16

 もう二度と来ないかもしれない。
 そう思った場所に俺は再び立った。立つことが出来た。
 小さな向日葵を生けた後、俺は暫く何も考えずにその場に佇んでいた。
 黒い石に掛けた水は直ぐに乾いてしまう。夏の太陽が俺の背に照りつけジリジリと皮膚を焼く。時折温かな風が吹き、向日葵と、すっかり伸びてしまった俺の長い髪を揺らす。線香の煙がゆっくりと立ち昇る。
 墓地には誰の姿も無い。
 梅雨の中休みなのか、この数日晴れ間が続いていた。他の多くの墓にも、暑さで萎れかけてはいるが最近生けたのだろうと思える花が挿されているので、この天気を利用しての参拝の者は少なくないのだろう。
 だが、この暑さで此処に止まる者はどれくらいいるのだろうか。そんな少々奇行じみた自分の姿がおかしくもある。
 立ちくらみを起こしそうな強い日の光。だが、脳が沸騰し壊れてしまいそうなほどのその感覚がかえって面白い。少し痺れる頭、噴きだす汗。立ち昇る陽炎が止めを刺すかのように揺らめく。地面から照り返す熱気。世界が踊りだしそうな感覚。
 そして、ふと現実に戻る。
 暑すぎて壊れた頭は、この夏を感じられたということに満足し、それ以上の苦しみを感じさせない。吐き出した息は空気より冷たかったのか、吸い込んだ息が喉を焼くかのように熱く感じる。そのピリリとした感覚が、またおかしい。
 体力を消耗するだけだとわかっているのに此処を離れられない。
 だが、それは数年前に感じた絶望のような苦しみからではなく、ただ、離れがたいという素直な思い。そう、子供のように単純なものだ。もう少し、此処に居たい。
 あの頃は、ただどうしていいのかわからず、答えを求めて、いや、彼女を求めて此処に来ていた。そして、先日此処には今の俺を救えるものはないのだと気付き、遠ざかった。
 今は、救いを求めてでも何かを願ってでもなく、ただ、此処で少し彼女を感じたい、それだけだ。
 何故そう心が変わったのかは、自分でもわからない。
 本当におかしな程感情が荒れ狂っているので、今もただ、その穏やかな、受け入れたというような状態が少し長く続いているだけなのかもしれない。だが、やはり何処かでそれだけではないだろうという事もわかっている。わかってはいるが口に出せるほど明確なものではない。
 何てことはないのだ、本当に。ただ、少し周りの者が見えて、素直にそれを受け入れられただとか、子供過ぎる自分の思考に苦笑できただとか、それらを感じる余裕が出来たのだとか…。そんなちょっとした変化にふと気付くことが多くなり、なんだか受け止め方も変わってきたように思う。
 まだ、何でもないことに腹を立てる事も度々あるし、狂ったように思いに捕らわれる事もあるが、それでもそんな自分を少し受け入れられてきたように思う。
 今朝も現に荻原が出ていった後、ふと俺はこのまま死ぬのではないだろうかという思いに捕らわれた。テーブルの上にあった果物ナイフが、自分をその手に取れば楽になれると訴えているように感じてしまい、衝動的に刃を手首に乗せるためそれを掴んだ。だが、どうやって俺はナイフを持っていたのか、鞘を抜くときに小指を少し切ってしまった。
 ぽたぽたとテーブルに落ちる鮮血。訳がわからなくて、少しの間その光景に目を奪われていたが、手から滑り落ちた鞘の音を耳が捉えるのと同時に、小指が痛みを訴え出した。
 痛いのだ。そんな当たり前な事を感じ、心が震えた。
 こんな事をしてもどうにもならないのだと、心から思えた。
 馬鹿な事をしていると自分を落とし込むのは簡単なことなのだろう。そうすれば、自身を詰る分だけ、現実から目を反らせられる。だが、そんな事をしても、結局は現状は何も変わらない。ただ、自身の闇に沈み込むだけ。
 今までの俺ならばいつまでたってもそんなことには気付きもしなかっただろう。やはり、俺の中で何かが少し変わり始めている。
 先日のことが全てのきっかけだとは言えないが、少しは関係あるのだろう。殴られた時は感じなかった痛みも、あの後数日苦しめられることになった。
 そして、そんな俺を笑いながらも気遣ってくれる荻原が傍に居た。そのことが、俺に何かを与えたように思う。思える。
 そう。もっと前から少しずつ、俺の中にそんな感情が溜まっていっていたのだろう。ただ、俺自身に気付くだけの余裕が無かったというだけだ。
 今のこんな思い自体にも戸惑うが、嫌なものではないとも思う。気付いた人との距離、自分との距離。それを見ることが出来ただけでも、何かプラスになっているような気がする。
 今はまだ、それを縮められるかどうかわかるものではないのだが。
 以前ならきっと、開いた距離を何でもないと自分を騙す事で見ない振りをしただろう。そして、それでも何処かで淋しがっていたのだろう。自分では何もしない我が儘な子供のように。
 だが今は、ただ目の前にその事実があるという事だけ。後ろ向きではないが、前向きでもないと言えるのだろうか、歩み寄りたいと思う気持ちあまりない。ただ、その距離の中で感じる、他人と言う存在に満足している。それだけで十分なのだ、今は。
 他人は俺が思うほど、強くも弱くも無く、そして、馬鹿なものでもなかった。俺と変わらない、いや、俺よりも人間らしい、そんなものだ。
 自分の考えを、心を変えるというのは、簡単な事ではない、俺はまだ、他人と言うものが漠然とだが感じるようになっただけで、苦手であることには変わりない。
 だが、それでもいいんじゃないか。そう思うようになった。

 此処に来る前に両親の墓にも参った。
 そこはもう何年振りかも思い出せないくらいで、墓の場所すら見つけるのに時間が要った。
 それなりに手入れをされていたのは、寺の住職のお陰だろう。薄情な息子の俺が此処には全くといって良いほど来ないことを、年老いた彼は知っているのだ。
 親族の墓に入れるはずだったのだが、色々あり、結局新しく作った墓。なのに、そのまま放っているだなんて。死者を冒涜しているというものなのだろうか。これなら、煙たがられていたとしても親族の墓に入った方がそれなりに扱ってもらえていたのだろう。
 それとも、此処で二人静かにいる今の方が彼らにはいいのか…。
 答えなんて出ない考えに苦笑する。そして、自分もこの墓に入るのだろうかという考えが浮かび、また苦笑する。
 それこそ、どうでもいいことだ。
 死んでもなお意思があるのならば、薄情な息子の俺は、此処ではなく冴子さんの近くにと願うのかもしれない。だが、死は俺という全てのものを俺の中から消す。なら、生きている者達が納得するように、好きなようにすればいいのだ。どう扱われようと文句はない。
 関係ないといっているわけではなく、ただ、それが当然の事なのだと思うのだ。
 寺を出る時、少しの焦燥感に立ち止まてしまった。受け入れたというほどではないが、少しは歩み寄ったがために、心の中から何かがなくなってしまったように小さな穴があいている。それを何故か淋しいと思った。
 父と母の事を今でも何処かで引きずっているのは事実だろうし、全く憎んでいないと言えば嘘になるのかもしれない。関心は薄くとも、親であるのだ。
 作ったものを手放すことは人間なのだ、簡単じゃなくとも出来ることだろう。だが、作られたものは、作り手を捨てる事など出来はしない。子供は親を捨てる事は出来ない。自分の存在意義は彼らからあるのだから。
 否定するばかりではなく、そんな感情を認めると、とても楽になった。そして、少しの淋しさを覚えた。反抗ばかりしていたに過ぎないのだろうか、俺は。見ない振りをしながらも意識はそちらに向いていたのか。
 受け入れると、心が静かになった。こうして人間は一つ一つの事を過去の出来事としてしまいこんでいくのだろう、心の中に。
 冴子さんに会いたい。純粋にそう思い、此処に来た。
 俺はいつの間にか、受け入れてしまう自分を恐れていた。過去のものになってしまった彼女の存在が辛かった。そうしてしまった自分自身と、いなくなってしまった彼女を、何処かで憎んでいたのかもしれない。
 だが、今は思える。これが生きる事なのだろう。納得しきれなくとも、その間に時はどんどん進んで行くのだ。手の届かない遠くに行く過去同様、思い描いた未来ではなくとも、着実に俺の中を時は通って行く。
 自分の事を考えると、簡単には受け入れられないが、それでも、時は必ず進んで行くのだと思えば、納得できる部分もある。楽になれる。
 死は何もかも消し去るわけではない。自分自身にはそうであっても、まだ歩みを止めない者にとっては関わりあうものなのだ。それを思うと辛かった。自分の死が誰かに何かを与えるのかもしれないと思うと、恐怖にかられた。自分が彼らの死で感じたようなあんな思いを俺が与える。そう思うだけで胸が苦しくなった。だから、全てを消し去りたいと願った。自分と言う全てを。死が直ぐそこにあるのに生きている、という事実が俺には耐えきれないものだったのだ。
 しかし、そうではないのだ。死に関わったものにも、必ず時が流れる。そう、それは過去になるのだ、俺の死も、何もかもが。
 ずっと思いにとらわれ続けることなんて、人間には出来ない芸当なのだ。せかせかと時を進む人間だからこそ、辛い事でも苦しい事でも、乗り切れる。本能で生きようとする。
 人はそう弱いものではない。たとえ時間がかかろうとも、大抵の事は乗り切り生きていく。そう、俺も単に逃げただけでなく、乗り切ったのだ。そう考える方がいい。
 俺はそう他人に何かの影響を与えるほど、大したものではない。
 多分俺は死に敏感になりすぎていただけなのだ。餓鬼だったのだ。きっと、意識しなくとも人間はこうした強い思いを皆持っているのではないだろうか。だから、大切な者が死んでも生きているし、どんな場所でも生きようと努力するのだ。
 生まれてきたからには生きなければならない。そう考えているのではなく、ただ、今自分がいるのはこの場所なのだからと生きるのだ。
 それが大事な事なのだろう、生きて行く上では一番。
 だから、俺も、上手くはないが、そうしていきたいと思う。
 まだ、俺は死んでいない。生きているんだ。
 その瞬間が来るまで、俺はきちんと生きようとそう思う。
 時には潰されそうになりながら見つけた答えは、なんとも単純なものだった。
(回り道のしすぎだな…)
 俺が軽く笑うと、同じように風に揺れてサワサワと木の葉が音を上げた。
 その音はまるで、目の前に眠る彼女からの返事のように聞こえた。



 間違って押してしまったようで、用もないというのにエレベーターは地下の駐車場まで降りた。扉が開き、無機質なコンクリートの薄暗い光景と、篭った排気ガスの匂いでやっとボタンを間違えてしまったことに気付く。
 地上に戻ろうと、溜息を一つ吐きながらボタンに手を掛けようとした時、突如怒声が響き渡り、俺は思わず動きを止めた。
 聞こえてきたのは、荻原の声だった。
 一瞬躊躇ったが、エレベーターを降りその姿を探す。構造として小さな音でもおかしな程に響く空間での大きな声は、全ての空気を震わせるだけの力があった。逃げる場所が少ないので、壁などに反響した声が圧迫され薄れゆくまで暴れ狂う。
 空間のせいもあるのだとわかっていても、その声に含まれた感情はそれだけのものではなく、いつもの荻原を考えると、あまりにもかけ離れた声音だった。再び上がった怒声にピクリと体が振るえ、標的になっているのは自分ではないというのに緊張が走る。
「誰に向かっていってるんだっ!!」
 数人の塊の中にちらりと荻原の姿が見えた。上着を脱いではいるが、きちんとネクタイを締めたその姿は、やはりサラリーマンのようだ。だが、雰囲気はまるで違う。周りの自分よりも体格の良い男に怒鳴り散らしているのだから。
「ふざけるな! それで納得したっていうのか、お前は!?」
 荻原の言葉に男が何か返答を返したのだろう、一呼吸口を閉ざした荻原は次の瞬間、「なめてんのか、てめえっ!」とその男の襟首を掴み自分の方に引き寄せた。
 直ぐに傍にいた堂本さんが割って入ると、勢いをつけて荻原はその手を振り解き、「煩い! 誰もついてくるなっ!」と言い自分の車の運転席に乗り込んだ。
「そうは行かないでしょう」
 荻原の剣幕を余所に、飄々とした感じで堂本さんはそう言い助手席のドアを開け乗り込む。
 車内で何か言っているようだが、それまではさすがに聞き取る事が出来ず、直ぐに荻原は堂本さんを乗せたまま車を走らせて出ていった。白のシーマが消えた後、緊張が解けるように空気が変わる。
 残された者達が少し会話を交わし、数人が車で外に出ていった。それを見送った者達がエレベーターに乗ろうと俺の方に向かってきた。
 そこで、壁に凭れていた俺に気付いた井原が小走りで先にやってくる。
「どうしたんだ、こんなところで」
 何やってんだ? と言う問いに、「降りるのを間違えた」と答えると、ほとほと呆れたような顔をした。
「間違ったって、何だよ、それは」
「それより、…珍しいな、あいつが怒るなんて」
「ん? そうか? そんなことはないけど」
 井原がそう言う横から、
「飯田さんには怒らないだけでしょう。怒る理由が無い」
 と樋口が口を挟んだ。
「あぁ、そうか。そうだよな、確かに」
「…何納得しているんだよ」
「だって、事実だろう? 怒られた事が無いっていうのは」
 確かに、からかわれはするが怒られた事は一度もない。小言程度の事なら聞くが、それは荻原の口癖のようなものだろう。先程のように声を荒げられた事などない。
 だが、俺の方は怒られても不思議でないほどの事をいくつもしている。…何故彼は怒らないのだろうか。今更ながらにそんな疑問が浮かぶ。
 今までは、荻原自信がそう怒りを表す性格ではないのかと思っていたのだが、今の井原の発言を聞くとそういうわけでもないらしい。
「関心が、ないんだろう。怒るにはそれなりに関心がなくては…」
「…何言ってんだよ。関心ないわけねーじゃん、一緒に暮らしていて」
「……そうか…?」
 一緒に暮らすというよりも、単にむこうが嫌がらないのをいいことに、俺が押しかけているだけに過ぎないのだが…。此処で住んでいいかと聞いた事もなければ言われた事もない。ただ、泊まる回数が多いだけというくらいだ。居候しているという思いはあるが、一緒に暮らしているという感情は少ない。それはきっと、寝に帰るぐらいの荻原と過ごす時間がないからだろうか。
 ふと、自分は他人と暮らしているのだなと、今はじめて気付いたように意識する。
 家族とは言えないような家で住み、次に他人でしかないがとても大切な人と一緒に暮らした。その後は一人暮らしで、今は居候の身。
 長いとはいえない今までの人生を思うと、結構多彩な生活だなとおかしく思う。
「なあ、それより。何処かに行くのか?」
 他の男達がエレベーターに乗るのを目に捕らえながら、井原が訊いてきた。
「ん…、あぁ、ちょっとな」
「送りましょうか?」
 二人で出かけてしまったので、自分は時間が空いているんです。そう言った樋口に俺は首を振る。
「いや、いい」
 別に目的などないのだ。何となく街の喧騒に飲まれようと、朝から篭っていた部屋を出て来ただけに過ぎない。
 最後にエレベーターに乗り込み、直ぐに1階で降りる。
 中にいる二人にじゃあなと手を挙げ、「気をつけてください」と言ってきた顔の見知った男に軽く頭を下げた。彼の名前はなんだっただろうか…。思い出そうとしたが浮かんではこず、軽く肩を竦めビルを出る。
 ちょうど一足先に一階に入った喫茶店から出てきた客の後ろを着いて、強い日差しの中の歩道を歩く。母親の腕に抱かれた麦藁帽子を被った小さな女の子が、後ろを歩く俺をじっと見つめてくる。駅に向かう道から外れようと、横断歩道の前で足を止めると、歩みを止めた俺に気付いた少女が、母親の肩に置いていた小さな手を挙げてひらひらと振った。
 軽く口の端を上げて笑うと、少女は満面の笑みを浮かべた。彼女を抱く母親は何も気付かずにそのまま駅の方へと向かって行く。
 青に変わった横断歩道を渡り歩道に入る。車道を挟んだ先程までの歩道とは違い、こちら側は建物の影が落ち、直射日光が当たらないというだけでかなり涼しく感じられた。
 次の雨が終われば、梅雨があけ、本格的な夏が来るのかもしれない。


 結局、街をうろついただけで日が沈みきる前に俺はマンションに戻った。
 面倒だなと思いながらも、纏わりつく熱気を冷まそうとシャワーを浴び、その後部屋でぼんやりとしていた。
 俺の荷物はまだまだ少ないと言えるが、それでも色々揃っている部屋。殺風景だが、馴染んだ空間。いつの間にか此処が自分の部屋になってしまった。荻原が置いていた書棚には、今は俺の本が何冊も混ざっている。
 髪も乾かさずにベッドに横になり、何も考えず、ただカチカチと動く時計の音に耳を済ませていた。
 そうしてどれくらいの時が経っただろうか。
 ふと物音を耳が拾い、荻原が帰ってきたことに気付き部屋を出る。リビングに入ると堂本さんが居た。
「あぁ、煩くして済みません。起こしてしまいましたか?」
「いえ。…荻原は?」
 あそこです、と堂本さんが顔を向けた先のソファに、荻原と思しき人間が寝転がっていた。俺の位置からはかろうじて肩が見えるだけで断定は出来ない。
「…寝ているんですか?」
 まさか、と思いながらもそれ以外にはありえないだろう事を俺は間抜けにも尋ねたしまった。
「怪しいところですね」
「酔っているんですか」
「ええ」
 苦笑しながらも堂本さんはきっぱりとそう返事をした。そしてキッチンに入り、冷蔵庫から水を取り出しコップに注ぎながら、
「此処に居れば荻原に絡まれますよ」
 煩くて気になるかもしれませんが、部屋に戻ったほうがいいですよ、と言う。
「…そうなんですか」
 珍しい。そう思った俺の考えを読んだように、堂本さんが言う。
「ええ、酒癖は良くないですね。普段は酔うまでも飲まないのでわからなかったでしょうが…」
 その言葉が終わるか終わらないかの時に、彼の携帯電話が音を上げた。眠っている荻原を気にしてかそれとも俺が居るからか、電話の相手に少し待つように伝え、済みませんと俺に軽く頭を下げリビングから出ていった。
 カチャリと閉まる扉の音が耳についたのか、それに一拍遅れて荻原が「…んん」と反応した。
「…ん…、堂本、水…」
 その言葉に、彼が置いていったコップに俺は視線を向ける。荻原に飲ませるために入れたのだろう。
 それを手にリビングに戻り、ソファにだらりと寝転がっている荻原に差し出した。
「ほら、起きろよ」
 んんっと唸りながら、自力で危なげながらに起き上がると、差し出したコップを両手で取り口をつけた。コクコクと一気に全て飲み干す。
「まだ要るのか?」
「ん、いい…。……堂本…?」
「堂本さんは電話中だ」
 廊下に居るが、呼んでくるか?
 その言葉に、荻原は薄っすらとあけた目で俺を見た。虚ろなその視線が俺を認識するのにはかなりの時間がかかったが、
「…マサキ…?」
「あぁ」
 返事をすると、今度は嬉しそうに笑い、子供のように自分が起き上がったことで空いたソファのスペースをぽんぽんと叩いた。
「…何だ?」
「ここだ、ここ」
「…座れって事か…?」
「そうだ」
 それでも躊躇う俺の腕を引き、無理やり座らせる。そして。
「肩、貸せ」
 と、俺の肩に頭を置いた。
「…おい…」
 ちょっと待て、何だよこれは。不意打ちを食らった悔しさが込み上げてきた。だが、馬鹿馬鹿しいと一笑してやり過ごし、荻原の頭に手をかけた。しかし、重くて動かない。
 人間は力が入っていなければ相当重いのだと聞いた事をふと思い出す。腕一本を挙げるのですら困難だと。無意識の人間を扱う事など皆無だった俺は、今になってそんな事をはじめて体験した。
 だが、重さばかりではない事もわかっている。俺自身に力がないのだ…。
 シャツの下に隠れた腕は、筋肉は愚か肉すらない。見慣れた自身ですら、時に目を背けたくなるほど痛々しい細さだ。それでも、日常生活での問題はなく、気にしないようにしていたが…思い知らされる。体が段々と機能を失って行く…。
 まともに食べていないのだから当たり前といえば当たり前で、折れたりしないだけまだましと言えるのだろう。だが、このままだときっとそうなる日は遠くはないのだ。それまで生きているかどうかわからない、そんな逃げ道になる思いは捨てなくてはならないのだろう、後がないのだから…。
 そうわかっていても、実際に何か行動を起こせるほどの力はあまりないのが現状だ。栄養を取るためだと物を食べても吐くのだからどうにもならない。
 答えの出ない迷い。必要な事が出来ない自分への憤り。目を逸らそうとするもう一人の自分。
 上手く言葉には出来ないが、それでも生きたいと願っている事は確かだ。自分の命以上には思ってはいないが、この自身の生はまっとうしたい。だがそれは、とても難しい事。ただこうして息をしているだけでは生きているにはならないのだ。
 軽く溜息をつくと、同時に荻原が少し体を動かした。肩にかかる重みが増す。
 すべり落としてやろうかと一瞬そんな考えがよぎったが、実行にはうつせない。痺れ始めた肩を動かさないようし、右手で髪を掻きあげながらもう一度溜息を吐く。
 本気で眠り始めた荻原を起こすことは出来ない。いつも夜遅くに寝て朝早くに起きる、眠れない俺以上に寝ていないだろうと思えるこの男の眠りを妨げるのは、気が引ける。
 荻原が寝息を立て始めた頃、堂本さんが電話を終え戻ってきた。
「おや、捕まりましたか」
「……」
 忠告を聞いていたのにこうなったのだから俺が悪いのだとわかりつつ、その言葉に思わず彼を睨む。
「酔うと子供のようになる。いや、元々普段から子供みたいなんですけどね」
 俺の視線など気にせずに、彼はにこりと笑った。
「…それより、どうにかして下さい。重いんです」
「動くと起きますよ」
「……」
 更に眉を顰めた俺に堂本さんは肩を竦め、凭れかかっていた荻原の腕を引き体を起こさせた。
「仁さん。寝るならベッドに行きましょう。ほら」
「ん…」
「飯田さんも困っていますよ」
 その言葉で、隣に座り痺れた肩を揉む俺に視線を向け、再び体重を預けて来た。
「仁さん」
 堂本さんが呆れた声で名前を呼ぶ。
「…お前、うるさい。帰れよ」
 そう呟くと、更に抵抗しようとするかのように体をずらし俺の足に頭を置いた。
「…おい、いい加減にしろ。起きろ」
「嫌だ」
 膝のズボンを掴みはっきりした声でそう言う。そして、周りの剣幕を余所に荻原は再び目を閉じた。
「…無理ですね」
 死刑通告のように堂本さんの重い言葉が俺に落ちる。
「済みませんが暫くこのままで居てください。また起こすと今度はもっと酷くなりますよ。今夜はまだ可愛いもんです。
 寝付いてしまえば動いても大丈夫でしょうから、それから逃げてください」
 そう言い、寝室にいき薄い掛け布団を持って来て荻原の上にかける。
「まだ少し仕事が残っているので、悪いのですが失礼します」
 出て行く堂本さんの背が消えないうちに、俺の口からは先程よりも深い溜息が零れた。
 女の足ならともかく、柔らかいには程遠い細くて硬い膝枕など寝苦しいだろう。なのに依然として荻原は、逃げないようにズボンを掴んだままだ。
 軽く溜息をつき、ゆっくりとソファに凭れ込む。
 なんだってこんな事態になったのか。忠告を聞いてさっさと逃げなかった自分が悪いとしかいえないのだろうが…。
 昼間見た荻原の姿を思い出し、軽く眉を寄せる。
 何があったのかは知らないが、こうなるまで飲むほどに荒れる事があったのだろう。あの怒鳴り声を思い出すと、楽しい酒でこうなったのではないのだと容易に想像ができる。
 いつもは、余裕綽々と言った感じに強気で、一見傲慢にも思える性格。俺を子供扱いしているかと思えば、自分も餓鬼のような馬鹿な事もする。しかし、この世の中でどんどん前に進んで行くだけの力を持っている。おかしな奴だ、本当に。
 何故そう人生を楽しめるのかと思うほどに我道を行っているようにしか見えないのに、時に見せる顔は子供のように幼い。そして、年齢以上の差を見せ付けられるほどに、豊かな人生観。単なる馬鹿ではないと思い知らされる。
 そして、今見る荻原は、これまで見てきた荻原とはまた違ったもの。
 俺の膝に頭を乗せ眠る男の頭に手を置く。崩れた髪を更にかき乱してやると、額が覆われ幼さが顔を覗かせる。目を閉じているから余計に、自分とそう変わらない歳に見える。
 酒の力でいつも以上にハイになり子供のように笑っていても、穏やかな表情で眠る男がとても傷ついているように見えた。泣かないだけ余計にそれが切ないように感じた。
 何があったのか。俺はそれを訊く勇気も何もなく、問う事は出来ないが、少しでも、ほんの少しでもいいから、この眠りが荻原に安らぎを与えればいいなと思った。自分では癒すどころかそれにすら近づけないが、傷が癒えればいいと単純に願った。
 とても静かな夜が部屋に落ちる。


 コーヒーの香りで刺激され目覚めた時、俺はソファで横になり上に布団をかけられていた。
 一瞬自分が何故こんなところにいるのか不思議だったのだが、「起きたのか」と言う荻原の声で、昨夜の事態を思い出す。あれから眠ってしまったのか…。
 身なりを整えて朝食を始めている荻原はいつも通りの彼だ。
「…二日酔いは…?」
「ん? あぁ、少しだるいが、薬を飲んだから大丈夫だ。
 心配してくれたのか、ありがたいね」
「……」
 俺にコーヒーを差し出しながら、「迷惑かけたんだな、悪かった」といつもの口の端を少しあげて笑う笑顔を見せた。
「いや…」
 カップを受け取り、荻原の向かいの席に腰を掛ける。
「…よく食うな」
「ん? 二日酔いにはいいんだぞ、コーヒーは」
 青いマグカップに口をつけながらそう言ったが、目の前に並んだのはコーヒー以外にも色々ある。サラダやハムエッグなどはわかるとして、何故オレンジジュースがあるのか、理解出来ない。コーヒーかオレンジジュースかどちらかに決めろ。同時に摂るなよ、というものだ。
 せめて食後のコーヒーにしろよな、とどうでもいい事を考えてしまうのは、頭が働いていないからだろうか。
「お前も食えよ」
「…いい。これで充分だ」
 そう言いくちづけたコーヒーは、案の定と言うかなんというか、とても甘いものだった。

2002/06/15