5
寝返りを打とうとしたが、壁に挟まれる。何だ?という感覚で、覚醒がはじまる。
俺は革張りの大きなソファに寝ていた。
寝返りを打てなかったのは背凭れがあったから。逆に転がっていたのなら間違いなく毛並みの長い絨毯の上に落ちていただろう。
ゆっくりと体を起こし、部屋を見回そうとした時、頭が一瞬にして機能を停止させたのかと思うような鈍い衝撃が俺を襲う。一瞬出来た空白の時。痛みは全く無かった。だが、冷や汗が一気に噴き出し心臓が早鐘のように高鳴る。瞬時に恐怖のため体が動きを止める。息をするのも忘れ両手を握り締め、口を引き結び恐怖が去るのを待つ。
何も考えず、ただ、ひたすら耐えるのみ…。
…だが、もし耐えられなかったら…。この箍が外れてしまったら、俺は一体どうなるのだろうか――
軽い吐き気に眉を寄せ、まだ脈打つ心音を聞きながら、ゆっくり体をソファに凭れかけさせる。そして、ゆっくりと小さく息を吸い込み、吐き出す。それを何度か繰り返す頃には、体は落着きを取り戻した。だが、心に闇が迫ってくる…。
何度経験しても絶対に慣れることはないこの感覚。起こるたびに段々症状は酷くなっているかのように感じてしまうのは、植えついた恐怖のせいだろうか…。
微かに震えている手で顔を覆う。
こんな時、俺はどうすればいいのかわからない。大丈夫だと思い込むことすら出来ない。しっかりしろと励ますことすら、苦痛でしかない。――助けて欲しい…。聞く相手もいないことを知りつつ、心でそう叫びながら静かに泣くことしか出来ないのだ…。
…だがもう、それも、しんどい。疲れてしまった――
それでも俺はここにいる。その事実が辛くもあり、唯一の縋れる真実である…。
ゆっくりと手を離し瞼を上げると、知らない部屋の映像が俺の頭に入ってくる。
部屋の中央にソファとガラスのテーブルが置かれており、窓の前には大きめの机があった。その上にはペーパーウエイトだろう小さな置物と黒い電話が載っているだけだ。部屋の端には一鉢の良く見る観葉植物。たったそれだけのガラリと寒い感じの部屋。
俺が寝かされていたソファの正面に重そうな扉があった。だが、俺はその木の扉ではなく、ゆっくりと立ち上がると、吸い込まれるように窓辺に近付いた。
大きな窓はカーテンもブラインドもなく、闇が広がっていた。光を絞ってはいるが十分に室内を覗うことが出来るほどの明るさなので、その闇の中に部屋が映し出されていた。そして、闇の中に浮かんでいるかのような俺の姿――
操り人形かのように、俺はゆっくりと片手を伸ばした。ガラスの向こうの自分自身へ。
だが、たどり着く前に冷たい透明の壁が指先に触れる。それがとても悲しくて、もう一方の手を伸ばしてみたがやはり同じことだった。
俺は俺自身も助けられないのだ。何も出来ないのだ。闇の中で苦しみに歪む俺が、俺を見ていた。こうして部屋の中に立って地面を確認し安心していても、本当は目の前の俺と同じで闇に浮いているのだと、立つ場所なんてないのだとその目が語っていた。
もし、この窓を開けることが出来たなら、俺はその視線に負け――闇に足を踏み出していただろう。…たとえ、落ちるということがわかっていたとしても、…それでは救われはしないと知っていても、俺は……。
気付くと俺は俺を留めたひんやりとしたガラスに凭れ、静かに涙を流していた。
何故涙が出てくるのかはわからなかった。だが、この涙を流すことにより、こんな俺でも少しは綺麗になれるのではないか、救われるのではないか。何故かそう思った。そう願っていた。叶わないと知りつつも、信じたかった……。
寝ていた部屋を出るとその先には同じような部屋がもう一つあった。しかし、そこにはパソコンが乗った机が三つあり、書類棚やコーヒーメーカーなど色々な物が置かれており、…人の匂いがした。
その中を横切りもう一つ扉を開け部屋を抜けると長い廊下が続いていた。
真っ直ぐ伸びる廊下。動くたびに照明が点いては消えていく。鬱陶しくてしかたがない。…いや、不気味だ。センサーで判断しているのだという理屈はわかるが、知らない場所でこの光の動きは俺に恐怖を募らせる。
立ち止まると自分の上の電気だけがついた状態で、前にも後にも、闇が伸びている…。長い廊下には俺一人しかいない。ここは本当に現実のどこかのビルの中なのだろうか。本当に? それを知る術がどこにも無い。俺が単にそう思い込んでいるだけではないのか。本当はもう――
正気な時なら思いもつかないような妄想に囚われそうになる。その這い上がってくる恐怖から逃げようと俺は無意味に足を速めた。行くあてなんて何処にもないのに…。
エレベーターの明かりを見た時は、笑うくらいの安堵が沸き起こった。それに乗り込もうとボタンに手を掛ける。モーター音が微かに響くと直ぐに扉が開いた。目の前が一気に明るくなる。
開いた扉の中は、後ろに広がる闇とは逆にとても明るかった。煌々と輝く電気が眩しすぎ、俺は目を細める。小さな箱の中が真っ白になるほどの溢れる光。
だが、俺はその中に入ることが出来なかった。立ちすくみ動かない俺を置き去り、誰も乗っていないエレベーターが降りて行く。
再び訪れた闇。それに何故か安心した。
光を見た瞬間、俺は怖くなった。自分はあの明るい場所に踏み入るべきではないのだと何故かそう思った。俺が入った瞬間、光は消えてしまうのではないか。その考えが浮かぶと怖くて足を踏み出すことが出来なくなった。
例え中に入れたとしても、一人で乗り込み、あの落ちていく振動に絶えられるのかどうか怪しいものだ。浮遊感を考えただけで、気分が悪くなる…。
まるでそれが恐ろしい物かのように踵を返し、俺は再び揺れ動く光と闇の中を進み始めた。
何処なのかわからないこの場から少しでも早く出たい。外が本当にあるのだと実感したい。だが、降りるのなら自分の足で降りたい。そうしなければ、不安で仕方がない。
俺は階段を捜そうと足を進めた。だが、それを見つける前に光が零れる部屋を見つけた。そちらに向かう足が自然と速くなる。
しかし、俺は目覚める前の出来事を考えるべきだったのだ。それをしていたのなら、荻原が関係していることは明らかなのだから誰かに見つかる前に立ち去るべきだと判断できただろう。あのからかったような笑いを思い出していたのなら、怯えていたとしてもエレベーターに乗り込んでいたかもしれない。ましてや、人の気配に吸い寄せられはしなかっただろう。
だが、俺は彼の事を考え付きもしなかった。
上手く働かなかった思考を俺は直ぐに後悔することとなった。
近付くにつれ誰かが喋っている声が聞こえてきた。いや、喋っていると言うより怒鳴っていると言った感じだ。その声とは逆に静かな声もする。
「…な…さん。……は……話はしていないでしょう」
その静かな声が荻原のものだとわかった時、俺は自分の馬鹿さに気付き、しまったと思うしかなかった。どうして彼のことが直ぐに思いつかなかったのか、今更言っても遅いと溜息をつく。
…いや、まだ遅くはない。そう、まだ俺が起きた事を彼は知らないのだから大丈夫じゃないか。今の内に出て行けばいいのだ。
そう思いながら、声の主の姿を見ようと窓に掛かったブラインドの隙間から俺は部屋の中を覗いた。
そこには荻原の他にスーツ姿の男が数人いた。横長の部屋なので窓からは全てを伺うことは出来なかったが、男達の顔に張り付いた緊張から異様な雰囲気を感じ摂ることは出来た。それは直ぐに立ち去ることが出来なくなるような張り詰めた雰囲気だった。俺の眉間には知らずと皺が寄る。一体なんなのだろうか。
荻原に視線を戻すと、彼は俺と話す時と何ら変わらない表情で喋っていた。その傍に堂本さんの姿もある。何かに怯えているかのような男達の緊張とは違ってはいたが、彼もまた眉を寄せ重い表情をしていた。
そんな雰囲気の中での荻原は異様なのだろう。なのに、そのことを気付かせないほど彼はいつも通りの顔をしていた。
「た、頼むっ!!」
お願いだ、と搾り出したような男の声が響き渡った。悲鳴のような声が何処から上がったのかわからず、俺は去ることも忘れ部屋の中の光景に目を凝らす。
「頼むっ!」
その声の主は荻原の足元にいるようだった。だが、何故見えないのだろうか…。
机に腰掛ける様に凭れている荻原の足元は、その手前にあるソファのせいで見ることは出来ない。だがたかだかソファだ。死角になる範囲なんてしれている。一人の大きな男がそのソファに座ってはいるが、荻原と俺の対角線上からはずれているので、小さな子供ならともかく、声からして大の大人である男の姿が見えないというのは考えられなかった。…土下座でもしているのだろうか?
「…頼むっ!!」
必死に訴える悲痛な声が耳についた。嗄れている声で男は何度も同じ言葉を繰り返す。だが、
「頼まれても、もうこちらは何も出来ませんよ」
姿の見えない男の声に反して、荻原は友達と話すかのように笑いを含んだ声でそう言った。室内の張り詰めた雰囲気の中で、彼はおかしなほど平常だった。
「俺を説得しようなんて無駄ですよ。これは話し合いではないんですから。
あなたがどちらかに頷けばいいことです。
会社を潰すか、それとも、俺の下で生かすか」
「…くっ……」
「あぁ、二度と馬鹿な事はしないで下さいよ。ま。今回の事で身にしみたでしょうが」
何がどうなっているのか話は全く見えないが、ニヤリと口角を上げる荻原の表情が、とてつもなく恐いもののように感じた。
荻原は鬱陶しくなるほどの強い視線を俺に向けていた。おどけて笑いながらもその瞳はいつでも力を持っていた。それはキツイとか、睨むとかそういうものではなく、例えるなら子供のような視線だ。いや、遊んでくれるのを待っている犬といった感じか。昨夜知り合ってからずっとそんな目で俺を見ていた。
なのに、今の彼の目は色をなしてはいない。俺にむける表情と何ら変わらないが、瞳は違った。それが不気味だった。
だが、自分に向けられたものではないからか、恐怖は沸いてはこない。ただ、俺は彼の姿に単純に驚いていた。
彼の目にはこの悲痛な声の主は物以下の存在でしか見えていないようだった。緊張を漂わせた室内の中で一人だけが笑っていた。口の端を上げ目を少し細めた表情は、描かれた絵のように整った笑顔だ。だが、目は何も映していないただのガラス球かのように色をなしてはいない。そう、まさにただの笑顔でしかない。感情なんてどこにもなかった。
堂本さんから聞くのと、実際にこうした荻原の姿を見るのとでは雲泥の差があった。聞いた時は他人に興味を持たないだなんて俺に付き纏う彼からは想像し難かったが、それでも人間なのだからそんなものだろうと思った。いや、思おうとしたのかもしれない。自分が本当に特別なのだとは思いたくなかったのだ。
だが、今目の前で笑う男を見た途端、彼の行動に対するものではなく自分自身が怖くなった。そう、こうして感情は全て無駄だというような冷たいとも感じない目をした彼を俺はなんとも思わない。他人との関係を気付けない俺が人の行動に何も言えるはずがない。苦しんでいる人を前にして笑う彼の心は理解出来ないが、俺も他人の苦しみに手を貸すものではないのだから、貶すことなんて出来ない。
ただ、そんな男が俺に執着しているのだという事実を突きつけられ、今まで以上に怖くなった。こんな目を持つ男に俺は捕われたくもないし、関係すら持ちたくはない。
なのに…、この別人のような表情を持つ男に自分が興味を持ち始めたことに、俺は気付いている……。
小さな音を俺の耳が捉え振り向くと、若い男が小走りでこちらにやってきていた。
中に入るのかと思い通路を空けるよう後ろに一歩引いた俺に、男は声をかけてきた。
「気分はどうですか?」
「……大丈夫です」
誰だ?と思いつつ答える。荻原の部下である事は確実だ。
男はちらりと部屋に視線を向け、「ここはなんですから…。元の部屋に戻りましょう」と言った。声を落として出された言葉に俺は眉を寄せる。
「社長も用が終わればきますから」
「…いや、いい。……俺は、帰ります」
俺の言葉に二十代半ばぐらいの男は驚き口を開ける。その表情は実に間抜けで、髪を後ろに流して固めダーククスーツで大人ぶっている感じだった青年の顔に、子供らしい表情が少し生まれる。もしかしたら、俺とそう変わらない歳なのかもしれない。
「え? いや、その…。それは困ります…」
「…何故?」
「なぜって……社長に聞かないと…」
「その必要はない。何故俺の行動をいちいちあいつに断らなければならないんだ。そうでしょう?」
「いや、しかし…」
困ったなという顔をする男に俺は溜息を吐く。これではまるで俺が我が儘を言っている子供のようではないか。明らかに向こうの方がおかしいというのに…。
「……なら、聞けばいい」
そう吐き捨てる様に言い、俺はドアノブに手をかけた。そんな俺に男は焦ったようだがもう遅い。
ガチャリと音を響かせて開いた扉。
一斉に中の男達が俺を振りかえる。突き刺さる大勢の視線。そんな中で、
「あぁ、なんだ。起きたのか」
と、間延びしたような荻原の声が俺に降ってきた。
室内の空気はどこかの死刑場のような不思議な感じを持っていた。周りの空気に混ざった様々な感情。その思いに捕われたら発狂しそうで、それでいて妙に静かな、異様な空間。立つ者の心の鏡になりそうな場所のようであった。
俺が入ったことによりその空気は余計に形を変えたようだ。
窓を背にして立つ荻原にゆっくりと近付く俺を、男達の視線が追ってくる。下を向きながら全身で注意を向ける者、遠慮もなくじっと見つめる者。全ての視線に何をしに来たのかという疑問が含まれている。それでも、突然の侵入者に怒るばかりではなく、空気の変化にホッとする者の方が多いのだろうことが感じとれた。あからさまとまではいかないが、それに近いだろう。詰めていた息を全員が吐き出したかのような空気の変化…。
「……」
彼等の怯えたような緊張は何のせいなのだろうか。その疑問が募る。荻原が作るこの雰囲気だろうが…それにしては大の大人の、しかもそれなりに強面の男達が、若い青年の雰囲気に怯えるとはどういうことなのか?
「気分はどうだ?」
先程とは打って変わったかのような心配げな声を俺に向ける。
その問には答えず、「帰る」と口に出そうとした言葉は、荻原の前にいる者を見た瞬間喉元で止まった。
…前ではなく下と言った方が正しいのかもしれない。だが、そんな考えも直ぐに吹き飛ぶ。
荻原の足の先には手足を拘束されて床に蹲るように寝転がった男がいた。いや、寝転がっているわけではない、かろうじて座っているといえる体勢だ。だが、それも本人意思ではなく無理やりその格好に座らされたのであろう事は容易に想像できた。
頭を垂れ、斜めになったその体は暴力を受けたとしか考えられない。服装は乱れ、手首は巻かれた紐がすれたのだろう血を滲ませている。いや、手首だけではなく他にも怪我があった。床の血の汚れは、何処の傷のせいなのか判断することは出来ないだろう。擦れた血が白い床に模様を描いていた。その色は赤ではなく黒い色だ。乾いた血が男の苦痛の長さを教える…。
男から目を反らせられなかった。体が震えそうになるのに、背けることが出来なかった。見たくはないと頭は受け入れないのに…。
血のりの模様が、やっとの思いで閉ざした瞼の裏に浮かび上がる…。
暴力を目の辺りにした事はあまりない。子供の頃からこの性格と家庭の事情のせいで、何かと突っ掛かってくる者は沢山いた。自分を守れるのは自分だけしかいない。やられているほど俺もお人好しではないのでそれなりに喧嘩もした。だが、所詮子供の喧嘩だ。誰かが目撃し直ぐに抑えられる。そんなものだ。怪我といっても大したものではなく、何より、相手と俺には立場の差はなかった。そう、本当に喧嘩としか言えないものだった。
だが、それとは明らかに違う暴力を受けた者が今俺の目の前にいた。
この世の中は綺麗なわけではない。そう、汚い面の方が多いだろう。街の中で一方的な暴力を見かけたこともあれば、暴行事件なんて日常茶飯事に起こり、ニュースで当たり前のように取り上げられる。それこそ、世界のどこかでは戦争をやっているんだ。
だから、これも驚くほどのことではないのだろう。同じ世の中に住んでいるのだから、そんな出来事が自分の近くで起こることもあるというものだ。大したものではない。
…そう思い込もうとしたが、無駄だった…。
ドクンと自分の鼓動が脈打ったのがわかった。
「…彼は?」
無意識の内に口からこぼれ出た。以外に落ち着いた声だったが、口は渇ききっていた。わからない息苦しさが動悸を高める。不安や恐れといったものではなく、言葉に出来ない重い感情が体の中に溜まっていく。
「…気にするな。なんでもない」
荻原がそう言い軽く笑った。その音に視線を上げると、彼は俺を真っ直ぐ見ていた。だがそれは、俺には何の影響もない笑顔だった。
なんでもない、そんな言葉で俺は終われない。気にするなと言うなら俺に見せるなよ。
彼の言葉に一気に心が冷めていく。
怪我を負った男と荻原の間に何があるのかは知らないし、別に知りたくもない。ただ、俺の感情を静めるような答えが欲しかった。非日常的な図を目の前にして、誰が「そうか」で話を終われるというのか。
俺は暴力により怪我をしている男を心配しているわけでも、気にしているわけでもないのだろう。どうしてだろうか。何故か男の姿が自分のように思えて仕方がない。
自分も男のようになるのだろうと、漠然とそう考えた。何の根拠もないのに、当然の未来のように思えた。
それが怖くて、この状況をすんなり認めることが出来ず、俺は拘るのだ。男のためではなく。自分のために…。
蹲る男が荻原の言葉に反応を示した。口から出された声は、先程のような必死なものではなく、低い静かなものだった。
「…なんでもない…? …はっ。あんたにとっちゃそうだろうよ…。お偉いあんたからすりゃ、俺のような者を考えるのは時間の無駄だよな。
だがな、俺にとっちゃ生きるか死ぬかなんだ!」
吐き捨てるように怒鳴った男の言葉に荻原は声を出して笑った。
「言葉は一人前に吐けるのか。
なら早く結論を出して欲しいのですね。会社と一緒に死ぬか、それとも会社を捨て生きるか。どちらを選ぼうとあなたの人生だ」
「お前みたいな人間のクズになにがわかる、わかってたまるか!」
「当たり前だ、わかりたくないね。
だがな、あんたが生きたきゃ俺に会社を売るしかない。俺は感謝されるべきで、クズなんて呼ばれる筋合いはない。あんな会社他に誰が買うんだ。そうだろ?」
あくまでも荻原の声は普通だった。怒るわけでも何でもない。だが、かえってそれが腹立たしく…そして怖い。部屋の中に満ちる空気の意味がやっとわかった。
得体の知れないものへの恐怖、理解出来ないものへの恐れ。そして、この笑に対する嫌悪。
「…そうなったのは、お前のせいだろう!」
男の声が頭に響く。
耐えられない重い空気に俺の息が荒くなる。…気分が悪い…。直ぐに立ち去らなかったことへの後悔が俺を苛める…。
「確かに。俺が手をつけているのを知っていて手を出してくる馬鹿はいないからな。
だが、こうなったのは俺のせいじゃないだろう? あんたのいい加減さだ。違うか?」
荻原が軽く首を傾ける。
「人間のクズ? 別にあんたに思われようともなんとも思わないが、そんな俺にあんたは今まで世話になり、これから助けてもらうかもしれないんだろう?
こっちは別に潰れてもらってもかまわないんだ。それを買ってやるといってるんだから、慈善活動もいいところだ。他の者はあんたをすぐ切らない俺を不思議に思っているくらいだ。それはあんたもわかっているんだろう?
クズだろうがなんだろうが、俺はそれなりの誠意で接しているつもりだ。あんたも一人で騒いでいずに、もっと賢くなれよ」
捲くし立てる訳でもなく静かに口から言葉を滑らせた荻原が腕組みし、足元に蹲る男に視線を向け軽く溜息を付く。
どうして俺はこんなところにいるんだ…。直ぐにでも出て行ってしまいたかった。
もう関わりあいたくなかった。今までの過去は消せないとしても、俺の未来の中に青年の姿を入れたくはない…。
なのに、俺は動けなかった。目の前で二人のやり取りを呆然と見る事しか出来なかった。
「そんな格好でよく吠えられるよな」
この状況には無神経なほどに伸びた声で荻原はそう言った。その言葉に男が喉を低く鳴らす。
「くっ…」
「純粋に感動しているんだ。だってそうだろう?
ここにいる奴らは俺がどんな行動を起すのかピリピリしている。当たり前だ。この俺が目をかけたのに、あんたはそれを裏切ったんだからな。それこそ、時間の無駄をさせられた。金は取り返せても、時間ばかりはどうにもならないからな。
田中さん。あんたのその強気はどこからくる? 俺への怒りか? それとももう終わりだと自暴自棄になっているのか?」
「…煩い!」
「ほら、よくそんなことを言うよな。こんな状況なら、大人しくしているもんだぞ。
あんたの全てを今俺が持っているんだ。ほら、こうしてあんたの言葉にムカついて…」
荻原がスーツの中に手を入れ何かを取り出した。いや、それが何なのか、近くにいる俺には直ぐに見えたのだが、理解が出来なかった。まさか、という思い。日常生活では決して目にすることはない、フィルターのついた映像でしか見た事がない物は、よく知っている物ながら全くの未知の物体かのようであった。
黒い塊を荻原は慣れた手つきで握った。
「このまま引き金を引いても、仕方がないよな。
こいつらはそうするかもしれないと思ってびくついてるんだよ。感じないのか? この緊張感を。俺より怖そうな顔した奴らがそうなるのは何もあんたの命を心配してじゃない。とばっちりを喰らうのが嫌なだけさ」
「……」
言葉をなくし、目を見開き拳銃を見つめる男。そして、余裕の荻原。その二人の姿はまるで映画の中のワンシーンかのようで、俺はただその光景を眺めるしか出来なかった。
「あんたの鹿児島の家族は元気なようだな」
荻原の言葉に男は口を開け息を吸い込む。その顔は殴られたのだろう腫れ上がっていると言うのに、見る見る蒼白になっていった。
「…なっ! あ、あいつらは関係ない!」
その言葉に荻原はニヤリと口角を上げる。
「別れた妻でも心配か? 娘は俺と同じくらいの歳だったよな?
千葉には両親も健在だってな。年寄りは大切にしないとな」
口に笑みを乗せ世間話のように話す荻原に、男は口を震わせながら言葉を出す。
「や、やめろ…」
「気にするなよ。どうせあんたが知ることはないんだからな」
「……」
「捨てた家族なんて心配することはない。それより自分の事を気にしろよ。ま、すぐに心配も出来なくなるがな。
あんたはもう消えるんだから…」
「…ひっ……」
男の凍った喉に吸い込まれた息がそのまま止まると、部屋の中は時間が止まったかのように停止した。そんな中で荻原だけが少し腕を伸ばし、彼を見上げ恐怖に固まった男の額に銃口を押し当てた。
何が起ころうとしているのか一目瞭然だ。知識としては常識といえるほど頭の中に入っている。拳銃を向けた次の行動なんて決まっている。なのに、それを知っている自分がいながら、立ち尽くす俺には理解できるものではなかった。わかっているが、わからない。知っていながらも、視覚から入る情報とその知識を脳は結び付けない。
ただ立ち尽くす俺の頭には、一体この光景は何なのだろうかと、驚きながらもどこかのんびりしたような、自分でも何をしたいのか何を感じるのか何もわからないものだった。ただ、目の前の映像だけが目に流れ、それから視線をそらすことすら思い付かない状況だった。
そんな中、目の前の二人の男とは違う低い声が耳に届く。
「…仁さん」
声の主を思い出す前に、荻原が銃をそのままに顔を横に向けた。それにつられて俺も同じように視線を向ける。
声をかけた堂本さんが立ち尽くす俺に視線を向けた。その意味に気付き、荻原が俺を見る。
「あぁ。…お前は出ていろよ」
「……」
「見学したいのならいいけどな」
口の端を少し挙げて笑うその顔は、この知り合ってからの短い時間に何度も俺にむけたそれと何ら変わるところはない笑顔だった。だが、その微笑に自分の中で止まっていた時間が再び動きはじめる。
荻原は俺から視線を外し再び男を見下ろした。
「出ましょう、さあ」
近くにいた男が俺の背を押した。だが、俺は動かなかった。
男の額に銃口を当てたまま荻原はセイフティを外した。銃を押し当て男の顔を上げさせる。そして…男と視線をあわせ、極上の笑顔を向けた…。
何もかもが現実ではないような光景。
だが、これは夢でも何でもなく現実なのだ。いや、例え夢だとしても、俺の目の前で起こっているということに変わりはない。
引き金にかかった指に力が入ろうとしたのを感じた瞬間、俺は「嫌だ」と小さく呟いた。その声を聞いた者はいないだろう。だが、自分自身確認するかのように出したその言葉は、俺を正気にさせるには十分だったようだ。気付くと俺は足を踏み出していた。
「やめろ!!」
深く考えもせず、ただ引き金が引かれるのを止めたいという思いで拳銃に手を伸ばした。が、俺の指がその黒い物体に触れる事はなかった。
荻原はスッと銃を上げ俺の手を避けた。そして、彼と男の間に入り込む形になった俺の目の前で、安全措置の外れた拳銃を指にひっかけ回転させると逆の手に放った。危なげもなく左手で掴み直すと、凭れていた体を起こし銃を構え直した。俺の腕の間をぬって銃口は男の額に向けられていた。
2002/02/22