で遊び始めた息の合った二人の姿に、恋人だと言うよりコンビだなと溜息を漏らす。
「マサちゃんも、早く仁ちゃんのこと好きになってあげてね」
 話をふられても、生憎俺はそんな馬鹿な会話にのれるだけのセンスを持ってはいない。
「それは、…ないでしょう」
「…だって。どうするの、仁ちゃん」
 真面目に返した俺の言葉に、本当に困ったと、心配げに瞳さんは荻原に顔を向けた。だが、俺には彼女のその目が思い切り笑っているように見える。それは錯覚でも何でもないのだろう。荻原もそう感じたようだ。
「道のりはまだまだ長いな。
 瞳。お前、俺の不幸を楽しんでいるな?」
「そんなことないわ。応援しているのよ」
「どうかな、それは。第一見込みがないからな〜」
「わからないわよ。恋愛なんて一瞬で変化しちゃうから」
「明暗はわからないってか」
「それが恋でしょ」
「だとさ、マサキ」
「……」
 …だから、見えない話を俺にふらないで欲しいというのだ…。
 冗談だとはわかっていても不毛な会話になりはじめた話題に嫌気がさしてくる。それを誤魔化すためにカップを口元に運んだが、すでに空になっていた。仕方なくテーブルにそれを置き、軽い溜息を付く。
 直ぐに俺の空のカップに気付いた彼女が、新たな中身を注してくれた。
「でも、ホント驚きだわ。仁ちゃんも人間だったのね」
「なんだよ、それ」
「だって、仁ちゃんが他人を気に入っているのよ、凄いことだわ」
 荻原の顔の前に人差し指を突き出して瞳さんはそう言った。その手を荻原は握り絞め、
「何言ってんだよ、お前の事も好きだぞ」
「ありがとう。でも、誤魔化してもダメよ。私への気持ちとは全然違うでしょ」
 マサちゃんが誤解するからこんなことはしないでね。
 彼女は荻原の手を外しながら、そう言葉を続けた。…一体何を誤解すると言うのだろうか…?
「堂本さんも驚いたんでしょうね。仁ちゃんが気に入るんだもの。しかも、こんな綺麗な男の子を。心中お察しするわ」
「酷い言われようだな、俺は」
「喜んでいるのよ」
 コーヒーに口をつけながら、「どうだかなぁ」と軽く肩を竦める。
「その分、気に入られちゃったマサちゃんは、ちょっとお気の毒ね。
 でも、ホント仁ちゃんはいい子だから、ヨロシクね」
「…遠慮します」
「そうそう。俺がじゃなく、こいつがイイ子なんだよ。だからこんな俺とは付き合いたくないんだよ」
 …良くわかっているじゃないか。なら早く、諦めるというものを知って欲しいのだが。
 そう思う俺とは逆に、瞳さんは荻原を嗾けた。
「もう、いじけていないでよ。
 早くゲットしないと、誰かに取られちゃうわよ」
「…それは、まずいな」
「仁ちゃんとマサちゃんのツーショットなんて、とっても美味しそうなんだから、早くラブラブになってね」
 その言葉に荻原が苦笑を漏らした。
「おいおい、写真を撮って商売でもするのか?」
「あ、それイイね」
「冗談。そうなったら勿体無くて見せびらかしはしないね」
「ケチ」
「……いい加減にしてくれ…」
 口を挟めばからかわれる材料になるのだと傍観者を決め込もうとしていたが、思わずそう口からついて出てしまった。
「あら。マサちゃん恋人いるの? いるわよね、そんなにかっこいいんだから」
「…いません」
「そうなの? どうして?」
「…どうしてでもいいでしょう」
「ま、そうだけど…。
 なら、別に誰にも悪くはないし話しても良いじゃない」
「…ふざけるのなら、俺の聞こえないところでやって下さい」
「ふざけていないわよ。どうして?」
「どこがふざけていないんですか。…不毛ですよ」
 その言葉に、彼女は一瞬驚き、そしてじっと俺の顔を見てきた。横では面白そうに荻原が俺と彼女を見ていた。俺はそれを無視し、瞳さんに向かって口を開く。
「……なんですか」
「マサちゃん。今時そんなこと拘らないわよ」
「…何がです」
「男同士だとか、どうだとかだなんて、古いわよ」
「……古くても、拘ってください」
「えぇ〜。だって、ねえ。仁ちゃん」
「俺にふるのかよ」
 荻原は苦笑しながら、コーヒーのおかわりを頼み、話に戻ってきた。
 …俺としてはこのままこの場を離れたい心境だ。瞳さんの意見を聞いた今となっては、会話がどう進むのかわかっている。…どうだこうだと議論したい問題ではない。
「仁ちゃんも別に男同士って気にしていないでしょう?」
「そうだな。う〜ん、気にはしないな」
 あっさりとそう答えた荻原を当惑しつつ睨んだが、俺の視線は気付いているだろうにそれを流し、口の端だけを少し動かし笑った。…本気で言っているのか冗談なのか、それだけではわからない…。
「そうでしょう。だって、世の中に男と女しかいないのよ。異性しか恋愛対象じゃないなんておかしいわ。性別よりも性格で、その人の人格で好きになるんだから、性別なんて関係ないのよ」
 瞳さんは指を立て説得するかのようにそう言ったが、俺は絶対にそうは思えない。同性というだけで普通は恋愛対象から外れるものじゃないか。人格を知る前に性別を知る方が先だろう。同性愛者を否定はしないが、異性愛者には通じない屁理屈だ。
「別に否定はしないですよ。だが、それは自分が関係ないところでの話です。
 自分が男とどうこうだなんて、考えたくもないです」
 俺の言葉を受け、荻原も「同感だな」と言った。
「態々男なんて抱きたくないね。
 男と体を繋げるか繋げないかと聞かれれば、そりゃあ、繋げられるだろう。相手にもその時の気分にもよるだろうが、多分出来るな。
 だが、やりたいとは思わない。考えたくもない」
「体のことは言ってないけど。…でも、そうなのか、なんだ」
「体抜きに恋愛は語れないだろう。お前、残念がるなよ」
「だって、女はやっぱそう言うのに夢見ちゃうじゃない」
「見るなよ。そんな歳じゃないだろう、お前は」
「…酷いわ、仁ちゃん」
「どっちがだよ。
なら、自分はどうなんだ? 女を好きになる可能性があるのか?」
「そりゃあ、…あるわよ、きっと。ないだなんて言い切れないわよ」
 本気でそう思っている風ではなく、瞳さんの返事はむしろ、売り言葉に買い言葉のようだったが、それには突っ込まず荻原はそのまま質問を続けた。
「すんなり受け入れるのか?」
「…多分、ね。だってある気持ちはどうにも出来ないじゃない」
 なるほどね。そう呟いた後、荻原は俺を見て肩を竦めた。
「ま、その辺が男と女の違いだよな。男はデリケートだから、女みたいに開き直れない」
「…何それ、馬鹿にしているの?」
「いや、凄い考え方だなと感心しているってことだ」
 テーブルの上にあった砂糖入れから、荻原は小さな角砂糖を一つ取り出し齧った。カッと音が上がり、半分に割れ手に残った砂糖をコーヒーの中に入れる。
 慣れているのかその行為を気にする事もない彼女に、何かないのかと荻原は茶請けをせがんだ。
「はいはい。…えっと、こんなものでよければ、どうぞ」
 カウンターの下から出してきた缶の蓋を開け彼女は荻原に中身を差し出した。サンキューと礼を言うと出されたチョコレートを一つ取り、包みを開け口に放り込む。
「マサちゃんも、どう?」
「…いや、結構です」
 甘いものが苦手な俺には、荻原がそれを食べるのを見ただけで胸が焼けてきそうになる。実際、コーヒーの香りに混じるチョコレートの甘い匂いだけで頭が痛くなりそうだ。
 俺とは対照的に荻原は甘いものが好きだ。いや、甘い物ばかりではなく、食べるということ事態が好きなようで、それが得意ではない俺にすれば感心してしまうことでもある。だが、それが当たり前なのだろう。物を食べると言うのは生きていく上で最も必要なことなのだ。
 以前は食が細いのはあまり気にならなかったが、最近はそれに感情がついていかない。まともに食べない、食べられない自分に嫌気がさしてくる。その一方、食べなければならないという強迫観念に縛られ、余計に食べられない…。
 心の何処かで、餓死でもしようと思っているのか、俺は。そんな事を願っているから物を口に出来なくなったのか、生きるための行為をしたくないのか…? 考えるのはそんな馬鹿なことばかりで、結局、数え切れるぐらいの物しか口にしない。コーヒーと酒と煙草では、人間は生きてはいけない。わかっているのに、億劫で努力もしない。
 こうすることで何が得られるというのか。俺は何を望んでいるのだろうか。
 ただ、このままではいけないのだとわかるだけで、それ以上は何も浮かばない。まともに食事をしたのはいつなのか、もう思い出せないほどだ…。
 二つめのチョコを口に放り込む荻原を見ながら、俺は小さな溜息を吐き出した。考えても仕方が無いことだ。体が受け付けないのだから、食べようとしても無駄に終わるだけなのだから。
 湿らす程度にコーヒーを口に含む。だが、そんな事を考えていたからか、単なる飲みすぎなのか、軽い吐き気が襲った。
 目敏くそんな俺の様子に気付いたのか、「どうかしたか」と聞いてきた荻原に何でもないと返す。「なら、いいんだが」そう言い、またチョコを口に入れながら荻原は会話を再開した。

「瞳。お前の性別は関係ないって言うのも、ま、わかるがな。やはり男と女は持って生まれた素質というか、備わっているものというか…、そんなものが根本的に違うんだよ。
 だから、男が男を好きになったら、女みたいな強い考えを出来る者がいないからどうしても世間から落ちてしまう。男女の恋のようには絶対にいかない。ま、男のうちのどちらかが、異様に前向きと言うか脳天気な性格だったら、上手くはいかずともやっていけるのかもしれないがな」
「…いまいち、言ってることがわかんないんだけど…?」
「俺も上手くは言えないな。男女と同じモノサシでは、同性愛は量れないってことかな」
「余計にわかんないわよ。それって、女が脳天気だと馬鹿にしてる?」
「そうじゃないって。男の場合は能天気だということも、女になれば、それが強さになるだろう」
 荻原の言うことにやはりわからないと彼女は肩を竦めた。確かに荻原の言う事は抽象的すぎて掴みづらい。だが、俺には彼の言いたいことが何となくわかり、共感できる気がした。
「…多分……他人の、世間の視線ですよ。
 大抵の男は社会に居場所を見つけるんです。もちろん家庭もそうでしょうが、そんなレベルじゃない。世間の目に晒されて、社会の一員としての自分という存在が男を作っているんです。だからこそ、そこからはみ出そうとした時には、弱くなる。
 女は逆に、社会は生きるための場であっても自分を置くことは少ない。それよりももっと小さな家庭や仲間同士の空間で自分を作っている。
 社会と家庭の差がどうこうと差別するつもりはないですよ。ただ社会と言う激変する曖昧な空間と違い、狭い空間である家庭で作る壁が強いのは事実でしょう。
 確かに男でもそんな空間を持つ者もいるでしょうが、圧倒的に女の方が多い。だから、何においても自分を守る方法を知っているのは女の方なんですよ」
「そう。だからこそ、自分を中心に、愛するものを中心に世の中を見ることができる。
 女なら社会に認められない恋でも、自分達が幸せならと思うだろう。それとは逆の自己犠牲も同じことだ。結局は周りの感情を見て幸せを選ぼうとするんだからな。
 だが、男なら同じ立場になったら女とは違い、落ちたと思うだろう。たとえ愛があっても、その感情だけでは満足しないからな」
「優位の問題…ですかね。なんだかんだと言っても、結局は男は地位を求める。愛も求めるでしょうが、唯一の物じゃない」
「目に見える社会的立場は信じるが、愛は心底信じきれるものじゃない。感情は変わるものだ。大抵の男はそう思っているんだよ。その感情を持って、愛してるだのなんだのやっているんだよ」
「……何か、協同して私を苛めてない? マサちゃんまでそんなこと言うなんて…」
「だから、これは当たり前の事実なんだって」
 少し頬を膨らませ眉を寄せた彼女に、荻原は肩を竦め苦笑した。
「自分の気持ちの中で女は生きられる。だから、お前みたいに同性愛に夢を見られるんだよ。だが、男は社会がなくては生きられない」
「…それって、なんか屁理屈」
「まあな。だが、こうして話してわかるだろう。素直に納得しないのも、男の弱ささ」
「ごまかさないでよ。
 もういいわ。わかったわ、男と女の事は。
 ま、それは置いておいて。今言った一般論は捨てて答えてね、仁ちゃん。
 相手がマサちゃんでも可能性はゼロ?」
「お前、しつこいな」
「いいから。純粋な興味よ、ウダウダ言わないでね」
「う〜ん、そうだな…」
 考え込むように百円ライター程の長方形のチョコレートを、荻原はトントンと机に打ちつけた。その横には、包み紙が小さな山になって置かれている。
「…悩むなよ」
 一体いくつ食べたのかと呆れながら、俺は首を傾げる男にそう言った。その言葉に、荻原は視線を合わせニヤリと笑った。
「そうだな、恋愛出来るだろう人物だな。こいつを気に入っているのは確かだからな」
 何て事を言い出すんだ、止めてくれ。そう叫びたかったがあまりのことで言葉が出ない。そんな俺を余所に、瞳さんが笑って馬鹿な答えをした男を詮索する。
「ってことは、抱けるってこと?」
「好きな相手だから嫌悪は感じないだろうし、できるだろうな」
「ホント?」
「あぁ」
「それって、本気でって事よね」
「そうだな」
「なら、やっぱり…」
「だが、好きだからイコール抱く、ではないぞ。抱かないから愛がないわけじゃないのと同じだ」
「何よ、それ」
「好きだから体も欲しいとはいかないだろう」
 その言葉に重ねるように、俺は聞くに耐えられなくなり口を挟んだ。
「そんなこと考えるなよ…」
「まあ、いいじゃないか。言うくらい」
 聞かされるだけでも俺は気分が悪くなる。
「さっきは、体抜きに恋愛は語れないって言ったじゃない」
「だからだ。俺はこいつを気に入っていると言ったが、恋だとは言ってないぞ」
「今の感情は恋愛じゃないの? そんなに気に入っているのに?」
「さあな。でも俺はこいつが好きだ、というのは事実だ」
「…ふざけるなよ」
「何だよ、最初から言っているだろう、一目惚れだって」
 笑いの中にも真剣ととれる視線を含めて荻原は俺を見ていた。
「……」
「なら、愛している。そう言えば信じるのか?」
「……」
 …信じる、信じないの問題ではない…。信じられない。それが俺の全てだ…。だが…。
 俺の当惑を他所に、瞳さんが首を傾げる。
「なら、恋愛なんでしょう? なのに体は要らないの?」
「今はな。今後はわからないぜ」
 …そんな可能性なんて要らない。直ぐに捨てろ…。
 冗談だろうと何だろうと、聞きたくない…。
 言葉は言葉でしかない。真の想いを現しているものかどうかなど、俺には判断出来ない。疑ってかかるしか、自分を守れる方法が無い。だから、聞きたくないのだ。俺に対する思いなんて知りたくない。…他人の感情も、自分と言う人間も、受け入れられるほど俺は出来た人間じゃない…。今のバランスを崩したくない…。
「ますますわからないわ。ま、男や女がどうだこうだは置いておくとしても。
 なんだか子供のようね、仁ちゃん。もしかして、初恋?」
「そうかもな」
「あら、ますます応援しないとね」
 そう言い笑いあう二人。だが、俺は笑うことなんて出来ない。席を立たないだけで精一杯だ…。
「…あんたは、俺をそう言う対象で見ているのかよ…」
「いや、だから、今は単なる興味だ。別にお前には何もしてないだろう」
「……」
「からかったつもりはないが少しふざけ過ぎたか、悪かったな。怒るなよ。
 だが、お前ももっと聞き流せよ、真面目に取るな」
「あら、冗談なの?」
「違うって。っていうか、茶化すなよ。機嫌損ねたじゃないか」
「初めから不機嫌よ、ねぇ?」
「……」
「ったく、何て言えばいいんだよ。
 いいか。俺は今まで男を愛したことはないし、体の関係をもったこともない。だから、今からお前をどうこうしようとは思っていない。第一お前、ホモ好きの瞳じゃないんだから、同性に対して警戒するなよ。ゲイなんてゴロゴロ居るわけないだろう」
「…わかっている。だが、俺はあんたが何で俺を構いにくるかがわからない。気持ちは悪いが、恋愛感情だと言う方がまだわかる。
 俺でも他人のそう言った対象になり得ることがあるのは知っている。…理解は出来ないがな」
「ま、そうだろうがなぁ。
 俺もなんでお前を気に入ったのか、わかんないね、正直。それを言うなら、お前も何だかんだいっても俺に付き合うじゃないか。他の奴らにもそうなのか? その前に切れるんだろう、お前の性格なら」
「……」
「…逃げるなよ、こんなことで」
 ふいに荻原は笑いを消した真面目な声でそう言った。
「…どういう意味だ…?」
「お前は人を好きになるのも、好きになられるのも嫌なんだろう、怖いんだろう?」
「……」
「俺みたいな奴に執着されたくない、今のうちにさっさと逃げよう」
「……わかっているなら、そうさせろ…」
「わかっているが出来ないんだよ。それもわかれよ。
 悪いと思うがな、俺はお前を気に入ったんだから、仕方ないだろう?」
「…悪すぎる」
 感情はもっと別のことで泣きそうになったが、意地を張るように彼の言葉に返事を返した。「そういうなよ」と喉を鳴らしながら笑った荻原は、
「硬く考えるなよ。そうだな、友情だなんて臭い事をいえる人間じゃないが…、ま、そんなもんだよ。構えるなよ。気が合うんだろ、俺達は」
 …気が合うのではない。合うのなら、こんな感情にはなりはしない。もっと上手く付き合えるだろう。荻原の言うような、友情だなんて言葉で表すような関係ではない。だが、その変わりに自分達を表現するような言葉も見つからない。
 互いに利用している。それが一番合っているのかもしれない……。
「う〜ん、手の早すぎる仁ちゃんが本当に何もしていないのなら…、…恋愛じゃないのかもね」
「がっかりするなよ」
 頬杖をつき溜息を吐いた瞳さんに、荻原は頭を軽く叩いた。そして、そのまま彼女の髪を掻きまわすように撫でる。
 そんな二人の姿に、落ちるのは溜息だけだ。俺はやはり、無敵と呼べそうなこの馬鹿なカップルにからかわれただけなのかもしれない。
 
 俺には関係のない話を始めた二人を眺めながら、俺は荻原がさっき言った言葉を頭で繰り返していた。人を好きになるのも、好きになられるのも怖いんだろう? …それは、確かに俺の感情にピタリと当てはまるのかもしれない。
 恐れを抱いているわけではないが、それに近い感情があるのは事実だ。避けているのだ、そうした感情を持つ事も、持たれる事も…。
 俺にも愛した者はいた。冴子さんは自分より大切な存在だった。だから、人を愛するという感情が俺にはないというわけではない。だが、忘れてしまいそうになっている…。
 彼女のことがあまりにも愛しくて、それが何なのかあの時は考えもしなかったが、あれは恋愛感情ではないもっと深い愛情だったのだと思う。恋愛対象として、彼女を見ていたつもりはない。
 当たり前のように恋愛を話す二人。だが、俺にはそれがどんなものなのかわからない。そもそも自分にそう言ったものがあるのかすら謎だ。恋愛と言うものを一度もしたことがない。それをおかしいことだとは思わない。だが、今こうして二人のやり取りを見、自分の事を考えると、人間として自分は何かが欠けているのかもしれないと思う。
 冴子さんの事は今でも大切だ、愛している。だが、それを維持し続ける術を俺は持ってはいない。大切な存在だったという感情は記憶へと移り変わろうとしている。あんなにも好きだったのに…。想いが変わった訳ではないが、俺の心を占めるものが別に出来ている。彼女がいなくなっても俺は生きていて、その間の日常が少しずつ彼女への思いを過去にしていくのだ。
 どんなに思いが強くとも、心は自分が望まずとも色褪せる。人は環境に応じて、感情を変えていく。生きていけるように苦しさを手放すのだ。
 それが辛いわけではない。そうしなければ亡くしてしまった者への悲しみで死んでしまう、人間は生きられない。だから、苦しんでも仕方がない。なのに、寂しいと、切ないと感じてしまう。
 だから俺は恋を知りたいとも、したいとも思わない。失うことへの恐れを抱いているのかもしれないし、更に冴子さんへの想いを薄れさせるものを作りたくないのかもしれない……。



「お? …堂本だ」
 失礼と言って荻原はスーツのポケットから取り出した携帯を耳にあてた。「威風堂々」が途中で切れる。
 嬉しい内容ではないのか、眉を寄せながら二言三言短い返事をして通話を切った後、荻原は溜息をついた。
「ったく。…仕事だ。
 悪いが、マサキ。晩飯はキャンセルだ。…それとも、もう一件付き合うか?」
 …冗談はよしてくれ…。俺は軽く首を振り、
「いや、遠慮する」
「…だよな。悪い」
 ったく、トラぶったら自分達で処理しろよな、と上役にはあるまじき発言をし、荻原は盛大な溜息をついた。
「…ねえ、仁ちゃん」
「なんだ?」
「私があげたストラップは?」
 ポケットにしまわず、テーブルの上に置いた荻原の携帯を指でトントンと突付きながら彼女はそう言った。
「ああ、あのネコは逃げた」
 その言葉に、一度見かけたとぼけた顔のキャラクターを思い出す。
「…もう、誰にあげたのよ」
「家出だって」
「…拉致でしょう…。あれ、結構人気なのよ」
「そうみたいだな」
 何喰わない荻原のその返事に、今度は瞳さんが溜息をついた。
「悪かったよ。だが、俺が持っているよりいいだろう?」
「可愛い女の子の方が似合うって?
 …私があげた物を別の女にあげる仁ちゃんもおかしければ、貰う方もおかしいわよ」
「そうか? どうせ物は物だろう」
 肩を竦める荻原に、「…全てわかっていてやっているんだから、性質が悪すぎよ」と頬を膨らまし、その後直ぐに苦笑した。そうだとわかっていて付き合う自分も自分だと言う風に。
 じゃあ、またな。そう言って腰をあげた荻原に続き、俺も礼を言い店を後にした。
 すっかり日は落ちており、所々にある街灯や店の光では足元の闇まで照らすことは出来はしなかった。
 来た時とは逆に、薄暗い路地を荻原と並んで進む。地上の光を受け薄くぼやけた明るさの夜空が静寂を落とそうとしていた。だが、まだこの街に夜の静けさは訪れはしない。
「態々待たせたのに、悪かったな」
「いや、別に…」
「なんだ。これで終わって良かったってか?」
「…そうだな」
 少しは否定しろよ。そう言い笑う。相変わらずの俺も俺なら、それを楽しげに受ける彼も彼だ。だが、それがなんだか、こそばゆい感じがした。
 直ぐに表通りに出る。昼間よりも人通りが多くなった歩道の脇に停められた、見慣れた車とその横に立つ男に俺は直ぐに気が付いた。
「じゃあな」
 そう言い片手をあげ、荻原の車がある方とは逆に足を向ける。
「待てよ、慌てるなよ」
「…お前は慌てろ。待っているぞ」
「送らせるぞ」
「いや、いい」
「帰るんだろう?」
「さあ…」
 俺のその返答に、荻原は何かを言いかけたが口を噤み、苦笑を漏らした後にこう言った。
「…酒を飲むんだったら、寝るほど飲むなよ」
 ……なに親みたいなこと言っているのだか…。
「…そんなことはしない…」
「嘘をつけ、よくやるくせに」
「…あんたが相手の時だけだ」
「ん?」
「あんたとなら、がぶ飲みしていないと気が紛れないからな。ヤクザに殴りかからないための自己防衛だよ」
「…おいおい。何だよそれは」
「もう、いいだろ。…ほら、さっさと仕事に行ってこいよ」
 はいはい、と二つ返事をし、片手をあげて荻原は車へと向かう。直ぐに俺も逆の方向へ足を動かした。数件の店先を通り過ぎたところで立ち止まり後ろを振り返る。急ぎ足で俺の後ろを歩いてきていた者が慌てて避け、過ぎ去る。
 流れるように走り出した荻原を乗せた車は、直ぐに街の中へと消えていった。

 街に溢れる光。この光の洪水の中では探し難くとも、確かに彼は輝く光を持っているのだろう。
 暗い宇宙で輝く星。だが、この街では空にはそれを見とめられない。でも、確かに、瞬いている。
 俺にもそんな光があるのなら、今はもう、掌で隠せるぐらいの小さな弱いものなのだろう。
 その光を消さないためには、どうすればいいのだろうか。
 自分の光が消えたと気付かないほど、明るい光の傍にいれば、自分の小ささを意識しないですむのだろうか。それとも…。
 それとも、暗闇の中で、弱くとも光る、仄かな明かりを見つめ続ける方がいいのだろうか。せめて自分自身だけでも、段々と消えていく光を見つめるべきなのだろうか。
 一人になると、現実が襲ってくる。
 いや、単なる妄想というべきなのか。
 なら、意外と自分には想像力があったのだなと笑おうか。
 鞄の中の携帯電話が長めに一度震動し、メール着信を告げる。だが、取り出して読む気にはならなかった。
 ただ何故か、今は無性に、あの男と同じ名を持つ黒猫を見たかった。
 何処でもいい。何処かに行きたい…。
 子供の時のようにそう願っている自分が心の中にいた。だが――
 今はもう、あの頃のように願うだけではなく、俺は何処にも動くことが出来ないのだと知っている。知った上で、無理なことだと理解していてなお、願っている…。
 足に絡みついたこの世に柵。
 その足枷を外すことは出来ない、減ることは無い。
 俺は、何処にも行けはしない…。動けはしない――

2002/04/25