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 受講をしている講義はなかったのだが手伝いとして入っている授業があり、だるい体を持て余しながら大学に行った。
 1回生を対象としたUNIXの講義なので、まだ数回目の授業内容は初歩的なコマンドの説明ばかりであった。今時大学に入るまでパソコンに触ったことがないという者は少ないのだろう。なので、聞いていれば十分出来ることであり、助手なんて大して必要ではない。だが、この授業には俺以外にも数人の手伝いが入っていて、いつでも何かをしていた。
 元々受講者は話を聞く気はないようだ。教官の説明時には一応静かにはしているが、殆どの者が別ウィンドウを開けネットなどで遊んでいる。真面目に聞いている者なんて一握りぐらいだろう。この操作をしてください、という教官の声でやっと動き出すといった感じだ。
 教科書を見る事もせず、直ぐにわからないといってくるそんな者に怒る気力なんて誰も持っていない。手伝いの者達は、眉を顰めながらも先程教官がしたのと同じ言葉を繰り返す。聞いていなさいと言えば彼らが二度と自分に質問をしてこないということを知っているからだ。注意はしない。
 彼らが勝手に腹を立てるのは問題ではない。なら、何故それをしないのか。理由は、同じ助手への負担が増えるからだ。
 個人指導に近くなっているこの授業では、それが暗黙のルールとなっている。助手は一切授業に対しての事は口にしない。教官では手の回らない受講者へのサポート役でしかないのだ。
 だがわかっていながらも、それでも同じ学生で、自分とさほど変わらない歳の者達なのだ、不満がないわけではない。キーボードに手を伸ばし短いアルファベットを打ち込み説明をする。簡単な作業が余計にいらつき、教えてもらって当然の学生への態度に腹を立てる。単位もない無償の手伝い。だが、ゼミの教官の授業ではやりたくないでは済まされない。
 借り出される生徒の不満は続く。それを押える教授。そんなことは気にもしない自分勝手な受講生。
 これはいつまでも続くのだろう。
 だが、俺はこんな最低な授業だが、嫌いではない。
 何十人もの生徒が並べられたパソコンに向き合い、それぞれが好き勝手にやっている。一見異様といえる光景。その中で佇んでいると、何もなさすぎて気持ちが楽になる。隣に人がいながらも、機械相手に楽しんでいる。絡む事のない一人一人の空間。その狭間で俺は俺の場所を持つのだ。

 授業後、手伝いの同期生達の愚痴を聞くことはせず、教官に挨拶をすると直ぐに演習室を後にした。階段の手前でまだ幼さを残し、背伸びをしているといったような女の子が数人話し掛けてきた。講義を受けていた者だろうが記憶にはない。適当に流し、離れるために同じようにその階段を降りることはせず、棟の奥へ足を向ける。
 GWに入ったため、休講が多く生徒も少ない。足を向けた場所は1、2回生むけの基礎演習室が並ぶ場所だったので特に人の気配がなかった。階段を降りきる手前で一人の学生と擦れ違っただけで外に出る。
 講義棟の裏道に出たため、そこにも人影はない。
 照りつける日差しが、黒いシャツに吸収されていくのを肌が感じ取った。
 見上げた空は嫌になるくらいの青空。
 確実に季節は移っていっている。先日まで寒さを感じる日があったというのに、春から夏になろうとしている。
 桜はすっかり散ってしまった。その木にはもう直ぐ毛虫がぶら下がりだすのだろう。風に乗って飛んできたのか誰かの肩に乗りやってきたのか、机の上をゆっくりと進みながら講義を受ける尺取虫の光景も珍しくない季節になる。
 そんな流れる時に、俺はいつまで身を委ねられるのだろうか。
 誰かが噴かした車のエンジン音が、建物に反射して大きく響いた。



 赤い信号が青色に変わると、一斉に立ち止まっていた人々が動き始める。俺はその波に一歩遅れながらも、横断歩道に足を踏み入れようとした。だが、突然後ろから腕を引かれ、逆に後退することとなった。
 荻原だった。
 偶然の出会いに驚くことが少なくなったとはいえ、歓迎するものではない。俺の口からは何よりもまず溜息が零れた。
「露骨すぎるぞ、お前」
 まともに現れる事のない男に対して、気を使う必要はないだろう。どうしてこうも突然姿を見せるのか…。ここまでくれば、ストーカーとどう違うのだろうかと本気で考えてしまう。
「偶然だな。大学の帰りか?」
「…偶然なのかよ」
 怪しい事この上ない。狭くもないこの街で、行動範囲の定まらない相手と偶然で出会えるわけがない。1コマ目の授業を終え昼前に大学を出てから、特に目的もなくウロウロしていた俺と、忙しく車で動き回っているのだろうこの男とが、どうやったら偶然にでも出会えるというのか。必然と考える方が自然ではないか…。
「当たり前だろ。お前に監視なんか付けていないぜ」
 道を渡ってきた人々が、立ち止まっている俺達を避けながら足早に進んでいく。女子高生のグループが、点滅しはじめた信号に喚声を上げながら交差点内に駆け込んでいった。
「……仕事中なんだろ。さっさと行けよ」
 変わってしまった信号に目を向けながら俺はそう言った。少し待てば次の信号で渡れるというのに、たった数分の無意味な時間が気に触る。
(…いや、別に向こうに絶対行きたかったわけではないか…)
 何をそんなに気を立てているのか…。自分でそう思いながらも、すぐには治まりそうにもなかった。
 軽く息を吐きながら、少し離れた場所に立つ見覚えのある黒いスーツ姿の男に視線を向ける。自分勝手な上司を持つ部下も大変なのだろう。時間を気にしているのか、腕時計を見つめながら携帯で話をしていた。
「冷たいな。ま、確かに急いでいるんだが…。
 なあ、直ぐに終わるから、ちょっと付き合えよ」
 その後飯でも食いに行こう。そう言って荻原は俺の手を引き、信号待ちを始めた人々の中から体を滑らした。
「…何故俺があんたの仕事に付き合って、待っていなければならないんだよ」
 手を振り解きながら俺は言った。少し荒げた声に、何人かの者が視線を向ける。
「いいだろ、別に。
 なら、何か? デートのように待ち合わせでもするか。別に俺はそれでもいいぜ」
 自分で発言し、「いや、マジ、それもいいな〜」とニヤリと荻原は笑った。だが、俺は良くない。良いはずがない。
「…それ以前に、都合がいいのかどうなのか訊けよな…」
 こいつは俺のことを何だと思っているのだろうか。自分のための玩具か何かと勘違いしているんじゃないのだろうか。
 他人の意見に興味なんて持たなさそうな男に、無駄だと判りつつそう言いたくなるのは、やはり自分を捨てられないからだろう。だが、それ以上に、単に子供のように反抗してみたいだけなのかもしれない。…嫌味の一つくらい言わなければ割に合わないというところか。
 だが、この男には何の言葉も通用しない。本当に言うだけ無駄なのだ。返された言葉にいつも疲れが増し、俺は反抗する気力がなくなり流されることになるのだから。
「訊いたら悪いと言うんだろう。
 どうせ用なんてないんだろ、付き合えよ」
「…あんたの仕事に関わり合いたくない」
「心配するな、大丈夫だ」
 何を考えてそう言っているのかわからないが、荻原の中ではこれで話は成立したらしい。俺を促し、横断歩道は渡らずに道なりに進んでいく。
 逆らう事も面倒。もしこの場を逃げ出せても、いつものパターンで結局は捕まりそうな気がする。なので、このまま流される。頭の中ではもうこの法則が成り立ってしまっているようだ。荻原には逆らうだけ無駄だと言うことだ。
(…これって泣き寝入り…かな…)
 そう思いもしないこともないが、だからと言ってやり返す力なんてない。
 それに何より荻原の言う通り、俺は用事なんて全くなく暇そのものなのだ。だから、直ぐに拒絶できる理由が思いつかない自分が悪いのだと思い納得させなければ、余計に惨めな気がする。
 付け込まれる隙を自分が持っているということは、自身で気付いている…。
 以前は、マンションの自室で何となく過ごしていることが多かったが、病気を知ってからはそんな時間は皆無になった。荻原に振り回されているというのもあるが、自分自身あの部屋で一人でいるのが嫌になるので、あてもなく街をうろついているからだ。
 流されているというのではなく、どうでもいいと切り捨てているのではないかと、最近の自分の行動をそう思ってしまう。
 時間が無い。そう思うのに、残された時間の使い方がわからない。
 いや、自分はその事を考えたくないのだろう。だから、大切なことなのに見えない振りをし、そうしてそのことによって自分を保とうとしているのだ。
 死が近付いているのは理解している。現実のものとして見ているつもりだ。…だが、やはりまだどこかで信じ切れていない。
 この感覚は、その時がくるまで消え去らないのかもしれない…。
 

 表通りから逸れ、幾つかの路地を進み目的地に到着した。荻原が「あそこだ」と指差したのは、2階建ての古い店だった。
 木で作られた小さな看板が軒下にかろうじてかかっているが、他にはそこが店だと思うようなものは一切置かれてはいなかった。その看板には一冊の本の絵が彫られている。その下に店の名前だろうか文字のようなものも書かれているが、解読する事は出来ない。アルファベットなのかどうかも怪しいミミズ文字だ。
 それの看板を見落とせば、誰もここが店だとは思わず立ち入ることはないのではないだろうか。もし自分が前を通ったとしても、絶対に気付きはしないだろう。
 廃れているといった風ではないが、主張もしていない。あるがままの姿でしかないこの店を、どのくらいの者が発見し、利用しているのだろうか。気付いても、入る勇気が何人の者に存在するであろうか。
 良識的に言えば、木を沢山使った建物は少し古い感じもするがそれが味を出していて、それ自体がアンティークかのようである。だが、本屋と言う佇まいではなく、どちらかといえば喫茶店といった感じを受ける。
 しかし、世間一般の価値観で言えば、やはり店ではない。古びて閉めてしまった店後という方が強く、偶然見つけた者がいたとしても、木の扉を一人では推すことは出来はしないだろう。
 そんな、シンプルと言えばそれまでだが、店だと言われればあまりにもそっけない感じが否めない店先には、何かの呪いであるかのように一匹の大きな黒猫が座っていた。真っ黒な肢体をピシッと伸ばしてはいるが、眠っているのか目を閉じていた。
 魔女の使いの黒猫は、決して人間には懐かない。猫にとって人間は邪魔なものでしかないのだ。満月の夜に猫の鳴き声を聞いても絶対に外に出てはいけない。それは猫が人間をおびき寄せるために鳴いているのだから。引かれてしまった者達は猫の後をふらふらとついて何処かに行く。何処に行くのかは誰も知らない。何故なら、その者達は戻ってこないのだから…。
 小さな頃に読んだ絵本をふと思い出す。怖がる周りの子供達の中で、俺はその猫を見つけたくてたまらなくなったのを覚えている。魔女を信じていたわけではないのに、そういう黒猫はいるのだと信じたのは、言葉が通じない人間以外の動物に強い関心があったからなのかもしれない。
 何処でもいいから自分を連れて行って欲しいと願ったあの頃に比べて、俺はいろんな事を知り大きくなった。だが、大人になり単なる物語だとわかった今も、俺はどこかでそう願い続けていたような気がする…。
 黒猫の姿に、少し胸が痛くなった気がした。
 
 俺達が近付くと、猫は閉じていた目を片方だけ開けオニキスの瞳で一瞥をよこしたが、男三人には興味を持てなかったのか直ぐにまた目を瞑った。
 そんな猫を気にすることも無く、荻原はさっさと扉を開け中に入っていく。俺もその後に続きかけたが、ふと足元を見ると猫がやってきており俺の足に体を擦りつけていた。
「……」
 中に入れてもいいのだろうか? そう考え立ち止まってしまったところに後ろから声がかかった。
「この店の飼い猫ですから、気にしないで下さい。嫌なら出しておきますが?」
「…いえ、そうですか」
 男の言葉に促されながら店内に足を踏み入れる。「どうした?」と荻原が尋ねてきたが何でもないと首を振る。猫は数度俺のズボンに身体を擦り付け、満足したのか店の中へと消える。
 店内は本で一杯だった。天井まで届く本棚にぎっしりと本が詰まっており、広くはないスペースの床にも本が積み上げられていた。
 表の窓が小さいため、昼間だが中はうっすらと暗い。だがそのおかげで窓から差し込む光がスポットライトのように煌き、床に陽だまりを作っていた。
「いらっしゃいませ」
 少し奥に凹んだスペースから背の低い少女が顔を覗かせた。頬にかかる髪を耳にかきあげながら、荻原を見止め、「ケンジくんが困っていたわよ」と言って笑った。
「あいつなら大丈夫だろう。っで、何人来ている?」
「えっと、3人。木下さんと寺片の弟さん。後、初めて見る若い男の子。木下さんについているんだって、お気の毒ね。…名前は、橋本竜太くん」
 荻原の問いに答えながら、彼女は重そうな本を抱え傍にやってきた。さっと荻原が動きその本を彼女の腕から取り何処に置くのかと聞く。指差されたカウンターの中の天井下に取り付けられた本棚の空いたスペースにそれを押し込む。
「いい男なのか?」
「橋本くん? えぇ。とっても可愛いわよ」
「なら拝見してくるとするか。
 あぁ、瞳。しばらくこいつの相手を頼む。いいか、苛めるなよ」
 自分より20センチは低い彼女の頭に手を乗せ荻原は、「わかったな?」と念を押す。
「そんなことしないわよ」
「よし、頼んだぞ」
 悪いが待っていてくれと俺に声をかけ、男と一緒に店の奥へと姿を消した。直ぐに階段を上がる足音が聞こえ、そこから二階へと続いているのだと知れる。
「どうぞ座って」
 机に乗っていた本を側のカウンターに置きながら、笑顔を向ける少女が示した椅子に腰掛け、俺はもう一度店内を見回した。
 大量の本は建物に合わせているとでもいうかのように、少し古ぼけた感じがするものが多かった。光が当たっている本は茶色く焼けてしまっており、長い間そこにいた事を示していた。
「…古本屋、ですか」
「う〜ん、ま、そんなものかな」
 彼女は手にしていた本を床に積んでいた本の上に置き、小さなテーブルを挟んで俺の前の席に座った。
「名前、聞いてもいいかしら?」
「飯田です」
「下のお名前は?」
「…真幸です」
 大きな瞳でじっと見つめてくる彼女の視線が強すぎて、俺は目を逸らせた。その先には黒猫がいた。決められた場所であるかのように、床に置かれた本の上に丸まって眠っていた。本からはみ出すかのように床に垂れ下がった尻尾だけが、窓から入る光に照らされている。俺が見ているのを知っているかのように、その尾は微かに左右に揺れた。
「…そう、なら、マサちゃんね」
「……え…?」
 気持ちよさそうに眠る猫に気を取られていた俺は、何を言われたのかわからず首を傾げた。そんな俺を指差し、少女は満面の笑顔で言った。
「マサちゃんね、マサちゃん。決まり。
 さて、コーヒーでも飲む?」
「……いや、あの…」
「嫌いなの?」
「いや、…コーヒーは、頂きます。それより、その呼び方…」
「ん?」
「止めてもらえませんか」
 本気で首を傾げる彼女に、眉を顰めて俺はそう言った。
「どうして? マーくんの方がいい?」
(…冗談じゃない)
 いや、冗談だとしても、二度と呼ばれたくはない。
「…どちらも嫌です。…止めてくれ…」
「えぇ〜。私も嫌だよ。マサちゃんってぴったりじゃない。
 あ、私は日下瞳ね。瞳って呼んでね、マサちゃん」
 そう言ってニコリと笑うと彼女は立ちあがった。コーヒーメーカーの前に立った彼女の後ろ姿に俺は溜息を吐く。
「…日下さん、俺はそんな呼ばれ方は不愉快だ」
 ぴったりって、どんな価値観をしているのだろうか。見た目は俺よりも若く見えるが、この店をやっているのならそんなに変わりはしないのだろう。なのに、この性格は何だというのだろうか。他人を喰っていると言うわけではなく、まるっきり子供のようだ…。
 そういえば最近もどこかでこんな馬鹿なやり取りをした記憶があるなと思い出し、俺の気分はますます滅入ってしまった。その時はそう、俺が折れることになったのだ。
 荻原の場合は、さほど俺が嫌がっているからか必要以上に名前を呼ぶことは多くはないので慣れてしまったが、目の前で微笑む彼女の場合は、そういきそうにない。嫌がらせであるかのように、寒気がしてしまう呼び名を連呼しているのだから…。
 勘弁してくれ。それが正直な俺の気持ちだ。早くも、荻原について来てしまった事を心底後悔する。
「瞳。それ以外は返事しないからね、マサちゃん」
「……瞳、さん」
「ま、マサちゃんだし、それでも許しちゃおう」
「…だから、その呼び方は寒気がするので止めてください」
 何度言えばこの人に伝わるのだろうか。…何度言っても無駄だろうと、頭が答えを出してしまっている…。それが当たっていそうで、余計に腹が立つ…。
「あら? マサちゃん、寒いの? 大変ね、はい、温まって」
 彼女はそう言い、白い湯気が立つコーヒーカップを俺に差し出した。
「…そうじゃなくて……」
「はい、お砂糖」
 無言で俺は首を振り、渡されたカップをテーブルの上に置く。
「止めて下さい」
「……。…私は、マサちゃんって呼びたいんだから、いいでしょう、ね? そんなに嫌?」
「えぇ、嫌です」
 昔から名前で呼ばれる事は殆どなく慣れていないからか、俺は名前で呼ばれるのが嫌いだ。だから荻原に呼ばれる時も、一瞬ドキリとしてしまう。自分ではないような気がするのに、自分の事を呼んでいるのだとわかる。そのミスマッチな感覚が不快だ。
 だがそれも、この人物は俺をこう呼ぶと自分が記憶できるまでのものだ。いつかは慣れる。名前だろうと何だろうと、所詮は呼び名だ。どうでもいい。そうも思う、思うが…。
(やはり、呼ばれたくはない…)
「怒らないでよ。でも、嫌でも我慢して。ね?」
「…できません」
「……見た目どおり頑固なのね」
 彼女はそう言い肩を竦めた。
「でも、年上の女の言う事は聞かなきゃモテないわよ」
「……」
 モテたくなんかない、とは言い返せなかった。彼女が言った別の言葉の方が気になったからだ。
「…年上、ですか?」
「だってマサちゃん、22、23でしょう?」
「21です」
 その返答に、「21! 若いわね〜」と羨ましそうに彼女は言った。…だが、誰が見ても彼女の方が年下に見えると思うのだが…。
「私、27だよ」
「……」
「よく見えないって言われるけどね。これでも、仁ちゃんより一つ上なのよ」
 そう言って笑う彼女の言葉の中に聞き慣れない者の名を聞き、首を傾げる。
「…ジンちゃん?」
「そう、仁ちゃん」
 そう言って天井に向かって人差し指を突き上げる。
「…え?」
「マサちゃん、一体何処で拾われたのよ…。仁ちゃんのこと、知らないの?
 荻原仁一郎。名前も聞いてないの?」
 驚き呆れながらそういった彼女の言葉でやっと理解する。
「あぁ、…荻原のことですか」
「そう、仁ちゃんだよ。仁一郎、知らなかった?」
「いや、…そういえば、そんな名前でしたね。たしか」
 そう言いつつも、ジンちゃんイコール荻原だと直ぐに気付けと言う方がおかしいのだ、という思いのほうが強い。
 この歳でちゃん付けで呼ばれるだなんて…と思ったのだが、…更に上がいるようだ。だが、だからといって自分のことは妥協したくないのだが…。
「ねぇ、マサちゃんは上には用はないの?」
 もう彼女の中で決まってしまった呼び名を変えさせる気力が俺にあるだろうか。…荻原と同様で、何を言っても無駄な気がする…。
「…えぇ。俺は荻原に引っ張られて来ただけですから」
「ふ〜ん、そう。
 …21って、学生さん?」
「えぇ、一般人ですよ。あいつの仕事とは関係ありません」
「そうなんだ」
 荻原にしては珍しいことだと彼女は笑った。
 暫く興味本位に尋ねてくる彼女の質問に答えていると、電話のベルが鳴った。受話器をとった彼女の言葉から揉めているよう状況だと覗えたので、俺は席を外し奥へと進んだ。側を通る時、猫が頭を軽く上げ小さな声で一声鳴いたが、直ぐにまた体勢を戻した。
 所狭しと並べられた本の背表紙を何となく見ながら奥へと進む。一番奥には予想通り階段があった。人一人が通れるほどの狭さのものだ。荻原達はここを上がっていったのだなと思いながら階段を見上げる。傾斜が急な階段の上に何があるのか全く見えないが、彼らが行ったのであれば本屋でないことは確かだ。
 興味はないが何となく階上の物音を拾おうと耳を済ませた時、上ではなく俺の足元で短い声が上がった。
 下を見るといつの間にやってきたのか、猫が前足を揃えて床に座りじっと俺を見ていた。まるで監視されていたようだ。口元に苦笑を浮かべ、俺は階段の下から離れ、猫の前に屈み込んだ。
 人差し指で喉を撫でる。愛想がいいのか悪いのか、逃げはしないが表情も変えない猫に苦笑し指を離す。だがそうすると、強請るように離した指に頭を摺り寄せてきた。
 その頭を軽く撫で、俺は本棚を背に座り込み、足の上に猫を抱き上げた。嫌ではないのか丸まって眠るような体勢に入った猫の体をゆっくりと撫でる。
 暫くそうしていると、上からトントンと音がしてきた。誰かが階段を降りてきたのだろう。一つの足音が直ぐに側までやって来た。
「……あぁ。…飯田さん、でしたよね」
 その声に俺は視線を上げた。俺と変わらない歳だろう、若い男が軽く頭を下げた。
「どうも、初めまして」
 邪魔されてしまったと言うかのように、猫が軽やかに膝から降りスタスタと歩いていった。床から立ち上がる俺に、男は自分を井原だと名乗った。
「よく樋口と連れているので、飯田さんのことを聞いていたんですよ」
「……」
「樋口ってわかります? 高校生みたいな奴なんですが…」
「えぇ、知ってます。…揉めた事があるので覚えていますよ」
 少年と言えるような男の顔を思い出しながらそう言うと、目の前の男は元気だとしか表現できないような笑顔を見せた。
「小さくて無口なくせに生意気な奴ですからね。俺もよく喧嘩してますよ」
 …俺の場合は喧嘩というものではなかったのだが…。
「…何か?」
 ニコニコと笑っている青年とは対象に、俺は眉を寄せながら言った。
「あ、いや。樋口から話を聞いて、会いたいなと思っていたんですよ」
「…そう、ですか。……話?」
「ええ。他人に冷たいあいつにしては珍しく飯田さんの事を気に入っていましたよ」
「……」
「って、どうでもいいですよね。すみません」
「いや…」
 こんな風に言われても、どう答えていいのかわからない。
 嫌だと言うわけではないが、何度か会った時は感情を見せないような者だったあの樋口が、俺を気に入っているだなんて言われてもぴんとこない。しかも、その話を聞いて俺に会ってみたいだなんて、…物好きとしかいえない。一体彼は何を話したのだろうか…。
「…関心を持たれるようなものは俺には何もないが…」
「そうですか? そんなことないと思いますけど。
 少なくともあの無愛想な樋口より、飯田さんの方がマシですよ。あなたの方が面白い」
 普通なら馬鹿にされているのだと考えてしまいそうになるのだろうが、笑ってそう言われると、さらりと流してしまいそうになる。…きっと、本人は失礼な発言とは思ってもいないのだろう。比較はしているがどちらも貶している事に変わりないのだというのに、そのことにはまるで気付かない。…だからこそ、笑顔でこう言えるのか。
(…別に、確信犯でもいいのだが…)
「そうそう、飯田さんもあいつには気を付けた方がいいですよ。性格最低ですから、樋口は」
 貶しているが本心ではないのか、そう言った彼の目は笑っている。「見た目で判断したら、痛い目に合わされますよ」と忠告してくれたが、彼自信に人を見る目があるのか…、実に怪しいものだ。
「…そうですか」
「ええ。樋口とは会う機会も多いでしょうからね、ホント、注意してください」
「会う機会? …多いんですか?」
「え? ええ、そうでしょう。あいつは社長の近くにいますからね。正式には堂本さんの下ですがね。
 ああ、そう言えば。…飯田さんと樋口ってなんか似てますよね」
 テンポが速い。というか、頭に浮かんだら話の前後を考えず次々と発言しているかのようだ。今度は、似ている、ときたもんだ。…何なんだろうか、一体。
 そう疲れる気はするが、嫌な感じは全くしない。
 一人で頷き納得する青年は実に楽しそうだ。あの樋口とは対照的すぎて仲が良いだなんて意外だが、わかる気もする。彼なら、この元気な青年が側にいれば煩いと疎ましそうにしそうだが、そこを気に入ってもいそうだ。
「…彼は、幾つですか?」
「見た目はああだが、もう直ぐ22ですよ。全く見えませんがね」
 俺の愛想のなさは気にならないのか、青年はニコニコと答える。
 俺は少し驚き、同じ歳なのか…、と呟いた。
「そうなんですか? なら、俺ともタメですね」
 樋口に教えてやろうと彼は笑った。「俺達三人が一緒にいたら、絶対あいつだけ高校生に見えるでしょうね」と。
 そんな井原は荻原の部下というよりは、何処にでもいる明るい青年だった。

「あら、ケンジくん。上、もう終わったの?」
 電話を終えたのか、瞳さんが猫を抱えてやってきた。
「いえ、まだです」
「追い出されちゃったの?」
「いえ、そんな事は…」
 彼女にニコリと微笑まれ、井原は照れたように頭を掻いた。
「そう。じゃ、悪いんだけど、5分ほど店番頼めるかしら。誰も来ないだろうからいてくれるだけでいいんだけど…」
「いいですよ、わかりました」
「ありがとう。じゃ、こいつもお願いね」
 そう言って手の中の黒猫を井原に渡すと、「よろしく」と言葉を残し彼女は店を出ていった。
「あ、こら…」
 声に振り返ると、井原の手を逃れて猫が床に降り立つところだった。
 見事な跳躍を披露し、俺の背丈より高い本棚の空いた棚のスペースに飛び乗った猫に、井原は肩を竦めて苦笑した。
「ジンには嫌われているんですよ、俺」
「ジン?」
「ええ、そいつの名前です。知りませんでした?」
「…ああ」
「ここに来るのは、初めてですか?」
 俺が頷くと、「なんだ、そうなのか」と呟いた。
「ジンと仲が良いから初めてだとは思わなかった。あいつ、人間嫌いなんですよ。
 初めて来て懐かれるだなんて、凄いですね」
 懐かれているといった感じではなく、何とも思われていないような感じなのだが…。
「そうなんですか…。
 …それより、その名前。…あいつのことみたいですね」
 店の主が呼ぶ荻原の呼び名を思い出し、冗談半分で、
「全然似ていないのにあんな男の名前がついているだなんて、可哀相だな…」
 手を伸ばし、猫の体を軽く叩きながら俺はそう言った。一瞬の沈黙後、井原は大きな笑い声を上げた。
「可哀相って、それは、言いすぎ…」
 アハハと笑う彼に、何がそんなにおかしいのかと思うのだが、本人もわかっていなさそうなので口にはしない。そう、この青年は箸が転がっても笑いそうなタイプだ…。
「…恋人の名前を飼い猫に付けるだなんて、瞳さんも可愛いじゃないですか。それを可哀相だなんて、ダメっすよ、そんなこと」
「恋人って、……本気であいつの名前なのか?」
「それは、そうでしょう」
 何を言うのだという風に、彼は首を少しかしげながらも大きく頷いた。
 恋人の名前をペットに付ける事を可愛いと表現するのかどうかということも確かに疑問だが、そんなことよりも、俺は井原があっさりと言った彼らが恋人同士だということに驚いているというのに、彼は全く気付いていない。…夢にも思っていないのだろう。そう、当然の事なのだと。だが…。
(……彼らが、恋人…?)
「どうかしました?」
「いや…。…恋人同士だなんて、…意外だな」
「そうですか? お似合いですよ、うん。
 瞳さんは見た目も性格ものんびりした感じだがしっかりしているし、いい女ですよ」
 俺も彼女のファンなのだと井原はニヤリと笑った。
「もっとも、俺だけじゃなく、彼女はここに出入りする奴ら全員から慕われていますがね。
 社長が気に入ったのも納得します」
「…そうなんだ。恋人ね…」
 人の恋路に興味はないが、井原は俺が気になっていると思ったのか、話をしていなければ間が持たないのか、そのまま二人のことを話し始めた。
「俺もあんまり詳しくは知らないんですが、瞳さんは元々借金か何かあって社長と知り合ったそうですね。っで、本来なら体売ってでも返せとなるんでしょうが、そうではなく、社長は借金をチャラにして、この店を与えたんですよ。
 示しがつかないだとか何だとか言われたりもしたそうです。周りは社長の気まぐれも、女遊びもいつものことで、そのうち飽きるだろうと思っていたそうですが…、そうはならなかった」
「……」
「ここは表向きは単なる本屋で、歴史関係の本の専門店だそうです。
 だが本来は、今みたいにちょっとした取引や契約に上の部屋を使うためのものです。店はカモフラージュってやつですよ。関係のない客なんて殆どきません。
 だから、結構うち以外の者も顔を出すんです。っで、その間でも社長の女だとして有名なんですが、それ以上に気に入られているんですよ。瞳さんは。
 自分の女にこんな店を任すだなんてホント凄いですよ。単なる商売ならわかりますが、取引メインでいつやばいことが起きるかわからないところですからね。普通は危なくて出来ません。でも、瞳さんだからこそ社長も任せられるんでしょうね。
 ホントに、凄いです。あの二人は」
 井原は興奮気味にそういったが、俺にはそうは思えなかった。危ないという場所に恋人を出す荻原のことも理解できなければ、それを凄いと言う井原もわからない。目の前の男は愛があるから、信頼しあっているから出来ることなのだと本気で思っているのだろうか。…子供ではない、同じ歳の男が?
(天然なのか、ふざけているのかわからないな…)
 いや、この組織の一員だからと考えるからわからないのか。そうではなく、彼自身を見たら…おそらくきっと、純粋なのだと言えるのだろう。二人への憧れがそうさせているだけかもしれないが。
 井原はそう思っていたとしても、俺には荻原が彼女を利用しているだけではないのかと思えてしまう。それこそ、恋人という事を利用しているのではないか?
 しかし、そんな彼らのことはどちらでもいい。どれが真実かなんて二人の問題だ。
 それよりも、どうして自分が荻原の部下達に毛嫌いされないのかわかった気がする。普通なら、いきなり上司が仕事を放って男をからかい始めたら困惑するのではないか、怒るのではないか。なのに、荻原の配下の者達にそんな感情があまりないことに、俺は以前から不思議に思っていた。
 だが、今やっとわかった。
 暇つぶしに遊んでいるだけでそのうち飽きると確かに思っているのもあるだろう。だがそれよりも、彼女の存在がきちんとあったからだ。人を人だと思わない、そんなところがある荻原が執着して大事にしている彼女と言う存在があるからこそ、俺のことをおおごととは思わないのだろう。荻原の中で俺の存在は彼女以上になるわけがないと確信しているのだ。
(信じていると言うわけか…)
 いや、そんなおおごとではなく、当たり前なのだ。瞳さんという彼女の存在は揺るぎないのだろう。彼らの中でも、そして上司である荻原の中でもそうなのだと。
 俺の場合は単なる遊びなのだ。しかも女ではなく男なのだから浮気ではない。ただ馬鹿な餓鬼をからかっているだけなのだ、気にすることはない。飽きたらそのうち止めるだろう。そう言うことだ。
 尊敬してもいるし、畏怖してもいる。そんな惹かれて彼に着いていくと決めた者達なら、荻原の性格も俺より知っているのだろう。俺は他人に関心を持たない彼が珍しく興味を持った餓鬼に過ぎず、瞳さんはそれには比べものにならない存在なのだ。
 人の命を何だと思っているのか疑いたくなるような荻原が、気にかけ、金も地位も与えたのだから、そう思うのは当然なのだ。
 だから、色恋沙汰ではなく、まして何ら影響も与えそうにない何も持っていない学生のことなど、気にすることでもない。
 つまりは、そういうことだったのだ。
 俺も自分が荻原の単なる暇つぶしであることを願っている一人なので、しっくりいかないながらも、彼女の存在が嬉しく思う。俺には井原の言うように、先ほど見た二人の姿ではそう思う事は出来ないが、配下の者達がそう言う目で見ているという事実と辻褄が合う考えに、そう信じる方が自然だ。
 俺を本気で気に入ったといって追っかけてくる荻原よりも、彼女との関係をそう考える方が理にかなっている。何もない俺に、全てを持っている男がかまいに来るのは、単なる暇つぶし以外のなにものでもないだろう。
 俺はそう思いたい。だから、正に瞳さんの存在は打って付けだった。
 だが、そう考え安心しながらも、何故か腑に落ちない感情が俺の中にあるような気もした。それが何なのか、今は思いつかない…。

「ごめん、ごめん。二人ともありがとう、助かったわ」
 勢いよくドアが開き瞳さんが戻ってきた。
「ケンジくんもコーヒーどう? マサちゃんも入れ直すから、こっちに来なさいよ」
「ありがとうございます。でも、結構です。俺はもう失礼しますから」
 そう断りながら井原は入り口に向かって歩き出す。その後ろに俺も続く。
「あら、忙しかったの? それは、ごめんね」
「いえ、大丈夫です。
 瞳さんとお茶したなんて知られたら、兄貴達に怒られますからね」
 肩を竦め苦笑する彼に、「大丈夫よ」と彼女は言った。
「そうもいきませんよ。
 じゃあ、失礼します」
 残念だと言う彼女に、「今度は是非に」と井原は頭を下げ、俺には軽く手を挙げて出ていった。
「…彼、コーヒー飲めないのよ」
 井原が出て行って扉を見ながら、彼女はぽつりとそう呟いた。
「…え?」
「でも、私が入れたものなら飲まないなんてこと出来ないから、いじめようと思ったのに…、あ。
 もしかして、コーヒー嫌いなことを私に知られていることに気付いているのかしら? …う〜ん、逃げられちゃったのかな、これは。残念!」
「……」
 俺のカップに新たに熱いコーヒーを注ぎながら、「あらら〜。いつばれたのかしら…」と本当に残念そうに彼女は言った。
 ふと、荻原に無理やり飲まされた甘いコーヒーの味が口に蘇った。
 どういった人物なのかは多少なりともわかりだしたのだが、やはり今ひとつ掴めない彼女だが…これだけはわかる。彼女には、俺は甘い物が苦手だとは知られないようにしなければならない……、絶対に。

2002/04/10