6

 一瞬自分が銃口を向けられているかのように動けず、全身から冷や汗が噴き出した。だが、それでも恐る恐る腕を動かし、今度は銃ではなく荻原の手に手を伸ばす。
 荻原は動くことはなかった。拳銃を握る手に俺の指があたると、小さく息を吐いた。そして、俺の動きにあわせてゆっくりと銃口をずらす。
 右手で銃を取り、荻原はそれを机の上に置いた。
「何故だ?」
 首を傾げ俺に視線を向ける荻原の言った言葉が何に対してなのか掴みかねた。そんな俺に彼はもう一度口にする。
「何故とめる?」
「……何故って、…嫌だからに決まっているだろう…」
「こいつを気に入ったのか?」
「…何を言ってるんだ…」
「なら、どうして?」
 心底わからないといった表情の目の前の男…。…わからないのはこちらだ。何故そんな質問をするのか、何を言いたいのかわからない。…どうしてそんな顔をするのだ?
「…どうしてって、…誰かが死ぬ所なんて見たくないだろう」
「なら、外へ出ていればいいじゃないか」
「そんな問題じゃない」
「見たくないんだろう?」
「実際に目にはせずとも同じ事だ。出て行ってもあんたが…ああしていたのを見た記憶がなくなるわけじゃない。気にするなで終われるものでもなければ、人の命を見て見ぬ振りで終わらせるものでもないだろう。何言ってんだ、あんた!」
 現実味が沸いてくると、話の通じない、理解出来ない荻原の言葉と先程の行動に怒りが湧いてくる。すさまじい怒りは体の中では消化は出来ず、声を荒げて目の前の男を睨む。あまりにも大きな怒りのため涙が湧き起こり目が潤んでくる。支離滅裂だなと思いながらも言葉は直ぐに止まらない。体から溢れ出るのは間違いなく目の前の男に対する怒りだけだった。
「誰が目の前で人が死ぬのを見たいんだ! あんたが実際に今まで人を殺していようがこれから殺そうが俺には関係ない。だが、俺は今その状況に関わっているんだ。気に入ったで助けるほど俺はこの状況をわかっていないが、それでも、死を前にした者が目の前にいたら、どうかしようと思うのは当たり前だろう!」
 そう、それは単に自己満足の域を越えないものだとしても、何かをしなければ絶対に後悔をするだろう。もし、あのまま目の前で荻原が男を殺していたら…悔やむのは目に見えている。例え男のことばかりを気にしてではなくともだ。そう、自分のための行動だ、これは。
 …いや、そればかりではないのかもしれない…。
 他人や自分と言ったものばかりではなく、ただ、死に敏感になりすぎているからかもしれない。…どれが自分の考えなのか、その場の感情なのか、…わからなくなってしまっている。だが、これだけは言える。
 こうして死がすぐに与えられるものだとは思いたくない。ましてや同じ人間により簡単にそれがやってくるだなんて、…考えたくもない。
 これは俺が特別なわけではなく、誰にでも言えるものだろう…? 人間同士の殺し間なんて、関わりあいたくない…。自分の生を不安にさせないで欲しい…。
 だが、そんな俺の感情に関心はないのか、聞いていないのか。荻原が次に口に出した言葉は、おかしなものだった。
「なるほど。なら、俺が逆の立場ならお前はどうする?」
「…どういう意味だ…」
「人が死ぬのが嫌なんだろう? その中に俺は入るのか?」
「死ぬのが嫌なんじゃない。…生きていれば死は必然なんだからな…。
 俺はこんな状況で死に関わりたくはないといっているんだ。自己満足だろうよ、自分を守りたいために汚い物を見たくないといっているのと変わらないだろう。あんたにしたら綺麗事だな。だが、これが普通だろう!?」
「だから、お前の言い分はわかったって。俺が訊きたいのは、目の前で殺されようとしたのが俺だったらお前はどうするのかということだ。同じように武器を持った相手に掴みかかろうとするのか? 俺の死も嫌なものなのか?」
「当たり前だ。人の死を見たい奴なんてどこにいる」
 その返答にクスッと笑う。
「お前は死に関わるのが嫌だというだけで、知りもしない奴でも助けるんだな」
「助けたいとは言ってないだろう。関わりあいたくないだ。助けられるほど、俺は、…力があるわけでも、生きることを理解しているわけでもない。だが、誰だってそうだろう。生きていたら死なんて関わりたくないだろう。この状況にいたのが俺じゃなくとも、普通の奴ならあんたを止める」
 そう、「だけ」ではなく、それが一番重要なことなのだ。俺はただ、自分が嫌な気分をしたくないだけなのだ。
 だが、荻原はそうは思わなかったようだ。
「残念ながら、そうじゃないな。綺麗事だとは言わないが、そんな考えを持っていても普通は武器を持った相手を止めようなんて行動はしない。
 助けたいじゃなくとも結果的にはそうなった、今はな。だが、銃を持っていたのが俺じゃなかったら、お前を巻き添えにするのも気にせず引き金を引いていたかもしれない」
「……」
「死に関わりあいたくないといったな。確かに生きていたらそういうこともあるだろう。だが、自分の身を持ってそれを阻止しようと誰が思う? 自分の事もちゃんと考えろよ。
 今の状況ならとばっちりを食わないように大人しくしているのが賢い選択だ。そうすれば、少なくとも自分は死なない。それは誰もがわかるだろう、だから他の者は動いていない」
 その言葉に足元から低いうなり声が聞こえた。男の怒りが伝染病のように俺に伝わり、まるで俺自身が対立しているかのような錯覚が起こる。
 荻原の言い分もわかる。だが、理解したくはない。ましてや、人に死を与えようとした男に、例え正論を言われたとしても耳を傾けたくはない。
「…何が賢い選択だ…。…あんたが命令でもしたんだろう」
「確かにな。だが、本気で嫌なら俺を止める事は可能だ。こいつらはこの男の命より俺の意思を尊重したんだよ。いや、自分の命を守ったのかもな」
「……もし、誰かが反対していたら、そいつも殺したと?」
「そうなっていたかもしれないな」
「……」
「お前の言い分もわかるがな、人間そんな者ばかりじゃない。いや、俺のような者の方が多いだろう。
 今この男に武器をやってみるとどうなる? 迷わず俺を殺すだろうな」
「…それだけのことをお前はやったんだろう」
「何が基準かなんてないだろうが、俺は別に生死をかけて争っているつもりはない。ただ、馬鹿な者にはこれがわかりやすいと思って脅しをかけただけだ」
「脅し? …本気で殺す気はなかったと?」
「さて、どうだろう」
 こんな状況だというのに笑みをもらしそう答える。目の前の男に怒りが湧き上がってくるのは仕方がないことだろう。俺の眉間には皺が寄る。
「だが、この男は機会があれば俺を殺すのは事実だ。
 自分を殺そうとした相手を殺したいと思うのは当たり前だ。殺されかけた恐怖を処理するにはそれが一番手っ取り早いからな。その後他の奴らに殺されるとわかっていても、こいつは俺を殺す。自分にされて嫌な事は他人にしないなんて餓鬼の教えじゃあるまいし。殺されたくなければ殺さないと駄目な場合もある。
 ま、この男にもだが、それは俺にも言えることだな」
「……」
 怒るわけでもなく淡々と荻原は話をした。
 わかっている。俺が言うのは本当に何も知らない子供のような、世界は美しいと夢見る少女のような言い分だ。世の中そんなに純粋ではない。荻原の言う事は至極当たり前なことだ。理屈では納得したくは無いが、これがこの世の中だろう、人間だろう。だが、だからと言って、そうやって生きられるほど強い人間なんていない。そう、俺もその一人だ。同じ人間を見殺しにした瞬間、俺は自分を信じられなくなる。だからと言って助けられるほど強くもない。
 見たくない、自分の弱さを確認したくない。そう逃げているのだろう。だが、それが弱さだといわれようとも、俺は彼のように強くはなりたくはない。
 物が壊れるかのように人の死を見る目の前の男のようにはなりたくはない…。
「…わかってるのなら、さっさと殺せ…、もう沢山だ!」
 蹲った男が絶えられない緊張感にか、声をあげた。それはまるで、俺の思いを代弁するかのようであった…。
「……お前は人間じゃない。俺はもうお前と関わりたくない。それが自分の死を意味していても、もうそれでいい…。いいんだ…」
「酷い言い方だな」
「…事実だ。他人を物以下でしか見ない奴が人間であるものか…。
 ……誰かは知らんが、あんたも早くこいつと関わるのを止めるんだな」
 後半は俺に向けて助けてもらった礼だと男が言った。尤ももうそれはあんたにもわかっているのだろう、と。
 荻原が俺に視線を向け、そしてゆっくりと瞼を閉じた。軽く目を閉じた荻原の端整な顔に翳りが浮かぶ。
 部屋に満ちた静寂により、それはまるで目の前の男が苦しんでいるかのように思えてしまう。だが、そんなことは絶対にない。それをこの部屋にいる全ての者が確信している。麻痺した感覚。自分がおかしいのか、この青年がおかしいのか…。
 荻原が目を開いた時にはもう俺からは視線を外していた。男へでも誰へでもなく、彼にだけ見える何かに視線を合わせていた。そして、ふっと小さく笑い、机に置いた銃を手に取ると男の前に屈み込んだ。
「…止めろよ」
「…いいんだ…もう」
 止めようとした俺に男は静かに言った。
 だが、次に荻原が言った言葉は俺にも男にも予想していたものではなかった。
「…田中さん。俺はこうしてあんたを殺すことはできる。だが、聞いてのとおりこいつが止めろと言うから止めておくよ。
 っで、ま、俺も大人気ない事をしたとはわかっているし…」
 そこで言葉を止め、荻原はスーツ姿の男達に視線を向け男の手を縛る縄を切るように言う。若い男がナイフで縄を切ると、
「好きにさせてやるよ」
 そう言い、腕を解かれた男の右手に拳銃を渡した。
「どこでもいい。勇気があるならここでも撃ってみろよ」
 眉間を指で突付き荻原はニヤリと笑った。
 いきなりの展開に驚いたのは俺ばかりではない。荻原の配下の者達も声を上げる。だがそれを彼は「大人しくしていろ」との一言で制する。
「引き金を引くだけだ。さあ」
 驚いていた男も自体を飲み込むと、眉間を寄せながら何かに取り付かれたかのようにゆっくりと銃を両手で握り腕を上げた。
「…ま、待てよ! 俺は――」
 こんなことを望んだわけではない。確かに男に対して強者であり、人として受け入れたくない荻原の言い分に腹を立てたが、だからと言ってこんな解決を願ったわけではない。
 こんなことは予想していなかった。何故こうなるのだ? ただ、当たり前な行動をしただけだろう。どうして再びこんなことになるのだ。
 荻原の肩を掴もうとした俺の腕を誰かが掴む。何だ?と思った時にはもう俺の腕は後ろに回されていた。そのまま数歩後ろに引っ張られる。振り返った俺に、腕を抑えた堂本さんが首を振った。
「な、なにを…」
「動かないで下さい」
「…くっ…」
 彼の言葉を聞けるはずもなく振りほどこうとしたのだが、逆に力を加えられ更に動けなくなる。
 止める相手が違うのではないか。
 上司の命令だかなんだかは知らないが、自分が使える者が銃を向けられているのだ。それを黙ってみているというのか。
「放せよ…。あんたあいつが撃たれてもいいのかよ」
「いいえ、それは困りますよ」
 俺に視線を合わせ、堂本さんは苦笑した。
 状況には似合わない笑い。男を止めなければ本当に荻原を撃つかもしれないというのに、何故俺を止めるのだ。
「だったら…」
「今私がしなければならないのは、あなたを押えることなんですよ。
 他の者では荻原が気に入っているあなたに手を出すことは出来ませんからね、暫くじっとしていて下さい」
 彼はそう言うと、待て一歩俺を引っ張り後ろに下がった。
 この男には銃を向けられた荻原の姿が見えていないのだろうか…。
 …おかしすぎるのだ。荻原も、堂本さんも、そして彼の部下達も…。
 言葉が通じない悔しさ。無駄だとわかりつつ身動きをする。消化出来ない憤り。
 だが、やはり腕はきっちり固定されており、動くと引きつる痛みが襲ってくるだけで自由にはなりはしない。
「…くそっ!」
 痛みに顔を歪がめながら視線を戻すと、男が腕を挙げ、片膝をついて屈む荻原の額に銃口を向けていた。その腕は哀れに思ってしまうほど振るえている。
「…嬉しいのか? それとも、怖いのか?」
 荻原の声に男は反応を示さない。聞こえていないのだろう、自分の中に囚われた様な目がそのことを教えていた。微かに動く唇は、震えのためか、それとも何かを呟いているのか。離れた場所にいる俺にはわからなかった。そんな男に荻原は少し肩を竦めながらも立ち上がろうとはしなかった。そして男に視線を向けたまま俺に言葉をかけてくる。
「マサキ、人はみなお前みたいに強くないんだよ。
 この男も、そして俺も弱い人間だ。だからこうして簡単な方法を選ぶんだよ」
「な、何を……」
「だが、俺はそれを悪くないと思っている。こんな最低だと称される自分も結構気に入っているんだよ。人間完璧になんてなれない。第一そんな奴らなんて面白くないだろう」
「…ふざけるな、何だよそれ。お前はそうでも、周りは迷惑だ。自己満足だけでここまで人を振り回しておいて、その言い草は何だ!
 何が弱い人間だ! あんたのどこが弱いんだよ。ふざけてないで、早くどけよ!」
 だが荻原は「そうだな。強いも弱いもないな。俺は単に馬鹿なだけか」と軽く笑い、明らかに正気を失ったような男を更に煽る言葉を吐いた。
「やらないのか? 引かなきゃあんたに次は無い。わかるだろう?」
「くっ…」
「やれよ。それとも、強気なのは口だけか? あんたにとって会社も命も、あんたの人生はその程度のものだったのか?」
 口の端を上げて笑いながら荻原が静かにそう言った。
 男の虚ろな目に力が宿った気がした瞬間――引き金にかかった指がスローモーションのように動かされるのを俺の目は捕らえた。
 叫ぶため開いた口からは何も音は出なかった。体の中の感情が一気に噴き出そうとしたため壊れたかのようだった。
 だが、恐怖のために声の出し方を忘れた俺の耳に入ってきたのは小さな無機物な音と静寂だった。予期した事態は何も起こりはしなかった。ただ、カチリという音だけが室内に響いただけであった。
 引き金を引いた男の腕がだらりとおり、床に銃が落ちる。張り詰めていた糸が切れることなく緩んだ。
 荻原が拳銃を取り、スーツ姿の年配の男に向けて放った。弧線を描き手の中にやってきた物を、男は上着の中に仕舞い込んだ。
 その光景を見ても何が起きたのか直ぐには理解できなかった。
 握り拳を床に落とした姿勢のまま低く唸る男を見て、ようやく銃弾が入っていなかったのだと気付く。
 だが、どうして?
 荻原は知っていたからこそ彼に銃を向け、そして自分にも向けさせたのだ。だが、そんなことをしてどうしようと思ったのか。本当に少し脅そうとしただけなのか。態々空の銃をスーツの中に用意して…? 他の者達も知っていたのか?
(騙されたのか。からかわれたのか? 俺もこの男も…)
 一気に力が抜け、座り込みたくなる体を何とか支える俺の耳に荻原の声が流れ込んでくる。
「俺に引き金を引けるのなら、その力をもっと別のことに使って欲しかったですね。それとも、こんな状況にならなきゃあなたのやる気は出ないのか?
 今の俺に噛み付く勢いのあなたと仕事が出来ていたらもっと良い結果が出たんでしょう、残念ですよ」
 荻原の言葉に男は声を漏らし泣きはじめた。
「さあ、行こう」
 振り向き俺を促した荻原の声に、室内にいた男達も動きはじめる。いつの間にか腕は解かれており、堂本さんが背中を軽く押し歩みを促した。
 歩き出した俺を確認し、荻原が部屋を出て行く。数歩先を行く彼の背中は俺にはとても遠い存在で、それでいて簡単に手に入れられそうなそんな感じがするものだった。
 そう感じたのは、先程振り向いた彼が見せた瞳がとても寂しそうな色をしていた気がしたからだろう。見間違いだろうと思うほどの一瞬のことだったが、その目はまるで先程みた闇に浮かぶ自分と同じようであった。


 先程は怖くて乗ることが出来なかったエレベーターに荻原と数人の男達と乗り込み、地上に降りる。地下の駐車場に着き俺は促されるまま車に乗り込み、荻原の隣に腰を下ろした。運転席には今朝の樋口と名乗った男がいた。
 直ぐに出ようとしたところに堂本さんが小走りにやって来て助手席に乗り込んだ。
「失礼しますよ」
 俺にそう声をかける彼に、「長谷川と谷は?」と隣りでシートに凭れこみ腕を組んでいた荻原が言った。部屋を出てはじめて出した声は別段替わった様子はなかった。だが、俺には返ってそれがおかしくてならなかった。
 エレベーターの中でも黙って壁に凭れ目を瞑ったままの彼は、今まで見せたどの表情よりも真剣で、歳以上の落着きを持ってその場にいた。訊きたいことも言いたいこともあったが声をかけることを躊躇ったのは俺ばかりではなく、乗り込んだ男達も同じだったのだろう。
 無言でエレベーターを降りスタスタ進む荻原の後を追わせたのは、学校にやって来ていた田端という男だった。
 正直、驚きつつも、彼があの男に対して行った態度を考えると憤りの方が大きく、一緒に居たくはなかった。だが、黙った彼の表情を見ると、何故だか離れがたい気分になった。
 傷ついているといった風ではなかった。荻原の顔にはそんな表情は全くなかった。いや、それだけではなく、何の思いもなかった。静かな表情。
 それに何故か惹かれた。
 その雰囲気に、自分の中の彼に対する怒りの感情が消えていくのがわかった。そして、また、自分の思いがわからなくなった。
(俺は一体、この男の事をどう思っているのだろうか…)

「えぇ、心配いりません。明日にでも顔を出させるように言いましたから。…あ、いや、もう今日ですね」
 堂本さんがそう答えながら車を出発させるよう指示をだす。
「…そうか、わかった。その時に、霧島も呼んでおけ」
「はい」
 二人の会話が終わると車にはエンジンの音と、タイヤと道路の摩擦音が聞こえるだけの静かな空間となる。夜中という時間なので信号に止まることも殆んどなく、車は快調に進んでいく。
 シートに深く凭れ目を閉じた俺は、予想以上に疲れていることに気付きそのままじっと車の振動に身を委ねていた。だが、眠れるわけではなく、むしろ体のダルさとは逆に頭は考えることが一杯で休むことなく動いていた。
 瞼の裏には先程の光景が浮かぶ。
 実感がやっと沸いてきたのか、震えそうになる。その反面、暴れる感情を制御しようとするかのように、なんでもないことだと頭は落ち着きを与えようとする。心と体がバラバラで、その感覚が余計に心を麻痺させる。
 熱でオーバーヒートする機械に水をかけ、騙し騙しで使っているような感じだ。その度少しずつ壊れていく…。心が老化していく、そんな感覚が更なる疲れを呼ぶ。
 夢だったのではないか。単なる悪い夢だ。
 …そう思える術ももはやない。
 昨日まで思いもよらなかった場所に俺は立っているのだ。関わってしまった事は消せはしない。…そのことは、充分わかっている。記憶は自分に都合よく消せるものではない。過去は修正出来ない。
 自分が置かれた状況に笑いが漏れそうになる。
 荻原のことだけではない。それこそ、こんなことは些細なことだと思えるほど、俺が立つ場所はもっと危ない場所だ。そう、きっと俺はどこかで今夜の事はどうでもいいことだと思っているのだ。男があの場で死んでいたとしても、彼の死に気持ちがいくことはないのだろう。
 他人を気に出来る場所に、自分はいないのだ。今俺が見えるのは、その場でどうする事も出来ない俺自身だけなのだ。他は何も見ていないのだろう。きっとその周りに死体が転がっていても、俺の目には入らないのだ。
 他人を詰りながら、自分も同じ行動をしていることに気付かない。俺はそんな人間なのだろう。
(…最低だ)
 そう思いながらも、どうでもいいのだと切り捨てる。
『人はみなお前みたいに強くないんだよ』
 何処をどう見たら、俺のこの姿を強いと見ることが出来るのだろうか。人として最低な事をしているのは彼ではなく自分の方なのかもしれない。
 他人を信じず、好きにもなれない。いや、なれないのではなく、ならない。初めから可能性も持っていない。そんな俺はもう人とは呼べないのではないか…。
 昔の自分が戻ってくる。彼女が、冴子さんがくれた愛情は段々と薄れていったが、それでもどこかで自分の感情を信じていた。彼女の思いが信じさせてくれた。だが、今はもうそれも殆ど残っていないようだ。徐々に思いが消えていく。
 全く関心がなくなるのも時間の問題直かもしれない。
(彼女がいなければ、やはり俺は生きていけなかったのだろうか…)
 馬鹿みたいだと自分でも思う考えが浮かぶ。だが、それは笑って終わらせるものではなく、むしろ本当のことなのかもしれない。
(自分自身が気付く前に、体がそのことに気付いたってわけか…)
 …いや、そんな事はどうでもいいか……。
 屁理屈のような最低な考えを馬鹿みたいに考えている俺に、荻原が軽い溜息の後遠慮気味に声をかけてきた。
「…寝たのか?」
「……いや」
 目は開かずにそのまま返事を返すと「そうか…」と彼は呟いたが、その後はまた同じ静けさが車内に落ちる。
 拳銃を手にした荻原が瞼に浮かぶ。
 もし、銃を向けられたのが男ではなく俺だったら…、迷わず彼に引き金を引かせただろう。
 そう、あの時は思いもよらなかったが、次に同じ事があったら彼の手から銃を奪い自分に突きつけるだろう。死の誘惑は、俺の感情を一瞬にして消し去る…。
 だから、余計にこの男は俺にとって危険なのだ。

 考えずともわかっている。先程の状況でならいくら世間に疎い奴でも気が付く。だから態々訊くことではないのだろう。だが俺は何故か本人の口から聞きたくなった。今更きちんと確認したいのだというわけではなく、ただ何となく訊いてみたくなったのだ。
「…あんたさ」
「ん?」
「…ヤクザなのか?」
 俺の問いにクッと荻原が喉を鳴らした。目をあけ横を向くと、同じようにシートに凭れかかり足を組んで俺を見ていた視線とぶつかる。
「そうなんだろう?」
「…ヤクザ、ね。
 だったらどうする? そんな奴とは関わり合いたくないってか?」
 茶化す様にではなく、静かにそう言い軽く笑う。
「…最初から俺は関わり合いたくないと言っている」
「酷いな。ま、それなら、気にすることはないだろう」
「…ヤクザなんだな」
「…そうだと言えば、逃げ出すのか?」
 堂本さんが言っていた。この男は人を扱うのが上手いのだと。先程のことも男を挑発するような物言いもそうだろうし、俺に対しても本気か冗談か微妙な接し方をする。なのに、こんな時、口に笑みを浮かべつつも真剣な目をするなんて、…卑怯と言うのではないだろうか。まるで、捨てる気なのかと拾ってもいないのに責められているような気分になる。これも男の計算なのだろうが…。
 答えない俺に肩を竦め、口を開く。
「ヤクザかと聞かれれば、答えはノーだ。俺はヤクザじゃない」
「どこがだ。あんなことをする奴が普通というのかよ」 「普通の範囲は知らないが、確かに俺はそれには入らないだろうな。だが、だからと言ってヤクザかよ」
「…そうだろう」
「そう言われたら終わりだな。だが、そうなったらこの世の中ヤクザだらけだぞ。やばい事をやっている奴なんてゴロゴロいる。
 ヤクザと堅気の違いは何だ? 
 …俺はただの看板の違いだと思うんだよ。それだけだ」
「看板?」
「そう。ただきちんとした会社の顔をしているか、暴力団と掲げているかの違いだよ。やっていることなんて、大して違わないさ。ヤクザじゃなくとも、非合法なことをやっている会社はごまんとある」
「お前もその会社の一つか」
「ああ、そうだな。その点は認めるさ。ヤクザも顔負けのようなことをしている。
 だが、俺はヤクザじゃない」
「やっている事は似た様なもんだろう」
「そうだな。でも、だからと言って態々暴力団だと看板を掲げたいだなんて思わない。あんなのは単に自己満足なものでしかない。邪魔なだけなんだよ」
「詭弁だな」
「そう、確かに屁理屈だな。だが、この世の中そんなもんだ」
 確かに綺麗事ばかりではない世の中だ。この小さな国ですら馬鹿な話は散乱している。表に出る事はごく僅かなだけで、荻原の言うとおり罪を犯す者なんて沢山いるだろうし、それが個人ではなく会社などの組織だったとしてもなんら不思議なことでもないのだ。
 だが、この世の中はそんなものだと言えるのは、そんな世界を見続けてきたのだろう男の言い分であって、俺には外の世界のことだ。自分が生きていくのが精一杯な者には、関係がない。
 わかるからといって全てを受け入れると限らない。
「…何故空の銃を持っているんだ? いつもそうなのか」
「まさか、元々撃つつもりはなかったから用意していただけだ。
 第一、態々俺が撃つ必要はない。あの状況なら誰でも実行可能だ。全員弾の入ったモノを持っているんだからな」
「…からかわれたのかよ、俺は」
「心外だな、そんなつもりはない。あれは駆け引きだ、ビジネスの一環」
「…あれがかよ」
「そうだ。殆どの者はお前と一緒で、あの銃が空だなんて気付いていなかったはずだ」
 軽く笑い、荻原は前に座る堂本さんに声をかけた。
「私は気付いていましたよ、付き合いが長いので。
 ですが、他はそうでしょうね。北原なんて腕の下から本当に狙っていましたからね」
「そうなのか? なら、撃たなかったのは見事だな。だが…」
「えぇ、注意しておきましたよ、ご心配なく」
 抜かりがなくて助かるよ、と軽口を叩き荻原は俺との会話を再開する。
「こんな人間は信用出来ないか?」
「…さあな」
「答えろよ」
 直ぐにそう言った荻原から視線を外し、少し考えるため瞼を閉じる。
 正直、わからない。元々人を信用するというのがどういうものなのかわからないのだから当然だ。だが、これだけはいえるだろう。
「…俺からすれば、確かにお前のさっきの行為を見ている限りでは眉をしかめこそすれ、すごいと誉めることはないだろう。だが、それだけだ。人を陥れるのも、救うのも、俺にとっては大差はない」
「どういうことだよ」
「どうでもいいんだよ。あんたがヤクザだろうが、どうだろうがな。
 ヤクザだからあんたを嫌になるんじゃなく、はじめから俺はあんたが嫌なんだよ。だから、たまたまあんたがそんな立場にいただけで、俺の感情を変わる要素にはならないんだよ。
 つまり…」
「つまり?」
「信用出来ないのは初めからだということだ」
「ったく、なんだよそれ。
 第一、俺はヤクザじゃないっていってんだろう」
「社長だろうがヤクザだろうが呼び方であって、あんたがしていることが正当化するものじゃないだろう。その行為はかえようがないんだから」
 確かにまだ怒りはある。他人を殺すことに対するものなのか、それを自分の目の前でやろうとしたことに対するものなのかわからないが、水に流せないものがある。だが、それよりももう、この男はこんな者だと受け入れろと、そうすることが一番いいのだと無難な道を選んでいる自分もいる。
(結局、やはりどうでもいいということか…)
 それが疲れのためなのか、他人に関心が持てない心のせいなのかわからない。考える気力もない。
「…ったく。
 俺はそう言われるのが嫌いなんだよ。二度と言うな」
「なら、あんたも俺のことを名前で呼ぶなよ」
 先程から気になっていた事を口にする。
「ん? 何でだよ、いいじゃないか」
「嫌いなんだよ」
「どうして? マサキはお前の名前だろう」
(…ならあんたも、やっていることはヤクザなんだからそう呼ばれても仕方がないだろう)
 口に出すと単なる子供同士の喧嘩になるだけだろう、なので心で悪態をつくだけに留めておく。態々発展させる必要はないのだ。
「呼ばれ慣れていないんだよ」
「なら今から慣れればいい」
「…あんたに呼ばれたくないんだよ」
「じゃ、お前も俺のことを名前で呼べばいい」
「……そういう問題じゃない」
「そう考えすぎるなよ。呼んでくれよ、いいな」
「嫌だ、しつこいぞ」
「別にいいじやないか、呼ぶくらい。お前こそ頭固いな」
 こんな話題をする関係ではないと思う。それよりもっと考えなければならないことがあるだろう。
 疲れているからと、深く関わらないでおこうと自己防衛する頭の判断に任せて、何となくで男の正体を濁していてはいけないのだろうし、自分達の関係をきっちり清算しておいた方がいいのだろう。
「俺は呼ばれたくないし、呼びたくもない」
「俺は呼びたいし、呼ばれたい」
 このままでは永遠に続くだろう。どう聞いても意地の張り合いの子供の喧嘩だ…。
 前の二人が笑いをかみ殺しているのが伝わってくる。
「……もういい。好きに呼べよ」
 このまま男に付き合う体力も、精神力も俺にはない。仕方がないと俺が諦めない限り続くのだとしたら、それを受け入れるしか道はないのだ…。
「よし決まりだ」
 ニヤリと笑う男の笑顔に前言撤回をしたくなったが、再び言い争う気力もなく、瞼を閉じて溜息をつく。しかし、どうにもやり切れず、負け惜しみのように思いながらも口にする。
「呼んでもいいとしたが、俺が呼ぶとは言ってないぞ」
「ケチだな。拘ることか」
 拗ねた様に言う荻原を無視し、俺は何をやっているのだろうかと滅入った気分になってしまった。
 考えたくない、そう逃げているのだと気付いている。それを正当化しようと、自分を納得させようと色々考えて、逆に泥沼にはまっていっているようでもある。だが、今の俺は纏わりつくのがドロだとしても、それに歯向かう力がない。
 酒のせいではなく、体が疲れ切っていた。眠むれそうなのに、眠れない。頭が冴えているようで、ぐるぐると無意味なことが回るだけ。
 何も考えず、深い眠りに尽きたかった。
 当然のように荻原の部屋があるビルに連れてこられ、ここからは自分で帰るという言葉は無視をされた。半ば引きずられるようにしながら、昨日と同じく彼の広い部屋に足を踏み入れることになったのは、あまりにも疲れていたので逆らう気力がなかったというのもあるが、眠ることにより現実逃避を試みたかったからだ。
 起きた時に最悪な事態になっていようと、今はただ何も考えず眠りたかった。そう、一人のあの部屋に帰っても眠ることなんて出来ないだろうことがわかっていた。だから、結局は俺は自分で望んで彼の部屋に入ったことになるのだろう。
 きっとこの事を後悔する日が来るだろう。そう思いながらも、自分を甘やかしたのだ、俺は。何も解決はしないと知りながら、目の前の逃げ道に足を踏み入れたのだ。
 今朝起きた部屋に通されると、直ぐに俺はベッドに入り込んだ。
 騒がしい頭の中の声に蓋をし、眠りに付いた。



 後悔は直ぐにやってきた。
 それから一週間、俺はこのわけのわからない男に振り回されっぱなしだった。
 やっと別れたと思ったら、直ぐに目の前に現れる。どうやって調べたのか突然俺のマンションに現れることもあれば、授業中の教室にやってくることもあった。姿を見せない日は、番号を教えたつもりはないのに携帯に電話がかかってきた。彼とコンタクトを取らない日は全くなかった。
 会っても特に何かをするわけではない。酒を飲み他愛ない話を向こうが一方的にして俺は時々頷く程度だ。だが、理解は出来ないがそれだけでも荻原にとっては楽しいようで、飽きもせず俺を構いにきた。
 …俺はどうだろうか。
 もう、彼の常識外れの行動も、馬鹿な話も慣れてしまったのか、さほど腹も立たない。実害はないのだからと頭は判断し酒に釣られて相手をするのか、それとも、彼自身といることに安心するのかはわからない。わからないが、彼といるとあの事は少しは忘れられた。一人で部屋に居るとどうしても潰されてしまいそうになった。そんな時あの明るい、少し癪に障る声に救われる思いがしたのは本当だ。
 そんな中で少しずつ俺は現実を受け入れていった。
 週明けには来て下さいと言われていた週は終ってしまった。
 それを言われて10日程たった頃、俺の足はやっと病院に向かった。これは時が解決したのか、それとも、彼のお陰なんだろうか…。

2002/02/23